« 卵に宿る生命と、想像の力。 | メイン | 何かがおかしい、教育のいま。 »

2009年2月24日

バクダンを抱えつつ、生きる。

雨降りの寒い日がつづいています。春はどこへ行ってしまったのでしょう。身体の芯から冷たくなるような寒さで、きりりと引き締まる気がする。この、きりり感も悪くはないのですが、どこかびよ~んと弛緩して生きてゆきたいぼくには、ちょっときつい。なので、春を待っています。コートの襟を立てて顔を埋めながら、きびしい風をやり過ごそう。はやくあたたかくなるといいですね。

さて。先週、眼科で緑内障という診断をいただきました。

緑内障は眼の病気で、視神経がダメになって視野が失われていきます。通常でも視神経は年齢とともに減少していくようですが、眼圧の増加とともに急激に視神経がやられてしまう。レイ・チャールズも緑内障で失明したようですが、ひどくなると失明に至ります。最近、40代以上の世代に増加しているらしい。しかし、目薬の進化により、手術をしなくても症状の進行を食い止められるようになったとのこと。

そもそもずっと眼のちらつき感がありました。本がよく読めなくて、年とっちゃったかなあ、などと嘆いていた。そうしているうちに先日の人間ドックで発覚したのですが、その後、眼科でしっかり診察してもらうと、右目の上半分の視野はかなり損なわれてしまって、よくみえていないらしい。そんなことはない、と思うのだけれど、左目で補っているようです。息子が好きな怪獣ガンキュウみたいに、ひとつ目じゃなくてよかった。

あわてて複数の眼科に通いました。しかし、ひどくなるまで発覚しにくい病気で、症状が自覚できるまで進行した緑内障は、もはや治す術がない。あとは進行を止めるしかないようです。失明というバクダンを抱えたまま、毎朝、規則正しく目薬をさして、生活をあらためて穏やかに生きていくしかない。

暗くなりました。眼が見えにくいので、暗いことは比喩でもなんでもないのだけれど、落とし穴に嵌ったみたいに凹んだ。おじいさんではあるまいし、まさか自分がそんな病気になるとは思わなかったので。

正確にいうと、暗いというよりも、右目はハレーションを起こしたようなちらちらが始終みえていて、どちらかというと明るい。白い画面や文庫を読もうとすると、ちらつきがひどくなります。なので、電車のなかで文庫が読めない。読もうとすると、とても疲れてしまう。通勤・帰宅時間は楽しい読書タイムだったのに、目を瞑って眠るか、音を聴くしかない。残念なことです。

診察に関して触れておくと、眼科の視野を検査する機器は結構興味深いものでした。白いお椀型の容器に、眼を片方ずつガーゼでとめてもらって顔を突っ込む。中心の黒い点をみつめていると、お椀のあちこちに光が点滅します。光を感じたら、スイッチを押す。さながら、ちいさなパーソナルプラネタリウムのようでした。片方5分ぐらいの検査だったのですが、もう少しやっていてもいいですか?とピンクの仕事着の看護婦さんに言いたくなった。

と、楽しげに書いていますが、一時はかなり精神的にまいっていました。ただでさえ不況の昨今、失明したら仕事はどうするのだ、視野を失うのは世界を失うようなものではないか、と。しかし、周囲に緑内障を患っているひとも多く、そんなひとたちの話を聞いて、ちょっと安心しました。気をつける必要はあるけれど、心配しすぎることもないのではないか。だいたい、なっちゃったものはしょうがない。覚悟が肝心である。

ここしばらくブログのエントリで失明とか視野とか、そんな言及が多くなったのは緑内障ショックの背景があります。夜中にひとりでPCの画面に向かって、かたかたと文字を入力しているので、プライベートな感じがするけれど、ブログはパブリックなスペースです。そんな場所で病気を公言するのもどうかとは思うのですが、婉曲に書いているのもなんだかなあという感じがしてきたので、少し落ち着いた本日、あらためての告白です。

息子の髄膜炎のときにもそうでしたが、病気のときには、ネットで調べたことが参考になる。過剰にネガティブな情報を収集して、かえって心配になることもありますが、主体的に必要な情報を取捨選択すれば症例について有効な知識を得ることができます。すこしでも同じ緑内障のひとの参考になれば(というか、ならないか・・・)ということで、ぼくもこの現状をネットの海に投げてみます。とはいえ、個人によって症状も違うと思いますので、心配なひとは安易に自分で判断せず、医師の診断を仰いでくださいね。

不摂生の結果です。ストレスもあっただろうし、過酷に目を使いすぎた。めちゃめちゃな生活をしてきた報いかもしれません。しかしながら人間、年をとるといろんな支障が出てきます。だれでもわずかばかりのバクダンを抱えながら生きているもので、そもそも明日何があるかなどぼくらにはわかりません。どんなに健康な人間であっても、とんでもない事件に巻き込まれることだってある。

