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2009年2月23日
卵に宿る生命と、想像の力。
まだ卵について考えています。村上春樹さんのエルサレム賞のスピーチにおいて、比喩的に表現された「壁と卵」の表現についてです。
村上春樹さんが表現した「卵」とは、脆いぼくら個々の生命のこと。最初は表層的な比喩としてとらえていたのだけれど、とりとめもなく考えていくうちに思考が広がってきました。読み終えたばかりヘーゲルの入門書から得た着想も加えながら、卵について考えたことを書いてみます。
すこしばかり詩的な文章になるかもしれません。当初の村上春樹さんの意図からは、ものすごく遠い場所に逸脱してしまった気もしています。わかりにくいかもしれないのですが、ご容赦を。
では、卵(生命)についての考察です。
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卵と卵。つまりぼくらの生命と生命は脆い殻で隔てられています。
だから、相手の殻のなかに存在する生命に、ぼくらは直接触れることはできません。どんなに近づこうとしても、殻に拒まれます。どんなに愛し合うふたりであっても、殻を壊して相手のあたたかな本質に触れることはできない。
結局のところ、卵たちはひとつになることができません。殻という薄っぺらなもので拒まれているから、ふたつの、あるいはたくさんの生命を融合することはできない。いびつな球体のかたちで個別に存在するだけです。孤独を破ることができずに、ころころと転がるばかり。殻のなかには、あたたかい生命がぎっしり詰め込まれているのだけれど、とろりと溢れて流れるような、そのひとの本質には近づけない。それが卵たちの現実です。
けれども、その卵は、想像することができる卵です。
自分と同じような生命が相手の殻のなかにも宿っているのだな、と想像することによって、そのあたたかさを想うことはできます。殻を壊さなくても、想像の力によって、ぼくらは卵のなかにある他者のあたたかさを感じられる。
想像の力は、殻によって隔てられた距離をわずかだけれど薄くすることができます。共感も同じでしょう。楽しさや嬉しさ、かなしみやよろこびを共有するとき、ぼくらはお互いが殻に隔てられた孤独な卵であることを忘れます。そうそう!わかるよね!と、透明なタンパク質のふるえをお互いに感じる。生命のふるえを共振することができます。
卵のなかに存在するあたたかい生命は、決して「記号」ではありません。どんなに黄身のかたちが似ていても、ひとつとして同じ生命は存在しない。生命は代替不可能であり、個々によって異なります。総括することもできなければ、省略もできない。
生命は流動的です。言葉という記号で固形化しようとしたとき、するりと零れていってしまう。殻のなかで透明な塊としてぷるぷる震えている生命は、常にかたちを変えている。むしろ殻が「記号」かもしれないですね。個人は記号としての殻+生命としての中身として、卵の総体をかたち作っているのかもしれない。
ぼくらはときとして、殻に向けて言葉という記号の石つぶてをぶつけることがあります。殻があるから大丈夫だろう、これぐらいのものを投げても平気だろうと、容赦なしに硬い言葉を投げかけることがある。
しかし、ぼくらの生命を守る殻は、実はとても脆くて壊れやすいものです。殻は個々人を守る「壁」のようにみえますが、システムのように堅牢ではない。だから殻は壊れる。壊れた卵は、二度と元には戻りません。
生きていながら破壊される殻、壊れる生命もあります。内田樹さんのエントリで紹介されていましたが、戦争後、とにかく日々祈るしかなかった村上春樹さんのお父さんのエピソードは、ぼくには壊れた卵を想像させました。生命のぬくもりを失いかけている。身体的な負傷はなかったとしても、戦争によって卵の殻のどこかにひびが入って、そこから中身が抜け出てしまったのでしょう。
生命のあるものとして、自分の、あるいは他者の殻を壊さないようにするにはどうすればいいのか。
殻を鍛えることもあるだろうし、壊れやすい場所には近づかないこともあります。しかし、ぼくが思ったのは、破壊しようとするひとが、殻のなかにある他者の生命について少しだけ、あるいは深く想像を働かせることが重要ではないか、ということでした。
戦争を抑止するのも、不毛な諍いを止めるのも、あっけなく他者や自分を殺めたり傷付ける手を止めるのも、小説をリアリティをもって活かすのも、この想像の力ではないでしょうか。子供たちが本を読まないことが問題ではなく、想像の力が弱まりつつあるのが、社会にとってはいちばんの問題なのかもしれません。
逆に、そこにはないシステムを、あたかもあるように見せるのも想像の力です。何かの影を化け物のような恐怖で装飾するのも想像力。
国家間であっても、個人どうしであっても、憎しみや恨みを暴走させるのもまた、コントロールを失った想像の力ではないでしょうか。想像は所詮は現実ではないのだから、時間のなかで減衰していくはずです。なのに、いつまでもリアリティのある強固な想像が持続されてしまうと、過剰な想像が現実を侵食していく。想像は永遠には続かない。失われて夕暮れのように減衰していくからこそ、ぼくらはこころの平穏を取り戻すこともできる。現実を生きられる。永遠なるものは、ぼくには非現実的に思えます。
リアルに照準をあてて、自分のなかで過剰に膨らんだ想像を軌道修正できること。想像を矯正したり、抑制したりできること。自分の想像をひとまず放棄して、他者の想像(つまり、考えていること)を仮想のなかに描けること。他者の想像もまた、どんなに自分とは異なっていてもリスペクトできること。
思いやり、という言葉はどこか独善的な感じがしました。だからぼくは想像力だと考えました。情報化社会に生きるぼくらにとっては、想像力こそが重要な力ではないでしょうか。テキストからリアルを立ち上げ、またテキストにない行間からみずみずしい現実世界も描けること。一方で、目前に広がる世界の実像と照らし合わせて、想像をリメイクできること。過剰な大きさの想像をリサイズしたり、不要な部分をトリミングできること。そんな想像の編集技術。
そうして、想像力を鍛えるためには、物語、つまり文学が必要なのではないのかな、と思うのです。
投稿者 birdwing : 2009年2月23日 23:38
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