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2010年9月12日

「これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学」マイケル・サンデル

▼book10-12:自律的に、自由に生きるために。


4152091312これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル Michael J. Sandel 鬼澤 忍
早川書房 2010-05-22

by G-Tools


正面きって「これからの正義の話をしよう!」といわれると、ええっ?恥ずかしいよう・・・と面映い気持ちになりませんか。逆に、しようしよう!とみょうに乗り気になるのもいかがなものか。悪と闘う正義のヒーローはテレビの戦隊モノで十分。現実生活のなかで、正義は偽善的な響きさえあります。おおくのひとには敬遠されがちかもしれません。

しかし、この正義が見直されているようなのです。

残念ながらぼくはNHKで放映されていた番組を観ていないのですが、マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう」は、NHK教育テレビ「ハーバード白熱教室」の講義を書籍としてまとめたもののようです。ハーバード大学の学部科目「Justice(正義)」は、延べ14,000人を超える履修者を記録し、あまりの人気から講義を一般公開するようになったとか。書籍もベストセラーで、Amazonで1位(2010/5/14調べ。表紙カバーに書かれた紹介文を参考)。凄いですね。

さすがに人気講義だけあって、ぐいぐいと文章に惹き込まれました。面白い。

哲学に関していえば、哲学研究者には関心がありません。哲学するひとに関心があります。じゃあカントやヘーゲルやウィトゲンシュタインなどの本を直接読めば?といわれると腰が引けてしまう。王道的な哲学に嵌まったら、どんどん現実から遠ざかる気がするのです。したがって、ぼくが読む本は、中島義道さんや永井均さんなど比較的読みやすい哲学入門書、二次的な解説書になるわけですが、彼らは率直なところ哲学者として開き直っている感があります。どこかしら厭世的で、現実的な問題からは目を逸らせがち。

騒音を撒き散らすスピーカーを破壊するアナーキーな中島義道さんは、ご自身の哲学を実践されているとも考えられるのだけれど、その実践はどうかなあ、とおもう。永井均さんは、「今」「私」という純粋な哲学的問いに拘りすぎで、哲学的な引き篭もりな感じがする。猫が語りかける子供のために書かれた一連の哲学書は刺激的で、永井さんの哲学的な問いには共感します。しかし、どこか思考という砂場の「遊び」として感じられてしまう。純粋に哲学に没頭されているあまり、現実をみつめていない気がする。

個人的にぼくは哲学に興味を抱いていて、その一方で現実生活ではまったく「役に立たない」哲学という学問がもどかしく、なんとか現実との接点を見出せないものかと考えていました。

しかし、マイケル・サンデルは違う、とおもいました。

彼は政治哲学者の立場から、哲学を背景に、あくまでも現実の問題を次々に指摘していきます。具体的な事例を挙げて、ぼくらに問いを投げかけるのです。

ハリケーンの災害による便乗値上げが公正かどうかにはじまり、パープルハート勲章(名誉負傷勲章)にふさわしい人物は誰か、バブル崩壊して公的支援を受けた企業で役員が法外な報酬をもらっているのは妥当かどうか。さらに、徴兵制や傭兵の妥当性、代理母や臓器移植による生命の売買、大学入試に関するアフォーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)の是非、などなど。

現実問題を考える哲学的な基盤として、ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミル、イマヌエル・カント、ジョン・ロールズなどの哲学者の考え方にも触れています。サンデルによる解説は非常にわかりやすいものでした。カントの哲学は超難解だとおもうのですが、功利主義批判の観点から解説された箇所は目からウロコでした。

善か悪か、正か誤か、と、○×方式のような答えを出すことが哲学の目的ではないし、現実は簡単に割り切れるものではありません。永井均さんも著書のなかで述べられていたかとおもうのですが、哲学には問いだけがある。そして、『これからの「正義」の話をしよう』という本は、現実社会における多様な疑問符が掲げられた本という意味で真に哲学的ではないでしょうか。

多様な領域を扱う本だけに感想を書くのが難しいのですが、ここでは、マイケル・サンデルが掲げた問いのなかから2つの抽象的な考え方を選んで、自分なりに考えを深めてみたいとおもいます。「自由」と「アメリカの正義」についてです。


