2008年10月29日
青空にクラウド。
IT関連のニュースで久しぶりにやられたな、と思ってにやりと笑ってしまったのが、マイクロソフトの提供するクラウドコンピューティングのネーミングでした。Strata(地層)などという噂もあったのですが、最終的に発表されたのはWindows Azure。Azureはイタリア語の青という言葉らしく、意味するものは"青空"だそうです。
クラウド(雲)のサービスに対して青空を提供する、という意味がなんとなく詩的でいいなあ。そんなところに感心しているのは、空好きな文系のぼくぐらいかもしれませんが、窓(Windows)を開ける(=インターネットに繋ぐ)と、青空(Azure)に雲(Cloud)が広がるというイメージの連鎖がなんとなく素敵だ。
Vistaの後継として発表されたWindows7が、なぜ7?どう数えれば7?という疑問が多かっただけに、この突き抜け方はなんだかすがすがしいですね。PC Watchの記事を読むと、「アズレィ」「アズール」などマイクロソフトのなかでも発音が統一されていないようですが、「その発音のブレとは裏腹に、今回のPDCにおけるMicrosoftのメッセージには迷いが全く見られない。」とのこと。
一部の評論家からは、クラウドコンピューティングは名ばかりで何も新しいものはない、という懐疑論も出されていましたが、マイクロソフトというパッケージソフトウェアからスタートした企業がクラウドコンピューティングに本腰を入れはじめたことは、ぼくは大きな変化ではないかととらえています。
ところで、雲をつかむようなクラウドコンピューティングについて、なんとなく解釈したことを書きます。
IT業界の"なかのひと"であればよく知っていると思いますが、システム構成図では、インターネットを表現するときに雲の絵を使います。これがクラウドの意味するところらしい。クライアントPC(つまりここにあるノートパソコンやデスクトップPCですね)ではなく、雲のなか=インターネットの向こう側のサービスを利用していろんなことができるようになるのが、クラウドコンピューティングのようです。
いままでのコンピューティングはPCというローカルなハードウェア上で展開されていました。ソフトウェアはCDやDVDというメディアのパッケージを買ってきて、インストールして使うものが主流だったかと思います。ところが、今後は、もやもやーっとした雲(Cloud、つまりインターネット)が箱やメディアなしにオンラインでアプリケーションを提供してくれる。作成したファイルは雲のなかにデータを保存することもできる。非常に乱暴かもしれませんが、これがクラウドコンピューティングの基本概念のようです。
その代表的なものがGmailでしょう。そもそもぼくにとってGmailはなくてはならないものになってしまったのですが、このサービスが登場する前は、メールはOutlookなどのアプリケーションでPC本体に保存するものでした。ところが現在では、ほとんどメールをPCに保存することはなくて、どこかのデータセンターにあるストレージに保存すればいい。
いずれPC本体にハードディスクのようなものはなくなってしまって、ネットに接続してすべてをこなすようになるのかもしれません。表計算やワープロソフトにしても、ネット上にあるソフトウェアで作業をして文書はネットのあちら側に保存する。雲が消えてしまったら全部消失するのではないか、という怖さもありますが、最近流行りのEee PCなどのネットブック(NetBook)あるいはUMPC(Ultra Mobile PC)がさらに軽量化・小型化していく先には、やりたいこと/やったことはネットのあちら側にあるものを引っ張ってきて使い、本体には何も保存しないというスタイルに移行していくのかもしれません。
という意味では、いままでIT用語としてあったASPのモデルや、SaaS (Software as a Service)、シンクライアントとどう違うのか、というとあまり違わないような気もする。それがクラウド懐疑論を支持するひとたちの論点でした。
シンクライアントに関していえば、ぼくはサン・マイクロシステムズのデモをみせてもらって、いいなーと思った経験があります。つまり、カードを差し込めば、どのPCでもネットワークを介していままで使っていたデスクトップがそのまま使えるようになる。実際にみると、すげーっと思う便利さでした。けれども、一般にはシンクライアントは聞きなれない言葉だと思います。90年代にサンが提唱していたネットワーク・コンピューティングとクラウドコンピューティングが大きく違うかといえば、そんなに違わないような気がするのだけれど、サンは早すぎた。時代を何歩も先に進んでいたのでしょう。
SaaSが出てきたときにもASPとどう違うのか、ということがわかりにくかったのだけれど、IT業界には、時代を盛り上げるためのキャッチフレーズが多々あります。Web2.0も、その当時に登場してきたサービスを包括しただけのなんとなくクラウド的な概念でした(そのあとで、なんとか2.0というのが流行りました)。とはいえこうして考えてみると、特定の技術よりも、統合されたサービスに利用者の状況も加えて、何か全体の動向を示唆するキーワードが主流となってきている気がしますね。
さて、技術的なことはともかくとして、今日のクラウドといえば"うろこ雲"。朝、学区外の小学校に通う息子を途中まで見送りながら眺めた雲が見事でした。
思わずデジタルカメラを取りに家に戻ったのですが、カメラを構えたときにはもう別の雲になっていました。どうやら上空では、風がものすごい速さで動いているらしい。雲の連なりは刻々と姿を変えていきます。
Windows Azureが実現する"雲(クラウド)"は、果たしてどのように変わっていくのでしょうか。その雲は、のんきに浮かんでいるようなものではなく、情報化社会の風を強く受けて、さまざまなカタチに変化するものかもしれません。
投稿者 birdwing 日時: 23:58 | パーマリンク | トラックバック
2008年10月27日
父に帰る。
しばらくのあいだ父親をサボっておりました。どうしても父親になりきれなかった。ごめんな、息子たち。パパは自分のことでせいいっぱいだったよ。きみたちのことを考えている余裕がなかった。
世のなかのおとーさんたちはどうやって、やりきれない気持ちに折り合いを付けているのだろう。子供ができれば必然的に親としての責任を果たさなければならないのだけれど、だからといって親になれるとは限らないものです。親の責任を果たすことと、きちんと親になることはまったく違う。
アウトドア志向でキャンプに連れて行ったり、休日にドライブしたり。そんな100点満点のパパがうらやましい。ぼくもできる限りよき父親であろうとしたのだけれど、正直に告白するのですが、父親失格でした。見栄を張るつもりもないし、あえて正直に書きます。ここ数ヶ月のぼくは、父親を放棄していたと思う。
子供たちのイベントには毎年のように皆勤賞の出席だったのに、今年は長男の最後の小学校の運動会、次男の最後の幼稚園の運動会にも、ぼくは参加しませんでした。体調がすぐれずに寝込んでいた、ということはある。でも言い訳にすぎない。ボイコットしたのだ、ぼくは。父親であることを。
罪悪感のせいから、というわけではないのですが、土曜日、久し振りに次男くんを連れて、ふたりで新宿でデートしてきました。母親が忙しかったので、どうせならふたりで玩具でも見にいこうか(長男くんは、ぼくはいいよ、とのこと)・・・と言ったら、思いのほかに、ぶんぶん縦に首を振られてしまった。数日前から、パパと新宿に行くんだよね、ぜったいだよね、何買おうかな、ということばかり話していたらしい。それじゃあ、行かなきゃな、と思いました。でも、考えてみると次男くんとふたりだけで出掛けるのは、ほとんどはじめてのようなものです。
あらためて次男くんと向い合うとき、ぼくは一抹の不安を感じずにはいられません。彼の脳の働きを心配してしまう。細菌性髄膜炎という病気で入院したのが、今年の夏のはじめ(エントリーはこちら)、ラッキーボーイの彼は奇跡的に健康を取り戻すことができたのだけれど、気のせいか、どうも話す言葉がたどたどしい。考え込むことが多いし、じーっと上を向いて話すこともある。なんだか以前のように歯切れがない。
やっぱりどこか脳に後遺症が残ってしまったのではないか、と思う。失礼な実家のぼくの母は、以前から知恵遅れのようだったよ、話す言葉が幼稚だった、おまえがきちんと教えないからだ、などと気遣いもなくぼくを責めたのだけれど、馬鹿らしいと笑い飛ばすこともできなくて、ぼくは心配になる。きみの笑顔は、なんだか以前とは変わってしまった気がする。以前はもっと利発そうに笑っていたのではなかったか。薄ら笑いのようなそんな表情じゃなかったのではないか。きみの脳は炎症を起こして壊れてしまったのだろうか。
けれども、壊れてしまったのはきみだけじゃなかったのだ。
きみがうつろな目をして病室で細菌性髄膜炎と闘っていた後半あたり、ぼくと相方、ぼくと実家の母、ぼくと相方の家族と、きみを取り巻くさまざまな関係が、どうしようもなく壊れてしまった。そんなことをここで晒すわけにはいかないからこれ以上は書かないけれど、ある夜、ひどい口論を聞いて長男くんは大声で泣いたことがあった。あの静かな長男くんが声をあげて泣くほど、ぼくらの家族は、そのときに壊れてしまっていた。きみの繊細なお兄さんは、そのことを敏感に感じ取ったのだろうね。かわいそうに。
そうして一見、しあわせそうだけれど残骸のようないまがあります。ぼくは給料を運ぶために、ここにいる。途方もない借りを返済するためだけに。放棄することもできない。皮肉に自分を嗤うだけでしかない。
土曜日、次男くんと久し振りに手をつないで歩きました。なんだかしめぼったい。緊張すると汗をかくんだね。父親に緊張しているのか。まあそれもそうだろうな。久し振りだもんね。そうやって新宿で、ウルトラマンの怪獣の人形を2体買いました(にいちゃんにはカードデッキ)。あと2体ほしかったらしいのだけれど、えーもういいよう、今度にしよう、とぼくが言ったら、あっさりと、うん、そうする、と引き下がった。欲しいもののために駄々をこねることがなくて、父としては少し残念だったりします。もっと困らせればいいのに、ふがいのない父を。
手をつないで・・・ということで思い出したのだけれど、ぼくが父と最後に手をつないだのは、父が脳梗塞で倒れた病室でした。
家族が揃うまでクスリで延命されている状態で(つまり家族が揃えばもうこの世から消えてしまう瀬戸際で)、クスリのためか手はぱんぱんに膨れていた。その手を握りながら、ぼくは父であることを、ぼくの父親からバトンタッチしたつもりでした。しかし、バトンタッチできていたのだろうか。
ところで、以前にもどこかのエントリーに書いて、未公開の海に沈めてしまったのかもしれないけれど、教師でカタブツの父から、ある日とつぜん、若い頃の告白を聞いたことがありました。
いつだとは聞かなかったけれど、若い頃の父には好きな女性がいて、彼女が住む遠い街まで一緒に電車に乗って送っていったことがある、とのこと。うえええ、どうしちゃったの親父?(苦笑)という感じで、唐突にはじまった告白に息子であるぼくは困惑するしかなかったのだけれど(ほんとうにぼくらはそういう話を一度もしたことがない)、一方でなんだか大人の秘密を共有したような、うれしい気持ちだったことも確かです。おふくろには悪いけどね。
