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2010年4月 4日

「ソーシャルブレインズ入門―<社会脳>って何だろう 」藤井直敬

▼book10-06:リスペクトでつながる社会脳の時代に向けて。

4062880393ソーシャルブレインズ入門――<社会脳>って何だろう (講談社現代新書)
講談社 2010-02-19

by G-Tools

最近、社会的な身体、社会的な脳というキーワードに関心があります。

ネットワークの進化によって、数年前からクラウドソーシングという知的分業の方法が注目されるようになりました。ひとりで考えるのではなく、群集おのおのが知識を持ち合い、分散して考える手法です。具体的にはWikiなどのツールを使った協働(コラボレーション)をさしますが、個々人のつながりによって新たな知見を見出す創造手法は、とても魅力的にみえます。

その延長線上といえるのかもしれませんが、"思考はもちろん社会的に身体感覚を共有する"というテツガクでもありSFのようでもある妄想に、個人的な興味を抱いています。

シャルロット・ゲンズブールのIRM(脳内を診察するMRI)という曲が気になったり、映画「アバター」で大自然の意思と個人の思考がつながって交流するシーンに感動したり。脳派を測るECoG電極や、脳派でマウスを動かすインターフェースなど、ちょっとアヤシイものにも好奇心を動かしている今日この頃です。以下は、engadget日本版より、パーソナル脳波入力インタフェース Intendix。

さて、「ソーシャルブレインズ入門<社会脳って何だろう>」の本書ですが、社会という関係性のなかで複数の脳が機能する「ソーシャルブレイン」研究について考え方を整理、今後の方向性を模索した本といえるでしょう。

まず個々の脳における構造の話題から書かれています。大脳皮質には「カラム構造」と呼ばれる一定のボリュームを持った円柱状の機能単位が存在し、六層のネットワーク構造を持っているそうです。

脳の働きを拡張するためには、ふたつの方法があると解説されています。垂直方向の拡張:カラム単体の神経細胞を増やして処理性能を高めること(=脳の表面積を変えずに厚みを増やすこと)と、水平方向の拡張:カラムの数を増やすこと(=脳の表面積を増やすこと)です。どちらが有効かといえば「脳のしわ(表面積)を増やす」水平方向の拡張のほうに軍配が上がるのではないでしょうか。

個別の脳の構造だけでなく、社会的な活動においても同じことがいえます。個人の処理能力を高める方法には限界があります。そこで、ひとりの仕事量を増やすよりも、大勢で手分けして作業したほうがスムーズにことが運びます。垂直方向の増強より水平方向に拡張して処理を複数の個人に分散するほうが有効であり、作業の負荷も減少します。

パソコンも同様。PCの頭脳とも呼べるCPUは、シングルコアからデュアル(2)コアへ、そしてクアッド(4)コア、マルチコアのように、コア数を増やすことによって性能を上げてきました。水平分業は必然的な進化なのかもしれません。


■■認知コスト削減という脳の保守性

脳の機能は、部位によって処理機能がモジュール化されているようで、視覚を中心に扱う視覚野といったように、機能のまとまりによって区分けされた「脳地図」があるそうです。

人間と人間のコミュニケーションでは、ことば以外に顔の表情を読むこと、特に目の動きを読むことが重要になります(P.70)。しかし、他者の目の動きを読み取るような脳の部位が障害を受けると、途端にコミュニケーションがうまくいかなくなってしまう。いわゆる「空気が読めない」状態になるようです。

アスペルガー症候群など特定の病理について言及するのではない、と断られていますが、「他者と自分との間の関係性に応じて、自分の関係性を調整すること」ができない場合を想定し、思考実験として、著者はこの状態を「社会的ゾンビ」と呼んでいます。

周囲の空気を無視する社会的ゾンビは、ある意味で自由です。しかし、何も制限がないことによって、かえって周囲との軋轢も生じます。自由であることは思考のコストを生みます。この負荷を著者は「認知コスト」と呼んでいます(P.48)。

選択肢が制限され、社会的規範が決まっていたほうが、思考の労力を削減できます。たとえばブランドのような価値観があったほうが、新たな世界観を創出したり選択をしなくてもいい。ブランド品を購入するときは、品物はもちろん「評判」を買っています。ブランド品に金を支払うことで安易に評判が手に入ります。

自由であることは解放的ですが、自由であるからこそ、ぼくらは自分なりの価値観をゼロから立ち上げ、自分の意思で選択する労力が必要になります。一方で、個人的な価値観や思考を放棄して、既存の固定された思考の枠組みにしたがえば楽です。ルールに縛られたほうがコストがかからない(P.50)。

エネルギー効率という点で見れば、制約に従う生き方は脳のリソースをほとんど使わない最適な生き方だからです。社会的な制約は、ともすると人の創造性を奪う大きな問題のように見えますが、視点を変えれば、一人一人のエネルギーコストを下げることで、社会全体のオペレーションコストを下げるという利点があるのかもしれません。