■■功利主義批判、そして自由とは

自由とは何か。自由であるとはどういうことか。その問いは、以前からぼくのなかにありました。籠のなかに閉じ込められた鳥のような思考ではなく、自由に羽ばたける思考を獲得したい、と。

たとえば正義は、道徳や倫理、常識という普遍化されたモノサシで測ります。したがって、一定の価値観や基準が必要になります。このとき既存の枠組みのなかで考えるのであれば、まったく自由ではありません。定型の価値観から生まれた正義は、借り物の正義だとおもいます。

誠実に正義について考えようとするのであれば、いったんすべての価値観を捨てて、世間一般にある定型の価値観を疑い、批判および再検証しつつ、独自の正義感を立ち上げる必要があるのではないか。ぼくはそう考えました。

独自の正義感を立ち上げるのは途方もなく面倒な過程であり、だからこそ多くのひとは既存の価値観に身をゆだねるものでしょう。しかし、それでいいのか。もしかすると世間一般の正義が「正しくない」場合もあるかもしれません。

マイケル・サンデルは「暴走する路面電車(P.32)」の例を挙げていますが、暴走する路面電車を止めるために、ひとりの作業員を殺すことによって5人の作業員を救うことが正しいかどうか。そんな正しさを判断しにくい問いもあります。この問いは難しいものです。ぼくは答えを出すことができませんでした。

「これからの「正義」の話をしよう」では、そんな具体的な問題とともに、哲学の変遷を辿りながら読者に思考のヒントを与えてくれます。最初に紹介されるのは、ベンサムの功利主義の考え方です(P.48)。

イギリスの道徳哲学者であり法制改革者でもあったベンサムは、功利主義の原理を確立した。その中心概念は簡潔で、直感に訴えかけてくる。それは、道徳の至高の原理は幸福、すなわち苦痛に対する快楽の割合を最大化することだというものだ。

幸福の最大化がモノサシの基準、というわけですね。ひとりの人間のなかで苦痛から快楽への目盛りを最大化することはもちろん、多数決ではありませんが、社会全体においてより多くの人間が幸福を感じるときが道徳的に理想である、としているようです。

ベンサムによれば、正しい行いとは「効用」を最大にするあらゆるものだという。効用という言葉によって、ベンサムは快楽や幸福を生むすべてのもの、苦痛や苦難を防ぐすべてのものを表わしている。

とてもわかりやすい。1人を幸福にするより、10人を、100人を幸福にしたほうが「効用」がある。とすれば、暴走する路面電車の例では、1人の作業員を犠牲にして5人の作業員を救うことは功利主義的に正しいといえます。ベンサムは「われわれは快や苦の感覚に支配されている」として、このふたつの感覚はわれわれの「君主」だとします。

ただ、ぼくのなかでは何かが解せない感じがしました。ベンサムの功利主義に居心地の悪いものを感じてしまう。

サンデルはベンサムの功利主義に対する反論として、最大幸福原理は人間の尊厳と個人の権利を十分に尊重していないこと(「個人の権利」)、道徳的に重要なことをすべてのことを快楽と苦痛という単一の尺度に還元するのは誤りだ(「価値の共通硬貨」)と反論します。

では、こうしたベンサムの功利主義の欠陥を補うものはないのか。その答えとして、1859年の著作であるジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を引き合いに出して、次のように解説します(P.67)。

『自由論』の中心原理は、人間は他人に危害を及ぼさないかぎり、自分の望むいかなる行動をしようとも自由であるべきだというものだ。政府は、ある人を本人の愚考から守ろうとしたり、最善の生き方についての多数派の考えを押し付けようとしたりして、個人の自由に介入してはならない。人が社会に対して説明責任を負う唯一の行為は、ミルによれば、他人に影響を及ぼす行為だけだ。

人間の尊厳と個人を尊重し、単一の尺度から踏み出すために、「他人に危害さえ及ぼさないかぎり」という条件が提示されました。これでベンサムの功利主義の欠陥は埋められたかのようにみえます。

しかし、他人を傷付けない限り何をやってもいい、という考え方はわかるのだけれど、であれば代理母や臓器売買の問題は全面的に許容されるのではないでしょうか。自分が苦しんだり損なわれたりしたとしても、他人のためになるのだから、幸福の最大化に貢献していると考えられます。

また、政府が個人の自由に介入すべきではないという考え方は、リバタリアニズム(自由至上主義)に通じる、と位置づけます。格差の拡大が問題になっていますが、リバタリアンの主張は、貧困者を助けるために富裕者に課税するのは不公正とのこと(P.80)。