そんなことを考えているうちに、ざわざわと揺れていたこころは次第に静かになってきました。緑内障というバクダンを抱えつつ、美しいものも美しくないものも、視野が生きているあいだ、ずっと見続けていきたいと考えています。だからといって生き急ぐことはないですけどね。ゆっくりと見ることを楽しむ。ぼんやりと空を眺めるような時間を大切にする。というか、以前からそうだったか。あまり生活は変わらないかもしれない。

ぼくのブログを読んでコメントをいただけるひとは、とってもやさしいひとが多いのですが、慰めはいりませんよ。自業自得です。病気であることを知って、なんだか穏やかに前向きな気分になっています。逆にこのエントリを読んでいるひとに告げたいと思います。

いまを大事にしてくださいね。それが未来にきっとつながるはずです。

いまの自分を大切にしてください。あなたがそこにいて、ありふれた日常の世界を眺めているというただそれだけのことであっても、それは実は、ものすごく素敵なことだと思います。

あなたの目前にあるリアルを大事にしてください。ぼくもまた、そうやって生きていこうと思います。いつ爆発するかわからない、バクダンを眼孔に抱えながら。

投稿者 birdwing : 2009年2月24日 22:51

« 卵に宿る生命と、想像の力。 | メイン | 何かがおかしい、教育のいま。 »


2 Comments

胡瓜 2009-02-26T20:38

治る病気は治せばいいし、治るのが何よりだけど。
そうじゃない病気も多いわけで。そんな時に大事なのは
病気と仲良く上手く付き合って行く事だと思います。
あたし身近にリウマチの人居てて。
数年前と比べたら、手の形だって変わってきてるし
体調も悪くて。でも、やっぱ病は気からなのね。
ユニバーサルデザインと言いつつ、まだまだ使いにくかったり
何でもっと機能も追及しつつ、デザインもオシャレに出来ないの?とか
色々見えて来る事あったりね。
決して、猫と同じ扱いするわけでは無いけど。
うち、片目の猫いるじゃないですか。
最初はね?やっぱ家の中を何か工夫した方がいいかな?とか
思ったけど、そんな心配は一切不要で。
今も可哀想とか不憫って感情は無いなぁ。
>なっちゃったものはしょうがない。
この子も、さらっとそう思ってるのか
実に生意気でかっこよく生きてます。
閉じたまんまの片目で、開いた目では見れない何かを
いっぱい見て感じてると思う。
BWさんもきっとそうやって、かっこよく年を重ねていくと思うな。
爆弾は凶器でありながら、ある時は人の役に立ったり、人を救うものにもなったり。
爆発も同じで、宇宙も星も繰り返して今があるし。
芸術だって爆発です(笑)
そう考えたら、何かかっこいいヒーローになった気がしません?

BirdWing 2009-02-26T23:40

ふむ。そうですね。コメントしにくいエントリに、あえてコメントありがとうございます。胡瓜さんはブログで読む以上に、いろんな経験もされていて、だからこそ言葉に重みがあります。時々かなわないなあと思います。

片目の猫さん居ますね。しゃきっと生きてるなあと思っていました。背筋が伸びていて上品です。

> 閉じたまんまの片目で、開いた目では見れない何かを
> いっぱい見て感じてると思う。

これ、よかったです。心眼っていうのかな。きちんと目が開いているのに見えないものも多い。けれども、眼を閉じることによって、自分のこころにみえてくる風景もあります。眼球がなければ何かが見えないかというと、そんなこともない。見ようとするこころさえあれば、感じ取れる世界があります。

ただ、思うのは、失ったときに(いや、まだ視力は失ってはいないのですが)、わかることは多いなあ、ということでした。失ってはじめて大切なことに気付く。失う前に気付いて、なんとかして損なうことを回避できればいいのですが、後悔先に立たずですね。

自分も他人も傷付けるとわかっていれば、バクダンなんかに火を付けなければいいのに、かーっと感情に任せて火を付けてしまうこともあります。どっかーんとすべてを破壊してしまう。大人じゃない。愚かだなあ、と思います。

人間って、いつまでも同じではいられないし、どんどん変わっていきます。いろんなところにガタがきて、よぼよぼになったとしても、胡瓜さんが書いている通り、かっこよく年を重ねていきたいと思いました。爆発かぁ・・・ミシェル・フーコーの「花火師」という言葉も思い出したりしましたが、気取っても仕方ないですね、ここは岡本太郎でしょう。

ええと、かっこいいヒーローにはなれません(苦笑)。でも、何かが吹っ切れたふつーのひとにはなれそうな気がしました。過去も現在も、肯定しようと思います。しちゃったものは消去できないし、なっちゃったものは仕方がない。目が見えなくなったとしても音楽は聴けるわけだし、視野がある限りは、映画も絵画も、あらゆる美しいものを見ていたい。

ありがとう、胡瓜さん。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://birdwing.sakura.ne.jp/mt/mt-tb.cgi/1056