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2008年10月21日

「リヴァイアサン」ポール・オースター

▼book:自由という名の破滅への物語。

4102451072リヴァイアサン (新潮文庫)
Paul Auster 柴田 元幸
新潮社 2002-11

by G-Tools

ミシェル・フーコーの「私は花火師です」という文庫を読んでいたのですが、前半はよかったものの全体的に寄せ集めの講演録というかボツ論文集のような印象で飽きてしまい、中断しました。そこで小説を漁ってみたところ、久し振りにポール・オースターにはまりました。

まず「偶然の音楽」から一気に読了したのだけれど、その後にやはり数日で読み終えた「リヴァイアサン」のほうから感想を書くことにします。というのは、フーコーの次のような言及と合致すると思ったからです。「狂気の歴史」という自著について語る部分です(P.17)。

――あなたは本当に自分の書物を爆弾のようなものと考えておられたのですね。

まったくそのとおりです。わたしはこの書物をきわめて強い爆風のようなものだと考えていました。そしていまでも、ドアや窓を吹き飛ばす爆風のようなものになると夢見ているのです・・・・・・。わたしの夢は、この書物が爆弾のように効果的で、花火のように楽しい爆発物となることでした。

ところが、フーコーの書いた「狂気の歴史」の爆発は起きなかった。そのことをフーコーは残念がっています。花火師、というよりも、ぼくの印象としてはテロリストでしょうか。バクダンを仕掛けるひとです。

テロリストではまずいだろうからあえて花火師と訳したのかもしれませんが、なんとなく花火師は文学的ではあるけれど、のどかな感じが否めません。ぼくが思うにフーコーの過激さは、言論によって既存のできあがった何かを破壊するイノベーティブな姿勢にあって、その意味ではテロリストのほうが合っているんじゃないか。思想の火薬を仕掛けることで既存の文化を破壊し、あたらしい地層をあらわにする。そんな夢想が彼の言葉に込められていたのではないか、と。

このフーコーの花火師のイメージが、ぼくにはオースターの「リヴァイアサン」に重なりました。「リヴァイアサン」はベンジャミン・サックスという作家が、ある契機から人生の意味を問い直しはじめるとともに、いままでとは違った人生に歩みを進める。数奇な運命に翻弄された結果として、各地にある自由の女神像の模型をバクダンで吹き飛ばす自由の怪人(ファントム・オブ・リバティ)というテロリストへの道を歩み、自らも吹き飛ばしてしまう。そんな破滅にまっしぐらな物語です。

オースターの作品は、全体的に自滅的なストーリーが多い。自滅を悲壮感なしに、ある種の淡々とした静けさのもとに書き上げる乾いたトーンが彼の文学の魅力じゃないか、とぼくは思っています。ただ、読んでいてどうにもやりきれない寂寥感が残ります。村上春樹さんの作品を読んだあとにも何かしら満たされない諦観を感じるのですが、オースターの作品の読後感に残るのは、自嘲のような寂しさです。人間ってそんなものだよな、ばっかだよねえ(ふっ)みたいな。

その見下した感じが、ぼくは少しばかり好きではない。物語はものすごく面白い。構想はすばらしいと思います。パズルのピースが組み合わさって、最後に一枚の絵となる物語構築の完璧さは見事です。作家としての力量は絶賛したいところです。でもなぜかしら・・・うーむ、どうだ?というしこりが残る。なんだろう、これは。

うまく言えないのですが、登場人物の感情に立ち入らないで、作品中の人物の人生をコマとして動かす作家としての傲慢さ、のようなものを感じてしまうからかもしれません。

作家に対して、書かれた作品のなかの人物への思いやりやモラルを問うのはどうか、ということはありますが、あんたこのひと爆死させちゃっても何とも思わないでしょ、爆死に向けてディティールを設計しちゃったでしょ、うまく作ったよね、という印象を抱いてしまう。きっとオースターに投げかけたとしたら、だろ?(にやり)のように嗤う彼を想像して、なんだか白ける。作品に対する冷淡な姿勢が気に入らないのでしょうか。偏見かもしれませんが、登場人物をかわいがらない作家だと思いました。

しかしながら、通常、読者というものはそういう視点から物語を読まないものでしょう。ぼくが創作というものを作家の立場から考えてしまうから、うがった見方をしてしまうのかもしれないですね。

物語では、ピーター・エアロンとベンジャミン・サックスというふたりの作家の友情を核として、彼等を取り巻くファニー、リリアン、マリアなどのさまざまな女性との人間模様が描かれています。ファニーはサックスの妻ですが、ピーターは彼女に憧れていて、サックスがいない間に関係を持ってしまう。なんとなく漱石的な三角関係ですが、淡々と欧米的に進行していきます。リリアンとマリアは友人であり、マリアと過ごしながら、サックスは友人であるリリアンのもとへ行ってしまう。物語はもっと複雑なのだけれど、すべてを語ってしまうと物語を読み進める愉しさが半減してしまうので、語らずにおきます。この複雑な曼荼羅のような関係をうまく組み合わせて進行していく物語は、ほんとうにうまい。

ある衝撃的なできごとを契機に、サックスは小説を書くことをやめてしまい、妻ファニーとの関係も放棄して、そこからめまぐるしい転落をしていく。こういう数奇な運命を描くオースターは真骨頂という感じです。ぐいぐいと読ませるエンターテイメントの魅力があります。

ああ、でも感想を書いていて思ったのだけれど、ぼくはオースターがどこか好きではないんだな。とてつもなく面白い話を書ける作家であり、アメリカ文学の歴史に残る作家だとは思うのだけれど、ぼくのなかの何かが拒絶反応を起こしている。琴線に触れない。娯楽映画のような印象があって、という意味でもアメリカ的なのかもしれないのですが、なんだか馴染めない。

面白かったのだけれど、心の深いところでは(ぼくにとっては)なぜか楽しめない困惑する1冊でした。けれども個人的には現在の殺伐とした気分に合っていて、あっという間に読み終えてしまいました。10月21日読了。

投稿者 birdwing : 2008年10月21日 23:40

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