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2006年4月24日

心のフィルタリング。

ひとがきれいにみえるときがあります。言い換えると、きれいなひとが多いと感じるときがある。ぼくは男性なので、ここでいう「ひと」の80%は女性かもしれません。しかしながら異性に限定しなくても人類はみな美しいと思うときがある。と断言すると仰々しいので、どうかとも思うのですが。

たいてい大きなイベントが近づくと世のなか全体が華やいでみえるものです。たとえばクリスマス近辺だとかバレンタイン近辺には、みなさん気合いの入れ具合が違う。季節の変り目も顕著です。春になると装いも変わるので、ふわふわひらひら華やかになります。フレッシュな新人や新入学の学生たちが街に増えるので、それだけでも気分が変わる。

世界がきれいにみえるのは、実際にファッションに変化があったことも確かではあるのですが、みているぼくらの意識が変わったせいかもしれません。どんなに世のなかがキラキラしていても、みているひとの意識がどよーんと落ち込んでいたら、その美しさは受け止められないのではないでしょうか。つまり心にフィルターをかけたり外したり、それだけでも世界のとらえ方は変わる。ついでに、レンズそのものが曇ってしまうこともある。これは注意すべきです。きちんとみえているかどうか、ということを常に意識的にチェックする必要があります。ぼくはレンズの感度が鈍くて失敗することが多いのですが、きちんとみるのは大事ですね。子供たちは、親にみられていることで自分を主張します。何もしなくてもただみていること、それが親のいちばんの仕事かもしれません。子供に限らず、みられることで女性もきれいになるものだと思うし。

今日はあいにくの雨模様で、外出したものの山手線は止まっていたり、仕事は忙しい、寝不足で眠いなど、大変な一日でした。ところが、めちゃくちゃに混雑した人ごみのなかでも苦にならないどころか、なんだか電車の隣に座っている女性がすべてきれいにみえる。週末のお休みがあけた途端に、美人率が急増したんじゃないか。東京で美人サミットでも開催されているんじゃないだろうか、という感じです。

これはもちろん春だから女性のみなさんがきれいになった、ということが第一の要因でしょう。けれども、その理由を考えつづけていたうちにふと思いついたのは、週末、ぼくはずっと音楽に没頭していたからではないか、ということでした。つまり家に引きこもって、パソコンの画面しかみていなかった。形而上的な音の世界に浸っていた。だからこそ色鮮やかなリアルな世界の質感が、いままで以上にぼくの視界を刺激したのだと思います(と書くと、ちぇそうなのかい、あたしたちがきれいになったからじゃないのかい、と女性の方に叱られそうですが)。

少し論点を変えるのですが、離れてみたときにあらためて見出す価値もあります。意識的に距離を置くことは大事かもしれません。もちろんべったりと没頭するのも大事ですが、アイディアに関しても、考えるところまで考えたら寝かしてみる。すると不思議なことに、さらに発想が広がることがあるものです。パートナーに関しても、ときどき会わない時間をつくってみることで、かえってお互いの良さを再認識することがある。オンとオフを切り替えることで、埋もれてしまった何かを再認識できる場合があります。

だからどうだ、ということはないし、絶対にそうかというと自信はないのですが、世のなかすべてが美しくみえるのは、結構いいものです。それだけでしあわせになれる。人生に行き詰まったら、引きこもることをおすすめします。おすすめされても困惑だと思うのですが、適当な引きこもりは人生を活性化するような気がします。私見ですけどね、あくまでも。

投稿者 birdwing : 2006年4月24日 00:00

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