« 「幸福論」Alain 神谷 幹夫 | メイン | 「脳と創造性 「この私」というクオリアへ」 茂木 健一郎 »

2006年1月 1日

文脈から遠く離れて。

あけましておめでとうございます。田舎でまったりと時間を過ごしたら、正月の一日だけでもう三日も一週間も過ごしたような気分になりました。何をしたわけでもないのだけれど、なんだかとても大事な時間に浸ることができました。大事な時間というのは、日数ではないようです。内容でもないようです。いろいろな要素の絡み合う人生という文脈のなかで、ちょっと離れた場所に身体をおいたとき、ぽこっと穴ぼこのように生まれるものかもしれません。

帰省する電車のなかで、そして父の遺影が飾られた部屋で、じっくりと読書に耽ったのですが、茂木健一郎さんの「脳とクオリア「この私」というクオリアへ」を読んで、がつんとやられました。実はお名前は知っていたのですが、その著作について触れることはなかった。しかし、ひとと同様に小説や映画にも、出会うべきとき、というのがあると思います。著作としては新しいものではないのですが、2005年の終わりから2006年のはじめにこの本に出会えたことが、ぼくにとってはいちばんの幸せであり、出会うべきときに出会えた、という感じがしています。

ムーアの法則からピカソ、夏目漱石と、縦横無尽にジャンルを超えて脳と創造性というテーマについて飛びまわる茂木さんの思索は、まさにぼくがこのブログでやりたかったことであり、理想の世界でした。しかしながら、このブログを書く前に出会っていたら、たぶん茂木さんの思考をなぞることにしかならなかった気がします。まったく知らないところでぼくはブログをはじめて、ぼくなりに独自の道を模索してきたあとで、茂木さんの著作に出会って、ああよかった、という安堵がありました。

これは何かと言うと、茂木さんの言葉を借りていえば「安全地帯」をみつけたということになると思います。つまり、いままでぼくは試行錯誤してきたのだけれど、こうしたとりとめのない書き物が果たして何になるの?という不安が絶えずあった。ちまちま考えていないで動け、という声も自分のなかで絶えず聞こえていたし、もっとほかにやることはあるだろう、という焦りもあった。とはいえ、ぼくは考えることが好きなんだと思います。そして考えたことを書くことが、たまらなく楽しい。できれば、どっぷりとこの世界に浸っていたいのだけれど、なんだか不安を感じる。ひょっとしてぼくは特殊なんじゃないか、という疑問がある。ところが茂木さんの本から、それでいいんだよ、という優しくもあり頼もしい声を聞いた気がしました。これは、茂木さんの文脈に包み込まれた、という安心感でもあるのかもしれないけれど。

実はクリスマスの前に何気なく書いていたセレンディピティという言葉もこの本のなかにみつけて、おおっと感動しました。ただ、それはぼくにとってはあって当然だろう、という気もしたわけです。これはどういうことかというと、ぼくはたまに予知夢のようなものをみることがあるのですが(引っ越しの先の部屋の風景をみたり、まだお腹のなかにいる生まれてくる息子の笑顔をみたり)、それはぼくに特殊な能力があるわけではなく、いくつかの現実の可能性と、夢というものすごく曖昧なものを、文脈のなかで再構成しているんだと思うんですよね。

記憶はあいまいなものです。夢のなかの風景もあいまいです。しかし、リアルな風景とあいまいな夢(もしくは記憶)の共通項を抽出して、「つながり」を生み出す。文脈づくりとは、可能性の共通項を見出すことであり、コンピュータのように完全一致でなければダメというものではない。あいまいなものとあいまいなものを補完して、生成するものです。だからセレンディピティという言葉を本のなかにみつけた偶然だって、クリスマスに紐づけて何気なく記憶からぼくが引っ張り出してきたことを、その後買った本のなかの言葉を結びつけた(こじつけた)だけに過ぎないんじゃないかと思います。

ただし、茂木さんの本を選んだ直感、そしてその本のなかにセレンディピティという言葉が書かれていた偶然がすごい(本屋で購入したときには、まったく内容を読んでいませんでした。ほんとうに前書きが面白そうで買っただけでした)。直感と偶然が人生をドラマティックに演出してくれます。出会いというとちょっと不謹慎なイメージもありますが、偶然や直感の賜物であるところに意義がある。この意識を鍛錬していくと、求めているものが勝手に引き寄せられてくるようなフォースになるんじゃないか、なったらいいなあ、なんてことをふと考えました。たとえばネット検索でも、慣れてくると抽出された膨大な候補のなかから、こいつは違うな、これはなんか情報としていけそうだ、という判断が自然にできてくる。そんな風に、直感と偶然から出会いを創造することができたら、楽しい人生になりそうです。

何度も出てくるコンテキスト(文脈)という言葉ですが、なんだろうな?と思うひともいるかもしれません。ちょっと簡単に説明すると、というかぼくなりの解釈をまとめてみるのですが、たとえば「ぼく」という言葉があったとします。この一語だけでは、「ぼく」が何者かよくわからない。ところが「ぼくは都心の大学に通う学生です。」という文章にしてみると、「ぼく」の背景が少し見えてくる。次に「静岡から上京して一人暮らしです。」ということになると、かなり「ぼく」の生活がイメージとして広がる。誰でもそうですが、人間には生活や過去や信条などなど、その個人を中心として面や立体的に広がるつながりがあり、つながりのなかで生きている。その背景を文脈(コンテキスト)と言っているわけです。

ぼくにとっては、それこそ田舎から出てきた学生時代、ポスト構造主義を学びつつ、それをブンガク評論にどう生かしていくか、ということを考えていた時期に学んだ言葉のひとつが「コンテキスト(文脈)」でした。したがって、どこか懐かしい響きがあるのですが、社会人となってマーケティングという仕事をしている現在、父親として子供に接している現在で考えてみると、まったくあたらしい意味を生成するような気もしています。

ところで一方で世のなかには、いくつもの使い古された文脈があります。いわゆるステレオタイプな固定観念です。人脈が広くて明るいひとが素敵とか、アウトドア志向がかっこいいとか、クリエイターは私服でいるべきだ、のようなものでしょうか。世間一般で言われていることであり、あるものは広告代理店のような仕掛け人によって作られていたりもする。偏見も多い。ただ、そういう文脈から遠く離れて、正直なところ自分はどうなの?と問いただすこと。100万人がそうであっても、オレは違うね、オレはこれでいく、という新しい文脈を生み出そうとすること。そのために自分の内側から聴こえてくる声に耳を傾けること。それが大事だと思います。社会という文脈から遠く離れたところで聴こえる自分の内側の声こそが、クオリアではないでしょうか。

茂木さんの著作については、集中的に読み漁ってみるつもりです。同時に、再度この本を読み直してみて、キーワードからいろいろと考えてみようと思います。

投稿者 birdwing : 2006年1月 1日 00:00

« 「幸福論」Alain 神谷 幹夫 | メイン | 「脳と創造性 「この私」というクオリアへ」 茂木 健一郎 »


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/829