リバタリアンは、経済効率の名において、経済効率の名においてではなく人間の自由の名において、制約のない市場を支持し、政府規制に反対する。リバタリアンの中心的主張は、どの人間も自由への基本的権利――他人が同じことをする権利に尊重するかぎり、みずからが所有するものを使って、みずからが望むいかなることも行うことが許される権利――を有すると言う。

時代背景は先送りされますが、リバタリアンについての補足です(P.82)。

一九八〇年代には、ロナルド・レーガンやマーガレット・サッチャーによる自由市場支持、政府規制反対の過激な発言のなかに、リバタリアン的な考え方が見出された。知的原理としてのリバタリア二ズムは、福祉国家反対論としてずっと早くから登場していた。オーストリア生まれの経済哲学者フリードリッヒ・A・ハイエク(一八九九・一九九二年)は、『自由の条件』(一九六〇年)において、経済的平等を強めるようないかなる企ても必ず強制と自由社会の破壊につながると主張した。アメリカの経済学者ミルトン・フリードマン(一九一二・二〇〇六年)は、『資本主義と自由』(一九六二年)で、多くの広く受け入れられている国家活動は個人の自由を不法に侵害するものだと論じた。

ハイエクが出てきましたね。気になる経済哲学者のひとりです。

これらを踏まえた上で、功利主義に対する批判として、マイケル・サンデルはイマヌエル・カントを登場させます。

正義へのアプローチとして、1)幸福を最大化する功利主義、2)完全な自由市場によるリバタリアン、3)美徳に報い、美徳を促すという3つを挙げて、カントは「幸福の最大化」と「美徳の奨励」を認めず、2つ目のアプローチを勧めている、とします。しかし、カントの「自由」は厳格です(P.143)。

カントの考える自由な行動とは、自律的に行動することだ。自律的な行動とは、自然の命令や社会的な因習ではなく、自分が定めた法則に従って行動することである。
カントの言う自律的な行動を理解する一つの方法は、それを自律の対極にあるものと比較してみることだ。自律の対極にあるものを表わすために、カントは新しい言葉をつくった。「他律」だ。他律的な行動とは、自分以外のものが下した決定に従って行動することだ。

この部分を読んで、カントの考え方に共鳴しました。

幸福の最大化を考える他律的な功利主義よりも、自分の法にしたがう自律的な自由のほうがいい。しかし、現実は違います。特に弱者ほど、自律的な自由よりも権威主義のような他律的な自由を求めたがります。このことをエーリッヒ・フロムは、自由「からの」逃走として指摘しました。ニーチェ的な用語では「畜群」の思考でしょうか。日本では「空気をよむ」ということがよく言われますが、長いものに巻かれたほうがラクといえばラクなのかもしれない。けれども、それではいけないのではないか。

みんながそう言ってるから従う、多数決(最大多数の幸福)が正しい、というのではなく、ほんとうにそれでいいのかな?と疑うこと。一般的な定型の思考に身体をゆだねず、自分自身の感性やモノサシを大事にすること。自分の胸に聞いてみなというように、自律的な価値観をもつこと。

いまぼくらに求められているのは、
自分の法を確立することによって外部から解き放たれる自由
ではないか、とおもうのです。

すくなくともぼくにとっては、外部からの揺さぶりに対して強度のある崩壊しない自己の中心、核となる思考を獲得したいですね。その核があれば、他者や環境からの脅威に対して動じないとおもうので。


■■国家の解体、そしてアメリカの正義とは

ところで、マイケル・サンデルの本を読了したのは7月29日でした。ベストセラーで非常に面白かったとはいえ、どのようにまとめたものか方向性がみえず、しばらく感想を書かずに放置していました。しかし、寝かせておいたおかげで、それ以降に読んだ本の内容がサンデル本につながっていく感覚がありました。

難解なことばでかっこよく言ってしまえば、インターテクスチュアリティ(間テクスト性)というジュリア・クリステヴァの用語になるかもしれないのだけど、書物はみえない文脈という糸でつながっています。また、ぼくら読者には、まったく関係のないものをつなげてしまう解釈というチカラがあります。