電車に揺られながら、次の駅名を必死で考えている次男くんをぼんやり見つめつつ、パパには大好きな女の子がいたんだよ、いっしょうわすれられないこいをしたんだ、しあわせだったなあ、ママじゃないけどね、と、そんなことを言いたい衝動に駆られて、5歳児にそんなこと言ってもいかがなものか、と思ってやめました。まだ、きみには早すぎる。お酒を飲めるぐらいになったらともに語ろう。
そんな風に時代は繰り返されるものかもしれません。悩んだり迷ったりしながら、やっぱりぼくは父に帰る。きみたちがいるのだから、父親であらねば。ぼろぼろになって疲れ果てて、給料を運ぶだけの存在であっても、父親であることに覚悟を決めなくては。
そういえば、27日は亡くなった父の誕生日でした(ええと・・・確か)。そっちはどうかな。こっちもいろいろだよ(苦笑)。
おめでとう。そして安らかに。
投稿者 birdwing 日時: 23:54 | パーマリンク | トラックバック
2008年10月23日
ラクガキ考。
うちのふたりの息子たちは絵を描くのが大好きです。家には100円ショップで購入した画用紙が常備してあり、おたがいにウルトラマンの怪獣やらデュエルモンスターやらの絵を書き殴っています。
描くテーマが限定されているのがぼくとしては不満なのだけれど、絵を描くのが好きというより画用紙に"何かを書いて遊ぶ"ことが好きなのだと思う。書き散らかした作品からみても、残念ながら将来はイラストレーターや画家になる才能はなさそうですが、楽しそうなので放任しています。
ところで、どんなに書くのが好きだといっても、書いてもいい場所と悪い場所があります。家のなかでも、壁や机の上には書いてはいけない。これは何度も約束事として確認したことであり、守らなければいけないルールです。
社会においても、このようなルールを制定する必要があり、文章化されたものは法律だったりするのですが、文章にはなっていないけれどモラルとして重要なことがあります。
今年になって、フィレンツェの大聖堂の落書き問題などが浮上し、学生たちが謝罪に行ったり、良識が問われたりしたことは記憶にまだ新しいことです。「京産大生も大聖堂で落書き? 壁に日本人名が続々見つかる」などの記事で取り上げられていますが、さらに鳥取では、全国初の落書きを禁止する条例が決まり、来年4月1日から施行されるそうで、違反者は5万円以下の過料とのこと(10.14の産経ニュースから)。そもそも罰金30万円という厳しいものを求めていたようですが、砂の上の落書きは風が吹けば消えてしまう、ということで大幅に値下げされたとか(こちらは9.18の産経ニュース)。
罰金を科さなければ規律が守れない社会自体、何かがゆるんでいる気がしますが、優等生的な視点をちょっと外してみると、落書きはアンダーグラウンドな文化でもあります。Wikipediaで「落書き」の項目を読んで、あらためて関心を惹かれたのですが、二条河原の落書、アンコールワットに侍の落書きがあることなど、時代を超えて残される落書きは面白いですね。
また、アメリカにはキルロイ参上("Kilroy was here")という伝統的な落書きがあるようで、戦争という時代背景と結びついているらしい。落書きから知る伝統や文化も興味深いものがあります。ちなみに、Wikipediaから「ワシントンD.C.の第二次世界大戦記念碑に見られるキルロイ参上の落書き」を引用します。
インターネットを便所の落書きと言ったひともいましたが、ぼくらがブログに書いていることも途方もない落書きの所作のひとつかもしれません。しかし、ぼくはそれを嘆かわしいことだとは考えていません。だからこそ時代を風刺したホンネも書けるし、一方で眉をひそめるような表現も生まれる。そのすべてが人間の文化であり、ひとによって生まれたものです。
ということをぼんやりと考えていたら、空に落書きをした芸術家集団がいました。中国新聞の「広島上空に「ピカッ」の文字」という記事で読みました。21日午前、芸術活動の一環として、小型機をチャーターして広島の上空に「ピカッ」という文字をスモークで描いて、ビデオ撮影をしたらしい。
しかし・・・これは芸術なのだろうか?落書きは文化だ、なんでも書いちゃえ主義のぼくではありますが、そもそも反社会的な活動、あるいは単に不快を生むだけの表現を高尚な芸術活動という名のもとに正当化するひとたちを、あまり好きではありません。
もちろんきれいなものだけが芸術ではなくて、どろどろとした感情や気持ちの悪いものを表現することも芸術だとは思います。しかし、広島の上空で「ピカッ」という原爆を思わせる文字を落書きすることには、あまり芸術的な何かを感じません。ひねりがない。
たぶん公共のものである空に飛行機を使って落書きするところが特別な芸術活動だと考えているのではないかと想像しますが、率直なところ鳥取の砂丘に書かれた落書きと何も変わらないのではないか、というのが実感です。どうせお金をかけるのなら、空というキャンバスを使ってもう少し芸術性の高い何かを書いてほしかった。
原爆を想像させるようで不安だ、不快だ、という広島で空を見上げた方の気持ちもわかります。いきなり土足できれいな青空を汚されたら、空好きなぼくも心が痛む。けれどもまず前提として、芸術を語る集団としては、思考や発想が幼稚な気がしました。ただの落書きだろうこれは、と思った。もったいぶって落書きを芸術だと語るのは、なんだか傍目にも恥ずかしい。
社会のヒンシュクをかうか、芸術性の高さで注目されるか、ということは紙一重のような気もしますが、ぼくは土足でひとの心を踏みにじることが芸術や表現ではない、と考えたい。
ブログやネットの掲示板にもいえることかもしれません。たとえば、コメント欄が開いているから何でも書き込んでいいと思っているリテラシーのないひとたちがときどきいます。エントリーとはまったく関係のないつまらない自説を展開したり、ブロガーを完全に無視した会話を延々とつづけたりする。
それはブログを開設している誰かの領域に土足で踏み込んで荒らす行為であり、要するに"落書き"と変わらない。コメントを書き込む際には、ブログのオーナーに失礼にあたる発言がないか、細心の注意を払うように心がけています。また、もしぼくのブログでそういうこころない発言があったら、迷わず消します。落書きは目障りだし、礼儀を知らない人物とは対話したくない。キャパシティの狭い人間で申し訳ない。
と、少しばかり厳しいことを書きましたが、学生時代、退屈な授業をもてあましてノートや教科書の片隅に書くラクガキは、ほんとうに楽しいものでした。キャラクターを想像しつつ書いてみるのですが、まったく別のものになってしまったりして、記憶の曖昧さに脱力したり吹きだしたりしました。
ラクガキは落書きでよいと思うんですよね。あとから難しい芸術的な価値や意味を付加するのは自由ですが、これはただの落書きである、という軽さがカルチャーではないか。そして、ぎりぎりでメイワクをかけない場所にちょっとやましい気持ちで書くからこそ、自由に書ける。ときには辛口の風刺もできる。それが落書きのよさではないでしょうか。
一方でうろ覚えですが、弘兼憲史さんの島耕作シリーズのマンガに、社員でありながらものすごい才能を持った新人が、サラリーマンとして会社に合わずに退職する際、トイレの壁に芸術的な落書きを描いて去っていった、というエピソードがあったことを思い出しました。彼は数年後に、国際的なアーティストになる、というストーリーだったかと思います。たつ鳥あとを濁さず・・・の逆をいく話ですが、才能があればそんな辛辣さも強烈なインパクトとなります。
同時に考えたのは、消えてしまう(消されてしまう)からこそラクガキには意味があるのではないか、ということでした。記録の面から考えると保存性が重要ですが、会話としての言葉が宙に拡散して消滅してしまうように、ラクガキの文字や絵もいつしか消えてしまう。という意味では、空に書かれたピカッという文字も消えてしまうわけで、ひとときの不安も永遠に残ることはありません。
言葉というものの本質は、そんなあわい不確かさにあるのかもしれません。
投稿者 birdwing 日時: 23:55 | パーマリンク | トラックバック
2008年10月21日
「リヴァイアサン」ポール・オースター
▼book:自由という名の破滅への物語。
リヴァイアサン (新潮文庫) Paul Auster 柴田 元幸 新潮社 2002-11 by G-Tools |
ミシェル・フーコーの「私は花火師です」という文庫を読んでいたのですが、前半はよかったものの全体的に寄せ集めの講演録というかボツ論文集のような印象で飽きてしまい、中断しました。そこで小説を漁ってみたところ、久し振りにポール・オースターにはまりました。
まず「偶然の音楽」から一気に読了したのだけれど、その後にやはり数日で読み終えた「リヴァイアサン」のほうから感想を書くことにします。というのは、フーコーの次のような言及と合致すると思ったからです。「狂気の歴史」という自著について語る部分です(P.17)。
――あなたは本当に自分の書物を爆弾のようなものと考えておられたのですね。まったくそのとおりです。わたしはこの書物をきわめて強い爆風のようなものだと考えていました。そしていまでも、ドアや窓を吹き飛ばす爆風のようなものになると夢見ているのです・・・・・・。わたしの夢は、この書物が爆弾のように効果的で、花火のように楽しい爆発物となることでした。
ところが、フーコーの書いた「狂気の歴史」の爆発は起きなかった。そのことをフーコーは残念がっています。花火師、というよりも、ぼくの印象としてはテロリストでしょうか。バクダンを仕掛けるひとです。
テロリストではまずいだろうからあえて花火師と訳したのかもしれませんが、なんとなく花火師は文学的ではあるけれど、のどかな感じが否めません。ぼくが思うにフーコーの過激さは、言論によって既存のできあがった何かを破壊するイノベーティブな姿勢にあって、その意味ではテロリストのほうが合っているんじゃないか。思想の火薬を仕掛けることで既存の文化を破壊し、あたらしい地層をあらわにする。そんな夢想が彼の言葉に込められていたのではないか、と。
このフーコーの花火師のイメージが、ぼくにはオースターの「リヴァイアサン」に重なりました。「リヴァイアサン」はベンジャミン・サックスという作家が、ある契機から人生の意味を問い直しはじめるとともに、いままでとは違った人生に歩みを進める。数奇な運命に翻弄された結果として、各地にある自由の女神像の模型をバクダンで吹き飛ばす自由の怪人(ファントム・オブ・リバティ)というテロリストへの道を歩み、自らも吹き飛ばしてしまう。そんな破滅にまっしぐらな物語です。
オースターの作品は、全体的に自滅的なストーリーが多い。自滅を悲壮感なしに、ある種の淡々とした静けさのもとに書き上げる乾いたトーンが彼の文学の魅力じゃないか、とぼくは思っています。ただ、読んでいてどうにもやりきれない寂寥感が残ります。村上春樹さんの作品を読んだあとにも何かしら満たされない諦観を感じるのですが、オースターの作品の読後感に残るのは、自嘲のような寂しさです。人間ってそんなものだよな、ばっかだよねえ(ふっ)みたいな。
その見下した感じが、ぼくは少しばかり好きではない。物語はものすごく面白い。構想はすばらしいと思います。パズルのピースが組み合わさって、最後に一枚の絵となる物語構築の完璧さは見事です。作家としての力量は絶賛したいところです。でもなぜかしら・・・うーむ、どうだ?というしこりが残る。なんだろう、これは。
