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2006年4月10日
否定演算子¬。
3歳の息子がミスタードーナッツでもらったジグソーパズルで遊んでいたのですが、どうやらひとつのピースをなくしてしまったらしい。そこだけが抜けてしまっていました。その光景から思ったことですが、なくしたピースの部分に注目すると、それ以外のピースはすべて揃っている、ということになります。一方で、なくしたピース以外の部分からみると、その部分だけが足りない。つまり、どちらに焦点を当てるかによって、見方が変わってくるわけです。よく例に挙げられることですが、水がコップに半分あるときに、もう半分しか残っていないのか、まだ半分もあるのか、その見方によって考え方が変わってくる。
相変わらず「東大式絶対情報感」という本の内容を引っ張るのですが、この本のなかに、否定演算子¬(ちなみにこの縦のカギかっこのような記号が、数学的な否定の記号なんですね。ノットで変換したり、否定で変換するとこの記号になります)を使って情報をみる、というような部分があったような気がします。実は本を貸してしまって現在手もとにはないのですが、確かモバイルツールの市場性について考察するときに、その考え方が示されていたような気がしました。携帯できるもの、携帯できないもの、デジタルなもの、デジタルではないもの、という軸によって4つの象限を作り、それぞれを考察していく。このときにちょっと目からウロコだと思ったのが、「そうではないもの」によって対象を浮き彫りにするという考え方でした。
ちょうど切り絵のようかもしれません。色紙を切り抜いていき、最後に黒い台紙に重ねると切り抜いたところが絵になる、あの伝統芸能です。切り取ったものではなくて切り抜かれて残ったものが絵になる。そんな風に意識も切り抜くことによって、あるもの「ではない(¬)」ものによって対象を浮き彫りにする考え方もありそうです。安易なところでは、自分のいない社会のことを考えることによって、自分らしさを発見する、という感じでしょうか。アナログを追求することによって、デジタルとは何かを述べる。書かれなかったものを追求することによって、何が書かれているのかを発見する。そんな感じです。
討論などでも、ものすごく活発に議論されているようでいて、実は切り抜かれた部分のことを言っているのと、切り抜いた部分を言っていることのように、結局はどちらを選択するかという違いだけで同じことを言っている場合があります。議論に熱くなると冷静にとらえることができなくなるのですが、地と図のどちらを選ぶかということであっても、大局からみると同じだったりもします。
否定的な考え方であっても、実はポジティブな場合がある。逆にものすごく肯定的なことを言っていても、ネガティブな場合もある。その凹凸の付け方が面白いと思います。
完成されなかったジグソーパズルを息子は結局ばらばらにしてしまったのですが、ばらばらにしてしまうと、欠けているのか欠けていないのかわからないし、どうでもいいことのように思えました。
投稿者 birdwing : 2006年4月10日 00:00
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