著者は横溝正史のミステリから、閉鎖された村に訪れた外来者の例を挙げます。村のルール(掟)を知らないばかりに、外来者は無知な行動を起こす。昔から守られてきたルールを無視して問題を生じて、村民からのバッシングを受ける。既存の枠組みに無知であることは、社会的コストを増大させる悪しき存在なのです(P.126)。

そのような、多くのミステリに共通してみられる構造は何かと言えば、社会の構造を揺るがすものを排除し、これまでの安定を維持しようとする保守的な圧力と言ってもよいでしょう。別に、そのような圧力は、ミステリに限ったものではなく、わたしたちの日常で、わたしたちが日々実感していることでしょう。

確かにそうですね。出る杭は打たれる状況も同様であり、ネットのコミュニティにおいても「いちげんさん」はお断り、仲間どうしの隠語などによって外来者を排除する秘密クラブ的なSNSもあることでしょう。排除=社会的コストの削減なのだから、異質な部外者を排除する動きは、コミュニティを安定維持するためには当然ともいえます。

社会が保守的であることは、脳の構造からも裏付けられるそうです。ヒトとチンパンジーの脳を比較すると、重さはヒトのほうが4倍近く重いのだけれど、血流量は2倍にしかなっていない(P.129)。したがって、「脳自体が構造的に保守的」なので、ぼくらの思考は基本的にムダなコストはかけたくない保守的である、ということです。


■■ルールと権威に抑制される社会

著者はルールについて、「わたしたちの行動を抑制する環境条件」と定義します(P.136 )。しかし、環境条件に安易に身をゆだねることは思考停止であり、環境条件を意図的に操作すれば、世論をコントロールする洗脳にもつながります。社会の空気を支配し、圧力によって個々人の思考を奪う大規模なメディア操作として、9・11のときの実感が書かれていました(P.143)。

そんな人々のヒステリックな気持ちにうまく便乗することでブッシュ政権は戦争を開始しました。この時期のアメリカでは、アフガニスタン侵攻も、イラク侵攻ですら、その参戦に関して疑問を口にすることがはばかられました。

このあとに紹介されるいくつかの心理実験の例は、非常に興味深いものでした。まずは「ミルグラム実験」、別名「アイヒマン実験」について。ユダヤ人虐殺に関わったナチスのアドルフ・アイヒマンと部下たちの心理に注目し、自ら虐殺を行ったのか上層部の要請に応えただけなのかという問いを解明しようとしました。アイヒマンは、命令に服従しただけだとして、自らの罪を認めないコメントを残しています(P.145)。

結局、アイヒマンによって殺されたユダヤ人の数は、数百万人と言われますが、彼は裁判において、「虐殺については遺憾だが、私は命令に従っただけだ」と一貫して主張しました。また、「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字にすぎない」とも述べました。

「ミルグラム実験」では、アイヒマンの供述を参考にして、権威の与える影響について確かめることが目的でした。他者に苦痛を与えるとわかっていても、権威ある人間の命令に被験者はしたがわざるを得ない、という結果を得たようです。権威者が発した命令に責任転嫁することで自分の行為を正当化し、罪悪感や他者の苦痛について考えることを放棄する。そうしてストレスから逃れるわけです。次のことばに納得しました(P.151)。

この思考停止と呼ばれる状態は、言い換えると、認知コストの最適化に他なりません。アイヒマンにも虐殺の事実は分かっていたはずです。しかし、虐殺を止めさせたり、その倫理問題の解決方法を見つけたりすることは、彼の立場では不可能でした。なぜなら、ユダヤ人虐殺は、彼一人が何を言っても変えることができるものではなかったからです。すなわち、問題を考えることが脳内コスト的に無意味であるならば、ヒトは思考を停止してムダな脳内コストをかけることを止めるという説明になります。

権威は思考停止を生むだけでなく、「個人が権威の助けを借りることで超越的にふるまいはじめる」ような過激な状態をも生みます。ここで引用されているのが「スタンフォード監獄実験」です(P.152)。

実験の内容は、恣意的に選んだ被験者を囚人と監守に振り分けて監獄で生活させ、それを観察します。すると次第に囚人は囚人らしく、監守は監守らしくふるまうようになっていくそうです。囚人を辱める罰則などを与えた結果、監守側の囚人に対する暴力があまりにもエスカレートしたために、2週間の予定が6日間で中止されたとのこと。

「スタンフォード監獄実験」を題材にした「エス[es]」という映画を観たことがありました。監守と囚人という役割を決めただけで、監守側のふつうの人間はサディスティックに変わり、権威下におかれた囚人は無気力なまま服従するようになる。そんな経緯が描かれ、ショッキングな映画でした。

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ポニーキャニオン 2003-01-16

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しかし、このような状況は決して特別なものではなく、われわれの日常にいくらでもあるものだ、と著者はいいます(P.157)。

