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2007年10月 5日

「ワイルド・アット・ハート 眠ってしまった冒険者たちへ」ロバート・ハリス

▼大人のかっこよさを考える人生指南書。

4492042830ワイルド・アット・ハート 眠ってしまった冒険者たちへ
ロバート・ハリス
東洋経済新報社 2007-07-20

by G-Tools

気持ち的には学生の頃と変わらないつもりだけれど、そうも言っていられない年齢に差し掛かってきました。そんなおじさん境地に入りつつある昨今、よく考えるのは、

かっこよく生きたい

ということです。

このことを厳密に定義すると、かっこよくなりたいのだが、モテたいのではない。若い頃には、かっこいい=モテるという方程式が成立したような気がするのですが、最近、ぼくはモテなくてもいいから、かっこよく生きたいと考えています。それはどういうことか。

モテる、ということは他者に評価を求めるということだと思うんですよね。熱い視線を送ってくれる他者がたくさんいればそれが価値になる。たくさんの女の子にきゃーきゃー言われたいということです。しかし、モテなくてもかっこいいやつはいるのではないか。自分の生き方を揺らがせずに信念を持って生きている人間はかっこいい。表面的に繕ったり、いたずらに評価を欲しがるのではなく、100万人に否定されても1人のために生きる、というようなスタイルでしょうか。

マッチョではなくてもぜんぜんかまわない。たとえば仏像を彫ることに一生を捧げるようなひとは、ある意味、かっこいいと思う。胃の痛い思いをしながら、あっちの調整をして、こっちのご機嫌を取って、いまの生活水準を必死で守るために笑いたくもない場面でにこにこしているのよりも、ぜったいにいい。

たとえば、ブログにしても、アクセス数の増加やアフィリエイトでがっぽりと儲けを考えるのは「モテる」思考だと思います。その欲をぼくは否定しないし、そういう生き方もあっていいでしょう。むしろ世の中の成功者はそんな欲望に忠実なひとたちかもしれません。しかしながら、そうではない生き方もある。

他者を気にしながら生きるのは疲れます。というか事実、そうやって生きてきて疲れたのですが(苦笑)、だからぼくはもう、どんなに嫌われてもいいから、自分の言いたいことを言うし、書きたいことを書こうと思うわけです。ブログに関しても消したくなったら消す、修正したくなったら書き直す。リンクしてくれた方やトラックバックしてくれた方に申し訳ないから・・・などと過剰な気を遣わない。

ということを考えていると、どんどん肩の力が抜けるのですが、そんな励みに拍車をかけてくれたのが、ロバート・ハリスさんの「ワイルド・アット・ハート」という本でした。前置き長すぎ(苦笑)。

第6章「人生の荷物を整理しよう」というところで、「ペルソナをつくらない」ことを信条としている生き方が語られているのですが、自分がMであることをカミングアウトしたり、ミスコンの仕事は金輪際やらないことを宣言したり、ホンネが語られています。失恋して女友達に鼻水たらしながら泣いて慰めてもらったなんて話も書かれている。

外見の素敵なロバート・ハリスさんが語るからOKというところもあるのだけれども、その誠実な生きざまに共感しました。単純に真似をすると痛い目をみると思います。これもまたロバート・ハリス的に生きても意味がなく、自分なりにカスタマイズしなければかっこよくないと思うのですが。

ロバート・ハリスさんは定職につかずに、本屋を経営したり、映画の字幕の文章を書いたり、DJなどをやって気ままな人生を送ってこられたようです。しかし、その生き方は決して楽なものではなかったと思うし、言葉のひとつひとつにきちんと生きてきた重みのようなものを感じます。ここで言う「きちんと生きてきた」とは、安定した生活を送ってきたということではなくて、めちゃくちゃだけれど出会ったひとたちを大切にして、けれども合わないひとについてはすれ違うこともよしとして、自分の人生を肯定してきた、ということかもしれません。

第7章「心の重荷も捨ててしまおう」というページでは、マーク・トゥエインの次の言葉がトビラに掲げてあります。

最悪の孤独感とは、
自分自身に対して
不快感を抱くことである。

そして、自分を負け犬や落伍者と思ったり責めない生き方を説かれています。

ここでぼくが考えたのは、複雑化しつつある現代の問題は、他者を意識するあまりに、自分のなかの「他者としての自分」まで意識してしまうところにあるのではないか、ということでした。つまり、自分のなかにもうひとりの自分を存在させることによって、自分で自分を攻撃する。自傷行為のようなものです。

ブログの匿名なども似たところがあるかもしれません。ネットの住人としての匿名という別のペルソナを持つのだけれども、その別のペルソナに対して(他者から突っ込まれる前に)自分自身で突っ込みを入れてしまう。ライターもしくはブロガー、作者としての自分とリアルな自分を同期させることは意外と難しいもので、同期しつつもズレていることが多い。だから、あたかも他人のように自分を批判してしまう。その二重性が進展すると、ちょっとやばいのではないか。

だからこそぼくは書いていることとリアルな自己の同期が必要であると考えていて、もちろん自己の成長を踏まえて一歩先のことを文章に書き、リアルな自分を文章に追いつかせるような生き方もあるかもしれないのですが、あまり現在の自分と離れた自分を設定しても苦しむばかりで、等身大の文章を書くことが重要ではないかと思います。

本の前書きに戻るのですが、ロバート・ハリスさんはなぜこの本を書いたのか、という動機について次のように書かれています。

あいかわらずの官僚たちの癒着、汚職。
テレビではいまだに、金持ちの豪邸拝見などというバカな番組をやっている。
ロハスだの、エコだの、スローライフ、ワークライフバランスだのといったコンセプトが話題になっているが、結局そういうものも金で買う仕組みになっている。
チョイともてるにも、チョイとワルになるにも、高い車と、時計とスーツと、バッグと靴とが必要だそうだ。
バカバカしくて、もう一度この国から逃げ出したくなる。
でも、いますぐそうするつもりはないし、ぼくは生まれ育ったこの国が好きだ。
だから、この本を書いた。
これは、多くの団塊世代と同じようなサラリーマン人生を歩んでこなかったぼくなりの、いまの社会の流れに対するオルタナティブ・サジェスチョンである。

いいですね。ぼくは個人という地を這うような生活に立脚しつつ、遠い理想などに焦点を合わせて何かを書く姿勢に共感を持ちます。逆は不可です。大義名分のような曖昧な理想から個人を語るのは、どうかと思う。

何かモノを書くためには、ロバート・ハリスさんのように波乱万丈な人生を送らなければならない、とは考えません。もっと、いわゆるふつーのおじさんたちが自分のかっこいい生き方を追求したり、かっこよさとはどういうことかという考え方を書くことによって、日本の景気は活気が出るような気がします。雑誌に書かれていることの受け売りだけでは恥ずかしいですよね。全員が全員、イタリア製のスーツを着て、うまい店を探して、歯の浮くような台詞を語るのでは芸がない。

というわけで、自分なりの美学を大切にしながら、一方でロバート・ハリスさん的な「オルタナティブ・サジェスチョン」も考慮しつつ、ぼくはブログを書いていきたい。そんなことをあらためて考えさせてくれた本でした。10月3日読了。

投稿者 birdwing : 2007年10月 5日 23:34

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