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2007年10月26日

つながりと切断。

トウキョウのぼくが住む辺りでは、最近ばたばたと頭上をヘリコプターが通過していきます。何事だろう?風邪でぼんやりしているせいか世情に疎いせいか、その理由がよくわかりません。

空を切り裂くヘリの轟音に得体の知れない不安だけを募らせています。知らないうちに世のなかにとんでもないこと(ゴジラが東京湾にあらわれたり、侵略者の宇宙船が不時着していたり・・・)が起こっていたりすると困る。ただの警備か何かならいいんだけど。

今日も、前後にふたつのプロペラを回転させた自衛隊らしきヘリが10機ほど編隊を組んで飛んでいきました。1機であればまだしも編隊飛行をしていると迫力がある。南に向かっていて、ちょっと細めのヘリがその後を追いかけていきました。携帯電話のカメラを構えようとしたら既に上空を飛び去ったあとで、写真を撮るのは断念。とはいえ、その異様な存在は網膜に残っているのですが。

村上春樹さん翻訳ライブラリーから「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど」を帰宅後、キッチンで遅い夕飯を食べながら読み終わりました。


4124034970月曜日は最悪だとみんなは言うけれど (村上春樹翻訳ライブラリー)
村上 春樹
中央公論新社 2006-03

by G-Tools

短編小説を中心としたアンソロジーですが、ティム・オブライエンの作品も収録されています。彼が描いたベトナム戦争のイメージが重なったりして、なんとなく肌の上をぞっとするものが走りました。非日常的なものを感じてしまう。大丈夫なのだろうか?

自分の身近で起こっていることであれば把握ができるのだけれど、大きな何かに巻き込まれてしまったら、きっとぼくらには何も抵抗はできないと思います。戦争のような愚かな行為はもちろん、環境破壊も同様です。むしろ、じわじわと迫ってきて気付いたときには手遅れになっている環境破壊のほうが怖いかもしれない。ゆっくりとだけれども着実に何か変化しつつあるような気もします。

などと、大きな不安にさいなまれながら、地上のちっぽけなぼくはといえば、風邪をひいちゃって体調不調です。ごほごほ。まいった。

おじいさんのようですが、年々、風邪に対する抵抗力が弱ってきている気がします。風邪をこじらせて亡くなるお年寄りの話を聞いても実感がなかったのですが、何だかわかる気がしてきた(苦笑)。なんというかですね、辛さに抗うよりも何もぱっと手を離しちゃいそうな気がするんですよね、抵抗することを。やれやれ。風邪はひきたくないものです。

そんな体調の弱っているときには心も弱りがちです。寝込んでつらいときには考える余裕もないのだけれど、ちょっと快復してくると、時間もできるのでいろんなことを考えてしまう。これがよくない。

何がよくないかというと、たかが風邪をひいただけなのに、健康管理ができていない→日頃の不摂生がよくない→おまえ(自分)が悪い・・・のように、自虐的な無限ループにはまってしまうんですよね。これがまずい(苦笑)。

別にね、一生風邪ひいているわけじゃないでしょう。いまは風邪だけれど、いずれは治る(と、いいつつ、こじらせて随分長びいているんですが。ストレスのせいでしょうか)ものじゃないですか。それを全人格的なものに転換してしまうと性質が悪い。

メタファー的な思考で考えると、シネクドキ(提喩 synecdoche)的な思考でしょうか。難しい言葉を使ってしまいましたが、要するに部分と全体をすりかえて表現するような思考です。たとえば、「飲みに行こう」というときに、「酒を飲む」という部分は「飲む」という行為全体の言葉にすりかえられています。「飲みに行こう」と言ったときに、牛乳を飲むひとはいないですよね。けれども厳密に言えば、飲む(全体)=酒を飲む(部分)ではないのに、その表現が成立している。そんなレトリックです。

と、ちょっと余談に話がそれましたが、脳というのは、つながらないAとBを無理やりつなげようとする傾向があるような気がします。だから、風邪をひいた自分の具合の悪さと、全人格的な性格の悪さはまったくつながらないものなのに、そのふたつを恣意的につなげてしまう。さらには永続的に普遍化するので、一過性の風邪という状態なだけなのに、一生おまえは具合が悪いのだ、はっはっはっ・・・というように高らかに宣言してしまう。

だいたいブログで炎上など問題になったりするのも、拡大解釈というか、部分的なほんの数ワードに脊髄反射的に反応して、ブロガーの全人格を否定する・・・そんな解釈の暴走にあったりしますよね。

こういうときに何がいちばんの処方箋かというと

「つながりの切断」

ではないでしょうか。物事の因果関係をもう一度ばらばらにする。

そもそも、ぼくらの世界にあるものは理屈でつなげることができるものであり、けれどもだからといって拘束力があるというわけではありません。すべてが、ゆるいつながりによって接合されています。家族の縁もそうですよね。絆といっても、ロープで結わいてあるわけではない。

言語学的な観点からは、目の前にあるパソコンはパーソナルコンピュータの略語ではあるのだけれど、ぴーとろ(意味がわかりません)と言ってもかまわない。ソシュールか誰かによって説かれていたことだと思うのですが「言語の恣意性」というような概念だったかと思います。実体としての「リンゴ」と言葉の「リンゴ」には、かならずしも「リンゴ(実体)」が「リンゴ(言葉)」でなきゃいけない理由はない。必ずリンゴと呼ばなきゃならないのであれば、appleという言葉は存在しないわけです。その自由度がまた人間にとっては都合がよい気もします。

と、何を言っているのかわからなくなってきましたが、ばらばらと上空を飛んでいくヘリコプターに不安を煽られるけれども、その存在が日常を脅かす前兆ととらえるべきか。風邪のつらさに自分の未来を憂うことはありますが、風邪なんて一過性のものであって明日には元気になってぴんぴんしているかもしれない。

妄想も重くなりすぎると現実を侵食しはじめます。過度に思い詰めないことが人生を楽しむための最適な処方箋かもしれません。万能薬はないけれど、心がひいた風邪に効く薬はあるような気がします。それはたとえば、がんじがらめになった意味やつながりの呪縛を解いてあげることだったりする。

ただ一方で、ほんとうにつなげなきゃいけないものをつなげる「センス」も大切です。インスピレーションのような科学では解明できていないセンスも含めて。

投稿者 birdwing : 2007年10月26日 23:58

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