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2007年12月 4日

ぼくが電話をかけている場所。

というタイトルのレイモンド・カーヴァーの短編がありました。村上春樹さんが翻訳されています。まだ読んでいなかったと思うのですが気になります。キャッチコピー的でもある。「ノルウェイの森」のラストを想像させる言葉かもしれません。

携帯電話が普及して、当たり前のように誰もが電話を持つ時代になりました。071208_keitai1.JPG当たり前のように連絡できる時代になった。そこでどうなったかというと・・・。いろいろな変化があると思うのですが、まず思い付くのは待ち合わせに遅れるということ(苦笑)。「いま、すぐ近くにいるのであと10分待ってください」という連絡を簡単に入れることができる。

一方で、好きな異性ができた若者たちにとってはものすごく便利じゃないか、とそんな話をちょっと前におじさんたちで話しました。

つまりですね、携帯電話がなかった遠い昔、彼女の家に電話をかけるということはものすごーく勇気がいることだったのです。とにかく、男性諸君にとっては、親父が出たらどうしよう?という難関があった。声の似ているおねーさんかおかあさんに馴れ馴れしく話しちゃったらどうしよう?という素朴な戸惑いもあった。この大きな第一関門を通過しなければ、しあわせな会話は成立しなかったわけです。けれどもひとり一台携帯電話を持つことで、好きな彼女とダイレクトにつながってお話ができる。

そんなことを書いていて思い出したのですが、ソフィア・コッポラ監督の「ヴァージン・スーサイズ」という映画で、ティーンの女の子と男の子が電話をする場面があります。このとき厳しい親をごまかすために、それぞれがお気に入りのレコードをかけながら、その歌詞でコミュニケーションする。直接、好きだよ、と語らずにレコードのなかのアーティストに気持ちを代弁させるわけです。あのシーンはいいなあ、と思いました。

ヴァージン・スーサイズヴァージン・スーサイズ
ジェームズ・ウッズ キャスリーン・ターナー キルステン・ダンスト


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うちの小学五年生の息子も携帯電話を持っています。といっても、彼の場合は、カメラ機能で弟のへんな顔を撮ることに使っていて、電話がかかってくると取り方がわからないのであたふたしてしまうようです。GPS機能も付いているので防犯という意味も含めて持たせているのですが、彼女としあわせな会話をするために使えるようになってほしいものだな。というか、きみは好きな女の子にかける勇気があるのかなあ?

とかいっていますが、実は彼の父であるところのぼくは電話が苦手な青年でして、学生時代の前半はアパートに電話のないひとでした。そのことで友達周辺には多大なメイワクをおかけいたしました。音信不通になるので「あいつ、生きてるのか?」ということになる。休講とか、課題の連絡もつかない。いま考えると、どういう閉鎖的なコミュニケーションの人間だったのでしょう(苦笑)。

そんなぼくにも好きな女の子ができて、よく電話ボックスから電話をしたものでした。ぼくは大学2年の最初までは予備校時代からの下宿に住んでいたのですが、家賃1万3000円、風呂なしの4畳半のアパートに住んでいました。貧乏だけどしあわせな夢見る青年だったなあ(遠い目)。

えー、どうでもいいことですが、ちょっと回想の寄り道を。

ぼくの下宿にはちいさな台所しかないので、風呂といえば銭湯に通っていました。当時はだいたいタバコ代と銭湯代が同じぐらいで、今日はお風呂やめといて流しでお湯沸かしてアタマ洗って、タバコにしとくかー・・・みたいな選択もしたものです。

ところが、ぼくが通っていた銭湯なのですが、困ったことに番台にはときどき銭湯屋の娘の若くてきれいなおねーさんが座っている。これがまいった。19歳のわたくしはパンツ脱ぐのに戸惑ったものです。恥ずかしさもあるのですが、もちょっとこの困惑は複雑でして・・・えーと、つまり。

男性は不便ですよね、形状が変化しちゃうので。銭湯で戦闘体勢になってもいかがなものかと思うのですが(苦笑)、19歳のほぼ童貞(?)の純情な青年にとっては、きれいなおねーさんに見られているというだけで、もうバクハツしそうな勢いでした。

鎮まれーと思うのですが、若さゆえ鎮まり難い。コントロールを失った暴れん坊はどうしようもない。半分緩和された状態でタオルで押さえて欲情を隠して浴場へダッシュするなど、苦労したものです。まあ、番台におじさんが座っているときには穏やかなものでしたけど。そんな日は、ほっとしたり残念だったり(笑)。

と、脇道が長くなりましたが、そんな貧乏だが部分的に元気な青年(苦笑)は、彼女に電話するために硬貨を貯めるわけです。携帯世代の若いひとたちにはわからないかもしれないのですが、テレフォンカードになる以前、公衆電話というものが街角にあり(いまでもあるか)、10円玉とか100円玉を入れて電話をかけていたのです。

コンビ二でカップラーメンなどを買って、ジュースの空き瓶にお釣りの10円玉を入れる。貯まってきたところでズボンのポケットを硬貨で膨らませて(硬貨じゃないもので膨らんじゃったりもしますが。えーと、彼女に電話できるという期待ですよ?笑)、電話ボックスへ行く。人通りの少ない静かなお気に入りの電話ボックスというのがあったのですが、たまに人が入っていたりすると、ぐるりと深夜の街をお散歩してまた電話ボックスに戻る。長電話が続いていると、早く次のひとに譲るようにそーっと覗き込んでささやかな威嚇をしたりして(笑)。

こつん、こつん、と硬貨が落ちていく音を聞きながら、夜の電話ボックスで彼女と話す時間は、なんとなく癒される穏やかな時間でした。けれども、話をしているうちに喧嘩になるときもあって、そういうときに限って硬貨がなくなっちゃったりする。慌ててお札を崩してきて再び電話ボックスに戻るのですが、もう誰かに使われていることもある。苛立ちのあまりに、その辺の看板を蹴っ飛ばして、空いているボックスを探したものです。

でも、制限があるから、コミュニケーションできる時間も貴重になるのかもしれませんね。

うまくいかなかったり障害があるから愛情が深まるように、忙しい時間のなかで、わずかだけれどつながる時間を大切に思う気持ちが大事かもしれません。

071208_keitai2.JPG考えてみると、現在だって電波の状況が悪いなどという障害はある。さらに機器が壊れてしまえばつながるものもつながらなくなる。いつの間にかインターネットや携帯電話がライフラインのように重要になっていますが、当然だと思っている便利さについて、もう一度見直してみようと思いました。

なんとなく淡い学生時代のことなど回想しつつ、いまの便利な状況も数年後にはもっと便利な状況に変わってしまうのだろうか、と遠い未来に想いを馳せてみています。

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写真は1枚目(上)が現在使用中のP902i。反射しちゃっていますが、ストラップの茶色い部分は金属です。そして2枚目(下)が、手元にあるだけの過去使ってきた携帯電話、SO502i/SH505i/SH901iSです。2つ折りがあまり好きじゃないので、SO502iとか気に入っていたんですけどね。

投稿者 birdwing : 2007年12月 4日 00:00

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