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2006年1月14日

わかる、という誤解と幸せ。

金曜日にあるお客様を訪問したときに、「いつも私の言いたいことをすぐに理解してくれて、とても助かる」という言葉をお客様からいただきました。ぼくにとっては最高のほめ言葉なので、とてもうれしかった。企画書の出来がよいということはプランナーとしては当たり前であり、こちらの方が重要です。お客様のことを理解できなければ、よい企画書も書けないので*1。

けれども、その言葉を受けてぼくがお話したことは「最初はお話いただいたことの半分も理解できていなかったと思います。やっと最近わかるようになりました。ずいぶん長い打ち合わせの時間をいただき、いろんなことをお話いただいたからです。ありがとうございます」ということでした。これはぼくの正直な気持ちであり、誰かの言いたいことを瞬時に理解すること、なんてできないと思うんですよね。超能力者でなければ。

言葉にしたことの背景には、言葉にしなかった世界が広がっているものです。言葉というのは意識の氷山の一角であり、その下には言葉として選ばなかった意識が広がっている。氷山の下の部分まで推測することは難しい。しかしながら、その推測する姿勢が大事であり、誰かの話に耳を傾けること、わかろうと理解することが、仕事に対するEQを高める上では重要ではないかと思います。仕事だけでなく、家族や友人などの間でも大切になります。

さて。昨日読み終えた「脳と仮想」という本のなかにも、「他者という仮想」という章で、断絶した他者を理解することについての難しさが書かれていました。レビューにも書いたのですが、ぼくは茂木さんの本は「脳と創造性」の方から読んでしまい、いま発行時期を逆行するような形で彼の著作を集中して読書を進めている状況です。そして茂木さんの意図をできる限り理解するために、茂木さんが引用した作品については、これはと思ったものはできるだけ読んでみよう、映画を観てみようと思っています。結果として100%茂木さんの考えたことにシンクロすることは不可能ですが、彼のみていたものを追体験することで、思考が生まれた場を共有できるのではないか。そう考えています。

そんなわけで「脳と創造性」に引用されていた小津安二郎監督の「東京物語」という映画も鑑賞したのですが、この映画のなかで、静かなざわざわ感として印象に残ったのが、笠智衆さんが演じる年老いた父親が、知人と飲んだくれながら息子のことを批判するシーンでした。「脳と仮想」にもこの部分がかなり長く引用されていて、ぼくが漠然と感じていた「ざわざわ感」を的確な言葉で分析されていたので、思わずうーんと唸りました。

いつもニコニコしていて、人生を諦めた感じの年老いた父親(笠智衆さん)が、ぼそっと息子をなじる。刃(やいば)のような言葉をこぼすわけです。彼が冷たい内面をみせるのはこの一瞬だけなのですが、その一言が最後まで効いている。だから、人物像に深みが出る。茂木さんもこのシーンに着目していて、どんなに表面上はニコニコしていても、その人物の心のなかまではわからない、ということを書かれていました。

一方で、原節子さんが演じる「ええ人」も、戦争で行方不明になった夫について「忘れてしまいそうになるんです。思い出さない日さえある。だからわたしはずるいんです。いいひとなんかじゃありません」というようなことを言う。このシーンの伏線としては、夫の母親を自宅に泊めたときに、あなたはいいひとだ、と泣いてしまった母親に背を向けて、じっとうつろな目線をこちらに向けるシーンがありました。そのときに考えていたことを彼女は夫の父親に告白するわけです。

いいひとばかりではいられません。人間の内面は、表面に現れたものだけでは語りつくせない。上っ面で表現されたことだけが、そのひとのすべてとはいえないものです。しかし、だからこそ人間だと思う。茂木さんの言葉を借りていえば、脳は物質としては限られているけれど、そこに無限の仮想が広がっている。同様に、言葉は文字として限られているけれども、その向こう側には言えなかった、あるいは言わなかったさまざまな感情がある。その他者の隠された部分にまで目を向けられるかどうか。自分としてはときにはそんな内面を発露できるかどうか。そうした洞察(インサイト)の発見が、よりレベルの高い仕事をするために、心に触れるクリエイティブを行うために、力のある文章を書くために、人間という深みを理解するために、そして深みのある人間になるために、重要になるのではないでしょうか。ニコニコした人間であるためには、ニコニコできない人間の心についてもわかっておく必要がある。その両面をみることが、人間について理解するためには必要という気がしました。

誰かの痛みを忠実に理解することなんて不可能です。でも、不可能だからこそ理解したい。言葉はどんなに饒舌であっても言い足りないものであり、気持ちの全体を言い表すことなんてできません。でも、不可能だからこそ言葉を信じて、不可能を超えるような言葉を求めていたいし、コミュニケーションを諦めて口をつぐむのではなくて、発言していたい。発言から生じた波紋を受け止めて、さらに発言していたい。

実は昨日は学生時代の知人たちと(バンドを組んでいたこともある知人なのですが)、徹夜で語り合ってしまったのでした。ゼミの先輩の新しいマンションを訪問して、学生時代のように音楽や人生や(ちょっとお恥ずかしいお話なども)語り合いました。

素敵なマンションを手に入れてぼくらのために料理をちゃっちゃっと作ってくれて現在も音楽を続けている教師の先輩、ものすごく野球がうまい息子さんに何時間もつきあってあげてジャズギターで表現できることを追求し続けているやさしい先輩のお兄さん、企業のなかで我慢して生きることよりも不安や家族を背負いながら独立してコンサルタントとして生きることを選んだ逞しい友人、そんな3人の話を聞きながら、ものすごく充実した時間をすごすことができました。それぞれみんなが抱えている問題や喜びを、完全にわかったかというとわかっていないかもしれない。ただ、昨日生まれた一回性の時間、そこで共有できた気持ちを、それが幻想だったとしても信じていたいと思いました。

ちょっとかっこよく書きすぎたかもしれません。昨夜の熱が残っているようです。それにしても、もう徹夜で語り合うのは辛いですねえ。気持ちは若いのですが、年を取ってしまったなあ。

*1:ところで、そのお客様からは5つも課題をいただき、嬉しい悲鳴でした。意図をきちんと理解しながら、ひとつひとつを誠実に進めたいと思います。

投稿者 birdwing : 2006年1月14日 00:00

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