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2006年1月13日

音あるいは文章のノイズなど。

とある駅で電車を待っていたところ、反対側のホームから電車が走り出したのですが、そのときにとても素敵なバイオリンの音が響いた。わーしゃれてるなあ、発車のときにこんな音楽を使うんだ、と思ったのだけど、どうやらそれは発車の音楽ではなくて、電車と線路が軋むことによって偶然に生まれた音のようです。5つぐらいの音階で、次第に上昇していくメロディだったのだけれど、ちょっとはっとするような音楽でした。もう一度聴いてみたい。けれども、きっともう聴くことはできないでしょう。たぶん一回性の偶然が作った音楽なので。

まったく人工的なんだけど、似ている音というものがあります。電車に関していえば、よく言われるのが電車のなかのノイズは、お母さんの胎内の音に似ているということ。うちのふたりの息子たちはどちらも電車好きで、どうしてだろうと不思議に思っているのですが、幼い子供たちが電車を好きなのは、電車のなかの振動音が胎内への記憶を呼び覚ますというようなところに秘密があるのかもしれません。同様にテレビのいわゆる「砂の嵐」の音も、幼児たちを安心させる、ということはよく言われます。放送終了後のざーっという音です。シンセサイザーでいうとホワイトノイズでしょうか。ぼくには耳障りとしか思えないのだけど、それがまだ幼い子供たちには胎内のなかにいる安心感を与えるらしい。そんなことを考えながら今日は耳を澄まして帰宅しました。クルマが走り去る音は、波の音に似ているかな、とか考えつつ。

音楽の世界にはマスタリングという最終的に音を整えたりお化粧をするような作業があるのですが、あるマスタリングの教則本のなかに、バイオリンの音と歪ませたエレキギターの音は最初の部分(アタック)をカットして部分的に短い断片だけを聴くと同じ音に聴こえる、という話が書いてあったような気がします。バイオリンというのは、次第に音が立ち上がっていくので、エレキギターのボリュームをくりくり回して音をだんだん大きくすることによって、バイオリン風に聴こえさせる奏法もあったりします。つまり特長的な部分を省略してしまったり、ボリュームのつまみなどをいじって真似をすると、まったく違う楽器でも同じ楽器のように聞こえるようです。

ということは、文章にも言えるかもしれません。具体性を欠いた曖昧な文章は、みんな同じ文章にみえてくる。要するに立ち上がるべき最初の発話を切ってしまうとか、文末を「思います」「ではないでしょうか」などでしめるとか、過激な発言を省略してしまうと、あたりさわりはないけれど文章の切れ味もなくなっていく。一方で、肉声に近い発言やそのひとならではの視点があると、文章もエッジが立ってくる。

ただですね、エッジが立ってないような文章にもよいものはあります。たとえるなら、グラスハープのような文章、でしょうか。グラスハープというのは、ワイングラスのようなものに水を入れて、水の量を調節することで音階をつくる。グラスの縁(エッジですね)を擦ることで、音を出すものです。そういえば先日観た「死ぬまでにしたい10のこと」という映画にもグラスハープを弾くひとが出てきました。大道芸人っぽい感じで、何度か映画のなかで現れる。これは何の意味があるんだろうと思ってしまったのですが。

グラスハープの音色のような印象の文章というのは、ふわっとした浮遊感と、あたたかみのある雰囲気をもつ文章のこと。グラスハープは擦って音を出すので、最初のアタックはあまり強くない。ふわーという感じで次第に音が大きくなる。文章にもそんな雰囲気のものがある。誰の文章がそうか、という例を挙げることはできないのですが、たまにブログを読んでいると、そんな文章に出会うことがあります。元気がいいわけでもなく、調子が悪いわけでもなく、なんとなくニュートラルな脱力感にあふれている。そういう文章を書けるひとはうらやましい。自然に書かれた文章で、狙って書いているのではなければ、さらにいい。

さて、めちゃめちゃ忙しい日々を送っています。もう2週間ぐらい息子の顔をみていないな、と思ったら、まだ3日だった。というよりも、今日が1月中旬であるということが信じられません。もう3月かと思った。そんな忙しいときに悪いコンディションにはまると、ノイズばかりが聞こえてくるものです。つまり、胎児にとって安らぐざーっという音が大人には神経をざわざわさせる雑音にしか聞こえないように、ふだんは聞き逃していたようなささいなことが、ざわざわと心を掻き乱すノイズになる。安穏としていた気持ちをささくれだたせてしまうわけです。しかしながら、木曜日に仕事に集中していたら、無音状態を経験することができました。あらゆる音が消えたような気がした。そしていつの間にか5時間ぐらいが経過していた。分析と企画書に集中していたわけですが、何か集中できることをみつけると、ノイズも聞こえなくなる。この集中を土日(休日返上)および来週後半まで維持しなければならないのがツライのですが。

ノイズと安らぐ音楽の境界は、紙一重という気もします。誰かにとっては安らぐ音楽も、誰かにとってはノイズになるかもしれない。いちいちそれを気にしていても仕方がないし、ノイジーな自分の心の状態もまたぼくの心には違いないものです。大事なことは、失敗してもトラブルを起こしても(嫌われても)書き続けることです。書き続けていれば何かが変わる。辞めてしまったら、それまでです。だからぼくはどんなにクオリティが下がっても、めちゃめちゃな文章になっても、書き続けることにします。

投稿者 birdwing : 2006年1月13日 00:00

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