うまく言えないのですが、登場人物の感情に立ち入らないで、作品中の人物の人生をコマとして動かす作家としての傲慢さ、のようなものを感じてしまうからかもしれません。
作家に対して、書かれた作品のなかの人物への思いやりやモラルを問うのはどうか、ということはありますが、あんたこのひと爆死させちゃっても何とも思わないでしょ、爆死に向けてディティールを設計しちゃったでしょ、うまく作ったよね、という印象を抱いてしまう。きっとオースターに投げかけたとしたら、だろ?(にやり)のように嗤う彼を想像して、なんだか白ける。作品に対する冷淡な姿勢が気に入らないのでしょうか。偏見かもしれませんが、登場人物をかわいがらない作家だと思いました。
しかしながら、通常、読者というものはそういう視点から物語を読まないものでしょう。ぼくが創作というものを作家の立場から考えてしまうから、うがった見方をしてしまうのかもしれないですね。
物語では、ピーター・エアロンとベンジャミン・サックスというふたりの作家の友情を核として、彼等を取り巻くファニー、リリアン、マリアなどのさまざまな女性との人間模様が描かれています。ファニーはサックスの妻ですが、ピーターは彼女に憧れていて、サックスがいない間に関係を持ってしまう。なんとなく漱石的な三角関係ですが、淡々と欧米的に進行していきます。リリアンとマリアは友人であり、マリアと過ごしながら、サックスは友人であるリリアンのもとへ行ってしまう。物語はもっと複雑なのだけれど、すべてを語ってしまうと物語を読み進める愉しさが半減してしまうので、語らずにおきます。この複雑な曼荼羅のような関係をうまく組み合わせて進行していく物語は、ほんとうにうまい。
ある衝撃的なできごとを契機に、サックスは小説を書くことをやめてしまい、妻ファニーとの関係も放棄して、そこからめまぐるしい転落をしていく。こういう数奇な運命を描くオースターは真骨頂という感じです。ぐいぐいと読ませるエンターテイメントの魅力があります。
ああ、でも感想を書いていて思ったのだけれど、ぼくはオースターがどこか好きではないんだな。とてつもなく面白い話を書ける作家であり、アメリカ文学の歴史に残る作家だとは思うのだけれど、ぼくのなかの何かが拒絶反応を起こしている。琴線に触れない。娯楽映画のような印象があって、という意味でもアメリカ的なのかもしれないのですが、なんだか馴染めない。
面白かったのだけれど、心の深いところでは(ぼくにとっては)なぜか楽しめない困惑する1冊でした。けれども個人的には現在の殺伐とした気分に合っていて、あっという間に読み終えてしまいました。10月21日読了。
投稿者 birdwing 日時: 23:40 | パーマリンク | トラックバック
2008年10月19日
[DTM作品] あき、星空のもとで。
ぼくの窓の向こうには星空があります。といっても部屋の窓の向こうではなくて、PCの液晶という"窓"の向こうです。
デスクトップの壁紙を星空のイラストに変えました。昼なのに夜の風景なので少し違和感もあるのですが、ダークブルーの配色が好みということもあり、満天の星空が気に入っています。遥かな宇宙に想いを馳せながら、遠い気持ちになれる。ときどき地上のぼくの部屋に戻れなくなってしまうのが困るのですが。
ぼくの田舎では周囲に家がない山奥ということもあって、冬の夜になると吸い込まれるような星空でした。正月に近所の神社におまいりに行った帰りに星空をよく眺めたものですが、天の川の細かい星のひとつひとつまでわかる。こういうときに田舎はいいなあと思う。ところが東京育ちの息子たちにはどうでもいいことらしく、なんだか怖いとのこと。確かに無数の星で埋め尽くされた星空を眺めていると、自分のちっぽけな存在をあらためて感じて怖くなります。
そんな星空の曲を、趣味のDTMで作ってみたいと思いました。先日、休日の空について曲を作ったばかりですが、こんどは夜の空の曲です。創作の限界というか、曲調はあまり変わっていないことに壁を感じてもいますが、空をテーマにすると似てしまうようです。
久し振りにDTM三昧の休日を過ごしたのですが、ブログで公開します。タイトルは「あき、星空のもとで。」としました。
■あき、星空のもとで。 (3分18秒 4.52MB 192kbps)
作曲・プログラミング:BirdWing
今回も全部打ち込みです。いろんな制作手法を経由して打ち込みに戻ってきたのですが、以前とは違った感覚を感じています。それが何かはうまく言えないのだけれど、打ち込みについての意識が変わりました。
利用したソフトウェアシンセは、SONAR付属のTTS-1のみ。ところでこのSONARですが、ついにバージョン8が出るというDMを先日いただきました。ぼくのSONARはいまだに5です(涙)。PCも新調して音楽制作環境を整えたいのですが先立つものがなくて断念しています。理想としては、音楽環境はMACにしたい。やはりリンゴのマークが付いているパソコンはかっこいいと思います。
星空をどのような音で表現するか。これが今回の大きなテーマだったのですが、ひとつはディレイを効かせたエレピなどのシークエンスでした。そしてもうひとつはチェロ、もしくは弦によるクラシカルな音です。あまり大きなオーケストラという感じではなく、弦楽四重奏あるいはバッハの平均律のようなシンプルな感じにしたいと思いました。室内楽のイメージです。
途中、弦のアレンジでクラシックなアプローチをしていますが、なんとなくテクノの奇才であるエイフィックス・ツインなどを思い出したりもしました。彼のように才能もなく、ぶっとんでもいない自分は、どちらかというとオーソドックスな編曲になっていると思います。クラシックのアプローチは、うまくやらないと陳腐になります。編曲のセンスが試されるところであり、要注意です。
ところで、星空がみえない東京で星を眺めるには、プラネタリウムという人工的な施設があります。ぼくはこのプラネタリウムが好きで、渋谷にあった五島プラネタリウムや池袋のサンシャインなど、よく通ったものでした。最近では、500万個の星を投影するMEGASTAR-Ⅱというものすごいプラネタリウムが話題になりました。このプラネタリウムを作った大平貴之さんという技術者が日本にいて、彼のことはドラマにもなったらしい。ぼくは見過ごしてしまったのですが、以前から関心があったので、観ておけばよかったと後悔しています。
■メガスターⅡコスモス
http://www.miraikan.jst.go.jp/sp/megastar2cosmos/
MEGASTARという投影機は日本科学未来館というところに設置されているのですが、ぼくがそのことを知ったのは、レイハラカミさんのCDを購入したときでした。プラネタリウムの上映に彼の音楽が使われていて、さらに谷川俊太郎さんの詩が朗読されるとのこと。CDを購入したときには、「暗やみの色」というパンフレットも付いてきたのですが、とてもうれしかった。
暗やみの色 レイ・ハラカミ feat.原田郁子 ミュージックマイン 2006-07-12 by G-Tools |
自然至上主義のような立場からすると、プラネタリウムはニセモノに過ぎないし、天然の星空は圧倒的に違うよ、といってしまえばそれまでだと思います。けれどもぼくは、そんなにたくさんの星を投影してどうするんだと嘲笑されながらも、プラネタリウムの再現の限界に挑戦した大平貴之さんの技術者としてのこだわりに惹かれるし、そういうリアルへの挑戦が科学を発展させる原動力だとも思っています。
たとえば、シンセサイザーで創る音楽にしても、音声合成技術にしても、インターネットのサービスにしても、あるいはヒューマノイドやロボットにしても、結局のところバーチャルに過ぎないよね、リアルがいちばんだよね、と言ってしまうことは簡単です。けれども、リアルをどうやって技術で擬似的に再現していくのか、リアルにはない世界観をどう表現するか、そんなことをコツコツと考えつづけているひとたちを応援していたい。
もっと言ってしまえば、所詮、ぼくらがブログで書いているものは、テキストというフォントの集合体にすぎません。けれども2バイトのデータの集まりにすぎない文章で何ができるか、そのことを真摯に考えつづけていきたい。
さて、星に関する曲としては、以前、「half moon」という曲も作ってささやかな掌編小説を公開しました(エントリーはこちら)。実は「あき、星空のもとで。」を聴きながら、「half moon」の続編のような小説もアタマに浮かんでいるのですが、余力があれば書いてみたいと思っています。若さゆえにうまくいかずに引き離されたふたりが、遠い場所でそれぞれの夜に、それぞれの夜空を見上げながら忘れられない大切なひとのことを思う。そんな物語でしょうか。
などと遠い物語を妄想しつつ、日曜日が終わります。
投稿者 birdwing 日時: 17:12 | パーマリンク | トラックバック
2008年10月16日
雑誌の苦境とWebだからできること。
青かったですね、今日の空も。そんな青空のもと、東京では秋らしいさわやかな一日でした。今日の空を撮ることはできなかったのですが、昨日、打ち合わせの帰りに、かつて勤めていたオフィスのあった場所の近くを歩きながら携帯電話で撮影した空のスナップを。とても高い空でした。
ところで、いきなり空の描写が出てきてしまったのは、R25で連載されている石田衣良さんの「空は、今日も、青いか?」を読んだからです。
楽しみにしているエッセイのひとつですが、毎回タイトルで石田さんに、青いか?と訊かれるので、青いぞ、とか、いや雨模様でグレイですがそれが何か?などと読む前に、ひとり突っ込みを入れてしまう(困惑)。フリーペーパーのタイトル相手にそんな対話をしているのは、ぼくぐらいかもしれません。
今週の第八十九回では「雑誌のチカラ」として、売上げが20%近くも落ち込んで非常事態になっている雑誌業界について書かれていました。テレビもCM収益の減少により大変なようですが、雑誌も休刊につぐ休刊で厳しいようです。活字全般が好きなぼくにとっては、かなしい現実です。作家である石田衣良さん同様、雑誌たちにエールを送りたい。
モノを捨てられない性格のぼくは、フリーペーパーはもちろん雑誌も処分しないで意味もなく保管しているものが多く、部屋のなかにはいまだに80年代のダ・カーポが恐竜の化石のように古本の地層に埋もれていたりします(だいぶ捨てたり売ったりしましたが・・・)。お気に入りの雑誌はいまだに捨てられません。たとえばマガジンハウスのBRUTUS。それから2000円弱するので購入に勇気がいるのですが、自己投資のために買っている東洋経済新報社のThink!。かなり昔に遡るとワイアード日本語版などなど。
ワイアード日本語版は、先端技術やサブカルチャーの話題が満載だったことと、デザインが洗練されていて好きな雑誌でした。最終号はまだ取ってあります(古い雑誌が積み重なる地層のどこかに)。90年代に休刊してしまったのですが、ほんとうに残念だったことを覚えています。喫茶店などにひとりで立ち寄り、ノンシュガーのカフェオレを飲みながら、ぱらぱらとめくりたい。そんな雑誌でしたね。
先鋭的なテーマを扱っていて、ビジュアルやレイアウトが洗練されていて、知的な好奇心を満たしてくれる・・・そんな雑誌が好きなようです。オンラインで展開されていたHOTWIREDも読みつづけていたのですが、現在はWIRED VISIONとして展開されているようです。
