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2011年7月31日

善意の拡散。

経済的な窮地に陥っていたときのこと。親に電話をかけてなんとなくそんな状況を言い澱んだところ、その後、ふいに上京した親が「これはわたしの親が亡くなったときに預かっていたものだけれど」といって、決して少なくはない額のお金を渡してくれたことがありました。

恥ずかしかったけれど、うれしかった。きちんとことばでお願いしたわけではないのですが、暗黙のうちに親に頼っていました。息子の窮地を察知してくれて、親のほうから手を差し延べてくれたわけです。

有難いことです。親不孝なぼくは親を頼ってばかりで、親からの恩を返すことができません。親から与えてもらったものは数知れず、悩ませることも多々あり、恥の多い人生を歩んできました。

親から与えてもらった善意に対してどうやって答えていけばいいのか。

簡単なことじゃん、温泉や旅行に連れて行ってあげたり、美味しいものを食べに連れて行ってあげたり、頻繁に帰省するなど何でもいいから恩を返すことだよ、とアドバイスしてくれるひともあるかもしれません。そんなさりげない恩返しをさらりとできるひとも、ぼくの周囲にはいます。けれどもその簡単なことでさえ、ぼくはできていません。いやはや、頼りない長男というべきか。

ところで、月読寺の住職をされている小池龍之介さんに「ブッダにならう 苦しまない練習」という本があります。

4093881820ブッダにならう 苦しまない練習
小池 龍之介
小学館 2011-03-30

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その本のなかで、親孝行についてブッダの次のようなことば(増支部経典 三集)が引用されています(P.42)。

両親に按摩(マッサージ)をし、入浴を手伝ってあげ、リラックスさせてあげる。
しかしそれだけでは、父母に育てられた借りを返済したことにはならない。父母に家や大金をプレゼントしても、返済したことにならない。
なぜなら君の父母は君を養い、いろいろなことをしてくれて、君にこの世を見せてくれたのだから。
父母が確信がなく優柔不断な性格ならば、確信を持って生きられるようにしてあげる。
父母が破戒者であるならば、心のルールを守れるようにしてあげる。
父母がケチであるならば他人に分け与えるよう心を変えてあげる。
父母に智恵がないなら、智恵をつけさせてあげるように。
君がこうして親を育ててあげれば、父母からの借りを本当に返済したことになる。

ここで書かれているのは、親を教育することで恩を返す、ということです。これはかなりハードルが高いですよね。しかし、大袈裟な教育ではなく、たとえば日々イライラした態度で親に接していたら、親に対する接し方を少し変えて、ゆったりと接するようにする。そのことで親のほうも落ち着いて話ができるようになる、というようなことでも「教育」になるようです。要するに自分を変えることで、親を変える、というようなことのようです。

考えてみると、お金を受ける→お金で返す、というのは経済的な等価交換であり、恩を受ける→恩を返すというのは非経済的な等価交換的な善意の受け渡しです。しかし、恩を受ける→教育で返す、というのはまったく違う価値観による善意の返し方になっています。こういう恩の返し方もあったのか、と目からウロコな感じです。

さらに考えてみると
「親から受けた恩を、自分の子供に返す」
という伝承的な恩の返し方もあるかもしれません。

古くから日本には「情けは人のためならず」ということわざがありました。親切は巡り巡って自分のもとに戻ってくる意味です。あるいは「恩送り」ということばもあったようです。感謝の気持ちを拡散させるという意味では、「ペイ・フォワード 可能性の王国」という映画を思い出しました。

B00005MINWペイ・フォワード [DVD]
ワーナー・ホーム・ビデオ 2001-08-23

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「もし自分の手で世界を変えたいと思ったら、何をする?」という教師の問いに、中学生のトレバーは「自分が受けた思いやりや善意を、その相手に返すのではなく、別の3人の相手に渡す」というアイディアを提案します。挫折を繰り返しながらも彼の行動は波紋を広げていくのですが・・・。映画自体は若干、理想主義的な印象もあるのですが、トレバーの構想が波及していくところは注目しながら鑑賞しました。

人間の教育は、世代を超えて歴史の連鎖によって成立してきた、途方もないバトンリレーなのものかもしれません。ということを考えていたら、今度はあまり詳しくはないのですが、遺伝子のことがおもい浮かびました。

リチャード・ドーキンスに「利己的な遺伝子」という本があります。有名な本です。

4314010037利己的な遺伝子 <増補新装版>
リチャード・ドーキンス 日高 敏隆
紀伊國屋書店 2006-05-01

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その本のなかで、ドーキンスは"ミーム"ということばを用いました。子孫に限らずひとからひとへ、複製されていく文化的情報のことで、Wikipediaには次のように定義されています。

ミーム(meme)とは、文化を形成する様々な情報であり、人々の間で心から心へと伝達や複製をされる情報の基本単位を表す概念である[1]。簡単に言えば、人から人へコピーされる情報である[2]。ミームは会話や人々の振る舞い、文字、儀式等によって人の心から心へとコピーされていく。遺伝子が子孫へ伝達される生物学的情報であるのとは対照的に、ミームは人から人へ伝達される文化的情報である。

いわゆるトレンドのようなものも含まれるため、ミームが対象とする文化は広範囲に渡ります。

災害時に飛び交うデマ、流行語、ファッション、言語、メロディなどの文化情報の伝承伝播の仕組みを、論者の定義に基づいてすべてミームという仮想の主体を用いて説明することがある。

いま、ぼくはビートルズの「A HARD DAY'S NIGHT」を聴きながらこの記事を書いているのですが、古いリズム&ブルースの「ミーム」が彼らの曲のなかには息吹いているのを感じます。

B00267L6SKハード・デイズ・ナイト
ザ・ビートルズ
EMIミュージックジャパン 2009-09-09

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それは彼らの音楽を貫いている律動感であると同時に、単なる複写ではなくオリジナリティを感じさせるものになっている。古い遺伝子を取り込みながら突然変異を起こした新しさがあるからこそ、ビートルズの音楽はいまでも新しい。そしてさらに、亜流といっては失礼ですが、彼らの音楽から影響を受けた音楽がたくさん生まれています。

投稿者 birdwing : 2011年7月31日 18:49

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