これらの結果をまとめるならば、わたしたちは、本質的にきわめて脆弱な倫理観と、無意味に保守的な傾向を持った生き物なのだと言えるでしょう。このことは、わたしたちの日常生活でも、日々実感されることです。強いストレス環境下では、脳が後天的に獲得した倫理観や行動規範はすっかりはげ落ち、環境状況が求めるままのふるまいに無責任に落ち込む危険性を持っているのです。

これらの心理実験は実験室で行われている特殊な状況ではなく、いじめや派閥争いなど、社会におけるさまざまな場所で実際に存在している、と著者は指摘しています。


■■リスペクトと非貨幣経済(ギフト経済)

ソーシャルブレインはそもそもどこにあるのか。その問いに対して、著者は「関係性」をキーワードとして提示し、関係性とは「ある点と点がつながるつながり方の様式」と定義しています。要するにネットワークです。

経済的には恵まれていても、社会的に破綻したり、しあわせになれないのが現実。そこで「個人の喜びや幸せは、個人の中にあるのではなく、むしろ他者との関係性の中にあるのではないか」と推測します(P.198)。

個人と個人が多層的かつ複雑なネットワークによってつながり、関係性の網目を張り巡らせているのが現代社会ですが、人間における関係の根幹であり最も基本的なコミュニケーション単位は「母子関係」とのこと。確かにそうかもしれない、とおもいました。母親の胎内から生まれ出たとき、最初の他者はたぶん母親ですから。時代の変化に関わらず、これは事実です。

母子コミュニケーションの断絶した状態では発達が遅れること、死亡率も高まる実験結果が挙げられています。では、母親との関係性のなかで重要なポイントは何か。次のように述べています(P.206)。

それでは、母親の与えてくれる関係とは何でしょうか。それは、存在そのものを無条件で認めるという態度です。

そして、次のようにつづけます(P.208)。

僕はこの、「人が人に与える、母子関係に源を持つような無条件な存在肯定」をリスペクトと呼んでいますが、リスペクトの流れを考えることが、社会の中での個人の幸せの根幹にあるのではないかと思うのです。

リスペクトの性質として特筆されていることは、一方通行であることです。「自分に向かうリスペクトは自分自身で作ることはできず、他人に強制することもできない」と考察されています(P.209)。母親は自分にリスペクトを注いでくれますが、母親以外の他者はリスペクトを注いでくれるかどうか保証されていません。この緊張感がリスクを生みます。しかしこのリスクを軽減して、「リスペクトを敷衍(P.213)」させることで認知コストを軽減し、ひとはしあわせになれるのではないか、と著者は考察しています。

この構造は非常に興味深いものでした。というのは、読了したばかりのクリス・アンダーソン「フリー〈無料〉からお金を生みだす新戦略」、タラ・ハント「ツイッターノミクス」で取り上げられていた、非貨幣市場(ギフト)経済につながるところがあると感じたからです。

フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略 ツイッターノミクス TwitterNomics

タラ・ハントは、コリイ・ドクトロウのSF小説から「ウッフィー」ということばを使います。「ウッフィー」とは、ソーシャルネットワークにおける評価や信頼の「通貨」であり、リスペクトと言い換えることもできるでしょう。そして彼女が「ギフト経済」と呼ぶように「与える‐受け取る」という一方通行の特長も合致します。

一方、クリス・アンダーソンは、フリーのビジネスモデルとして「直接的内部相互補助」「三者間市場」「フリーミアム」「非貨幣市場」の4つを挙げていますが、三者間市場におけるマスメディアの「権威」は急速に低下しつつあり、オープンソースによるソフトウェア開発など、無償で貢献して精神的な豊かさを求める経済の拡大を予測しています。

ところが、ぼく自身も疑問を感じているのですが、貨幣経済のルールほど、実際には非貨幣経済は広まっていないように感じます。藤井直敬さんは次のように分析しています(P.213)。

それは、おそらくリスペクトを前提としない経済優先型の行動戦略がもたらす利益が、認知コストの削減から来るメリットと比較して大きなものであるからでしょう。つまり、他者とのコミュニケーションにおいて、リスペクトという利益に直結しない態度より、戦略的に効率を重視した態度でふるまう方が、短期的には経済的利益が得やすい構造があるからです。

非常にわかりやすいとおもいました。しかしながら「リスペクトの欠如はボディブローのようにきいてくる」という指摘も頷けるものでした。

まったく新しい概念ではなく、従来の社会から存在することだとおもうのですが、「ひととひとの関係性(つながり)を尊重し、他者に対する信頼やリスペクトのなかにしあわせがある」という鍵は、ウェブで加速するデジタルのネットワークにおいて、今後ますます重みを増していくように感じました。

ぼくは科学者ではありません。しかし藤井直敬さんの本を読んで、脳研究はまだ最初の入り口に辿り着いたばかりだ、という印象を受けました。社会全体がしあわせになる方法を解く鍵のひとつとして、ソーシャルブレインズ研究のような脳科学が今後さらに発展することを願っています。

投稿者 birdwing : 2010年4月 4日 16:12

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