WIRED VISIONのサイトのキャッチコピーは「"アカルイ"未来を考えるニュースサイト」とのこと。久しぶりにアクセスしてみました。
■WIRED VISION
http://wiredvision.jp/
いいなあ。取り上げられている話題の切り口といい、デザインといい、なんとなくぼくのセンサーをくすぐる。ジャンルごとの配色も好みだし、「環境」や「デザイン」という項目があるのもいい。ビジュアルの使い方とか、グレイを基調とした落ち着いた色づかいとか、自分のブログでも真似したい。こんな知的なサイトを作れるとうれしい。
掲載されているオフィシャルブログも、なかなか強力です。特に面白いと思ったのは「yomoyomo」の情報共有の未来というブログでした。流行とはいえいまひとつ実体のないクラウドという言葉に対する考察がされていましたが、ぼくが注目したのは、少し古いのだけれど、グーグルについて言及した「Googleの偉大さと傲慢さ(前編)(後編)」でした。
グーグルについての考察は長くなりそうなので、また別に書くことにします。とはいえ、たとえばこのようなグーグルに関する記事や動向などを探すとき、情報を検索するという目的にフォーカスしてみると、圧倒的にネットが速い。もちろん、特集記事としてまとまった情報や見解を読むためには、雑誌は適したメディアといえます。
そんなメディアの特性を考慮しつつ、あらためてオンラインで展開されているWIRED VISIONを読みながら考察したのは、単純に紙かネットかというメディアの違いではないもしれない、という観点でした。
つまりネットで情報を探すということは、ぼくらは情報を能動的に「編集」している。そんな編集者のスタイルを無意識のうちに選択しているのではないでしょうか。プロの編集者が編集したものを読む、という受動的な立場であれば、レガシーな雑誌も有用かもしれません。けれども、ぼくらは与えられたものでは満足できなくなっている。情報を自分で"いじりたい"。
検索して自ら"情報を編集する"楽しみを知ってしまったら、もはや編集されたものを与えられただけでは満足できない。だから、内容のクオリティに関わらず、編集された雑誌は、ぼくらが手を加える余地がないので、つまらないのではないか。編集された記事は完全だけれど、完全であるがゆえにもう編集できません(もちろんカッターで切り抜いてスクラップすれば編集できるけれど)。その完全さがぼくらの自由度と遊び心を奪う。
テキスト情報をクリッピングしたり、引用することも広義には編集だと思います。アマチュアかもしれないけれど、ぼくらはインターネットのコンテンツに対して、個々人が編集者になりつつある。ソーシャルブックマークも、カテゴライズにそれぞれの考え方が反映されるので、編集の一種かもしれないですね。
ネットか新聞か、ネットか雑誌か、のような二元論で解釈できるようなことではないような気がしました。つまり、そこには情報化社会に対するぼくらの姿勢もしくは考え方の大きな変化、スタイルの転換、という問題を孕んでいる。つまり、ぼくらは受動的に情報を受け取る姿勢にはもはや飽き足らなくて、情報を自ら編集する能動的なスタイルに変わりつつあるのではないか。
まさにこのネットと読書の違いを脳科学から研究した結果が、WIRED VISIONに掲載されていました。「研究結果「ネット検索すると頭が良くなる」:中高年の脳に好影響」という記事から次を引用します。
「われわれの研究で最も驚くべき発見は、インターネット検索で活発化する神経回路は、読書で活発化する神経回路とは異なるということと、この活発化が、以前にインターネットの利用経験がある人に限って見られるということだ」
同じ活字を読む行為であったとしても、読書とインターネットはまったく違う脳の回路を使っているようです。そしてそれは、ネットを体験しているひとのほうが活発化している。
中高年はともかく、期待と不安が入り混じった気持ちになるのは、このインターネットを当たり前のように生活の一部として育っていくこれからの子供たちのことです。雑誌かWebサイトのコンテンツか・・・と言っているのは過渡期だからこそ言えることであって、ネット環境が主体となった社会の先に待ち構えている未来は、どんなものなのか。予測もつきません。
願わくば、その変化が人類にとってよきものであることを祈るばかりです。新しいジェネレーションの子供たちにとって、よい変化であるように願っています。
投稿者 birdwing 日時: 23:42 | パーマリンク | トラックバック
2008年10月13日
対話で導く技術。
インターネットの利用で最もよく使うのは検索エンジンだと思うのですが、検索が「対話」であるということはあまり意識していないものです。けれども、検索窓に言葉を入れてクリック、という行為についてもう少し丁寧に考えてみると、検索エンジンと対話をしていると考えられます。
たとえば仮にサーチエンジンを擬人化して、サーチ子(幸子?笑)としてみましょう。検索の過程では、次のような対話がなされているのではないでしょうか。
サーチ子:「何を調べたいですか?ここに入れてくださいね」
利用者:「クラウドかな。最近よく使われるよね。クラウド・・・なんだっけ」
サーチ子:「クラウドコンピューティングという候補がありますが、いかが?」
利用者:「それそれ。調べて(ボタンを押す)」
サーチ子:「ご主人さま、こんな結果が出ました」
利用者:「いつも早いね、ありがとう。うーむ、この記事を読んでみようか」
サーチ子:「では、わたくしはここでお待ちしております。
御用があれば声をかけてください」
利用者:「うん。またね、サーチ子」
コンシェルジュ(案内人)という言葉も使われたことがありましたが、インターフェースを人間と親和性のあるものにしていくと人間に近くなる。もちろん機能重視のユーザーや技術者にとっては、演出過剰な親和性よりも削ぎ落とされた使い勝手のほうが便利だとは思います。ビジュアルによるインターフェースよりコマンド入力のほうが慣れているということもある。それから正直なところ、あまりバーチャルなコンテンツに馴れ馴れしく語りかけられると、気持ち悪い(笑)
とはいえ、多くのひとにとっては、機能を理解せずに直感的に使うことができるほうが便利です。分厚いマニュアルが添付されるような機器は、どこか設計が技術よりで、ユーザーのことを考えていないと思われても仕方ない。というのは、iPodに付属するマニュアルは薄っぺらな冊子にも関わらず、使いこなせてしまう。ユーザービリティを洗練させるとシンプルになっていきます。
いまのところグーグルはあまりにも機能的な検索エンジンですが、いずれは上記のような対話で処理できるようになるかもしれません。SFのようですが、そう遠くない未来には実現するのではないでしょうか。さらに音声で対話できるようになれば、もっと人間的になる。いわゆるロボットです。
音声認識、音声合成(たとえば音楽制作のVocaloidなど)について以前から関心がありました。そんなわけで動向をウォッチしていたところ、グーグルでもGoogle Audio Indexingという開発が行われ、動画コンテンツの発言や会話の内容から検索できるような技術に取り組む動きもあるようです。
とはいえ、最近のニュースを読んでいて面白い、と思ったのはCNETjapanの「人工知能による会話マーケティングの可能性」でした。ここでは日産のNOTEのサイトを紹介しながら、ユーザーと対話するインターフェースの面白さ、可能性について解説されています。
日産NOTEといえば、アニメ「The World of GOLDEN EGGS」のキャラクターが愉快に喋る、あのCMを思い浮かべる人が多いのではないだろうか。実はCMだけでなく、ウェブサイト「NOTEにのって!.com」もおもしろいことになっている。人工知能を用い、ユーザーの質問にCMのキャラが反応してくれるというものだ。
GOLDEN EGGSはチョコにもなっていましたが、人気がありますね。実際のサイトは以下になります。音声が出ることがあるので、ご注意ください。
■NOTEにのって!.com
http://www2.nissan.co.jp/NOTE/E11/0801/index.html
音声をオンにすると、実際にテキストと音声でコーチが語りかけてくれます。そして、サイトのナビゲーションをしてくれる。さらに、「コーチと会話する」という部分をクリックすると入力窓が開いて、コーチにテキストで話かけることができます。同様の仕組みは数年前に某キャッシング企業がサイトの上部に受付嬢を配置して、お客様からの質問に答えるというコンテンツを用意することによって、アクセス数が急増した、という事例もありました。
コーチには申し訳ないのですが、どうでもいい質問をしてみました。まずは「あんた、だれ?」
会話になっていますね。次に、「ひま?」
前の質問より苛立っている気がする(笑)。答えが短めです。
どんな質問をしてもサイトのコンテンツに誘導されてしまうのが残念ですが、仕掛けとしては面白い。
この会話エンジンは、ピートゥピーエー(PtoPA)という企業が開発した人工知能ソフトウェア「CAIWA」を利用しているようです。そして、どのようなテキストが入力され、会話されたかによって、マーケティングに利用しようという試みもあるとのこと。無意識のうちにアンケートをされているような感じがして、あまりあからさまにテストされるのはどうかと思うのですが、そんな活用方法もあるでしょう。ぼくのように、どうでもいい会話をしている訪問者のデータは、まったくマーケティングに役に立たないかもしれませんが(苦笑)。
余談ですが、NOTEのサイトでは、GOLDEN EGGSのブログパーツも6種類用意されていて、それぞれが面白い。いくつもブログパーツを貼り込むとエントリーが重くなってしまうのでどうかと思うのですが、3つほど貼ってみます。
まずは、ひたすらクリックすることによって、ジェシカ姉さんと試乗ソングを競うパーツ。でも、ジェシカ姉さん、テンション高すぎ(笑)。うぉ~という唸りからハイテンションのボイスが楽しい。
タイプの練習のパーツもあります。やってみたところ、む?これなんて書いてあるんだ?と困惑したため、初級と診断されてショックだった。いや、ぼくは一応ブラインドタッチで早いつもりなんですけど。
さらに、これはびっくりする!要注意です。
使い古された言葉ですが、インタラクティブ(双方向)という意味では、こうしたブログパーツも対話のひとつといえるかもしれません。とはいえ、GOLDEN EGGSのキャラクターと合っていて、うまくできたコンテンツだな、ということを感じました。企業やクルマの好感度も上がります。
キャンペーンを仕掛ける裏側には、技術であったりコンセプトであったり、マーケティングによる効果測定などビジネスとしての現実があるのですが、楽しいコンテンツは純粋に楽しい。ビジネスの視点を持ちつつ、楽しむ純粋さを忘れないようにしたい。
また、ネットに限らなくてもいいかもしれないですね。佐藤尚之さんの「明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法」という本には、スラムダンクの作者である井上雄彦さんが読者に感謝を伝えるためのキャンペーンとして、廃校を利用して黒板にマンガを書いた、というようなイベントが書かれていましたが、そんな発想ができるといいなあと思いました。