ツイッターでご紹介いただいたことがきっかけで読んだ、吉本隆明さんの「超「20世紀論」」がサンデル本とつながりました。現在、絶版で、Amazonを通じて古本を買い求めてやっと読むことができた本です。

超「20世紀論」〈上巻〉 超「20世紀論」〈下巻〉

マイケル・サンデルの本の感想を書きながら別の著者の本を絶賛するのもいかがなものか、とおもうのですが、「超「20世紀論」」はサンデル本に匹敵します(すくなくともぼくのなかでは)。なにしろ、臓器移植や学校崩壊、インターネットなど、多様な時代の事例が取り上げられている。大きな違いといえば、吉本隆明さんの本は、べらんめえ調で自論による結果を出してしまっているところでしょうか。そこがまた、絶妙なのですが。

発行日は2000年9月下巻に次のような箇所があります(P.136)。インタビュー形式で書かれた本であり、取材者は田近伸和さんです。

――「国家の終わりは、先進国の課題として見えてきつつあります。今は、国家が解体する一歩手前なんです」と先程述べられましたが、アメリカを例にとれば、国家の解体どころか、たとえばイラクのフセインを叩くために、いまだに国家権力を発動させ、国家権力を誇示しています。
吉本 アメリカは、とんでもないことをやっているんです。アメリカは、自分たちは世界の警察であり、自分たちがやっていることは正義だみたいに思っているわけですが、イラクの国情や民衆が置かれた状態は、アメリカのそれとは、まるで次元と歴史的段階が違います。

この部分を読んで、はっと気付きました。カラクリがみえました。なぜ、マイケル・サンデルが正義について語らなければならなかったか。なぜ、ハーバード大学でこの授業がこんなにも熱狂的に支持されているのか。

つまりそれは、
アメリカという国家が解体し、アメリカの正義が揺らいでいる
からではないでしょうか。

アメリカの正義とは、自国を正当化するための正義だったという印象があります。湾岸戦争にしても、9・11のブッシュ大統領の発言にしても、メディアを通して敵のイメージを仮想的に練り上げて、いつでもアメリカは悪を征伐する正義として振る舞おうとしたのではなかったでしょうか。

もちろんアメリカだけを責めるわけにはいきません。日本も、戦争という過ちを犯してきました。そのことを誠実に認めるべきです。「これからの「正義」の話をしよう」の第9章は、次のような文章からはじまります(P.270)。

「申し訳ありません」と言うのが簡単なためしはない。とりわけ、公の場で国の代表として言うのは、至難の業ともなる。この数十年間に、歴史的不正に対する公的謝罪をめぐって、苦悩に満ちた議論が数多く繰り広げられてきた。

最初の部分では、ドイツのホロコーストの問題に続いて、日本における慰安婦の問題が批判されます(P.271)。枢軸国に対して、連合国であるアメリカとしては当然の批判でしょう。

日本は、戦争中の残虐行為への謝罪にはもっと及び腰だった。一九三〇年代および四〇年代に、韓国・朝鮮をはじめとするアジア諸国の何万人もの女性が日本兵によって慰安所に送られ、性的奴隷として虐待された。一九九〇年代には、民間の基金によって被害者への支払いがなされ、日本の指導者たちもある程度の謝罪を行ってきた。しかし、二〇〇七年になってから、当時の安倍晋三首相が、慰安婦の強制連行の責任は日本軍にはないと強弁した。それに対してアメリカの連邦議会は、慰安婦の奴隷化への日本軍の関与について日本政府が正式に認め、謝罪することを求める決議をした。

「謝罪することを求める決議をした」というのは非常に正義的な表現です。アメリカが世界の警察であり、リーダーである、アメリカの見解が世界の見解である、という視点から書かれている気がします。しかし、そう言うアメリカは?という意識が拭えません。

第9章ではその後に「アメリカでも、この数十年で、公的謝罪と補償をめぐる論争が盛んになってきている(P.272)」とつづきます。けれども、どうしても正義の使者の印象が否めない。自国の正義として振る舞いつつ隠してきた部分を隠蔽している。自省がないのです。

たとえば、戦争について考えてみます。アメリカは、広島に、長崎に、原子爆弾を投下しました。広島の死者は約14万人、そして長崎の死者は7万3884人。これは大量虐殺です。

