読書をするとき、ぼくは一度読み終えたら最初から再度読み直すことは、ほとんどありません。けれども、あらためて読み直すと、あらたな発見や感動が生まれることがあります。最初に読んだときとは別の箇所で心に引っ掛かる部分があったり、気付かなかった些細な表現のうまさに感動したり。
いま、村上春樹さんのノルウェイの森を読み返しています。
この小説の主人公である「僕」も気に入った小説を何度も読み返すタイプの読書家のようです。次のように書かれています(1987年発行、第一刷の(上)P.55)。
僕はよく本を読んだが、沢山本を読むという種類の読書家ではなく、気に入った本を何度も読みかえすことを好んだ。
そんな主人公だからこそ、冒頭でボーイング747のシートに座りながら、38歳になっても直子との記憶、あるいは彼女と紡いだ物語を再生してしまうのかもしれません。
が、しかしそれは直子が「私のことを覚えていてほしいの」という楔を打ち込んだせいでもあります。直子の言葉は「僕」に対する復讐のようにも聞こえます。永遠に誰かのことを覚えていることは難しい。けれども、直子は「僕」に対して、永遠に彼女の物語を読み返すことを要求しました。
以前にもブログに書きましたが、ぼくは『ノルウェイの森』という小説があまり好きではありませんでした。学生の頃にこの小説を読んで、2週間ほど寝込んだからです。これは誇張ではなく、ほんとうに衝撃を受けて寝込んでしまった。弱ったというか、参ったというか、腐った悪いものを食べてしまったように、この小説にあたって気分が悪くなりました。それがなぜなのか当時は不可解だったのですが、いまならなんとなくわかります。つまり、
『ノルウェイの森』の主人公「僕」は途方もなく酷い男だから
ということです。その酷さは自分にも共通するもので、まるで鏡面のように自分の酷さを突きつけられたから、ショックを受けたのでしょう。
ぼくの所有している初版本には、村上春樹さんご自身による「100%の恋愛小説」というキャッチコピーが掲げられています。この惹句は、ロマンティックにとられることも多いとおもうのですが、「恋愛」はお花畑のような場所でしあわせな気分に浸るものだけではない。ほんとうの恋愛はどろどろとしていて、醜悪で、人間のもっとも暗い部分を露呈するものです。そして互いに傷付け合い、損ない続けるものでもある。それが書かれているから「100%」なのでは。
一見、村上春樹さんの小説はさらっと読めて、文体も軽やかなので爽やかな印象を残します。しかし、あらためてぼくが感じるのは、村上春樹さんほど人間の醜悪さや邪悪な何かを真っ向から書こうとしている作家はいないんじゃないかということです。正直、彼の小説は「気持ち悪い」。もちろん心地よい表現や美しい映像的な描写もあるのだけれど、それがあるからこそ、さらに醜悪な部分がむかむかとしてくる。
村上春樹さんがブームになったときに、彼の小説を絶賛するひとたちは、小説の洗練された物語世界や表現だけに注目していたように感じられます。一種の「お洒落な小説」として、村上春樹を読むことは読書家のステイタスのひとつでもありました。もちろん、ぼくもそうやって彼の小説に夢中になりました。しかし、彼の小説を表層的に読むだけのファンは、大きな誤解をしていると感じます。
昨年、NHKの「英語で読む村上春樹」という番組を聴いていたのですが、その放送の中で、中国出身で東大の大学院に通われているショータンさんという女性が、中国でも村上春樹さんの作品は人気で、彼の影響を受けた「村上チルドレン」という作家が生まれているというお話をされていました。村上チルドレンの作品を読んだことがないので何ともいえないのですが、文体やモチーフだけ真似しても彼には近づけないんじゃないかな、とおもっています。
では、いったい『ノルウェイの森』の「僕」の何が酷いのか、ということですが、まだぼくのなかでうまく言葉としてまとまっていません。現在、上巻の半分ぐらいを読んでいるところですが、最後まで再読したときに見えてくることもあるでしょう。
とはいえ、現状で考えたことを書き留めてみます。
『ノルウェイの森』の「僕」が最も酷いのは、高校時代に自殺した「キズキ」の彼女だった直子と「寝た」、つまりセックスしたことです。
たかがセックスじゃん、という考え方もあるかもしれませんが、「僕」は直子と寝るべきではなかった。もしほんとうに彼女を愛していて、彼女のことを真剣に大切な女性として考えているのであれば、20歳の誕生日の夕方に、彼女と身体を重ねることを抑止すべきだったと考えます。少なくとも彼女が混乱から解放されて、精神の均衡を取り戻せるようになるまでは。それが10年先なのか20年先なのかわかりませんが、「僕」は彼女の回復を待つべきではなかったのか。
直子は次のように語っています(1987年発行、第一刷の(上)P.15)。
