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2007年10月12日

誰かのために、できることを。

ちょっと重いテーマになりますが、かつて言葉の使い手として思考のエクササイズに挑戦したことがあります。エクササイズという冷めたものではなく、ある意味、かなり真剣に考えていたのですが

いま手首にナイフを当てている誰かの手を、
言葉によって止めることができるのか

ということです。えーと、ちょっと重過ぎますか?(苦笑)まあ、たまには重いテーマもいいでしょう。

言葉の力を真面目に追求すると、言葉によって多数のひとを揺り動かすぐらいの力を持つか(煽動という意味もあるかもしれない)、あるいはたった一人の命を救うぐらいの力を持つべきではないか、そんな高邁な理想を抱いていました。若かったのだと思います(といっても、数年前なのだけれども)。

どんな言葉が効果的なんでしょうね。絶望しているひとを救う言葉とは。

北風と太陽の寓話に似ているような気もします。きつい叱りの言葉で、やめろ!と制止するのか。何があったのか教えてごらん?とやさしく声をかけるのか。それとも逆に笑わせちゃうとか。

制止する強さも場合によっては必要だと思います。けれども、その強い力がかえって反発を生むこともある。対話によってやわらげることも可能かもしれませんが、ある段階にシフトしてしまうと対話の余地もないような気がする。聞く余裕がなくなりますね。笑わせちゃうのは斬新ですが、実は難易度が高いのではないか。シリアスな状況で笑わせるのは、よほどの技量がないと難しい。

当時、そのテーマを考えつづけたぼくが到達した答えというのは、

神様じゃないから、ぼくにはムリ

という、非常に腰砕けな結論でした(苦笑)。自分のことも十分に救えない人間が、はたして他人を救えるのだろうか、まず自分を救ってから言え、と。自分の言葉で誰かを救うことができると考えること自体が驕っていて、おまえは神様か、と冷笑気味に突っ込んだ。だから神様に任せてしまおう、という。

ただ、いまあらためて考えるのは、救われない自分であるからこそ、他人を生かすことができるのではないか、ということです。傷ついた人間だからこそ他人の痛みがわかる、というのはよく言われることで、ロバート・ハリスさんの著書にも書かれていましたが、弱い人間だからこそ救える誰かもいる。

神様にはなれませんが、神様的な何かは人間のなかにわずかだけれどもあるもので(と、信じていたくて)、その何かを発動すれば、死ぬことをやめさせるのはムリだったとしても、ナイフを止めることはできるかもしれない。他人に任せてしまって、関係ないもんね、と諦観をもとに言ってしまうことがいちばん寂しい。

ぼくは(というかぼくも)電車のなかで、何気なくお年寄りや妊婦さんに席を譲ってあげたり、赤ちゃんにじーっとみられてにこっと笑ってしまったり、行き先のわからない地方から出てきたひとに親切に教えてあげたりしているひとを見るのが好きです。

いわゆるはてな村のひとたちであれば(全部が全部そうじゃないと思う。はてなユーザーは、はてな村のひとではない、とぼくは考えています。はてなじゃないところにも、はてな村的なひとはいるし)、席を譲る自意識がどーのこーのとか、強者と弱者の社会における存在があれやこれや・・・など、何か問題を難しくしそうな気がするのですが、もっとシンプルでいいんじゃないんでしょうかね?つまり

ぼくらには、誰か他者のために
「何かしてあげたい」、という気持ちがある

ということでいいじゃん、と思います。誰かに何かしてもらいたい、ではなくて。

奪ってばかりの人間は、結果として乏しくなっていく。与えられる人間こそが豊かになる。ギブ・ギブ・アンド・ギブな人生が、豊かな人生なのかもしれません。そして与えるのはお金ばかりではない。

ジョン・F・ケネディの言葉を先日引用したのだけれど、国が何かしてくれるのではなくて、あなたが国に何ができるか、ということ。万人から愛される「モテル思考(テイクの思考)」ではなくて、自らが誰かをきちんと愛することができるかということ。星の数やブックマークの数やアクセス稼ぎに追いまくられるのではなく、ほんとうにこれは!と思った記事にきちんとコメントできること(読みもしない記事全体の一文だけ脊髄反射的に拾ってブックマークにコメントするんじゃなくてね)。