眩暈がしたのは、戦争は終結に向かいつつあり、広島と長崎に原子爆弾を落とさなくても戦争は終わっていただろう、という事実でした。しかし、原子爆弾の開発には、アメリカの莫大な国家予算が投入されていた。その「成果」を出さなければならなかった。成果を出すために広島と長崎が実験台にされた、ということです。酷くありませんか?(参考:ボイジャーから発行されている電子書籍の「極端に短いインターネットの歴史」浜野保樹より)

不勉強なだけかもしれませんが、ぼくが知る限り、広島と長崎に対するアメリカの公的謝罪は見かけたことがありません。リメンバー・パールハーバー、真珠湾攻撃が卑怯であることは声高に叫ぶけれど、戦争を終結させた正義という名のもとに、日本に対する大量虐殺には目をつぶっている。

もてはやされているサンデル本だけれど、公的謝罪について書かれた第9章については、わずかに不快を感じました。うまく編集構成されて、マイケル・サンデルはアメリカの罪を隠しているようでした。多くのひとが見逃してしまう些細な箇所かもしれません。しかし、ぼくはその部分に、かすかなアメリカの腐敗臭を嗅ぎ取りました。

なぜ「これからの正義の話をしよう」と声高に述べなければならなかったか。その背景には、正義を回復しなければならないアメリカの凋落と病理があるように、ぼくにはおもえます。これは穿った見方でしょうか。


■■自律と自由を獲得するために

情報が氾濫するいま、大量の情報を広く浅く処理する能力も必要かもしれませんが、より仔細に深く情報を掘り下げることも重要ではないでしょうか。そして、自分だけの価値基準を見極めることによって、情報に惑わされない自律と自由を獲得することが大切であると、ぼくは考えています。

うわべの耳にやさしいキーワードに踊らされるのではなく、内容のない空洞のような理論を拠り所にするのではなく、しっかりと足元を確かめて現実をみつめること。いま、ぼくらに必要なのはテツガクではないか、と真剣におもっています。ぼくら、という連帯感はともかく「ぼく」には哲学が必要です。

投稿者 birdwing : 2010年9月12日 07:51

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4 Comments

apresmidi2006 2010-10-20T15:14

DTM関連でこのブログに参りましたが、初コメントがこの記事になるのはちょっと気がかり?です。私はBWさん(と略させてもらいます)の書評の対象となったサンデルも吉本隆明も読んでいませんし、今後も読むこともないだろうと思います。ですが、いくつか気になった点を列挙して、ご参考に供したいと存じます。なお、「考えてみる」という言い方を多用し、偉そうに課題を課しているかのようですが、実は貴見に触発され、自分自身に宿題を出しています。ご容赦下さい。

1.「自分の法を確立することによって外部から解き放たれる自由」 法という語は法令の意味(私はこれを職業にしています)の他に仏教用語としての法という言葉がありますね。そもそも自分の法とは、何か。個々人は「法」を独自に持つことができるのか。それは「法」と呼べるか。

「行動準則」であれば、かような抵触は生じないと思いますが、用語として選択されているので、気になりました。

「法」は他者に許容されなければ存続し得ないのではないか(そのことと「外部」から解き放たれる自由とは矛盾しないと考えますが)、また、「行動準則」であれば、他者から許容される必要は薄いのか、という点について、考えてみる。

2.アメリカの正義について。この国はどうしても目立ちたがりいの国になってしまった(20世紀初頭まではそうでもなかったと思います)ので、アメリカの正義が揺らぐのは目立ちますが、実はあらゆる先進国(ということは主として欧州)において正義が揺らいでおり、国家の解体が始まっていないか、という点について考えてみる。また、国家が解体されるということについて考えてみる。より身近に日本が解体されるとはどういうことか、それと自分はどのように関わるか、そして自分はどのように振舞うのか、を考えてみる。
(付随的に、現在の中国、そして北朝鮮について国家の解体とは何か、を考えてみる。)

3.従軍慰安婦の問題について考えてみる。従軍慰安婦が仮に売春婦であり、当時の適用法が職業としての売春を許容し、鑑札を持ったプロが適正な対価を得て売春行為を行っていたとしたら、問題の自分としての評価はどうなるか、を考えてみる。(当方は上記の仮説を支持するものではありませんが、自分なりの調査も面倒なので判断留保のままですが)併せて、サンデルが従軍慰安婦を取り上げ、南京大虐殺や731部隊の問題を取り上げなかったのは偶然なのか、を考えてみる。

