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2008年10月16日

雑誌の苦境とWebだからできること。

青かったですね、今日の空も。そんな青空のもと、東京では秋らしいさわやかな一日でした。今日の空を撮ることはできなかったのですが、昨日、打ち合わせの帰りに、かつて勤めていたオフィスのあった場所の近くを歩きながら携帯電話で撮影した空のスナップを。とても高い空でした。

081015_sora.JPG

ところで、いきなり空の描写が出てきてしまったのは、R25で連載されている石田衣良さんの「空は、今日も、青いか?」を読んだからです。

楽しみにしているエッセイのひとつですが、毎回タイトルで石田さんに、青いか?と訊かれるので、青いぞ、とか、いや雨模様でグレイですがそれが何か?などと読む前に、ひとり突っ込みを入れてしまう(困惑)。フリーペーパーのタイトル相手にそんな対話をしているのは、ぼくぐらいかもしれません。

今週の第八十九回では「雑誌のチカラ」として、売上げが20%近くも落ち込んで非常事態になっている雑誌業界について書かれていました。テレビもCM収益の減少により大変なようですが、雑誌も休刊につぐ休刊で厳しいようです。活字全般が好きなぼくにとっては、かなしい現実です。作家である石田衣良さん同様、雑誌たちにエールを送りたい。

モノを捨てられない性格のぼくは、フリーペーパーはもちろん雑誌も処分しないで意味もなく保管しているものが多く、部屋のなかにはいまだに80年代のダ・カーポが恐竜の化石のように古本の地層に埋もれていたりします(だいぶ捨てたり売ったりしましたが・・・)。お気に入りの雑誌はいまだに捨てられません。たとえばマガジンハウスのBRUTUS。それから2000円弱するので購入に勇気がいるのですが、自己投資のために買っている東洋経済新報社のThink!。かなり昔に遡るとワイアード日本語版などなど。

ワイアード日本語版は、先端技術やサブカルチャーの話題が満載だったことと、デザインが洗練されていて好きな雑誌でした。最終号はまだ取ってあります(古い雑誌が積み重なる地層のどこかに)。90年代に休刊してしまったのですが、ほんとうに残念だったことを覚えています。喫茶店などにひとりで立ち寄り、ノンシュガーのカフェオレを飲みながら、ぱらぱらとめくりたい。そんな雑誌でしたね。

先鋭的なテーマを扱っていて、ビジュアルやレイアウトが洗練されていて、知的な好奇心を満たしてくれる・・・そんな雑誌が好きなようです。オンラインで展開されていたHOTWIREDも読みつづけていたのですが、現在はWIRED VISIONとして展開されているようです。

WIRED VISIONのサイトのキャッチコピーは「"アカルイ"未来を考えるニュースサイト」とのこと。久しぶりにアクセスしてみました。

■WIRED VISION
http://wiredvision.jp/

081016_wiredvision.jpg

いいなあ。取り上げられている話題の切り口といい、デザインといい、なんとなくぼくのセンサーをくすぐる。ジャンルごとの配色も好みだし、「環境」や「デザイン」という項目があるのもいい。ビジュアルの使い方とか、グレイを基調とした落ち着いた色づかいとか、自分のブログでも真似したい。こんな知的なサイトを作れるとうれしい。

掲載されているオフィシャルブログも、なかなか強力です。特に面白いと思ったのは「yomoyomo」の情報共有の未来というブログでした。流行とはいえいまひとつ実体のないクラウドという言葉に対する考察がされていましたが、ぼくが注目したのは、少し古いのだけれど、グーグルについて言及した「Googleの偉大さと傲慢さ(前編)(後編)」でした。

グーグルについての考察は長くなりそうなので、また別に書くことにします。とはいえ、たとえばこのようなグーグルに関する記事や動向などを探すとき、情報を検索するという目的にフォーカスしてみると、圧倒的にネットが速い。もちろん、特集記事としてまとまった情報や見解を読むためには、雑誌は適したメディアといえます。

そんなメディアの特性を考慮しつつ、あらためてオンラインで展開されているWIRED VISIONを読みながら考察したのは、単純に紙かネットかというメディアの違いではないもしれない、という観点でした。

つまりネットで情報を探すということは、ぼくらは情報を能動的に「編集」している。そんな編集者のスタイルを無意識のうちに選択しているのではないでしょうか。プロの編集者が編集したものを読む、という受動的な立場であれば、レガシーな雑誌も有用かもしれません。けれども、ぼくらは与えられたものでは満足できなくなっている。情報を自分で"いじりたい"。

検索して自ら"情報を編集する"楽しみを知ってしまったら、もはや編集されたものを与えられただけでは満足できない。だから、内容のクオリティに関わらず、編集された雑誌は、ぼくらが手を加える余地がないので、つまらないのではないか。編集された記事は完全だけれど、完全であるがゆえにもう編集できません(もちろんカッターで切り抜いてスクラップすれば編集できるけれど)。その完全さがぼくらの自由度と遊び心を奪う。

テキスト情報をクリッピングしたり、引用することも広義には編集だと思います。アマチュアかもしれないけれど、ぼくらはインターネットのコンテンツに対して、個々人が編集者になりつつある。ソーシャルブックマークも、カテゴライズにそれぞれの考え方が反映されるので、編集の一種かもしれないですね。

ネットか新聞か、ネットか雑誌か、のような二元論で解釈できるようなことではないような気がしました。つまり、そこには情報化社会に対するぼくらの姿勢もしくは考え方の大きな変化、スタイルの転換、という問題を孕んでいる。つまり、ぼくらは受動的に情報を受け取る姿勢にはもはや飽き足らなくて、情報を自ら編集する能動的なスタイルに変わりつつあるのではないか。

まさにこのネットと読書の違いを脳科学から研究した結果が、WIRED VISIONに掲載されていました。「研究結果「ネット検索すると頭が良くなる」:中高年の脳に好影響」という記事から次を引用します。

「われわれの研究で最も驚くべき発見は、インターネット検索で活発化する神経回路は、読書で活発化する神経回路とは異なるということと、この活発化が、以前にインターネットの利用経験がある人に限って見られるということだ」

同じ活字を読む行為であったとしても、読書とインターネットはまったく違う脳の回路を使っているようです。そしてそれは、ネットを体験しているひとのほうが活発化している。

中高年はともかく、期待と不安が入り混じった気持ちになるのは、このインターネットを当たり前のように生活の一部として育っていくこれからの子供たちのことです。雑誌かWebサイトのコンテンツか・・・と言っているのは過渡期だからこそ言えることであって、ネット環境が主体となった社会の先に待ち構えている未来は、どんなものなのか。予測もつきません。

願わくば、その変化が人類にとってよきものであることを祈るばかりです。新しいジェネレーションの子供たちにとって、よい変化であるように願っています。

投稿者 birdwing : 2008年10月16日 23:42

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