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2008年10月23日

ラクガキ考。

うちのふたりの息子たちは絵を描くのが大好きです。家には100円ショップで購入した画用紙が常備してあり、おたがいにウルトラマンの怪獣やらデュエルモンスターやらの絵を書き殴っています。

描くテーマが限定されているのがぼくとしては不満なのだけれど、絵を描くのが好きというより画用紙に"何かを書いて遊ぶ"ことが好きなのだと思う。書き散らかした作品からみても、残念ながら将来はイラストレーターや画家になる才能はなさそうですが、楽しそうなので放任しています。

ところで、どんなに書くのが好きだといっても、書いてもいい場所と悪い場所があります。家のなかでも、壁や机の上には書いてはいけない。これは何度も約束事として確認したことであり、守らなければいけないルールです。

社会においても、このようなルールを制定する必要があり、文章化されたものは法律だったりするのですが、文章にはなっていないけれどモラルとして重要なことがあります。

今年になって、フィレンツェの大聖堂の落書き問題などが浮上し、学生たちが謝罪に行ったり、良識が問われたりしたことは記憶にまだ新しいことです。「京産大生も大聖堂で落書き? 壁に日本人名が続々見つかる」などの記事で取り上げられていますが、さらに鳥取では、全国初の落書きを禁止する条例が決まり、来年4月1日から施行されるそうで、違反者は5万円以下の過料とのこと(10.14の産経ニュースから)。そもそも罰金30万円という厳しいものを求めていたようですが、砂の上の落書きは風が吹けば消えてしまう、ということで大幅に値下げされたとか(こちらは9.18の産経ニュース)。

罰金を科さなければ規律が守れない社会自体、何かがゆるんでいる気がしますが、優等生的な視点をちょっと外してみると、落書きはアンダーグラウンドな文化でもあります。Wikipediaで「落書き」の項目を読んで、あらためて関心を惹かれたのですが、二条河原の落書、アンコールワットに侍の落書きがあることなど、時代を超えて残される落書きは面白いですね。

また、アメリカにはキルロイ参上("Kilroy was here")という伝統的な落書きがあるようで、戦争という時代背景と結びついているらしい。落書きから知る伝統や文化も興味深いものがあります。ちなみに、Wikipediaから「ワシントンD.C.の第二次世界大戦記念碑に見られるキルロイ参上の落書き」を引用します。

800px-Kilroy_Was_Here_-_Washington_DC_WWII_Memorial_-_Jason_Coyne.jpg

インターネットを便所の落書きと言ったひともいましたが、ぼくらがブログに書いていることも途方もない落書きの所作のひとつかもしれません。しかし、ぼくはそれを嘆かわしいことだとは考えていません。だからこそ時代を風刺したホンネも書けるし、一方で眉をひそめるような表現も生まれる。そのすべてが人間の文化であり、ひとによって生まれたものです。

ということをぼんやりと考えていたら、空に落書きをした芸術家集団がいました。中国新聞の「広島上空に「ピカッ」の文字」という記事で読みました。21日午前、芸術活動の一環として、小型機をチャーターして広島の上空に「ピカッ」という文字をスモークで描いて、ビデオ撮影をしたらしい。

しかし・・・これは芸術なのだろうか?落書きは文化だ、なんでも書いちゃえ主義のぼくではありますが、そもそも反社会的な活動、あるいは単に不快を生むだけの表現を高尚な芸術活動という名のもとに正当化するひとたちを、あまり好きではありません。

もちろんきれいなものだけが芸術ではなくて、どろどろとした感情や気持ちの悪いものを表現することも芸術だとは思います。しかし、広島の上空で「ピカッ」という原爆を思わせる文字を落書きすることには、あまり芸術的な何かを感じません。ひねりがない。

たぶん公共のものである空に飛行機を使って落書きするところが特別な芸術活動だと考えているのではないかと想像しますが、率直なところ鳥取の砂丘に書かれた落書きと何も変わらないのではないか、というのが実感です。どうせお金をかけるのなら、空というキャンバスを使ってもう少し芸術性の高い何かを書いてほしかった。

原爆を想像させるようで不安だ、不快だ、という広島で空を見上げた方の気持ちもわかります。いきなり土足できれいな青空を汚されたら、空好きなぼくも心が痛む。けれどもまず前提として、芸術を語る集団としては、思考や発想が幼稚な気がしました。ただの落書きだろうこれは、と思った。もったいぶって落書きを芸術だと語るのは、なんだか傍目にも恥ずかしい。

