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2006年4月27日

「ふり」と暗喩。

茂木健一郎さんの「意識とは何か」という本から、気になったキーワードをピックアップして考察してみようと思うのですが、まずは「ふり」です。ふりというのは実際にはそうではないのに、あたかもそうであるかのようにふるまう行為です。ぼくらにとっては自然な行為だと思うのですが、実は人間ならではの高度な思考回路が働いているらしい。

この本のなかでは、チューリング・テストという人工知能に関する試みが引用されていて、ぼくはこれが面白く感じました。たとえばカーテンの向こうにアンドロイドと人間がいる。そのふたりに質問を出して、同じような答えが返ってくるかどうか、ということを問題にするようです。アンドロイドは人間のふりをします。あたかも人間を理解しているような言葉を返す。けれども、繰り返すうちにどこかで機械の答えになってしまう。どこまで人間に逼迫するか、機械は人間になれるか、という試みです。「ブレードランナー」という映画を思い出しました。あの映画のなかで、心理テストのような問いを繰り返すことで人間ではないことを見抜こうとする。みかけは人間そっくりですが、対話しているうちに化けの皮が剥がれていってしまう。

このテストを考案したチューリングというひとは、どうやら同性愛者であることを悩んでいたらしい。男が女の「ふり」をすることが重い病気だと思われていた時代だったからこそ、彼はその課題に自分の人生をかけて取り組まなければならなかった。切実な問題だったようです。

インターネットに氾濫するテキスト情報のなかで生きるぼくらも、いろんな「ふり」をしています。悪意に使う場合には、なりすましのような犯罪にもなる。一方、テキストの世界では別人のように饒舌にもなれる。現実の世界では寡黙で地味だったとしても、テキストのコミュニケーションでは水を得たさかなのように、いきいきとコミュニケーションしたり表現できるようなひともいます。

「ふり」は騙すことでもあるけれども、ポジティブに考えると演出ともいえるでしょう。俳優ではなくても、自分の人生において自分を演じることは大切なことではないかと思います。職業の役割を演じきること。家庭における夫や妻や子供の役割を演じきること。演じることは、そもそも観客をはじめとした他者の視線を意識することでもあります。他者がいなければ演じる必要もありません。

コミュニケーションにとって「ふり」はとても大事なもので、それぞれの役割になれるかどうかが重要です。息子が「かいじゅうだ」といっているときに「そりゃ、おもちゃだ」と言ってしまったら、そこで空想の物語は破綻します。空想だけではなくて現実社会のあらゆる側面で、ぼくらは「ふり」を切り替えながら生きているものです。ピタゴラスイッチに、お父さんが会社員であり電車に乗るとお客さんであり、家に帰るとお父さん、という歌がありました(前にも引用しましたが)。誰かとの関係によって、自分というものは次々と変化するものです。変化しつつも変わらない自己がある。

文章における「ふり」という行為は、暗喩(メタファ)に似ているかもしれません。以前に書いた例文を再利用すると「酒は人生の薬だ」と表現したとき、デジタルに考えると「酒=薬」ではない。アンドロイドなら、ふたつのカテゴリーの関連性はない、と判断するかもしれない。けれども、ぼくら人間の思考は、この異なる記号をゆるやかにつなげてしまう。言葉や情報はつながりたがるものです。ぼくらの脳のシナプスも電気信号によって、つながりたがる。まったく異なったものがつながったときに、新しい何かが生まれる。つながることは、何かあたらしいものを生み出すための行為かもしれません。

人生を豊かにするためには、この「ふり」あるいは「暗喩」的な思考が大事かもしれないと思いました。よき父親である「ふり」をする。頼もしい旦那である「ふり」をする。なんとなく悪いイメージがあるのですが、それは騙しているというイメージがあるからでしょう。けれども誰かを喜ばせるために、あるいはしあわせにするために演じているのだ、と考えると、その「ふり」も決して全面的に嫌悪するものではなくなってくるものです。ほんとうの自分は違うけれども、ときには悪者を演じなければならないときもある。ほんとうの自分は悪い。しかしながら、正しさを演じなければならないときもあるかもしれません。このとき多様性が生まれるものであり、深みのある人生にもなります。ただ、どんなに「ふり」をしていても、その「ふり」で覆われたイメージを壊すような感情が生まれることもある。「ふり」が、めりめりと破れる瞬間が興味深い。

さて。先週末に趣味のDTMで作った曲では(まだプレイヤーズ王国で曲が公開されません。ほんとうにどうしちゃったんでしょうか。待ちきれないのでmuzieで公開しようかと真剣に考え中)、歌詞に「わたしはあなたになれる/あなたのよろこびがわかる」というフレーズを入れました。これはVocaloid MEIKOというソフトウェアと現実に存在するシンガー拝郷メイコさんとの関係を歌わせようとしたものです。厳密にいうとMEIKOはメイコになれないのだけど、なれないけれどもなろうとしているとして、あえて「なれる」と歌わせたかった。

アンドロイドが人間になりたがる物語には、どこかせつない甘酸っぱさを感じてしまいます。なぜかというと、背伸びして大人たちになりたがろうとする未熟な息子たちの姿がオーヴァーラップするからかもしれません。ピノキオが人間になりたがるようなものです。

未熟なものたちを大切にしたいと思います。技術であっても、もちろんひとであっても。

投稿者 birdwing : 2006年4月27日 00:00

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