という思考の道草のあとで、ぼくはふたたび

言葉で誰かを生かすことができるのか
稚拙だとしても、ささやかな自分の曲で誰かをしあわせな気持ちにできるのか

ということを考えていきたいと思いました。救うのはムリだとしても、心の向きを少しだけ変えてあげられるような何かを与えられるようになりたい。

あまりに大仰になるのもどうかという感じですが、ぼくは言葉で、あるいは音楽で、誰かの痛みをやわらげてあげることができるようになりたいと思いました。それは大勢のひとではなくてもかまわない。たったひとりのひとの痛みを和らげてあげることができればそれでいい。

そのためにいま視野に入れようとしているのは、ヒーリング、カウンセリング、セラピー、心理療法のような分野です(ははは、いま思いついた)。どうやって学べばいいのかよくわかりませんが、まずはネットで調べれば何か出てくるでしょう。いろいろな好奇心とともに、その分野についてもゆっくりと知識を得ていきたいと思います。

投稿者 birdwing : 2007年10月12日 23:32

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2 Comments

ぽろり 2007-10-13T17:38

こんにちは。
もしかしたら、取り上げていただいたかな?
と思って、コメントです。笑

先日電車に乗っていたら、ベビーカーを抱えつつ4、5歳の女の子の手を引くお母さんが乗ってきて、
その瞬間、なんとなく車内全体の雰囲気がピリッとしたのがわかったということがありました。
席を譲ったのはひとりのおじさんだったけど、
たぶん、そこにいるみんなが、同じ思いだったんだなあと感じられて、
心温まる出来事でした。
すこしのやさしさなんだけど、皆があったかい気持ちになれるような
そういうやさしさを、持っていたいですね!
私も傍観するだけでなく、自分が行動しなきゃなあと思いました。

ほんとうに、色々と難しく考えるよりも、
シンプルな気持ちと行動があればじゅうぶんですよね。
共感しました。

しかし、そのやさしい気持ちで
ご自分を傷つけないように気をつけてくださいね。
やさしいブロガーさんなので、
ペンを使いすぎて、ご自分の羽を傷つけるなんてことのないように。
適度に自分にもやさしくしつつ
毎日頑張っていきましょうね!

カウンセリングや心理療法のようなことは、
私もすこし興味があります。
機会があれば、またお話しましょう!

それでは~。

BirdWing 2007-10-13T18:45

ぽろりさん、コメントありがとうございます。

えーと、あまりコメントをいただけないブログなので動揺中。
お返事の仕方を忘れてました(笑)
妙に緊張するのですが、なんでしょうこれは。

基本的にトラックバックもきちんと引用もしない面倒くさがりですが
ぽろりさんの記事で書かれていて、
なんとなく、ぽっと心に灯がともった感じがしたので
取り上げさせていただきました。
やっぱりわかっちゃたかー。

いいですよね、そういう「すこしのやさしさ」が感じられる瞬間。
言葉はなかったとしても周囲のひとたちに
ほわ~んと、やさしさが伝播する。

かつて電車でおばあさんに席を譲ったとき
「どうもありがとう、これをどうぞ」と
一枚のカードをいただいたことがありました。
マリア様と天使の絵が書かれていたかな?

たぶん教会にお勤めの
シスターさん(?)だったのかと思うのですが
ぼくもしあわせな気分になりました。
そのカードは名刺入れのなかに入れてあります。

お気遣いもありがとうございます・・・。
うーむ、鋭いなあと思ったのですが
こういうでっかいことを書くと、あとが書けなくなっちゃう。
曲もひじょーに作りにくい(苦笑)。

ちょっと肩の力を抜きます。
自分の羽を傷付けたら、飛べなくなりますもんね。

カウンセリングや心理療法に興味があるんですね。
大学の講義などで、そんな話題が出たら教えてください。

ではでは~。

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