投稿者 birdwing 日時: 11:41 | パーマリンク | トラックバック
2008年10月12日
窓を開けて待つ陽光、あるいは風。
起伏の多い人生では、あらゆることが順調なときもあれば後悔することの多い時間もあります。問題なのは後悔ばかりの時期で、あれをやっておけばよかった、とか、あんなこと言わなきゃよかった、とか、やらなかった過去とやってしまった過去でこころが埋め尽くされる。
がらくたのような自意識の残骸。
抜け殻のような時間。
ひたすら耐える冬のような時代です。
そんな状態にあるときには、あらゆるものが精彩を欠いてしまって、見慣れた景色でさえ寂れた辺境に思えてしまいます。
どんな音楽を聴いても耳障りにしか聴こえないし、読みかけの本の活字は途中からばらばらと崩れて意識から剥がれていってしまう。修復が不可能なぐらいに、取り戻しできないぐらいに、静かに日常が壊れている。壊れた断片が日常を構成している。
何かに依存をすれば、少しだけ後悔や辛いことも忘れられるのかもしれません。お酒かもしれないし、クスリかもしれない。あるいは一過性の恋かもしれないし、あたりかまわず対象を選ばずに怒りをぶちまけることも、きっと辛さからの逃げになる。現実から逃げるためには、ぼくらの世界にはいくらでも強い刺激があり、さまざまな手段がある。
けれどもそんなことのいずれもが、いまのぼくにはむなしい。
現在、ぼくはまさに後悔の時代を生きているのだけれど、この寂寥感は、生涯で二度と過ごせないようなすばらしい時間があった、ということに起因しています。仕事の帰りに夜の新宿を駅まで歩きながら、自宅の近くを散歩して取り壊されてなくなってしまった電話ボックスの場所で途方に暮れながら、その時間のことをぼんやりと考えます。
ほんとうにすばらしい日々でした。あらためて思うのは、あれだけ充実した時間はもう過ごせないだろうな、ということです。繰り返しても繰り返しても足りないほどの感謝をしつつ、その楽しさの落差が、いまこうして辛さを生んでいる。楽しさに甘えて、こころにない酷いことを言ってしまったのですが、そのことを後悔しています。言うべきではなかった、と思っています。
行き場のない感情は憎しみに変わり、現状を超えてあるはずのない過剰な批判や蔑みを生み出したり、根拠のない責める言葉を量産したりします。
けれどもマイナスの感情をすべて吐露したあとでさえ、ネガティブな何かを打ち消してしまうほど、すばらしいことがたくさんありました。暗い感情の雨が降ったあとには、陽に照らされた明るい過去が戻ってきた。暗雲に隠されていた光は決して弱まっていなかった。
ありがとう。素直にそう想う気持ちを大事にしつつ、窓を開けて風を部屋のなかに取り込み、光の変化する秋の休日の陽光を楽しんでいます。
怒りや憎しみや蔑みという強い感情は、きっと強いテンションを維持することはできない。少なくとも忘れっぽいぼくには、その恨みを持ち続けることが不可能です。どんなに酷いことがあったとしても、忘れてしまう。
一方で、やさしい気持ちや楽しい気持ちは弱いのですが、弱さであるがゆえに、いつまでもそこにある。
あらゆる後悔が消えて、笑顔ですべてを受け止められるときのために。辛い時間も含めたかけがえのない記憶があるからこそ、いまの自分がある、という未来をつかめるように、後悔から逃げずにいたい。代替されるもので癒すのではなくて、きちんと後悔することが、しあわせな過去にとって誠実であり、未来のためにもなるのではないか、と。
ブラインドの向こうでいま、また陽射しが明るくなりました。秋の天候はくるくると変わりやすく、キンモクセイの香りの成分は大気中の10%ぐらいに減退という感じ。部屋に乱立したビールの缶を片付けるか、不要な本を売りにいこうか、あるいはギターでも弾いてみようか、ぼんやりと考えています。
そんな休日も、少しだけ贅沢です。
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なんとなく今日、聴いてみたのはこのアルバム。辛い気持ちも晴れて、ダウンタウンに繰り出したくなるような。
SONGS 30th Anniversary Edition シュガー・ベイブ ソニーレコード 2005-12-07 by G-Tools |
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カテゴリーアーカイブのエントリー数が増えてきたので、複数ページに分割する方法を探していたのですが、文系ブロガーの自分としてはPHP化するのはちょっと勉強不足だったので、マックス・エンヂニアリングさんのブログから「MT4.2: アーカイブ一覧のページ分割を可能にするPaged Archives」の記事を参考に、Paged Archives Pluginで対応してみました。DTMなど「○○カテゴリーに投稿されたすべての記事です。」の下に、分割されたページが表示されるようになりました。5エントリーずつ1ページです。
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エントリー復活履歴
■2008年10月11日
2007年6月24日 通りは光で溢れているか
2007年5月16日 言葉のフィールド・レコーディング。
2007年5月20日 フォーゲット&リメンバー。
2007年5月 2日 ashes and snow。
2007年3月 3日 DTM×掌編小説:リワインド。
2007年3月28日 自然の音を標本に。
[ひとりごと04]
日記を書くようにDTMで曲を創りたいというコンセプトを立てていました。そのときどきに変化する感情を曲として結晶化したいと考えたからです。作品至上主義の立場からすると、刹那的な創作ではなくじっくりと取り組むべきだと思います。当然ぼくもそう考えていたのですが、あえて荒削りなことを重視した。打ち込みに即興的なアプローチ、現実性を導入したかったのかもしれません。
■2008年10月12日
2006年2月 3日 生活知のテクノロジー
2006年2月 5日 感情のエコロジー。
2006年2月 5日 「「脳」整理法」 茂木健一郎
2006年1月 1日 「脳と創造性 「この私」というクオリアへ」 茂木 健一郎
2006年1月 1日 「ひとつ上のアイディア。」眞木準
2006年1月 1日 「幸福論」Alain 神谷 幹夫
[ひとりごと05]
芸能人になってしまう前の茂木健一郎さん、好きだったなあ。科学者ではなかったような印象はありますけどね、当時から。科学を含めた文化の横断的な評論として茂木さんの著作を読んで感涙したし、当時は新書を書き散らかすようなことがなく、しっかり文章を書かれていた気がします。ブログもいまと違って本のプロモーションばかりでなくて、光に溢れた随想が多く、励まされました。
投稿者 birdwing 日時: 11:34 | パーマリンク | トラックバック
2008年10月11日
「風花」 川上弘美
▼book:寄り添えない距離、はじまらない関係。
風花 川上 弘美 集英社 2008-04-02 by G-Tools |
たぶん相性の問題だと思うのですが、ぼくは川上弘美さんの小説にとても弱い。もちろんすべてがすべて弱いというわけではないのだけれど、彼女の小説には、こころを乱されることが多いようです。したがって、精神状態がかんばしくないときには読まないようにしています。
「風花」が書店に並んだのは今年の四月。真っ先にみつけたにも関わらず、ぼくは購入しませんでした。帯に書かれていた「夫に恋人がいた。/離婚をほのめかされた。/わたしはいったい、/どう、したいんだろう――」という紹介文を読んで、うーむ、こういうのはいけないなあ、暗くなりそうだ、と読む前に敬遠してしまった。綺麗な装丁は気になっていたのだけれど、書店で本を物色するときに何度もこの本の前を素通りしていました。ところが、まあそろそろよかろう、ということで買ってしまったんですよね。
で、・・・。まいりました。やっぱり川上弘美さんの小説はダメだ(泣)。
最近はビジネス書ばかりを読んでいて小説は久し振りだったにも関わらず、一気に数時間で読了してしまったのですが、半分ぐらい読み進んだあたりで、なんだか息苦しくなり中断。体調があまりよくなかったこともあり、お酒を飲んでいたせいもあるのだけれど、とても辛くなった。恥ずかしいのですが、読了後の正直な感想として書きとめておきます。
川上弘美さんの小説は、熊や人魚と対話するような初期のものであればともかく、恋愛小説は何か特別な技巧や仕掛けがあるわけではありません。むしろ淡々とありふれた日常を描写していきます。「風花」で進展するストーリーも筋だけ追ってしまえば、主人公が語るように、不倫に関する結婚生活の崩壊を描いた「出来の悪いドラマ」でしかありません。
けれども、とてもびみょうな主人公のこころの揺れ具合や、割り切れない関係の機微が正確に描かれていきます。この正確さが、読んでいるぼくには痛い。感情の波動と共鳴することになり、ぼくには川上酔いとでもいえそうな眩暈が生じることになります。
物語について触れてみると、主人公の日下のゆりは33歳。システムエンジニアの夫である卓哉と7年間、暮らしてきたのですが、ある日、夫の会社に勤める誰かからの匿名の電話によって、夫が松村里美という同僚と恋愛していることを知ります。傷心のまま叔父である真人と旅行に出掛けたり、別居して働きはじめたり、里美と会って彼女がニンシンしていたことを知ったり、卓哉の転勤に付き合って引越しをしたり。膠着した結婚生活を引き摺りながら、日常を生きていく。
あらすじを書きながら、物語の筋を抽出することによって削ぎ落とされるものが多く、もどかしさを感じました。のゆりと卓哉は危機的な状態にありながら、それでも決して終わってしまうことがなく、惰性のように結婚生活を継続している。破綻しながらもつづく脆い関係にあります。その不安定な日常の雰囲気こそが、「風花」の読みどころという気がしました。風に飛ばされる雪のような繊細さが延々とつづくところが、せつない。
夫婦の危機を契機として、お互いのまったく知らない面を発見して、ふたりは困惑します。きちんとかみあっているはずだったのに、結婚生活の水面下で、そもそもスタートから何かが間違っていた。いちばん近くにいるのに、こころは遠い。寄り添えない距離がお互いを消耗させるのだけれど、消耗しつつも別れることができない。
たとえば、のゆりが「卓ちゃん」と夫を呼んでふたりの核心に迫ろうとしたとき、彼が「その呼びかた、ほんとうは、苦手なんだ」といきなり話の腰を折るシーンがあります。
そこで「卓哉さん」と呼びかえるのだけれど、呼び方を変えることによって夫であるはずの男の輪郭が崩れていってしまって、のゆりは何も語れなくなってしまう。ふたりの距離が変化する。その呼び方が嫌いならもっと早く言ってくれたらよかったのに、というのゆりに対して、悪くて言えなかった、我慢していた、と卓哉から真実が語られます。
これはささやかな告白ではあるのだけれど、けっこう酷いですよね。ちいさな我慢であっても、蓄積されると溝を生むものです。瑣末な日常であったとしても、その瑣末さゆえに大きくふたりの関係を破綻させる要因となる。