4.原爆投下を考えてみる。予算を使った以上成果を出す必要があり、それで投下した、という歴史的評価をすることは正しいか。既に終結に向かっていた、ということは、本土上陸作戦がなお必要であったということであり、その為に多数の米軍兵士が死傷することが予期されたことは想像に難くありません。かかる死傷者を回避するため、強硬な原爆投下により早期降伏を促す、との米国指導者判断があったとして、それを人道的に非難すべきか、するとしてどのように非難するか、を考えてみる。

以上「自分への宿題」(勿論BWさんにもお考えを誘っておりますが)であります(宿題を抱えてもサンデルも吉本も読まないと思います。つまりは偏屈なだけ 笑)が、最後に原爆投下についての米国の考えの自分なりの推測を申し述べます。

サンデルが米国人であるならば、原爆投下についてそれを米国の罪と感じることはまずない、と思います。公的にも私的にも、原爆投下を罪や悪と感じる米国人はほぼ皆無ではないか、というのが私の印象です(住んでいたことがあります)。むしろ私の米国人に対する印象は、Aということがあるから(旧日本政府・軍・民による中国・朝鮮侵略、そして真珠湾)、B(原爆)は許される、というタテマエ論が上から下までを貫いている堂々たる「タテマエ」国家で、すごいのは「ホンネ」との使い分けがない、つまり「タテマエ」=「ホンネ」の人たちだということです。高い教育を受け高い収入を得られる人ほど、この度合いが高くなり、それが米国の「病理」といえば「病理」、崩壊の種子といえば種子である、と。飽くまで個人の印象であります。これを人種的特性に帰せるものか、も判断に迷っています。「多人種・多文化を誇ろうとした『無理』」の弊害かもしれないと予感しつつも。

欧州についてはよく知りません。

長文失礼致しました。 

BirdWing 2010-10-23T21:47

長文のコメントありがとうございました!とても嬉しいです。

DTM関連でぼくのブログを見ていただいたとのことですが、本の感想にコメントいただいても、まったく問題ありません。文章を読ませていただいて、とても聡明で論理的な印象を受けました。さまざまなご指摘に、ぼくも頷いたり、深く考えたりしました。

考えたことを書いてみます。いずれも難しい問題で、結論を導き出すことはできませんでした。思考の断片をつらつらと書き連ねるだけです。主旨とは異なる解釈もあるかもしれません。ご了承ください。しかし、考えつづけることが重要ではないかとおもっています。思考の鍛錬みたいですけれども。

1. 法ということばについて

法をお仕事にされているだけに、ことばを繊細にとらえるapresmidi2006さんのご指摘に頷きました。確かに、ぼくの用語の使い方としては、「行動準則」が近いと考えます。しかしながら、カントは、自律的な規範が普遍的に有効かどうかを検証せよ、というようなことを言っていたかとおもいます。つまり、「憎い他人を殺してもよい」という「法」は成立しない。カント的に「法」というとき、それぐらいの強い意思と社会的な検証に耐えうる行動準則になるのではないかと考えます。

一方で社会に成立している「法」であっても、個人の「行動準則」に照らし合わせると不適合な場合がありかもしれません。法律で社会的に容認されたとしても、個人としては容認できないという場合もあるでしょう。このとき、法律にただ服従させられるのではなく、自分の価値観(これを、ぼくは法だと考えたのですが)で、抗うもしくは外部の法を変えようと主張することがあってもよいとおもいます。

とはいえ、このエントリに関していえば、ぼくは「法」ということばを配慮なしにぞんざいに使っていました。意味としては、ご指摘の通り「行動準則(規範)」です。「法」という側面から見解を述べていただいたことに、感謝いたします。

2. アメリカの正義について

おっしゃる通りですね。アメリカだけでなく、あらゆる先進国、特に日本においても正義が揺らいでいる印象を感じます。

そもそも正義の考え方として、悪との二項対立で考えることが多いのではないでしょうか。仮想の敵国を設定して、ワルモノである敵国を批判すること、あるいは自国の正しさを主張することによって正義と勘違いしているような印象です。しかし、二項対立の構図に押し込めなくても成立する正義があるのではないか、と考えます。

