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2009年2月27日

何かがおかしい、教育のいま。

教育の場にいるわけではない自分が批判するのはおこがましい気がするのですが、朝日新聞の「小学校に「学級委員長」不在の鳥取県、20年ぶり復活へ」という記事を読んで、びっくりしました。鳥取県の学校では人権を尊重する意味から、「他の児童を差別することにつながる」という理由で、学級委員長を20年ものあいだ置かなかったとのこと。ひええ。ほんとうなのか、それ。

自分の幼少の頃を思い出してみても、学級委員長という役割は、たしかに必要かどうかびみょうな存在でした。給食係や飼育係は必要だけれど(配膳は大事だし、いきものが死んでしまったらかなしい)、学級委員長はなくてもいいんじゃないのかなという、そもそも論は感じていました。

政治的な縮図を学校に持ち込んで社会の仕組みを学ばせる意図があったのかもしれません。だからといって学級委員長はクラスの政治を自由に采配できるわけではなく、すこしも偉くない。学級会の司会などを務めるだけで、別に交代でやってもいいよね、と思う。

選ばれたからこそ辛いことだってあります。少年の頃、ぼくも何度か学級委員長をやった経験があるのですが、おまえが選ばれたのは先生に贔屓されているからだろうとか、いわれのないいちゃもんを付けられて、友達から村八分にされたこともありました。

贔屓のことを「花(文字を分解するとカタカナでヒイキになる)」という隠語で言っていたことを覚えています。おまえは花だ、と宣告されて仲間外れにされた。そのトラウマは、いまでも根深く残っているような気がしています。

という自分の過去の闇はともかく、教育の場では、必要ないからやめちゃえ、という判断は間違っていると思う。さらに「落選したひとがかわいそうだから廃止すべきだ」、すべての児童を平等にするために特権階級のような学級委員長は廃止すべきだ、という考え方は何かがおかしい。

地域性の問題があるのだろうか。鳥取県の事情に詳しくないのでよくわからないのですが、そこまでフラットにしなければならない地域に根付いた何かがあるのかもしれません。あるいは地域性だけではなく、いま全国でそうした兆候があるのかどうか。断言はできないけれど、かすかに同じような空気は感じられます。

人権を過剰に守るあまりに非現実的なバイアスをかけて、個々人の特性を奪い去ってフラットにしたところで、真の意味で子供たちによいことなのかどうか疑問です。現実社会への適応力を失くしてしまうだけではないか。過ごしやすい平等な学校生活は維持できるかもしれませんが、厳しさに対する耐久力がなくなりそうだ。つまるところ過保護だと思います。

子供のためという大儀から、逆にかれらを育てることを放棄している印象もあります。そこまでフラットな社会は、現実の大人の社会には、どこにもないですよね。どこにもない理想郷で育てられた子供たちが大人になって社会という無法地帯のジャングルに出たとき、はたして強く生きることができるのか。

いろいろな考え方があるとは思うのだけれど、小学校の教育を、社会とは隔離された夢の王国にすることはないと思う。むしろ現実社会の練習問題として、あるいは社会のシミュレーションとして、もっともっと小学校や中学校で社会に出るための予行練習をやったほうがいいと思っています。ゆとり教育などという甘いことばが崩壊した現在、子供たちの未来を考えた上で、現実的に教育を最適化すべきではないか。

競争も必要だと思うし、討論することも必要。しかし闘うばかりではなくて協調するための忍耐力、相手の生命に思いを馳せるやさしさを学ぶことも大切です。政治家が迷走する現在、リーダーシップの育成はぜったいになくてはならないものだと思うし、だからこそ学級委員は、きちんと公約をプレゼンテーションして選挙によって選別すべきだと思います(ぼくらの子供の頃には当たり前だったけれど、いまではそんな光景もみられないのだろうか)。情報のリテラシーを学ぶことも大切。想像や創造の力、考える力をつけることはさらに大切です。

