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2007年10月16日

思考のデザイン、生活のデザイン。

昨日、取材に同行してある著名人のご自宅を訪問したのですが、インテリアデザイナーが手がけたような部屋のあまりのかっこよさに度肝を抜かれました。素敵すぎる。ドラマのセットみたいです。しかしながら、逆に自宅に戻ったところ、自分の部屋の雑然さに凹みました。ひどすぎる。納屋ですか、ここは(泣)。

とにかくモノが多すぎる。いや、多くてもいいんです広ければ。しかしながら狭い部屋であれば、モノを減らすしかないでしょう。捨てられない性格がいけないのかもしれませんが、いちばんの問題は本が多いことです。雪崩を起こしがちなので、なんとかしたい。ドラ○もんがいてくれたらスモールライトで収納してほしい。

と、本が多くて困っているのにも関わらず、本日、書店に立ち寄ってまた本を購入してしまいました(泣)。なんだかなあ。しかも、「整理」という言葉に惹かれて購入しているから、皮肉なものです。

購入した本は、アートディレクターである佐藤可士和さんの「佐藤可士和の超整理術」でした。

佐藤可士和の超整理術佐藤可士和の超整理術
佐藤 可士和


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デザイン系の方は、装丁が真っ白ですね。デザインの究極は白なのだろうか。

ぼくがこの本の何に惹かれたかというと、アートディレクターの視点から空間的にモノを整理する手法だけでなく、情報や思考を整理するノウハウが書かれている点です。さすがにハイクオリティな創造的仕事に携わっているだけあって、言葉のセンスもいい。

ほとんどあまり佐藤可士和さんのことを知らずに購入したのですが(不勉強ですみません)、デザインの世界では超人気なひとのようでした。キリンの極生とかSmapとか、そんなデザインをされているらしい。糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」のデザイン論や、R25のインタビューアップルのページに掲載されたインタビューなどを読んだのですが、どうやらデザインという領域を超えてデザインを考えているひとなのではないか、という印象を持ちました。

一方で、そんなクリエイターさんなので、ブログで酷評されていたりもする(苦笑)。結局のところデザインは感性による価値判断なので千差万別だと思うし、その一方でほんとうにいいデザインは万人が頷くのではないかとも考えます。ぼくデザインよくわかりませんから、というのが本音です。

ただ、ぼくが思うのは、デザイナーって執着しはじめると、どんどんダメになっていくような気がするんですよね。狭い経験値から述べる偏見かもしれないのですが、融通がきかなくなる。周囲の誰もダメ出しできないようなデザイナーっているじゃないですか。まあ、自然と仕事も頼みづらくなるのですが。

頑固な職人気質なひとが多いからか、一般的にそれってどう?と思うデザインを頑なに主張したりする。実は手抜きじゃないか?と思うようなものであっても指摘すると、とうとうとその意味を理屈で語ったり、修正をお願いすると逆切れされたりする。

そのこだわりは大事なのかもしれませんが斬新なものだけがクリエイティブではなく、一般的な常識を持ちながら新しいものを創造できるデザイナーっていないのかね、とも思う。逆にぼくはマネジメントを学んでからデザインへ移行するような人材のほうが、イノベーションを生むのではないかとも思っています。既に海外などでは、そんな動きがあるようですが。

とはいえ、デザイナーさんたちのやわらかい思考がぼくは好きで、そうした考え方にふれるために、深澤直人さんとか、原研哉さんなどの本を読み、非常に感銘を受けました。佐藤可士和さんの本はこれから読むのですが、アップルのページのインタビューで「コミュニケーションをデザインする」として、語っている次の言葉は考えさせられます。

デザインって結局、形をいじることではなくて、ビジョンとか企業や商品の“考え方を形にする”ことが仕事。言語外言語というか、空間であったり、映像であったり、グラフィックや音楽、Webなど、メディアは何でもいいんだと思います。形をいじる仕事だと思っていると先に進めないんですよ。もちろん、それぞれのビジュアルはとても重要なんです。なぜなら、それがインターフェイスになるから。ビジュアルを通して、人と人がコミュニケーションするから、そこの精度が高くないと伝わらない。だから、すごく重要なんですけど、その奥にあるものを考えるようにしないといけない。それを考えるのがぼくの本当の仕事だと思っています。

考えがカタチになっていること。つまり、思考の痕跡がきちんと具体的なクリエイティブに落ちているような仕事がぼくは好きで、趣味のDTMで音楽を作りながら、あるいは小説やブログを書きながら方法論について語るのは、やはり考え方に裏づけられた創作をしたいと思うからです。しかも、その考えを構築した上で考えに囚われない境地が理想なのですが。

こだわりつつ、囚われない。これって、なかなか難しいですよね。時間をかけて練りに練った作品をダメだと捨てることって、できないじゃないですか。でも、ダメなものは捨てるという割り切り方、整理の仕方が創造的ともいえます。創造力を養うためには考えるだけではなく、一流のよいもの、よいデザインに触れることも大事かもしれませんね。アタマだけじゃダメだ、身体も動かさないと。

ぼくは昨日の体験から、やはり自分が恥ずかしいと思えるような人間に出会って、恥をかくことが必要だと思いました。それはひょっとしたらお金持ちであるとか表層的な部分で判断するものではないかもしれません。人間的に、ああ、このひとにはかなわない、という器の大きなひとがいるもので、そんな人間に会ったり会うきっかけを作るのが重要かもしれないと思いました。

できれば20代に、でっかい人間に会えること。それが大事かもしれません。あるいはその偶然の出会いを企てること。

いま読んでいる別の本には、米スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授による「プランド・ハプンスタンス・セオリー(計画的偶発性理論)」というものが紹介されていて、これは自分から何かを仕掛けて予期せぬ出来事を作り出していこうという意思のようです。好奇心、持続性、柔軟性、楽観性、冒険心の5つが必要らしい。

整理は必要だと思うのですが、体系化や構造化することを目的とするのではなく、そこからはみだしたものを楽しめるようになると、創造性が開発できそうな気がします。偶発性をデザインすることは難しそうですが、日常生活においても、決まりきった会話のなかで、ときに波長を乱す不協和音をあえて投じてみるとか、予想もつかない展開を楽しめるかどうかが人生を楽しむコツかもしれない。

えーと、何の話なんでしたっけ(苦笑)。デザインから大きく離れてしまったような気がするのですが、人生をデザイン(設計)するということで、単調な生活のリズムにはっとするようなフィルインを入れるとか、躍動感のあるアクセントを入れるとか、そんなことを考えてみたいものです。そんな流れを変える要素が成長のための「とっかかり」になるような気がしています。

投稿者 birdwing : 2007年10月16日 23:48

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