「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。暗くて、冷たくて、混乱していて・・・・・・ねえ、どうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよ? どうして私を放っておいてくれなかったのよ?」
一方で、直子は次のようにも「僕」に告白します(1987年発行、第一刷の(上)P.204)。
「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れてたの。そしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体に触れられて、入れてほしいと思ってたの。そんなことを思ったのってはじめてよ。どうして? どうしてそんなことが起こるの? だって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ」
「そして僕のことは愛していたわけでもないのに、ということ?」
「ごめんなさい」と直子は言った。
直子の中で自殺したキズキはまだ生きていて、大切な存在であり、彼の友人である「僕」と禁忌を犯すことが彼女の身体を濡らしたのではないかと考えます。それは「愛」ではない。そして「僕」は精神と身体が分離したような状態の直子を「犯す」ことによって深く傷付けてしまったのではないでしょうか。というのは、「僕」と深い関係になることから、彼女は罪の意識に苛まれることになり、一方でより深く「僕」の存在の重さを抱えることになるだろうと推測されるからです。
と、そんな風にセックスしたことで彼女を傷付けたことを「僕」は少しも分かっていないだろうし、多くの男性は、そういうことに無頓着な気がします。そんな若気の至りなのか、男性の本能的な単純さなのか、何も分かっちゃいない「僕」のひとりよがりな直子への想いが非常に痛く感じられる小説が『ノルウェイの森』です。
トラン・アン・ユン監督の『ノルウェイの森』も映画館で観ました。
あの映画で、直子を失った「僕」が海岸で慟哭する場面がありましたが、ぼくは気持ち悪かったですね。白々しかった。なんというナルシストなんだこいつは、と。怒りさえ感じました。失恋して(彼女を失って)ひとりで海に行って慟哭する男ほど気持ち悪いものはありません。慟哭するぐらいなら、なぜ彼女のことをもっと大切に愛することができなかったのか。
とはいえ、そういう「僕」の愚かさとナルシスティックな生き方を描いたという意味では、トラン・アン・ユン監督の演出を評価します。しかし「あの映画の慟哭の場面で感動した!」みたいなことを書く男がいるとすれば軽蔑します。そうじゃないだろ。
『ノルウェイの森』については、思考を刺激されるテーマがたくさんあり、いろいろなことが書けそうです。さまざまな解釈や感想を生むという意味では、村上春樹さんの『ノルウェイの森』は文学史上に残る名作なのかもしれません。
さて。最後に、話は全然変わるのですが、『ノルウェイの森』はビートルズの楽曲から取られたタイトルです。ビートルズの「NORWEGIAN WOOD(This Bird Has Flown)」をギターで弾き語りしてみました。下手なのですが、YouTubeでどうぞ。まあ、これもまたひとりよがりな演奏ではありますが。
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2月2日追記
昨夜、何十年かぶりに『ノルウェイの森』の再読を読了しました。ブログに書いたようにぼくにはトラウマだった作品で、主人公の「僕」に対しても批判的な偏見を持ちながら読みはじめたのですが、読み終えて痛感しました。180度見解が変わったのですが、
『ノルウェイの森』は凄い小説だ、と。
とても深くて複雑な「生と死」の問題について正面から取り組んだ作品だとおもいます。しかし、死者が多すぎる(苦笑)
文学者ではないので所感に過ぎないのですが、日本の純文学は村上春樹さんの『ノルウェイの森』で終わったんじゃないか、という気がしました。この作品が翻訳されて世界中で読まれている価値も再認識しました。
小説として起伏に富んだ構成もうまいですね。下巻の「僕」と「緑」とのやりとりには大笑いしたし、彼女の父の死、ハツミさんの死、直子の死の場面では泣けました。特に上京したレイコさんの話によって、ありありと死の直前の直子が語られる部分は泣けたなあ。
『ノルウェイの森』の圧倒的な訴求力や完成度に比べると、『1Q84 』や『ねじ巻き鳥クロニクル』は無駄に長いだけの駄作という気がします。しかし、あまり評価をされていない気がするけれど、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅』は『ノルウェイの森』の延長線上にある作品ではないでしょうか。
ところで、前回ブログを書いたときに、ある方から女性の視点による「なぜ直子は「僕」に抱かれたか」という見解をいただきました。オープンではありますが、ここでまずお返事というか、それに対するぼくの考え方を述べてみますね。