恋愛は、そして恋愛とはどこかまったく別物である結婚は、単純ではありません。どうしようもなく割り切れない複雑さがある。と、当たり前のことを書いて苦笑なのですが、寄り添いたいと思いながら傷付けてしまうこと、相手を愛おしく思う気持ちがありながら意地悪な言葉を浴びせてしまうこともあります。すっかり気持ちが冷めているのに別れられないかと思うと、別れることを決意した瞬間に、愛しさが募ったりもする。ひとすじなわではいかない。
特に女性はそうではないのかな、と思いました。女性は、どんなに愛おしいひとに対しても背反したふたつの気持ちを抱えていて、複雑な感情のまま、たゆとうように生きているものではないでしょうか。
男性は、課題がそこにあれば解決してしまいたい衝動に駆られます。だから関係を修復させるか解消するか、そのどちらかしかない。早急に結論を急ぐかと思うと、やりなおすために食事に誘うなどの対処方法を重ねてみたり、態度をあらためようとする。暴力的なほど前向きかつ合理的です。行動で片付けようとする。けれども女性は解決を求めるのではなく、いま置かれている状態について思いを馳せることのほうが大きい。行動よりもまず考える。
解決なんかどうでもいいと思っているわけではないのでしょうが、むしろ状況を享受することが、女性にとっては大事なのかもしれません。愛憎はもとより、別れる/別れないという結果さえ留保して、いずれでもない状態で絡み合った複雑な関係を複雑なまま解きほぐそうともせずにつづける。それは女性が女性ならではの特性のように思われました。
それに比べると、おとこって馬鹿だな、と思いました。というぼくもおとこなのですが、単純すぎる。行動も思考のパターンもシンプルで、わかりやすい。のゆりの視点から描かれる卓哉のエピソードを読んでいて、ああ、おとこは馬鹿だと痛感しました。特に愛人である里美に歯を磨かせて、そういうところがもう耐えられない、と語る里美のエピソードなどは、きついものがあります。
女性は複雑であるがゆえに強い。その強さは弱さの裏返しであったりもするのだけれど、耐える強さでもあります。うーん・・・やはりうまく書けないですね。書きたいことの核心に迫らないような気がしました(苦笑)。
むしろ困惑気味な感想を書くよりも、引用したほうがわかりやすいかもしれません。そこで読んでいて、いちばん辛かったシーンを引用してみます(P.172)。
「卓哉さん、わたし、卓哉さんと離れたくないの」
卓哉さん、という言いかたにも、だいぶん慣れた。のゆりは思う。舌も、もつれなくなった。
「のゆりには、プライドは、ないのか」
つめたい声を、わたしに向かって、平気で出せるんだな。のゆりは目をぎゅっとつぶる。それからすぐに目をあけ、みひらく。がんばれわたし、がんばれ、と、頭の中で繰り返す。
つ、と寄っていって、のゆりは卓哉の首にそっと手をかけた。ね、卓哉さん、ね。言いながら、のゆりはのびあがって、卓哉のくちびるに、くちびるをあわせた。卓哉は拒まなかった。拒まないけれど、協調もしなかった。
のゆりは押しつけているくちびるを少しだけひらき、卓哉のくちびるをついばむようにする。卓哉は石のように立ちつくしたままだ。みっともないな、今のわたし。思いながら、のゆりはくちづけつづける。
みっともないことなんだな、他人と共にやってゆこうと努力することって。
のゆりの鼻から、涙が出てくる。目からはほとんど出ず、鼻だけから、すうすうと流れでてくる。ほんとうに、みっともないよね、わたし。つぶやきながら、のゆりは卓哉にぎゅっとかじりつく。卓哉の腕が少しだけあがって、のゆりの背中に、力なく、まわされる。
がんばれ、がんばれ。何回でも、のゆりは自分に、言いきかせる。
このシーンは辛かった(涙)。
拒まないけれど協調もしない卓哉との関係を維持するために、のゆりは自分を励ましながら、彼にくちづけつづけます。もはや、がんばらなければ維持できないふたりの関係。行き場のない努力。みっともない状態に耐えながら、のゆりは卓哉に身体をあずけて必死でつなぎとめようとします。けれどもほんとうに愛しているかどうかさえ、わからなくなっている。離れたくはないのだけれど、では好きかというと、きっとそうともいえない。
結婚というのは、とてもみっともない関係だと思いました。関係を維持しようとすればするだけ、みっともないことが多くなる。美しいこともあるかもしれないけれど、そうではないこともたくさんある。
結末で、川上弘美さんは、のゆりと卓哉の関係を曖昧にしたまま物語を閉じています。ふたりは、もう何かをはじめることはできない。けれども終わることもできない。そんな投げ出された物語に、ぼくは作家としての川上弘美さんの力を感じました。10月11日読了。
投稿者 birdwing 日時: 09:06 | パーマリンク | トラックバック
2008年10月10日
うまい文章を書くために。
文章をうまく書けるようになりたい。たどたどしい言葉で作文らしきものを綴りはじめた少年の頃から、そんな思いをずっと抱いていました。
原稿用紙やノートがワードプロセッサあるいはPCに変わっても、変わらずにその思いは存在しています。しかし、あらためて考えると、この思いには曖昧なことがいくつかあります。たとえば次のようなことです。
・なぜ、うまくなりたいのか (上達の理由)
・どのようにうまくなりたいのか (うまさの基準)
・うまくなってどうしたいのか (上達の用途・目的)
文章を書くのが好きだということに理由は要らないと思うのですが、文章がうまくなりたいことについては理由や目的、尺度が必要であるような気がします。そうでなければ漠然と表現力の向上をめざすことになり、うまくなったかどうか到達度もわかりません。
同様に、ギターを演奏するのがうまくなりたい、ということや、仕事が(うまく)できるようになりたい、ということにも理由や目的があります。かっこいいフレーズを弾いて女の子にもてたいとか、がんがん稼ぎたいとか、そんな単純でわかりやすい動機付けから、もう少し複雑で高尚なものまで。
ところで、文章であれ音楽であれ仕事であれ、上達の理由や尺度を近い他者(ライバル)に設定すると、邪念が入り込みやすいと思います。競争心は大事ですが、あいつよりもうまくなりたい、のように身近な誰かを指標にすると、上達よりも嫉妬や批判など他の雑念にとらわれそうです。もちろん純粋に競争心を刺激されて、お互いに磨きあうこともあるかと思いますが。
先日読了した箭内道彦さんの「サラリーマン合気道」にも「ライバルや先生はなるべく遠くで探す」として、同様のことが書かれていました。
サラリーマン合気道―「流される」から遠くに行ける 箭内 道彦 幻冬舎 2008-09 by G-Tools |
身近にライバルを設定すると自滅して、仕事のやる気を損なう危険性を孕んでいる、とのこと。さらに興味のあるジャンルをタスキがけのようにして、まったく違う業界のすごいひとを目標にすることによって、アイディアを飛躍させるという考え方が面白いと思いました。以下、引用します(P.139 )。
同じ部署の人間をライバルと見なしていては焦るばかりで、本当の意味でのやる気は刺激されません。もっと視野を広げて、自分からなるべく遠いところにライバルや先生を見つけるべきです。ジャンルを超越して、本気度合いやどれだけ人を感動させるかを競ったりして「自分はまだまだあの小説より人を感動させる広告を作れていないな」と悔しがったりすることが、本当の面白さに繋がるのです。これはどんな仕事でも同じだと思います。
いっそのこと、ジェフ・ベックより超絶テクニックの表現力がある仕事をしたいとか、S・ジョブズよりイノベーティブな作品を生み出したい、ぐらいのほうがいい。あまりにも高い理想を掲げると取り組む前にあきらめてしまいそうですが、めざすなら理想は高いほうがいい。
なぜぼくは文章をうまく書けるようになりたいか。あらためて考えてみると、文章を書くことが好きだ、好きだからうまくなりたい、ということが大きな要因だと思いました。かつては身にあまる野望もあったような気がしますが、忘れました。年をとっちゃったせいでしょうか。最近はあまりぎらぎらした欲はない。枯れている。
だから淡い動機しかないのだけれど、もう少し考えてみると、ぼく自身がさまざまな作品やテキストに元気付けられてきた、だから自分も誰かを元気付ける文章を書きたい、という感謝のフィードバックとして文章を上達したい、ということがあります。以前から何度もエントリーに書いてきましたが、それがぼくのブログを書きつづける推進力でもあります。
小説や詩はもちろんブログやメールの文章など、ぼくは有名無名、知人や知らないひとを問わず、さまざまなひとによって書かれたテキストに何度も救われてきました。だからこそ言葉のチカラで誰かを元気付けてあげたり、気持ちをやわらげたい。そのために文章力を磨きたいと思っています。
もしかすると、この目的のためには、うまい文章である必要はないかもしれないですね。ごつごつした荒削りの文章のほうが誰かを元気付けることもある。さりげない短文が最大限の効果をあげることもある。
しかしながら、誰かを元気付けるために文章力をつけたいという動機や目的は、とても抽象的です。かっこいいけれど理想主義のきらいがある。綺麗すぎる。
たとえば、ライターとして独立して原稿料を稼ぐために文章をうまくなりたいとか、小説で文藝賞を取りたいから文章をうまくなりたいとか、そんな具体的な目的のほうがぜったいに上達カーブは急上昇すると思います。欲望のチカラもあるだろうし、切羽詰ったものがある。また、あいつを超えたいというベタな競争心は毒になることがあるかもしれませんが、だからこそ大きな原動力にもなる。泥臭い欲望は、成功する人間の大事な要件のひとつといえます。綺麗な理想だけでは成功はできない。
がつがつした欲望の原動力がないこと。それがぼくの弱点でもあるのだろうけれど、ささやかな火を長いあいだ灯すことができれば、それもまたいいんじゃないか。そんな風に考えるようになりました。そうして淡々と書きつづけるなかで少しずつ改良を重ねて、ぼくなりのスタイル(=文体)を獲得していきたい。
改良といえば、最近わかりはじめたことがあります。ぼくは辛い現実に直面すると、無理に明るい文章を書こうとする傾向があるようです(苦笑)。
昨日も実はそうでした。だから何度かエントリーを書き直しました。過去の記事を見渡しても、どこか悪ふざけ気味なエントリーは、辛い時期に書いています。要するに文章が揺れるんですね。自棄になりやすい。妙に弾けた表現になったり、なれなれしい口語の言葉になってしまう。
クールに感情をコントロールしているつもりが、まだできていないのでしょう。それがぼくの稚拙さでもあり恥ずかしいことですが、ときにはその感情の揺れがブログの魅力になることもあります。だから一概に悪いことともいえない。校閲された文章や商品としての文章にはないブログのよさは、脳内の感情をダイレクトに注ぎ込んだ過激さにあることも事実です。
とはいえ、そろそろ落ち着いた大人の文章を書けるようになりたいものだ、と思いました。
抑制しつつ、けれどもきちんと熱い何かを語れること。やんちゃな気持ちを維持しながら、おふざけの振幅を抑えて品位を保った文章を書きたい。以前のような面白さはなくなると思いますが、しっとりとした大人のブログをめざしたい。
姜尚中さんの「悩む力」を読んで、ぼくはその落ち着いた語り口調に嫉妬さえ感じたのですが、そんな大人の文章を書けるようになりたいと思っています。それが、ぼくが考える文章の「うまさ」でもあります。悔しいけれど容姿では姜さんに勝ち目はないけれど、姜さんに匹敵するような知力と大人の魅力を手に入れたい。嫉妬力を原動力にして(笑)
