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2007年11月18日

[DTM作品] 地上の星空

クリスマスが近づいてまいりました。毎年恒例なのですが、トウキョウはイルミネーションで飾られてきれいです。地球環境に対していかがなものか、という疑問もあるのですが、さておき。この時期の雰囲気はいいものですね。なんとなくしあわせな気持ちになれる。

会社の帰りにふらりと散歩して、新宿南口のサザンテラスと高島屋の前のイルミネーションをカメラにおさめてきたので、まずは遠くに住むひとのためにもスナップを。携帯電話のカメラで撮ったので、ぼけぼけですが。

071116_illumination1.jpg

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そのイルミネーションからインスピレーションを受けて曲を作ろうとしたのですが、うまくできない(苦笑)。最初はアップテンポのきらきらしたテクノにしようと思ったのですがまとまらずに、アンビエントな感じで作ってみました。曲というほどではなく、1分ちょっとの短い音ですが、ブログで公開してみます。

おかしなプレイヤーですが、白い棒の左端をクリックすると再生、右端をクリックするとダウンロードが可能です。音量は調整できないのでご注意ください。


■地上の星空(chijo_no_hosizora.mp3 1分25秒 1.97MB 192kbps)




曲・プログラミング:BirdWing


星空を感じさせる曲にはいろいろありますが、寒い冬にイルミネーションを眺めて連想するのは、プリファブ・スプラウトの「アンドロメダ・ハイツ」ですね、やっぱり。そんな音のイメージを作ろうと思いました。若干、ぼくの場合にはシューゲイザーが入っていますが。


B00005662Tアンドロメダ・ハイツ
パディー・マクアルーン
エピックレコードジャパン 1997-05-28

by G-Tools


ところで、星空に瞬く星のひとつひとつはちいさく見えるのだけれど、実はその光のそれぞれに、ひょっとしたら生命がいるかもしれない。同様に明るい電飾の風景も、ひとつひとつはちいさな電球の灯りです。さらに言えば、高層ビルの最上階から眺めると自動車や家屋やひとはちいさくみえるけれど、そのひとつひとつにその時間の人生だったり生活が息吹いている。

先日、ひとごみにおいて誰か他人とぶつかるときのことを考察してみたのですが、"ひとごみ"という全体で括ってしまうと海のような比喩も可能だけれど、実際には個々は別々の存在であって、全体で括ったときには情報として欠落してしまう何かがあるはずです。

と、そんなことを考えたきっかけは、小野和俊さんのブログで「精読のTwitter速読のTwiiter」というエントリを読んだからでした。

■精読のTwitterと速読のTwitter
http://blog.livedoor.jp/lalha/archives/50189302.html

いやーこれ面白かった。Twitterで400人フォロワーにしている方が、小野さんに対して「おまえ30人ぐらいのフォロワーでTwiiterの何を語っているんだ」というような批判をされているわけです。こういうひといるなあ。開発者に多い気がする。高いところから見下ろして(見下して?)語るひと。

確かに400人もフォロワーにすれば、大量のひとの書き込みがおそろしい速度で更新されていくので、まるで高層ビルから地上を俯瞰したような、言い換えると「神の視点」で世界を見ることができると思います。なんとなくすごい。まあ、ぼくはやらないけれども(苦笑)。

梅田望夫さんはかつてその著書のなかで、一日500ぐらいのブログに目を通す、と書かれていたことを記憶しています。すごいなーと思って一時期真似をしていたこともあるのですが、正直なところですね・・・疲れる(苦笑)。というか、きちんと読めない。読み飛ばすことになる。

もちろんそれが大量の情報をさばくネットの情報化社会で必要とされる能力なのかもしれないけれど、ぼくが危惧するのは、その過剰な情報への対応が、

関係性をどんどん希薄にしていくのではないか

ということです。情報に対する関係も然り、他人との関係も然りです。

情報は流れていくものだから、読み飛ばせばいい、という姿勢になる。あ、はてなでそんなことを開発者が書いているのを読んで、腹が立ったことを思い出しました(笑)。なんだよ、一生懸命書いているぼくらのエントリは、流れて消えてしまうゴミかよ、と。まあ、その通りなんですけどね。そんなこと言ったら、世のなかのすべてはゴミなんですけど。

フォロワーであるとか、SNSなどでつながりを過剰に増やしていくと、相対的に人間との関係は希薄になっていくと思います。だいたい400人友達がいるひとが、それぞれの友人や知人と密接なコミュニケーションできるかどうか疑問です。まず、キャパシティのないぼくは無理(苦笑)。

可能だったとしても、おざなりな定型的なコメントを返すだけにしかならないんじゃないでしょうか。いや、ひょっとしたら接客業などを営んでいるひとには400人に均等に愛情を注ぐことも可能かもしれません。でも、やっぱり接客業的な関係性になるのではないか、と。「それ期待しますよね(ほんとうに期待してるんだか)」、「それ大変でしたね(大変さわかってんのか)」という。表面的なコメントは上手くなると思いますが。

友人や知人のつながりを増加させると、その友人や知人リストにおいてもロングテールの法則(解説はWikipediaの「ロングテール」)が当てはまると思います。したがって、アクティブに関係しているひとは、ほんの3割程度かもしれない。もしかすると、怒涛のような書き込みを「読む」ことに追われて、返信すらできていないかもしれません。要するに異業種交流会で名刺をたくさんゲットするんだけど、なにひとつとして仕事に活かせない「名刺富豪の人脈貧乏」みたいな状態になるような気がします。

そこで最初の話に戻るのですが。

遠い場所から、たくさんの星空を眺めて美しいなあと思うことも大事ですが、地上であるぼくらの星、地球にしっかりと立って、この地上でいまぼくの周囲で起きていることにしっかりと関わることも大切だと思いました。

400人の多様な考え方を、神の視点で把握することも大切かもしれません。けれども一方で、たったひとりの思考のなかに、無限大の世界があるものです(夏目漱石の「坊ちゃん」のフレーズを思い出したりもするのですが)。だからおざなりに大量のひとと関わるぐらいであれば、たったひとりのひとと深く意見を交換したほうが有意義なこともある。

これはマーケティングの手法にもいえると思うんですよね。

かつて、市場調査が重視されていた時代には、世のなか全体の80%がこの製品を支持している、というような全体の把握が重視されました。けれども多様化した現在では、あるターゲットひとりの人生に着目して、Aさんが生涯でどれだけその製品を購入するか、などの視点も出てきています(LTV:Life Time Valueという用語もありました)。あるいは、顧客のペルソナに注目して、消費者という全体ではなく、その生活や思考を具体的にわかるカタチにして商品を開発する、などという手法もあります。

それにしても一般的には「数が多けりゃすごい」的な発想が根強いようですね。

金持ちが偉い、というのと同じだと思うのだけれど、ぼくはプライベートな生活においては、そろそろそんな呪縛から自由になってもいいんじゃないかと思う。数の亡者になることによって、見落とすことも多いような気がするので。

そんなわけで、ぼくはブログのアクセス数にもこだわらずにいたいと思っていて、多くのひとに読まれようという苦労なんかしたくない。わずかだけれど、ほんとうにぼくの文章が好きで読んでくれるリピーターの方を大事にしたい。本を100冊読むような目標設定もやめてしまいました。1冊の本を100回読んでもいいんじゃないか、と思ったからです。

DTMから人生論のような思考系に流れてしまいましたが、もうすぐクリスマス。地上の星空のような電飾を眺めつつ、大切なひととしあわせな時間を過ごせるといいですね。

投稿者 birdwing : 2007年11月18日 18:22

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