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2011年3月10日
「イシューからはじめよ 知的生産の「シンプルな本質」」 安宅和人
▼book11-01:結果よりも問い(イシュー)に重きを置く姿勢。
イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」 安宅和人 英治出版 2010-11-24 by G-Tools |
ビジネスの世界では、結果が大事であるといわれます。多くの場合、結果とは数字です。売上や利益を出せたかどうか、数字で問われるわけです。過程は問われません。「こんなに努力した」「頑張った」も大事ですが、結果=数字を出さなければ過程はただの徒労。インプットされた労力に対してアウトプットが低ければ、生産性が低いと見做されます。
しかし、アウトプットをどうしたら最大化できるかということ、つまり生産性を上げることは遠い時代からビジネスの課題だったといえます。日本のカイゼン活動のようにメソッド化したものから、ワークハックのような身近なものまで、さまざまな生産性向上のための知恵が考案されてきました。暗黙知を形式知化して書物にまとめられたり、Webで公開されたりしています。
生産性向上について書かれた本のなかで、最近読んで目からウロコだと感じた本は、安宅和人さんの「イシューからはじめよ」でした。まず、イシュー(issue)とは何か。安宅さんは次のような定義をあげています。
A)a matter that is in dispute between two or more parties
2つ以上の集団の間で決着のついていない問題
B)a vital or unsettled matter
根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題
要するにイシューとは「問題」のことです。
答え、つまり結果も大事ですが、結果を出すためには、まずその問題に関わるべきか関わらないべきか明確にすること。関わるのであれば問題を見極めることが重要だと述べられています。確かに重要な問題が別にあるのに、瑣末な問題に関わっていることは生産的ではありません。そして問題自体を明確にすれば、より答えを導きやすくなる。
そもそも答えが出ないことは「問題(イシュー)」ではないのかもしれません。答えの出ないことを考えるのは迷宮に足を踏み込むようなもので、考えが堂々巡りをするだけです。このことを安宅さんは、<考える>と<悩む>の違いとして区別されています(P.4)。
「悩む」=「答えが出ない」という前提のもとに、「考えるフリ」をすること
「考える」=「答えが出る」という前提のもとに、建設的に考えを組み立てること
当然のようなことではありますが、ぼくらは答えが出ない問いに関わることで、悩むことが多いですね。考えずに悩んでいる時間が非常に長い。
問題に取り組む前に、「この問いは答えが出るのか、出ないのか」ということを見極めることは建設的だとおもいました。人生論のようなものは別でしょう。答えの出ない問いを考えることも有意義かもしれません。けれども、ビジネスにおいては、最終的に答え(結果)を出せない問いに取り組むことは意義がない(P.5)。
特に仕事(研究も含む)において悩むというのはバカげたことだ。
仕事とは何かを生み出すためにあるもので、変化を生まないとわかっている活動に時間を使うのはムダ以外の何ものでもない。これを明確に意識しておかないと「悩む」ことを「考える」ことだと勘違いして、あっという間に貴重な時間を失ってしまう。
安宅さんは、「一心不乱に大量の仕事をする」アプローチを「犬の道」に踏み込むと喩えて、この「犬の道」に踏み込んではいけないと諭します。また、「根性に逃げるな」とも叱咤します。労働時間よりも価値ある「アウトプット」があればいい、というのです。
時間ベースで考えるのかアウトプットベースで考えるのか。それが「レイバラー(労働者)」と「ワーカー」の違いであり、「サラリーマン」「ビジネスパーソン」、そして「プロフェッショナル」の違いだとします(P.36)。
一方で、一定のフレームワークやツールを使えば答えは導き出しやすくなるのですが、「自分の頭でものを考える」重要性も指摘しています(P.39)。
論理だけに寄りかかり、短絡的・表層的な思考をする人間は危険だ。
一次情報が重要であるという指摘は、とても頷ける部分でした。
ロジック(論理)は大事だけれど、論理だけで組み立てていくと、どこか現場から離れた机上のシミュレーションになってしまうことがあります。
考えることと同様に、知ること(知覚すること)が重要かもしれません。直感を研ぎ澄ませると、論理的にはOKであっても、なんとなくこのプランはやばいぞ、と感じることがあります。そのとき感じた危険性は、結構、正しいものです。リスクマネジメントにもいえることかもしれませんが、直感で「やばさ」を感知するセンサーが鈍ってしまうと、大きな問題を見過ごしてしまう。問題を深く理解するためには、動物的な嗅覚が必要でしょう。人間の仕事である以上、論理だけでなく感性も求められます。
