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2010年12月26日

「どれだけ」ではなく「何が」。電子書籍考。

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▼Perspective-01:
「どれだけ」ではなく「何が」。ニーズから捉える電子書籍考。

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どれだけの書籍数を確保できるか、ということが電子書籍のサービス開始時には重視されるようだ。10万冊を用意すると宣言しておきながら蓋を開けてみると1万冊しかなかった、ということが指摘されたりもする。

KDDIが「ビブリオ・リーフSP02」で電子端末の販売開始と同時に配信サービスもスタートさせた。開始時は2万点、2011年度には10万点を目指すという。スタート時の配本数は現実的ではある。しかし、目標値に関しては、出版社をはじめとする調整が難航するであろうということは予想に難くない。

なぜ最初から完全な品揃えを目指そうとするのだろうか。私見だが、新しいデバイスかつ流通形態である電子書籍端末で、最初から完璧に流通している書籍を網羅しなくてもよいのではないか、と考える。

「品揃えがない」というのはリアル店舗の発想であり、名著と呼ばれる文学書やベストセラーがラインアップされていなくても、電子書籍ならではの読み応えのある本があればそれでいいのではないか。

司馬遼太郎の本が読みたければ書店で「紙の」本を手に入れればよい。あらゆる文学書や実用書を電子化する必要はない。どうしても電子化されたものが欲しいのであれば、「自炊(自分で本をばらしてスキャンしてPDFなどにすること)」すればいい、ともいえる。

一方で、どうしても紙で読んでおきたい本もある。電子ペーパーで画面が擬似的に紙に近付いても、電子書籍ではどうも居心地が悪いという本。電子と紙の過渡期の時代だからこそいえることかもしれないが、漱石などの近代文学は、作品=本の重さを感じながら、フリックではなく指先で紙の手触りを楽しみながら読みたい。装丁が美しい本も紙で読みたい。

本を読むこと=情報をインプットすること、と解釈するのであれば、物質的な紙の質、活字のインクの匂い、重さなどは不要だろう。しかし、(電子書籍ではなく紙の)本を読む体験は、文字情報をインプットする行為にとどまらない。たとえばカフェという場所で、読書しながら飲むコーヒーやタバコの匂いなど、五感を通じた周辺の「体験」と紙の感覚は密接に結びついている。古本を購入するとかすかにタバコのにおいが染み付いていたり、知人から本を借りると本を開いたときにそのひとの書斎の匂いがふわっと立ち昇ることがある。あれもいいものだ。

ビジネス書は紙でなくても構わないとおもう。特に鮮度が重要となるようなIT関連の本は電子媒体がいい。半年後には状況が大きく変わるようなテーの場合は、アップデートされた情報を入手できるようにしたほうが有益だ。しかし、技術の遷移を俯瞰的に眺めたり、ビジネスモデルや社会の構造、論理などを解説した本は、まとまった書籍として紙で出版されてもいい。本としての持続性が高いからだ。速報性が重視される情報主体ではなく、メタレベルの論考が中心となった本は、紙であっても構わない。

資格取得のための教科書、自己啓発書など、ポータビリティ(持ち運び)が求められる本も、紙より電子書籍のほうが便利だ。もちろん端末が軽いことと通信状況が整っていることが前提になる。

かつて自分は、分厚い資格の教科書を章ごとに分けて再製本して通勤時に読んでいたことがあった。数百ページの本を数千冊ファイルとして保存できるのであれば、電子書籍のほうが重宝されるだろう。また、英語など語学系の教科書は、音声で確認できるため電子書籍がいい。

すべてを電子書籍に、紙の本の生き残りを、というのではなく、「何が」電子書籍に適しているのかということを考慮する必要がある。

紙の本の生き残り、ということで連想するのは「ザ・ウォーカー」という映画だ。戦争で崩壊した世界、たった一冊残った本をイーライ(デンゼル・ワシントン)は西へ運ぶ。西に何があるのかわからない。ただ、西に運べというお告げにしたがって彼は旅をする。