悩む力 (集英社新書 444C) 姜尚中 集英社 2008-05-16 by G-Tools |
また、最近、三島由紀夫の文章読本を読んでいるのですが、確かに美辞麗句とか、修辞の技巧を凝らした文章は魅力的です。そもそも三島の文章自体が、そういう美しさがある。文章読本のなかの比喩表現に、やられたと思うものがいくつかありました。
文章読本 (中公文庫) 三島 由紀夫 中央公論社 1995-12 by G-Tools |
ただ、そうしたきらびやかな装飾の美しさには飽きも早い。むしろ、鴎外のようなストイックに感情を排除した文章のほうが、地味だけれどじわじわと染み込むような味を与えてくれる。
いままでどこかふわふわとした軽さがぼくの文章のよさだったような気がしますが、今後は知的な尖鋭さをこころがけながら、淡く舌のうえで溶けて、それでも忘れられない豊饒なうまみを感じさせるような大人の文章に変えていきたいものです。そう、たったひとりのファンでも構わないから、永遠に記憶に残るようなブロガーになりたい。あなたの文章に出会えたことで人生が変わりました、ぐらいの傷を残せる書き手になりたい。
味のある"美味い"文章へ。未公開の記事も含めると、もう少しで1000エントリーを超えようとしていますが、ぼくはそんなブロガーへシフトしていこうと考えています。そのためには日々勉強あるのみ。そして書きつづけるのみです。
投稿者 birdwing 日時: 00:15 | パーマリンク | トラックバック
2008年10月 9日
先に立たない後悔だからこそ。
あんなメールを送らなければよかった(泣)・・・はじめたばかりの頃には慎重だったはずなのに、メールによるコミュニケーションは便利なので、慣れてくるとついつい後悔するような送信をしてしまうことがあります。
もちろん仕事ではあらゆることに配慮しているので、誤送信を含めてメールの送信ミスはほとんどありません。宛先も内容も、誤字がないかどうかについても、何度もチェックします。失礼がないかどうか細心の注意を払います。
たまに並列処理で慌しい仕事をしているときに、スクロールしたマウスがつるっと滑って書きかけのメールを送ってしまうこともありますが、それぐらいであればかわいいものです。謝罪のメールを慌てて送っても、忙しかったんですね、ぐらいの恥をかいただけで許される。ところが、プライベートでは気が緩みます。お酒を飲んじゃったりしているときは要注意です。
ぽちっとボタンを押すだけで送信されてしまうメールは、クリック一発でひとを爆笑させて権威を失速させる恥ずかしい文章を晒すこともあれば、大切なひとを傷つける凶器にもなる。送ってしまったメールは取り返しがつきません。時と内容によっては、関係を破壊する核兵器級のミサイル発射ボタンにもなる。親しき仲にも礼儀あり。便利なツールだからこそDangerなわけです。
ブログであれば投稿したエントリーを訂正することは可能であり、公開して後悔したエントリーはさっと下げることもできる。もちろん検索エンジンのキャッシュ(あるいは人的なキャッシュ、要するに記憶)に残る可能性はありますが、それほどアクセスが多くなければお掃除もできる。とはいえ、メールは相手側が削除しなければ完全にテキストとして残ります。
そんなメールによる後悔を防ぐための機能をグーグルが開発したとのこと。
本気なのかジョークなのかわかりませんが、ITmediaの「Google、「真夜中のラブレター」を防ぐ「Mail Goggles」」というニュースを読んで、なるほどなあと思うと同時に、なんとなく苦い気持ちになりました。
多くの人が1度は経験済みであろう「あんなメール、送らなければよかった」と後悔する瞬間。いわゆる「真夜中のラブレター」だ。 米Googleは10月6日、送ったことを後悔するような事態を防ぐための「Mail Goggles」をGmail Labsのツールとして公開した。
深夜にひとりで手紙を書いていると、思いっきりテンションが高くなることがありますよね。ところが朝になって読み直してみると、誰もいないところに隠れてしまいたくなるほど恥ずかしい文章だったりします。深夜のノリで送ってしまうと後悔する。冷却期間を置いて読み直してみることによって、これは心のなかに留めておこう、言わないでもいいや、という大人の判断も可能になります。
しかし、状況によっては判断が鈍るときもあり、そんなときに制止してくれる何かがあると助かる。Mail Gogglesでは、自分の精神状態を判定する機能(笑)もあるようです。
GmailでMail Gogglesを有効にすると、例えば金曜日の夜遅くなどの時間帯に本当にメールを送りたいかどうかを問いただしてくれる。また自分がまともな精神状態かを判定するための、簡単な計算問題が表示される。
簡単な掛け算や引き算が用意されているらしい。なるほどなあと思いました。確かに、かーっと頭に血が登った状態ではクールに計算なんかできないし、きっと間違える。感情をコントロールする手段としても面白いと思いました。感情的になりそうになったら、単純計算をやってみること。
和田秀樹さんの本に書いてあったことだと記憶しているのですが、特定のことを考えつづけると感情のテンションは下がらないそうです。ぐるぐると堂々巡りする感情の無限ループにストップをかけるには、対象外のことに意識を向けることがよいらしい。つまり歩くこと、身の回りを掃除することでもいいわけで、行動によって意識を逸らすことで感情の暴走にストップをかける、というコントロールの手法が述べられていました。
現在は英語版のラボだけで公開されているだけのようですが、Mail Gogglesを使ってみたい気もします。
というよりも後悔してアタマを抱えることが少なくなるように、リアルなぼくらにも発言を留保するそんな機能が実装されているといいですね。
投稿者 birdwing 日時: 00:05 | パーマリンク | トラックバック
2008年10月 8日
「サラリーマン合気道」箭内道彦
▼book:体系化不可能な、弱者が強くなる処世術。
サラリーマン合気道―「流される」から遠くに行ける 箭内 道彦 幻冬舎 2008-09 by G-Tools |
やりたい仕事をみつけなさい・・・就職においてはそんな指南がよく言われます。きちんと明確な意志を持って仕事に臨みなさい、と主体性を求める。けれどもホンネで語ってしまうと、多くの企業にとって自分のやりたいことが強すぎる人材は使いにくくてかなわないものです。
究極のシビアなことを言ってしまうと、まだ社会というものの複雑さを知らずに、即戦力にならない新人がカイシャを勘違いして強固な主体性を持ってしまうと、組織にとっては機能を滞らせる障害にさえなりかねない。むしろ、どんなにつまらない仕事であっても、はいっ、はいっ、と素直に笑顔で引き受けてくれる柔軟性のある人材のほうが重宝される。
また、やりたい理想とつまらない現実が乖離している場合には、それが不満になるから、やりたい仕事ができない人材は愚痴が多くなる。こんな職場では自分が活かせない、もう辞めてしまいたい・・・というように、本人にとってもモチベーションを下げてしまう原因になります。
と、いうぼくも、そんな気持ちを抱きながら仕事をしていた時期がかなり長くありました(苦笑)。これはなかなか辛い。仕事が楽しめません。
サラリーマンという言葉を使ってしまうところが既に巷にあふれる仕事の指南書に対して(ささやかな)反逆精神に溢れていると思うのだけれど、箭内道彦さんの「サラリーマン合気道」は、「流される」から遠くへ行ける、ということをサブタイトルに掲げた一風変わった仕事術の本です。
合気道は相手の力を利用して、相手を遠くに投げる。したがって、自分というものを捨てて仕事に臨むことで、仕事を大きく飛躍させることができると述べられています。そして、さまざまな側面における肩の力を抜いた仕事の進め方がまとめられています。
というより、そもそも自分がないことを、長い間、箭内さんは悩んでいた。その鬱々と悩み苦しむ時間のなかで、仕方なく編み出したのがこの「脱力」の処世術でした。大学には3回落ちて、7年間以上も会社で自分のやりかたがわからずに悶々としていた・・・という暗い状況下から、そうせざるを得ないカタチで追い込まれて到達したのが、この合気道の境地だったというわけです。
たとえば自分を捨ててクライアントのことを考える、という考え方は、きれいな言葉でまとめてしまうと顧客重視の考え方といえます。ところが、多くのビジネス書が太字で使いたがるそんなきれいな前向きのポリシーに、箭内さんの思考はおさまらない。読んでいて感じられるのは、社会やカイシャに不適応な弱者の視点であり、けれどもその弱さを強さに転じた反逆性です。それがぼくにはとても魅力でした。
そもそも箭内さんは、金髪だったりする(笑)。もと博報堂にお勤めのアートディレクターだから当然だとはいえますが、金髪だけれど礼儀正しいひと、らしい。見た目の派手さは演出だ、と言い切るあたり、計算してサラリーマンとしての自分を武装しています。自分がない、といっておきながら、他人に与えるインパクトは整然と測っているところは、実はなかなかのやり手です。
その作られたスタイルが誠実ではない、という視点もあるかもしれません。しかし、ぼくはこういうスタイルが好きですね。
というのは、ビートルズをはじめとするモッズ系の音楽では、きちんとスーツを着てネクタイを締めながら、エレキギターを抱えてロックをやる。若いぼくはそのミスマッチなスタイルに打ちのめされました。制度や制約に縛られながら、何かをぶち壊すような表現をするひとたちに、ぼくはずっと憧れていました。それが本物のプロだと思います。制限のないところでやりたい放題をやるのは幼稚だと思うし、制限があるからこそ破壊してやる、という気概も生まれるものです。
箭内さんの文章は非常に読みやすく共感するところも多いせいか、ずんずん読み進めることができました。しかし、ぼくが感じたのは、これはわかりやすいけれど一筋縄ではいかない過激さがあるなあ、ということでした。
というのは体系化できないんですよね。型に嵌まるな、と言っているそばから、相手に合わせなさい、などという矛盾を語っています。通常、このようなビジネスの指南書は、3つのポイント、とか、5つの心構え、のように箇条書きにして論理を整理できるものです。しかし、箭内さんの主張は、そのような体系化を拒む何かがある。
そして、箭内さんご自身も語っていますが、この本に感化されて、じゃあちょっと箭内の生き方を真似してみるか、と表層だけ箭内スタイルでいっても、うまくいかない気がします。というのは、7年以上も鬱々と考えつづけた過去があるからこの突き抜け方ができるわけで、その重みなしに形式だけ真似しても、きっとうまくいかない。
ほんとうはひとつひとつ引用して、その考え方を検証してみたい気もするのですが、やめておきます。もしこの文章を読んで、なんとなく気になった方がいれば、ぜひ書店で内容をちらりと読んでみてください。
実は、先日「風に吹かれて。 」というエントリーを書いたあとで何気なく書店に行ってこの本をみつけて、ああ、同じようなことを考えているな、という偶然にびっくりしました。その後、ブログで何を書きたいかということについてもまとめたのですが、箭内さんが前書きで書かれている次の言葉が参考になりました。少し長文ですが引用します。