その方が挙げられている理由には3つあり、第一に「寂しさを埋めるため」、第二に「キヅキへの鎮魂」、第三は「本能」でした。
実はぼくが「やられた」とおもったのは第三の「本能」で、女性にも性欲はあり、そのことはあまり考えていませんでした。しかし、あらためて物語を考察してみると、あまりにも幼い年齢からキヅキと性的な関係にあり(しかし、自身が濡れなかったので不完全な処理しかキヅキにはしてやることができず)、直子は性的に未熟だった。それが20歳の誕生日を契機に、とつぜん女性としての「本能」が開花したのではないかと考えました。
また、読みながら途中ではっと気付いたことがあったのですが、直子は「僕」に抱かれるまで処女だったということです。実際に、死の前日にレイコさんに「私初めてだったし(初版本の下巻、P.240 )」と告白しています。つまり初体験で直子は「何かの加減で一生に一度だけ起こった(初版本の下巻、P.241)」女性としての最大の悦び、オーガズムを知ってしまった。その悦びが、かえってキヅキに対する罪悪感を募らせたのではないでしょうか。
ぼくに感想を送っていただいた方は「もともと直子は死ぬきっかけを待っていた。キズキを救えたかもしれないという自責の念から抜けられず、早い段階で命を絶っていたのではないかな」と書かれていましたが、本来であればキズキと体験したであろう悦びを生きながらえた自分が体験したことによって、より深く混乱し、自責を募らせたと考えられます。私だけが幸せになってはいけない、と。
ただ、生きるということは過去に傷付けた他者や、他者に対する責任の重さを「自覚」しつつ、その上で新しい悦びによって自らを「再生」し続ける行為ではないでしょうか。
この他者に対する責任を「自覚」しつつ、よろこびを享受するという行為は、「誠実に」真剣にやろうとすると大変しんどい。というのは、相反するものを受け入れなければならないからです。自責にばかり拘ると新しいよろこびを享受できないし、よろこびに浮かれると自責を忘れてしまう。
直子にはそれができませんでした。けれども、それができなかった直子とキズキというふたりの存在の責任を負いながら、「僕」は生き続けなければならない。
相当しんどいとおもいますね「僕」は。だから直子を失って(かつて直子がいた施設があった京都の方角の)「西」へと放浪し、ぼろぼろになりながら慟哭するのもわかる。「僕」はかなり「誠実」に「生きて」いるとおもいます。
また、施設から離れて東京に出てきたレイコさんを抱いたことも理解できます。ぼくは学生の頃にこの部分を読んだとき、どうしても受け入れられず「いい加減な奴だな、こいつは」と正直おもったのだけれど、他者によろこびを与えることで自身を再生することも可能であり、このとき「僕」は、現実の厳しい世界に戻ろうと決意したレイコさんに、よろこびと勇気を与えるとともに、そのことによって自身も「再生」したのでしょう。
「恩送り」という言葉をちょっとおもい出したのですが、死者から受けたよろこびを死者に返そうとしてもできません。だから自責しか生まれない。しかし、死者から受けたよろこびを生きているもの、別の他者に施すことはできます。
世の中、というか現実社会は、そうやって成り立っているんじゃないかとおもいます。過去に他者からいただいたよろこびを別の(あるいは次の世代の)誰かに施す。そうやって恩を循環させることによって、生というサイクルは回転する。
つまり死者に恩を返そうとすると閉ざされた回路の中で堂々めぐりをすることしかできません。直子の言葉でいえば、深い森の中でさまよっているような状態になる。生きていこうとするならば、迷宮のような閉ざされた死者との回路を断ち切って、常に新しい「生きている」他者と向き合わなければならない。
物語の最後で「僕」は「緑」に電話をするのだけれど、「あなた、今どこにいるの?」と問う緑に、彼にはその場所を伝えることができません。というのは、「僕」にとって、その場所は他者と向き合う「零(ゼロ)」の地点だからです。
あらゆる苦しみや辛さやよろこびを900枚近く費やして書きながら、物語の最後ですべてリセットして「ゼロ」に戻してしまう村上春樹さんの小説家としての力量は凄いな、とあらためて感じました。
ただ、人生とはそういうものだとおもいます。
常に積み重ねた実績や辛さや傷付けた他者への責任やよろこびを一旦完全に消去して、「ゼロ」地点から一歩ずつ新しい社会や他者に向き合うことによって、はじめて世界は開けていく。
ゼロにリセットするということは、言い換えれば「生きながら死ぬ」ことかもしれません。そして、「死にながら生きる」苦しさの中でしか、ぼくらは生きていけないのかもしれないと感じています。
投稿者: birdwing 日時: 09:50 | パーマリンク
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