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2006年4月 4日
絶対情報感というセンス。
すごい本に出会ってしまった。4月なので何か新しい本を、ということで昨日は書店に立ち寄ったのですが、結局4冊の本を購入してしまいました。未読の本がたくさんあるのに、かなしいサガという感じです。しかしながら購入したうちの一冊「東大式絶対情報学」という本に感銘を受けました。
第一印象では、まず「東大式」という言葉に抵抗がありました。なんとなくうさんくさいものもあった。どうやら出版社の思惑だったようですが、タイトルにはない方がよかったような気もします。しかしながら読んでみると、一気に内容に引き込まれました。とにかく一行一行がぼくには刺さる言葉ばかりです。そもそも思考をめぐるさまざまな領域の問題意識がぼくにはあったので、この書物に書かれていることのひとつひとつに共感できたのかもしれませんが、考えていたことの解がすべてがこの本のなかにある錯覚さえ感じました。背筋に電気が走るような感覚を何度も味わった。だからこそ、夕飯の間にもページをめくり、一気に読んでしまったのですが。
著者の伊東先生*1は、作曲とオーケストラやオペラの指揮を専門としながら、物理学、脳認知科学、表象文化論などを学んで東京大学で情報の講義をされているそうです。このアカデミックな現場の臨場感あふれる教育の実例をベースにしながら、情報の洪水といわれるIT社会において、どのように自分を表現し他者を尊重していくのかという知恵(インテリジェンス)の獲得方法を展開していきます。これは「本質を捉える知」「他者を感じる力」「先頭に立つ勇気」という三つを備えた人材を育成するという、東京大学の小宮山総長の教育方針を忠実に再現されているともいえるのですが、伊東先生の生きざまのようなものがあって熱い。冷めた学問ではありません。
伊東先生は、まず情報には「第一人称性」情報感、「第二人称」情報感、「第三人称」情報感というものがあると述べています。これは「私」のオリジナリティを確立するためのセンス、特定の誰かとコミュニケーションするためのセンス、そして不特定の誰かに何かを伝えようとするセンスといえるかもしれません。この三つを意識して情報の読み書きを展開するだけでなく、最終的には「ブラインドタッチ」のように無意識でも(どんなに自分の状態が悪くても)習慣のように最適なコミュニケーションができるような人材を育成することを目指されているようです。
具体的には、身体のほぐし方というエクササイズから、大量の情報から重要な情報を拾い出すための速読、メールの書き方、マトリックスによる世界の捉え方、プレゼンテーションの仕方、アプリシエーション、俯瞰型知識構造力学(これは結構興味あり)まで多岐にわたります。まず誉めて対案を出す、というプレゼンの評価の仕方まである。幼児に対する音楽の才能教育(ソルフェージュ)を基盤に考えられたようですが、それらが実践のマニュアルではなく理論ときちんと結びついていることがすばらしい。読み進めながら、次から次へと繰り出される知の技法に、ぼくはほんとうに眩暈がしました。参りました。おこがましいけれど「立体的な思考のために」というプレゼンシートを作ったときに、こういうことをぼくはやりたかったものです。教育の世界には、すばらしいひとがいるんだなあ、と感動しました。
レッスン7「予防公衆情報衛生 ブロードバンドの光と闇」の部分は、帰りの電車のなかで読んでいたのですが、あやうく涙をこぼしそうになりました。知り合いが宗教のためにマインドコントロールされて、その人生を破壊されてしまった。そのことから情報メディアが引き起こした「人災」を二度と起こさないように、情報の怖さとそれを阻止するための方法を研究し広めているとのこと。その使命感に共感します。さらに最終章の猪瀬先生に対する回想の部分も感動的な言葉が綴られています。戦争で亡くなった友人がいる。けれども自分は「生かしてもらっている」のだから、できることをしなければ、と猪瀬先生は語られたそうです。長く腰を据えて考えつづけること。途中で投げ出さずに完成させること。それがいちばん大切なことかもしれません。そしてそのためには、なぜ継続しなければならないのか、という中心になる考え方をきちんと持つことが重要です。
知というものは、難しい言葉を使いまわして賢そうなフリをするためにあるものではなく、人間どうしのつながりを介して存在するものであり、よりよく豊かな人生を生きるためにあるものだと思います。そんな「あたたかさ」を徹底した知の教育のなかに垣間みることができました。
この本のすばらしさについてはもっと書きたいのですが、うまく書くことができずにもどかしさを感じています。思考について書き散らしたぼくのブログなんて、学問としての裏づけも薄っぺらで実際に次の世代の子供たちのために実践しているわけでもなく、しょうもないもんだなあと感じて恥ずかしくなりました。しかしながら、この本で学んだことも吸収しながら、これから10年間、同じ場所に穴を穿ちつづければ、せめてもう少し高い場所にはいけるのではないかと思います。
この本のなかには色のクオリアという言葉が出てきたのですが、同時に購入したもう一冊の本は「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」という本で、こちらはマントラとして音のクオリアが書かれています。それから、あるひとに勧められて購入した高田純次さんの「適当論」もあたたかい人柄にあふれた癒される本です。これから読むようにします。
ちょっと感動しすぎて熱くなってしまいましたが、まだ触れていない部分がたくさんあります。いくつかのキーワードはまた取り上げようと思います。
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*1:通常ぼくはこのブログでは先生とか氏という言葉をなるべく使わずに、さんで呼ばせていただいています。失礼なことかもしれませんが、ぼくにとってはあえてそう呼ばせていただきたいと考えていました。けれども、この本を読むと、先生と呼ばなくては、という気持ちになります。その理由は...読んでいただければわかります。
投稿者 birdwing : 2006年4月 4日 00:00
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