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2009年2月 5日
ドラクロワ、そして文学論へ。
いまぼくは、あらゆる情報に触れながら一度それらをシャットアウトして、自分のなかにある好奇心であるとか、センサーがキャッチした何かに耳を澄まそうと考えています。楽しいことばかりではありません。かなしみや辛い感情もあります。汚い部分もある。どろどろとした欲望もあります。そうしたものに向き合うこと。しんどいのだけれど、こいつを片付けたい。
NLP(Neuro-Linguistic Programing:神経言語プログラミング)の本を読んで、これはやっぱり違うな、と考えたのは、辛いストレスの感情を楽しかった何かで置き換えて、こころを軽くしようとする表層的な手段であることでした。先日は引用してしまったけれど、この本、あまり使えません。なので感想を書く気になれない。
一瞬で新しい自分になる30の方法―24時間ストレスフリーでいられるNLPテクニック 北岡 泰典 ダイヤモンド社 2008-11-29 by G-Tools |
手段で解消しても、結局のところ状況は少しもよくならないのではないか。誤魔化しである、と。もちろん、この辛い世のなかでは負荷を軽減する手法が誰かを救うこともあるでしょう。しかし手段で救済することが、ほんとうの救済といえるのか。もっと酷い状況に貶めることにならないか。
マニュアル世代という形容もありますが、NLPもひとつのマニュアルだと思いました。欠けているのは、で、どうするの?ということ。
「額縁の置き換え」というテクニック(まさにこのテクニックということばがマニュアルだ)があり、これはプレッシャーの経験とリラックスした経験を相互に想起できるようにして、プレッシャーの強い状況下でリラックスした感覚を思い出させようとするような技術だそうです。
アンカーリングというテクニックもありました。たとえば拳を握ることによってパブロフの犬的に楽しいことを思い出させる。ただ、やっぱりこれは逃げだと思う。感覚のすり替えをつづけていると、ほんとうに危機的な状況において、きちんと危機を認識できないようになってしまう気がする。いまあらためて思うと、80年代のバブルにそうやって生きてきた人間はとても脆い。スタイル重視なんですよね、内容ではなくて。
スタイルから入る世代の人間たちは、ときとして本質を見失います。
家を買うこと、クルマを持つこと、肩書きを手に入れること、他人に誇れる資格を取ること、格差のなかで勝ち組になることばかりを追及します。あるいは、アルファなブログで紹介されている本、名盤や名著と言われてリストアップされているものを考えもせずに購入すること(まあ、ぼくもそうだ)、流行の店にはとりあえず行っておくこと、みんながやっているなら違和感があったとしても口を閉ざすこと、そんな風に空気の流れを読んで、空気を乱さないようにする。
しかし、そうやって流されていて、ほんとうにいいのか。
ひとのことは言えないけれど、ぼくは日本の政治の舵取りをすべき麻生さんがほんとうに問題なのは、漢字の読みを間違うことではなく、自分の考え、信念がないことのように思えます。だから政治の方向性が定まらない。その場その場を切り抜けるだけで、反省もしなければ未来に対する思いもない。しかし彼を取り巻く社会も社会で、漢字が読めないことばかりをマスコミで騒ぐから、それがきっかけとなって漢字ブームを生んだりします。なんなんだか。
気が付くとぼくもまた、ブログブームにのっかって惰性でブログを書いている。一日を進歩もないまま、まあいいか、で終えている。
まあよくない(苦笑)。
そんなときに、コールドプレイ、そしてアラン・ロブ=グリエが監督した映画で出会ったウジェーヌ・ドラクロワという画家なのですが、これはぼくにとって意味があると思いました。Wikipediaのページで絵画を鑑賞しているのですが、彼が描く暗いトーンになぜか惹かれています。
とりわけ、キオス島の虐殺(絵画はこちら)に注目しています。以下、Wikipediaの解説を引用します。
1824年のサロンには『キオス島の虐殺』を出品する。この作品は当時(1822年)実際に起きた事件を題材にしたもので、サロンでも賛否両論を巻き起こした。グロはこの作品を「これは(キオス島の虐殺ではなく)絵画の虐殺である」とまで酷評したが、結局、作品は政府買上げとなった。
きちんと調べていないため、絵画の歴史的な背景には疎いのですが、芸術はかくあるべき、美しさは現世を超越するものだ、というようなサロンの権威に、ドラクロワは暗い現実を突きつけたのではないか。
きれいなものだけじゃないよ、現実の姿をありのままに描写するのも芸術だよ、と。しかし、ドラクロワはやってのけた。なぜなら信念があったからでしょう。だからこそ、次の解説も興味深い。
苗字を分解するとde la croixで、「信仰(信条)に生きる者」を意味する。
飛躍するのだけれど、その感覚がぼくには漱石の「文学論」を読み直す、という動機につながろうとしています。ぼくは全集で持っているのだけれど、岩波で文庫にもなっているんですね。
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漱石は(F+f)という式で、文学的な世界の認識について考えようとしていました。それは世界を世界として正しく認識するための考え方にほかならない。つまり、きちんと「見る」ということ。眼前にひろがる現実から目を背けずに、フォーカス(F)させ、その結果生じるこころの動き(f)をきちんと捉えること。
まだ表層に過ぎません。けれどもこの表層を出発点として、ぼくは世界をとらえ直していきたい。
<あなた>のことをきちんと見ていたのか。<あなた>ではない誰かを、現実の<あなた>とすりかえていたのではなかったか。いたずらに先へ歩みを進めなくてもよいと思っています。ぼくは過去に遡り、もう一度、他者として<あなた>に向き合う。理解できなかったことのひとつひとつをきちんとわかるまで理解する。焦点化あるいは焦点を挿げ替えていた何かを見つけ出して、そのことによって生まれる感情も再現する。そうして自分の汚い部分にも向き合っていきましょう。
終わりはないかもしれません。しかし、死んでしまえば人生はおしまいなのだから、それまでには十分に時間はある。まだ間に合う。
ぼくには学生の頃から片付けていなかった課題がたくさん残っている気がしました。だから、一枚抜けているテスト用紙の夢などをみるのだろうね。
忘れてしまった、置き忘れていた何かが、どこかにある。ぼくの生き方は間違っていなかったと思うし、だからといって正当化するつもりもない。また正しいものが何かについて安易にジャッジできるようなものではないだろうし、蔑まれるものでもない。直面していながら見過ごしてしまった(あるいは目をそらしていた)何かにきちんと向き合いたい。ちいさな課題からひとつずつ片付けていきたい。ゆっくり時間をかけて。
その過程は、ここではないどこかで、あるいはぼくの内側で進展させていくことになるでしょう。課題がある程度片付いたときに、きちんとすべてを赦したり、謝罪できるのかもしれないですね。
そんなことを早朝に考えています。ドラクロワの絵を眺めながら、ぼくのこころに浮かんでくる感情を微細に確かめながら。
投稿者 birdwing : 2009年2月 5日 06:39
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