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電子書籍化というデジタルの普及で紙の本が絶滅するのではなく、戦争という暴力で文化が崩壊するところが異なるのだけれど、レコードからCDへ、そしてダウンロードへと音楽が淘汰されていったほどには急速ではなかったとしても、電子書籍端末の急速な普及によって、紙の本が急速に絶滅していく可能性はないとはいえない。

「ザ・ウォーカー」で象徴的なのは、その本の力を確信し本によって権力を握ろうとするビリー・カーネギー(ゲイリー・オールドマン)によって本は奪われてしまうのだが、モノとしての本は奪われても、イーライに本は残っていた、ということだ。また、イーライの持っていた本も"通常の文字で書かれた"本ではなかった。

コンテンツの重要性を感じる。たった1冊の本でも世界を変えてしまう可能性のある本がある。そしてその本は、紙というカタチを取らなても文化として残りうるものなのである。

あらためて考えると、電子書籍といわれるものは多岐に渡る。テキストブックを基本として、雑誌のようにビジュアルや動画を埋め込んだもの、あるいはインタラクティブな操作を加えたアプリまで、その範囲は広い。

iPad登場時に「Alice for the iPad」が話題を集めた。あるいは幻冬舎では、深海に潜って生物を探索することが疑似体験できる「深海のとっても変わった生きもの」といったコンテンツをリリースしたが、マルチメディアを充実させたコンテンツは電子書籍というよりもアプリケーションだ。

ロングテールということばは使い古された用語になってしまったかもしれないが、絶版書のような本であれば、どんなに利用者が少なかったとしても、ニーズがあれば、膨大な量が電子化されていても構わない。が、すべての書籍が電子書籍元年と呼ばれる現時点でアーカイブもしくは配布されている必要はない。

電子化すべきもの、紙でよいものという判断は必要である。また、スタート時は少なかったとしても、これから新しい書籍を電子化して蓄積していけば、長期的な視座からは電子書籍の配布数は整備されるだろう。

オフィスのペーパーレス化が声高に叫ばれた時期があった。電子文書を推進している企業も多いが、いっこうに紙は減る傾向にない。紙で所有することは、一種の安心感があるのだろう。ペーパーレス化の障害のひとつとして、それまで溜め込まれた大量の書類をどうするか、ということがあった。過去の遺産が未来への足を引っ張る。

どこかで切り分けてしまう必要があるのかもしれない。過去の遺産は紙で(グーグルのよような余力のある企業は紙をスキャンしてアーカイブを整備し)、電子書籍元年を境にあらたに発行される本は電子書籍で、といったように。「どれだけ」ではなく「何が」電子化されるべきかを考える必要がありそうだ。

まつもとあつし氏の「生き残るメディア 死ぬメディア 出版・映像ビジネスのゆくえ」に、ボイジャー荻野正昭氏の次のようなコメントがある(P.63)。

荻野 「新しいメディアは古いメディアに擬して出てくるというマクルーハン(文学者・文明評論家の言葉があります。古いメディアは新しいメディアに乗っかろうとする、そこで自らの権利を拡張しようとするわけです。
でも、僕はそんな企てがうまくいくはずはないと思っています。新しいメディアでは新しいプレイヤーが活躍するのが自然です。
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まつもとあつし
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「新しいメディアでは新しいプレイヤーが活躍する」という見解に同意する。新しいプレイヤーの活躍に、古いプレイヤーが介入して足を引っ張るようではいけない。また低価格化が求められる電子書籍に対して、「今後は徐々に高級品・嗜好品として紙の本は位置づけられるのではないだろうか」という見解も面白い。

あらゆるものを電子化するのではなく、何を電子化し、何が紙として残されるか。面倒な腑分けかもしれないが、その選別に知恵を働かせることが、電子書籍化を単なる技術革新で終わらせない文化的な意義のあるものとして位置づけるのではないか、と考える。その過程では、当然、電子化されずに淘汰される紙の書籍があることも否めないだろう。

投稿者 birdwing : 2010年12月26日 12:10

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