僕は決して人の心を癒すカウンセラーではないし、自信を持って答えを出す先生でもありません。この本を手にしてくれた人に「悩める若者たちよ、元気を出せ」みたいなことを言う気もありません。ある意味で、鬱々としていた昔の僕のままです。
ひとつ気をつけていただきたいのは、袋小路でぐるぐる悩むのも実は重要だということ。行き止まりにいる時間や経験が後々の自分の力になっていくこともまた確かなんです。まだ壁に突き当たったばかりのときに、この本を読んで「なんだ、力を抜いていい加減にやればいいのか」と思ってしまうのはもったいない。だから、ある程度は自分で悩んでいただいた上で、状況打開のヒントとしてこの本を利用してほしい。
自分ひとりで思いつくことなんてあまりにも小さい。
目の前の相手と向き合ってそこから生み出せばいい。
そのことに気が付いて僕は少し楽になりました。
流されるからこそ遠くへ行けるのだと。
同感ですね。「苦しんでいたかつての僕と同じように社会のシステムや会社の仕組みにうまく適応できない人たちに有効なのではないか」という箭内さんの言葉を真摯に受け止めました。
ぼくもただ単純にきれいなこと、明るい言葉を語るのではなく、鬱々として悶々とした状況を突き抜けて、しなやかな強さの境地に辿り着きたいと思っています。だから箭内さんの言うことがわかる。
この本を下敷きにして、ぼくはどう考えるか、自分なりのテツガクやスタイルを構築できるか、そんなことを考えていきたい。とてもよいきっかけを箭内さんから与えていただきました。10月3日読了。
投稿者 birdwing 日時: 02:06 | パーマリンク | トラックバック
2008年10月 5日
あらためて、継続する意志を。
太鼓と笛の音が聴こえてきたので誘われて外に出てみたところ、お祭りの御神輿でした。どこか近所の神社で秋祭りらしい。
ポケットに手を突っ込んで深呼吸。夕方の空気に漂うのは、ほのかなキンモクセイの匂いです。ぼくはこの秋らしい匂いが大好きです。その気持ちを「朝が待ちきれない」という曲にしたこともありました。空中に拡散する甘いキンモクセイの香りは、ぼくをとてもしあわせな気持ちにしてくれます。懐かしいような、やさしくなれるような。
いろいろと考えることがあり、ブログの更新停止を9月の末に決めたのですが、過去のエントリーを復活させていたところ、書きつづけたいという気持ちが強まりました。
通常であれば一度宣言したものはきちんと守るのがオトコというものであり、有言実行、宣言したことを覆すのはプライドとして許されない、と思います。しかし、ぼくにはプライドも拘りもないので(苦笑)、あっさりと再開することにします。ブログを書きはじめます。
ぼくにとってブログは、日々24時間ある生活のなかでおよそ2時間を費やすものにすぎません。仕事や家族や趣味など忙しい合間をぬって考えたことを、制約のある短い時間のなかで綴っています。ブログがすべて、というわけではない。リアルな生活のなかの氷山の一角にすぎません。
けれども毎日の終わり、日付変更線を越える時間にひとりきりでPCの画面に向かい、ゆったりと考え、ブログで文章を綴る時間はぼくには至福の時間でした。ぼくの生活を豊かにしてくれました。直接的には関係しなくても、間接的にブログの世界がぼくを支えてくれていました。
ブロガーであるBirdWingとぼくは重なりながら、同一のものではありません。小説の作者と実際の人物が異なるのと同じように、ブロガーであるBirdWingはぼくでありながらぼくではない。現実のぼくはさまざまな闇を抱えて地上を犬のように這い、うまくいかない膠着状態に苛立ったりもしている。けれどもブロガーであるBirdWingは突き抜けた光の思考で現実を跳躍し、高く飛んで世界を俯瞰し、力強く明るい言葉で現実を刷新する書き手であってほしい。
その言葉が、偶然にサーチエンジンでぼくのブログに訪れた誰かにとって、少しでも癒しや和やかな気持ちになるものであればしあわせだ、と思っています。そして今回、過去のエントリーを復活させながら思ったことは、そもそもぼく自身がBirdWingの書いた過去のエントリーに元気付けられた、ということでした。
自画自賛のようでもあり、恥ずかしいのでエントリーにしようかどうか迷っていたのですが、ちょっとだけ仕事のエピソードを。
仕事をお願いしていたとある外部協力会社の担当者が9月末で退職されるということを知り、ぼくは電話で労いの言葉をお伝えしたのですが、その後に次のようなメールをいただきました。部分を引用させていただきます(名前はぼくの実名なので○○と伏せました)。
○○さまには、入社当時から大変お世話になり、色々と学ばせていただきました。実は入社当時に○○さまからいただきました、仕事に関するメール(納期や費用についての温かいお言葉)は今でも時折目を通しておりました。
○○さまとの仕事を通じて、仕事の楽しさと厳しさを教えていただきました。それゆえ、本当に充実して仕事に取り組むことができたと思います。
ご一緒にお仕事ができたことを嬉しく思います。
私の至らなかった点も多々あったのではないかと存じます。
本当にお世話になりました。ありがとうございました。
また、機会がございましたら、是非宜しくお願いいたします。
社交辞令とは思うのですが、実際にこの担当者とは非常に厳しいやりとりをしたこともあり、しかし、その状況下で最善を尽くしてくれたときには絶賛と感謝の気持ちを伝えました。すばらしい仕事をしてくれて、ありがとう、と。また、風邪で体調を崩されているときには、ぼくの方でやりくりをして納期をずらしたこともあったように記憶しています。
そういう状況もあったので、あながち社交辞令とも受け取れなくて、ぼくはしばらくぼーっと感慨に耽ってしまった。こういう仕事ができるパートナーは、それほど多くありません。本音でぶつかり合い、よい仕事をしていくことは、簡単そうでなかなか難しいものです。たいていビジネスライクに割り切ってしまうものです。けれども、きちんとお互いを尊重しつつ成長できるパートナーもいます。仕事に取り組む姿勢によって、そんな風に真摯に関わることができる誰かと出会えるか出会えないかが決まるものかもしれません。
ぼくよりも、この担当者のほうが優れていたのだと思います。年齢はずいぶん下なのですが、しっかりした考え方ができるひとは年齢に関係がないですね。聡明なだけではなくて、感謝の気持ちを伝えるという人間的な基本ができています。とはいえ、ぼくの拙いメールが厳しい仕事のなかで何度も読み返され、この担当者を元気付けていたと考えるとうれしい。たとえビジネス文書であっても、ぼくの言葉が活かされたということを知ることは、しあわせなことです。
ブログでも、こうしたことができればよいとぼくは思っています。ぼく自身の愚痴や暗い闇や欲求不満を解消するための批判的な何かを吐き散らすのではなくて、悩める誰かにエールを送り、闇を照らし、進むべき道のために元気付けてあげる。ときには疲れた気持ちを癒し、やわらげてあげたい。そのためにぼくはエンターテイナー(道化)であっていいと思うし、カウンセラーやセラピストであってもいい。決して権威的にはなりたくありませんが、どこか人生の教師のようでもありたい。
そんなブログを書いていきたいですね。
気持ちが揺れていたのですが、落ち着いてきました。じっくりと時間をかけて書く文章(小説や評論のようなものなど)は別に書くとして、ブログはブログで継続させたい。短気なぼくなのですが、10年間継続するぐらいの気持ちでいます。
朝令暮改で恥ずかしい限りですが、ブログを復活させます。とりあえず、現在読了してしまった箭内道彦さんの「サラリーマン合気道」という本、そして現在読み進めているミシェル・フーコーの「わたしは花火師です」、三島、谷崎、川端の「文章読本」についての考察あたりからはじめてみたいと思っています。
サラリーマン合気道―「流される」から遠くに行ける 箭内 道彦 幻冬舎 2008-09 by G-Tools |
わたしは花火師です―フーコーは語る (ちくま学芸文庫 フ 12-9) 中山 元 筑摩書房 2008-09-10 by G-Tools |
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エントリー復活履歴
■2008年10月2日
2004年11月 8日 シンキング・テンプレート
2004年11月25日 統合の動き
2004年11月26日 ブラウザが熱い
2004年11月29日 ブクログ
2004年11月30日 ネットメディア
■2008年10月4 日
2007年7月 3日 梅雨の終わりに間に合うように
2007年7月 7日 [DTM作品] AME-FURU(maybe blue)
2007年7月 9日 理解のためのパースペクティブ。
[ひとりごと01]
あらためて過去のエントリーを復活させながら思ったことは、結構いろんなことをやってきたなーということでした。自分で自分のバイタリティーにびっくりします。ネットコラボで曲を完成させたSheepさんは、音楽以外でも似ている生き方をしているひとだと思いました。だからきっとコラボしようと強く思ったのであり、ものすごい勢いで曲も完成したのでしょう。感謝しています。
2007年4月 6日 本気で変わる。生活を変える。
2007年4月10日 親になるには。
2007年5月 4日 イルカな休日
2005年11月 8日 生の対極にあるのではなく。
2005年11月13日 伝わらなくても、かまわない。
2005年11月17日 集合的な脳。
2007年3月18日 選択のエクササイズ。
2007年3月19日 デザインを通して知る。
■2008年10月5 日
2007年1月12日 思考を動かす。
2007年1月13日 素材から創る。
2007年1月14日 「ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない)」渡辺千賀
2007年1月14日 束縛から解かれる。
2007年1月17日 日常の断片、家族のあれこれ。
[ひとりごと02]
三島由紀夫の「文章読本」を読書中。美文だ。眩暈がしました。読んでいてチカラが沸いてくる。一方で自分の過去エントリーを読み進めながら、ぼくがブログで何をしたかったのかをあらためて再考しました。夢から醒めた気分。はやくも前言撤回ですが、ブログをつづけるためにもう少しだけ充電。しばらくは並行して過去エントリーを見直します。
2006年11月29日 左脳的な兄と、右脳的な弟と。
■2008年10月6日
2007年4月 3日 リセット感覚。
2007年4月11日 難しさと原点回帰。
2007年4月16日 ゆっくり醸成する、そして夢。
2007年4月17日 InsightとForesight。
2007年4月18日 いま、ここを起点として。
[ひとりごと03]
帰宅する道すがら、濃厚なキンモクセイの香りに圧倒されました。どうしたものかいつの間にか、キンモクセイの季節です。しあわせだ。癒される。近々引越しをする予定なのですが、新しい家には苗木がほしい。どこで手に入るのでしょう。でも、手に入れなくてもいいかな。香りを頼りに樹木の在り処を探して、うろうろと散策するのも悪くありません。
投稿者 birdwing 日時: 17:52 | パーマリンク | トラックバック