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2009年2月20日

目を瞑ると、みえてくる風景。

通勤途中、乗り換えのために通過する新宿の駅で、毎朝、若い女性が白い杖をついて通っているのを見かけました。ふつうに歩いているように見えるのだけれど、視力に障害のあるひとのようでした。

ぼくとは違う路線の方角に向けて、ひとごみをクロスするように歩いていく。最近一本はやめの電車に乗るようにしたので、彼女に出会うことはなくなってしまったのだけれど、ときどき、あのひとは大丈夫かな?と雑踏のなかですれ違うだけの彼女のことを想い出します。知り合いではないんですけどね。すれ違うだけのひとなのだけれど。

彼女には彼女なりのしあわせな生活があるのかもしれません。ぼくの想いは眼の見える人間の驕りかもしれず、視力のあるぼくよりも、よほど強くしなやかに生きているかもしれない。どんなひとか知らずに憐れむのは、押し付けがましい同情かな、と少しだけ思う。

こんなことを言うのはどうかと思うけれど、雑踏ですれ違うたくさんのひとたちと同様に、彼女もまた、ぼくには日々の風景の一部でしかありませんでした。しかし、風景の一部である彼女も、確かな人生を生きている。そしてぼくもまた、誰かにとっては風景の一部であるけれど、かけがえのない現実を生きています。

交わることはなかったとしても、同時並行的に複数存在するひとびとの現実の網目によって、ぼくらの世界は幾重にも織り成されている。重なり、交わり、あるいはまったく遠く離れながら。

ときどき、交わることのない誰かについて想いを馳せることがあります。白い杖で歩くそのひとを想うように、眼が見えなくなるというのはどういうことだろう、という風に。交わることのない誰かが眺めている風景を想う。

思い立って、電車のなかで眼を瞑ってみました。気持ちよく眠ってしまわないように気をつけながら。眼を閉じると聴力が際立ちます。連結器の軋む音。線路を伝わって後方へ抜けていく金属的な振動。mixiに書くとか書かないとか学生たちの他愛のない会話。次の駅を知らせるアナウンス。

世界は音で溢れているんですね。眼を開けているときよりも音の定位が気になりました。音が聞こえる方角を耳で追ってしまう。けれどもどれだけ音で埋め尽くされていたとしても、情報は半減どころかまったく少なくなります。視覚に頼って生きていたということ、視覚の大切さについて、あらためて気づかされました。眼を瞑った途端に減少する情報量の少なさは、正直なところ怖かった。

過剰な情報にすがって、ぼくらは生きているのかもしれません。情報に溺れることで、依存することで、自分の脆くちっぽけな存在を保っている。眼が見えなくなるというそれだけで、情報を削ぎ落とされた殺伐とした世界に突き落とされたような気がして、戦慄しました。

もし、眼が見えなくなったら。というよりも、眼が見えなくなるとしたら、暗闇のなかに取り残される前に、ぼくは何を見ておきたいだろう。

きれいなもの、美しいものを見ておきたいとまず考えました。ブログで取り上げることの多い青空もそうですが、雲であるとか、イルミネーションであるとか、ひとびとの笑顔であるとか。絵画であるとか、映像であるとか、だだっ広い草原の風景だとか。見上げていると宇宙に落っこちてしまいそうな気持ちになるたくさんの星空とか、そんなもの。

けれども、その後、いや、そうではないものも見ておきたいと考えをあらためました。路上にぶちまけられた嘔吐であるとか、書き殴られた落書きであるとか、だらしなく座り込む浮浪者だとか、暴力的なできごとだとか。見ることができても、眼を逸らしている現実があります。けれども、見えなくなるのであれば、そうしたものも含めて、世界をありのままに見ておきたい。

見ることが重要な職業には、画家や映画監督などがあります。仕事で映像の撮影に同行して感心したのは、光を作り出す照明さんの仕事でした。専門用語ではバウンスというようですが、間接的に壁に光を当てたり、布で覆ったりして、文字通り光を創っていきます。光の創り方によって、得られる風景が変わる。絵画などもそうでしょう。

光を描いた画家といえばと連想してフェルメールを思い出しました。

写実主義の画家であるフェルメールは、カメラ・オブスキュラという器具を使って風景をとらえようとしました。いわゆるピンホールカメラのようなものだったと思います。大きな箱に針で穴をあけると、そこから入った光が逆さまになって風景を投影する。彼は科学的なアプローチも使いながら光に忠実に絵画を描き、「光の点綴画法」(ポワンティエ)という手法で独特の表現をつくり上げていった(松岡正剛さんの記事を興味深く読みました)。

しかし、絵画として切り取られた世界は、やはり美しい。瞬間や風景を切り取り方として、画家の視点も働いています。描かれた絵画もまた現実ですが、画家が創り上げた現実です。

人間の眼はカメラではありません。漱石風の言説を使うならば、投影された風景は風景のままではなく、焦点化された風景+付随する感情で成り立つ。

クールな科学者の視点だけではなく、感情によって見える風景が変わってきます。こころの在り方によって風景も変わる。人間はどんなときも客観的にみることができるかというと、そんなことはない。主観的に見ることしかできない。そもそも客観性とは何か、ということを考えてしまう。意識の外側で、客観的に世界を捉えることはできるのか。

現実は自分の外側だけでなく、自分の内側にもあります。どんなに解釈が間違っていたとしても、こころのなかに存在した風景は現実の一部ではないでしょうか。誤解や、間違った解釈もまた現実。

眼を瞑ったときにみえる風景もあります。それは夢と似ています。けれども夢ではない。怒りや憎しみによって歪められたり、楽しさや愛情によって過剰に輝いていたり、期待や理想によって膨らまされていたりするけれど、その風景は紛れもない現実です。個人の意識でフィルタリングされていたとしても、自分が想うときに世界は成立し、現実として存在する。

最近、雲はこんなにきれいだったのか、とか、新宿のイルミネーションって意外にきれいじゃないか、とか、どうでもいい日常の風景に感動ばかりしています。できれば、この感動を永遠に持続させるために、言葉や音楽に翻訳したいのだけれど、なかなかうまくいかない。ベートーヴェンやレイ・チャールズ、スティービー・ワンダーのように盲目のアーティストもいますが、彼らにはいったい何が見えていたのだろう。

目を瞑ると、みえてくるひとつの風景がぼくにはあります。

既に失われてしまったのだけれど、あたたかくて、とてもやさしい。もちろん荒涼とした風景もありますが、できれば生涯みつめていたい。視力を失うようなことがあったとしても、みつめていたい風景が、ぼくには、あります。

投稿者 birdwing : 2009年2月20日 23:59

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