勝ち組と負け組みや多数派と少数派などの二項にも、正義と悪の構図を当てはめやすいですね。あるいは何かを選択すれば、捨てたもう一方は悪しきものになるのかもしれません。こうした「型」にとらわれない「正しさ」を求めたいのですが、うーむ、難しい(苦笑)正しい道というか志というか。そんな大きな「正しさ」という価値観がないから、ぼくらは不安になり、時代や社会に対して猜疑心を抱いているのかもしれません。要は、どっしりとした安心できる大きなものに抱かれていたいのです。

「国家」という大きな仕組みに限らず、ぼくらの周囲ではさまざまなコミュニティが壊れはじめているような気がします。会社も、地域も、学校などの公共機関も、そして家族も。あらゆるものが解体されていく社会のなかで、apresmidi2006さんが書かれているように、「自分はどのように関わるか、そして自分はどのように振舞うのか」を考えることはとても重要ではないか、とおもいました。自己防衛も大事でしょうし、社会そのものに積極的に関わって解体を止めること、解体のあとに何かを創造する関わり方もあります。それが個人の「行動準則」にもつながるのではないでしょうか。

3. 従軍慰安婦の問題について

エントリを書きながら、サンデルを批判するぼく自身が日本人としての責任を逃れているんじゃないか、という迷いがありました。こっちの問題は置いておいて、あなた(アメリカ)だってこんなことしてるじゃないですか、と追及するのは、どこか揚げ足取り的で不毛です。相手の問題を探すのではなくて、まずは自身の問題をしっかりみつめなければ。逃げていてはダメですね

戦争によって肢体を失った軍人を描いた若松孝二監督の「キャタピラー」という映画を観たのですが、業には業の報いがあると感じました。どこかで決着をつけないと、業のループを繰り返すだけです。「公的謝罪」がひとつのけじめかもしれませんが、それだけでは許されない根深い問題を孕んでいると感じました。

4. 原爆投下について

アメリカにお住まいの経験から、アメリカ人が原爆投下に罪を感じることがない、という実感を抱かれたことには説得力がありました。実際に原爆の開発に携わった人間のなかには罪悪感があったひともいたようですが、大量殺戮をしたのではなく、本土上陸を回避したと合理的に考えるのでしょうね。

歴史にはさまざまな側面があり、原爆の開発成果を出さなければならなかったというのは、その一面だとおもいます。人道的に責めるのもどうかと考えます。これもまた難しい問題です。

apresmidi2006さんが書かれた、「タテマエ」=「ホンネ」の文化というのは凄いな、とあらためておもいました。なるほど、米国人が日本人を理解できないはずです。ここまで合理化が徹底されているなら、たいしたものです。

逆に日本には、このような芯の強さがないから、国家間の論争などでも弱いのですね。「タテマエ」と「ホンネ」の二層構造がある日本人の思想は、奥ゆかしいといえば奥ゆかしいのですが、ホンネをわかってくれるもの、という相手に対する甘えがあると感じます。やっぱり弱い。

+++

と、煮え切らない考察を長文のお返事として書きました。まだぼくも考えが浅いな、とおもいました。

ちなみにサンデル本や吉本さんの本を読む読まないは個人の自由であり、議論には関係ないとぼくは考えます。読んでからものを言え、というひともたまにいますが、本質的な議論ができればそれでいいでしょう。

apresmidi2006 2010-10-27T15:22

拙速な長文をお読み頂きありがとうございました。引き続き問題意識だけは忘れないように生きて行きたいと思っております。で、今後はDTM関連でまずはBirdwingさんの作品を聴いていきたいと思います(今会社なのでできません。。。。)
自分もuploadするようなものができればいいのですが、なにせ才能と時間が不足しております(決定的!)。機材だけは要らないくらい持っておりますが。

BirdWing 2010-10-29T07:05

なるほど。機材マニアでしたか。ぼくも機械類は好きなので、DTM関連に限らず家電を購入するときにはテンションが上がります(笑)でも、それでこころが豊かになったかというと疑問ですね。

しょぼい機材(VAIOとSONAR 5のみ)で、限られた休日の時間をフルに使い、才能の限界も感じましたが、LotusloungeのSheepさんとネットコラボで「シンコキュウ。」という曲を作ったときには満たされた気持ちになりました。ぼくはこの気持ちを大切にしたいです。

ちなみに、差し出がましいことですが、会社で仕事中にぼくのようなサイトを徘徊しないほうがいいですよ。ログが残りますので。

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