社会のヒンシュクをかうか、芸術性の高さで注目されるか、ということは紙一重のような気もしますが、ぼくは土足でひとの心を踏みにじることが芸術や表現ではない、と考えたい。

ブログやネットの掲示板にもいえることかもしれません。たとえば、コメント欄が開いているから何でも書き込んでいいと思っているリテラシーのないひとたちがときどきいます。エントリーとはまったく関係のないつまらない自説を展開したり、ブロガーを完全に無視した会話を延々とつづけたりする。

それはブログを開設している誰かの領域に土足で踏み込んで荒らす行為であり、要するに"落書き"と変わらない。コメントを書き込む際には、ブログのオーナーに失礼にあたる発言がないか、細心の注意を払うように心がけています。また、もしぼくのブログでそういうこころない発言があったら、迷わず消します。落書きは目障りだし、礼儀を知らない人物とは対話したくない。キャパシティの狭い人間で申し訳ない。

と、少しばかり厳しいことを書きましたが、学生時代、退屈な授業をもてあましてノートや教科書の片隅に書くラクガキは、ほんとうに楽しいものでした。キャラクターを想像しつつ書いてみるのですが、まったく別のものになってしまったりして、記憶の曖昧さに脱力したり吹きだしたりしました。

ラクガキは落書きでよいと思うんですよね。あとから難しい芸術的な価値や意味を付加するのは自由ですが、これはただの落書きである、という軽さがカルチャーではないか。そして、ぎりぎりでメイワクをかけない場所にちょっとやましい気持ちで書くからこそ、自由に書ける。ときには辛口の風刺もできる。それが落書きのよさではないでしょうか。

一方でうろ覚えですが、弘兼憲史さんの島耕作シリーズのマンガに、社員でありながらものすごい才能を持った新人が、サラリーマンとして会社に合わずに退職する際、トイレの壁に芸術的な落書きを描いて去っていった、というエピソードがあったことを思い出しました。彼は数年後に、国際的なアーティストになる、というストーリーだったかと思います。たつ鳥あとを濁さず・・・の逆をいく話ですが、才能があればそんな辛辣さも強烈なインパクトとなります。

同時に考えたのは、消えてしまう(消されてしまう)からこそラクガキには意味があるのではないか、ということでした。記録の面から考えると保存性が重要ですが、会話としての言葉が宙に拡散して消滅してしまうように、ラクガキの文字や絵もいつしか消えてしまう。という意味では、空に書かれたピカッという文字も消えてしまうわけで、ひとときの不安も永遠に残ることはありません。

言葉というものの本質は、そんなあわい不確かさにあるのかもしれません。

投稿者 birdwing : 2008年10月23日 23:55

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2 Comments

がど 2008-10-29T21:49

うん、私もあれは芸術でもないし、人を和ませる落書きでもないな、と思いました。芸術という名の下で明らかに挑発するようなことをするのってなんか寂しい、と思いました。

BirdWing 2008-10-29T22:56

がどさん、コメントありがとうございました。

ちょっと偉そうに書いてしまったかなと思っていたので、共感していただいて、ほっとしました。なんだか小心者です(苦笑)。がどさんもニュースを見ていたのですね。あの芸術家集団は、東京の渋谷でカラスの鳴き声をスピーカーで流して109周辺にカラスを集めたり、ブランド品を地雷で爆破するなどのパフォーマンスをしていたようです。いとうせいこうが支持していたかな。ぼくはいずれもびみょうでした。そんなやからを支持するいとうせいこうってどうだ?と思った。浅はかすぎる。最近、あまり存在感ありませんが、その程度の人物だったのでしょう。

こころがほっと和むようなパフォーマンスを求めています。不祥事があったり、眉をひそめるような事件が多い世のなかではないですか。だからこそ、肩の力を抜けるような表現をしてほしいですね。社会に提言するのも立派だけれど、ぼくらのこころを余計にささくれだたせる表現であれば、あまり見たくない。むしろこういう中途半端な芸術まがいの思い上がった行為は、やらないほうがいい。砂丘に罰金があるのなら、空のラクガキにも罰金を課してほしいぐらいです。空好きなぼくとしては。

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