たとえば、実際に息子が学校の授業で面白がっていたのは、商売のシミュレーションのような「お店屋さん」ごっこでした。ビジネスゲームかもしれないのですが、粘土などで寿司や商品を作って、値段をつけて売る。どうしたら売れるようになるかを考えて、値段を下げたりおまけを付けたり工夫もする。協力して役割分担していくうちに、経営の基本のようなものを意識するようになる。

就活では、ビジネスを体験できるワークショップも多くなりました。説明選考会という名のもとに、ビジネスを疑似体験できるグループワークをさせる。インターンシップを経験すれば社会をもうすこし体感できるのかもしれませんが、社会人が学生にカイシャというシャカイを教える機会がもっとあっていい。それは大学に限らず、中学や小学校でやっても構わないと思います。

当然ですが、社会はゲームどころではない。単純なシミュレーションやロールプレイングで社会が学べるかというと甘い。教科書にはない難問や、どうでもいい落とし穴がたくさん用意されています。とはいえ、ほんとうに必要なものをまず学ぶべきであって、子供たちが学ばなければならないことは、ものすごく泥臭いことなのかもしれない。勉強の楽しさ、などのようなきれいごとではなくてね。

もちろん、これは考え方のひとつです。小学校にしても大学にしても、カリキュラムすべてがビジネス養成スクールのような編成になってしまったら、学校である必要がない。絵画とか音楽とか、あるいは文学の世界であるとか、はっきり言って無駄だけれども、こころのゆたかさを学ぶ教育も必要だと思う。教育はビジネスとしては割り切れない側面もあるのだから、効率だけ追求しても意味がない。勉強以外の分野のモノサシもきちんと用意されていて、勉強はめちゃめちゃだけど絵がうまい、という子供にも居場所があることが必要だと思います。

とかなんとか理想を書いていますが、正直なところ、ぼくは学校が大嫌いでした。できれば行きたくなかった。

ぼくが学校で学んだいちばん大切なことは何だったか。行きたくないところでも我慢して行かなきゃならないことが社会にはいっぱいある、ということだったかもしれません。その象徴として学校があった。

好きなことだけをやって生きてはいけないし、妥協したり我慢したり、ときには弱さを隠したり、笑いたくもないのに笑ったりして生きていかなければならないこともある。少年だからといって、ぼくの思考は決して拙いわけではなかった。わいわい楽しいだけのスクールライフではありませんでした。その年齢なりに真剣に人生を考えていたと思います。ちいさなアタマを熱くして、生き方について考えていました。それはいまの若いひともそうでしょう。若いからといって、稚拙なことはない。真剣に考える想いは大人に匹敵するはず。

生きにくさを感じたのは、大人になって社会に出てからではありませんでした。いまにして思えば、12歳のぼくは、大人に負けないぐらい十分なほど人生を悩み、未来を疎んじていた。なんで生まれてきちゃったんだろうな、生きていくのは面倒くさいな、ということを憂いて、眉間に皺を寄せていました。現実に流されて感覚の鈍ってしまった大人となったいまよりも、ずっと真剣に。ずっと純粋に。

いま、子供たちは何を感じているのでしょう。

時代は変わったのかもしれません。いや、確実に変わったのでしょう。いまの子供たちは、デジタルネイティブな子供です。つまり、生まれたときからインターネットがあり、遊びといえばゆたかなグラフィックによるゲームが中心で、ひとりひとりで遊ぶことがふつうになっている。かれらにはかれらなりの生きにくさもあるだろうし、直面している課題もあるはずです。予測のつかない常識もあるだろうし、一方でぼくらの世代となんら変わりのない側面もある。

しかし、運動会では負けた子供がかわいそうだからということで順位が付けられず、落選したひとがいたたまれないといって学級委員長は廃止され、何か問題が起きると親が学校に乗り込んでくる。そんな大人たちが加工した歪んだ環境も存在します。大人たちの余計な配慮で作られた人工的な環境で育った子供たちが社会に出たとき、いったい世界はどのように変容するのか・・・。

薄ら寒い恐さをぼくは感じています。

投稿者 birdwing : 2009年2月27日 00:31

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