この本では、最初に脱「犬の道」として考え方を示した後、生産性の高い仕事をするためのプロセスとして、「イシュードリブン」「仮説ドリブン」「アウトプットドリブン」「メッセージドリブン」という順に解説されます。
著者である安宅さんの経歴は、コンサルティング会社のマッキンゼーを勤められてから、脳科学者として大学院で学位を取得し、現在はヤフーのCOOという異色なもの。コンサルタントの経歴からか、この本で書かれている「生産性の高い仕事」というのはコンサルティングや科学分析の分野の色合いが強いと感じたのですが、企画やマーケティング職にある方であれば、そうそう!と頷く部分が多いのではないでしょうか。
特に読んでいて、にやりと感じたのは、書かれている内容が主として「3」で構造化されている点です。例外的に4つや5つの項目が挙げられている部分もあるけれど、多くは条件や理由などを3つにまとめています。例えば次のような項目(P.55)。
よいイシューの3条件
▼1 本質的な選択肢である
▼2 深い仮説がある
▼3 答えを出せる
あるいは仮説を発見するための「材料」となる情報収集のコツを列記した部分(P.75 )。
情報収集のコツ
コツ① 一時情報に触れる
コツ② 基本情報をスキャンする
コツ③ 集めすぎない・知り過ぎない
そして、「分析の大半を占める定量分析においては、比較というものは3種類しかない」として定量分析の3つの型を挙げます(P.152)。
定量分析の3つの型
1 比較
2 構成
3 変化
最後の「メッセージドリブン」でも、「ストーリーラインを磨き込む」として3つのプロセスが挙げられています(P.208)。
3つの確認プロセス
1 論理構造を確認する
2 流れを磨く
3 エレベーターテストに備える
これだけ徹底して3の構造でまとめているとすかっとしますね。
マッキンゼーの伝統的手法なのかもしれませんが、「スティーブ・ジョブズ驚異のプレゼン」という本でも、ジョブズのプレゼンの演出として「3つのキーメッセージ」でまとめる方法が強調されています。
3部構成という構造が有効に使われているわけです。カリスマに学んで形から入るのも悪くないとおもいます。どんなときでも3つで要点をまとめる練習をしていると、それなりに視点が研ぎ澄まされるのでは。
この本の中間部分はどちらかというと調査分析系、コンサルタント向けの内容です。しかし、単に時間を短縮して効率化をはかるハッキングのノウハウではなく、「質の高いアウトプット」に注目しているところが重要であり、他のさまざまな業種においても考え方の基盤として使えるのではないかとおもいました。
引用の引用になりますが、「人工知能の父」と言われるMIT人工知能研究所の設立者、マービン・ミンスキーがリチャード・ファインマンを評した次の言葉が印象に残りました(P.195)。
いわゆる天才とは次のような一連の資質を持った人間だとわしは思うね。
●仲間の圧力に左右されない。
●問題の本質が何であるかをいつも見失わず、希望的観測に頼ることが少ない。
●ものごとを表すのに多くのやり方を持つ。一つの方法がうまく行かなければ、さっと他の方法に切り替える。
要は固執しないことだ。多くの人が失敗するのは、それに執着しているというだけの理由で、なんとかしてそれを成功させようとまず決め込んでかかるからじゃないだろうか。
結果=答えありきで考えると、結果=答えに縛られます。しかし、問い=イシューにこだわればいくつもの解が得られる。解を導くための「引き出し」を多くすれば、独創的な組み合わせで結果を導き出すことも可能です。問いと答えの整合性を取ることに力を注いでやっきになると、本筋から離れて「犬の道」に入り込むことにもなりがちです。問い自体に重きをおけば、誤った仮説は捨てて、新たな見解を受け入れることができたかもしれないのに。
結果(答え)ではなく、問い=イシューに重きをおくこと。
ビジネスは結果重視という通説からいえば、逆転の発想でしょう。しかし、早急に結果を求めすぎる現在、問いに重きを置くことは重要な姿勢ではないかと感じました。
余談ですが、哲学者の中島義道さんや永井均さんは哲学は「問い」である、というようなことを著書のなかで述べられています。良質な問いこそが真の哲学になり得る、ということです。ぼくは同意するとともに、いまの時代に哲学は必要だと感じているのですが、哲学が必要ということは、良質の問い=イシューが必要であるということにもなります。
若い世代の活字離れが問題にされることがあります。しかし、活字離れより「思考離れ」が問題だとおもう。つまり、問いがおざなりにされて考えなくなること、面倒な問いを捨てて簡単に答えが出る問いにとどまり、思考停止してしまうことが問題なのではないでしょうか。
幼い子供の世界には問いがあふれています。けれどもいつしかぼくらは、問うことを忘れてしまう。あるいは問いから逃げる。けれども問い続ける姿勢、次々と良質なイシューを生み出す姿勢こそが、いま求められているとおもうのです。
投稿者 birdwing : 2011年3月10日 20:20
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