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2009年2月 3日

グラディーヴァ マラケシュの裸婦

▼cinema09-04:夢と現実、入り組んだ倒錯の物語。

B0010OI5ZCグラディーヴァ マラケシュの裸婦 [DVD]
アラン・ロブ=グリエ
アット エンタテインメント 2008-03-07

by G-Tools

アラン・ロブ=グリエといえば「去年マリエンバートで」の脚本家として知られていますが(監督だと勘違いしていたところ、アラン・レネが監督でした)、監督として彼の名前がクレジットされていたこと、そしてジャケットの芸術的だけれどもエロティックな写真に惹かれて、たまにはこういうのもいいだろ(照)ということで借りてきた映画でした。

ところが知らずに観ていたところ、ウジェーヌ・ドラクロワの名前が出てきて、え?彼にまつわる話なんだ!と思わずにやり。というのも、映画を観賞する前に、コールドプレイのアルバムを聴いていたからです。コールドプレイのアルバムには、彼の「民衆を導く自由の女神」の絵が使われています。直感的にレンタルDVDの棚から引き抜いてきた作品なのだけれど、偶然による連携のセンサーが効いている。いい感じです。このセンサーの働きがよくなると、芋づる式に知を引っ張り出してくれるので。

夢と現実が錯綜した官能的な物語です。モロッコのマラケシュでドラクロワの調べものをしているジョン・ロックのもとに、不明の小包が届きます。開封すると、ドラクロワのデッサンのスライドが入っている。その後、町を歩いているとデッサンのモデルにそっくりの女性に出会い、彼女を追いかけて、盲目の(といっても、ほんとうは目が見えるのだけれど)案内人に導かれて、あやしい場所へ。そこでは、女性たちが演劇という名のもとに、縛られたり傷付けられたり拷問を受けているような倒錯の世界が展開されていて・・・。

複雑に入れ子状になっていて、とてもわかりにくい。ジョン・ロックが出会うレイラという女性は、過去に亡くなっているドラクロワの愛人だけれど、彼の夢のなかに存在している。しかし、彼女が描く物語のなかでジョン・ロックが存在していたりもする。どれがほんとうの夢で、どこまでが現実なのか、とても曖昧です。そして、妄想のなかの狂気が現実を侵食していく。

複雑な物語、身動きの取れない不自由な感覚、望まないのに踏み込んでしまう危うい世界。その息の詰まるような苦しさが官能的です。エクスタシーが呼吸を奪うように、ぼくはオルガスムスに達する息のできない感覚こそが官能であると思います。それは身体的だけでなく、精神的に追い詰められたときの窒息するような息苦しさも同じでしょう。胸を塞ぐかなしみは、どこかしら官能に近い。

愛情の反対は憎しみではなく無関心だ、というマザー・テレサあるいはエリー・ヴィーゼルの言葉を先日のエントリーで引用しましたが、感情の強度という観点からは、愛情も憎しみも類似している。ここでぼくがさらに考えるのは、愛情と憎しみは別々に存在するものではなく、ブレンドされることもあるのではないか、ということです。双方の感情が強ければ、2倍の強い情動となるのでは。

たとえば、愛情が強く燃え上がるためには、憎しみというスパイスが必要になることがあります。ひどい喧嘩をすることによって、より深く愛し合うようになる場合です。もしかすると、"いいひと"があまりスリリングな恋愛に展開しないのは、憎しみという刺激に欠けるからかもしれません。悪女であったり、悪いやつに溺れてしまうとき、精神的に傷つけられる痛みが甘い愛情に変わるのではないでしょうか。もちろん前提として、愛情を抱いている場合です。そうでなければ嫌悪するだけなので。

いとしいあまりに傷付けたくなる。あるいは、傷付けているのにたまらなくいとしい。アンビバレンツという言葉で括るには安易な、そんな感情があります。どこか子供じみた印象もありますが、逆に複雑で成熟した感情かもしれません。サディズムやマゾヒズムの根底に潜むものについて、ぼくは詳しい知識を持ちません。しかし、その暗闇に引かれるものがないわけではありません。どんな人間にも、わずかばかりの狂気やきわどい欲望の感情は組み込まれている。愛し合うときに、それが過剰に発動したり、表面化するか、あるいはこころの底で進展するかというだけのように思います。

ジョン・ロックの家にはモロッコ人の女性が召使としているのですが、彼女は彼を愛するあまり反抗的に挑発します。「分かりません、ご主人様」という言葉で突っぱねる。ジョンは怒って暴力的に彼女をベッドに縛り付けるのだけれど、そうされることが彼女にとってはいとおしい。そして、盲目の案内人に連れて行かれるあやしい家では、さらに過激な鞭打ちなどが行われます。映画のなかでは、妄想の世界なのか現実に行われていることなのか、はっきりしない。

モロッコ人の召使女性の褐色の裸体も美しいと思ったのですが、ぼくは最初にジョン・ロックをあやしい部屋のなかに導いていく後ろ髪を結った女性と、その豊満とはいえない白い胸に、なにやら気持ちがざわつくものを感じました。どうしても映画のなかで彼女を追いかけてしまう。画面の向こう側にいる彼女(名前は忘れた)に惚れてしまったようです。美しいと思いました。しかし、その美しい肌が罪もないのに刃で傷付けられて、拷問のためにあざやかな血が赤く流れていくのだけれど。

という狂気と倒錯をはらんだ映画なのですが映像は美しい。特に構図がすばらしいと思いました。たとえば、赤茶けた岩なのか土なのかで作られたマラケシュの家屋の前に、白い瓦礫の道があります。そこへオートバイに乗ったジョン・ロックがやってくるのだけれど、ああ、ここでバイクが止まったら完璧だ、と思っていたらまさに完璧な構図のなかに止まった。計算されているんですね。唸りました。

フランス語でかたられることばもまた官能的であり、最後にレコードで流れるオペラも印象に残りました。倒錯の世界によってもたらされる結果について語りませんが、愛情と嫉妬と憎しみのなかでもたらされる最後に、あわいせつなさが残りました。とはいえ全体的にはどうでしょう。うーむ。2月1日観賞。

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YouTubeからトレイラー。えーと、かなりきわどいヌードが出てくるので、よいこは見ないようにね。脚に触れるシーン、映画のなかでもどきどきしました。

■Gradiva (C'est Gradiva qui vous appelle) (2006) trailer


投稿者 birdwing : 2009年2月 3日 22:49

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