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2006年4月24日

「意識とはなにか―「私」を生成する脳」茂木健一郎

▼book06-028:実は、ほっとしたりして。

4480061347意識とはなにか―「私」を生成する脳 (ちくま新書)
筑摩書房 2003-10

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このブログを再スタートさせたときに、幼少のとき、ぼくは自分の心がどこにあるのか、というようなことを考えたけれども、うまく言えずにもどかしい思いをした、という経験を書きました。これもまたうまく書けないのですが、そのとき背筋を走った感覚は、ひょっとしたらものすごく危険かもしれないという直感もあったわけです。もしかするとこんな考えはやばいかもしれない、このことを考えておくのはやめておこう、と少年時代のぼくの心に自動制御がかかった。そんな経験は自分だけだと思っていたのですが、茂木健一郎さんのこの本を読んで、同じように考えたひとがいるんだということを知り、実は、ほっとしました。

「ただいま」とは何か、と考える子供は変です。しかし、茂木さんはそういう少年だったようです。さらに30歳になってからも電車のなかで「ガタンゴトン」は音を分析しても、いままさに聴こえている電車の音とは違う、なんてことを考えられている。大きな声では言えなかったのですが、ぼくもそういうタイプの人間です。ずっと隠れクオリア信奉者だったのですが、そんなに変でもなかったんだ、やれやれ、と安心しました。

ぼくには、そう!これだ!という感じがしたのですが、クオリアとは<あるもの>が<あるもの>であるための質感です。<私>が<私>であるということ。その代替不可能な感覚こそがクオリアではないか。そしてそれが生み出されるのは、チューリングによる人工頭脳のような科学を超えた、途方もないシナプスの「つながり」あるいは文脈があってこそ、可能になる。

この本のなかにもいくつか非常に興味深いキーワードがあり、いずれまた考察しようと思います。いま思いつくものとしては「ふり」をすることが他人とのコミュニケーションでは大切な機能であること、クオリアは「生成」する、という言葉です。

趣味のDTMで「Qualia(クオリア)」という曲を作ったばかりですが(まだ公開されていません。プレイヤーズ王国で公開予定)、もっと考えてから歌詞を書けばよかったなと若干後悔もしています。現在できることの最善をつくしたと思っているのですが、ぼくもまたさまざまな文脈のなかで「生成」する<私>なので。昨日の<私>は今日の<私>ではない。そして、永遠に変わらないのは、書かれた文章(または情報)や作品として生み出された音楽かもしれません。4月24日読了。

*年間本100冊/映画100本プロジェクト進行中(28/100冊+29/100本)

投稿者 birdwing : 2006年4月24日 00:00

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