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2008年6月 8日

[DTM×掌編小説] 目覚め。

寝起きが最悪です。ぼくは朝が弱い。というのは、DTMなどで3時近くまで夜更かしをしているせいなのですが、仕事の疲れもあったりすると鉛のように身体が重い。起きられません。

よくドラマで俳優さんが演じているような、朝日が当たる部屋でうーんと伸びをして、すっきり~という目覚めを体験したいものですが、浮腫んでいる顔のまま、しょぼしょぼと目を擦りながら起きる毎日です。

というわけで、目覚めの曲を趣味のDTMで作ってみました。

目覚めの瞬間というのは、ぱちっと現実を受け入れるというよりも、どこかゆっくりと焦点が合っていくような気がします。そんな現実と夢のクロスフェード(夢がフェードアウトして、現実がフェードインする)の視界なども考えつつ、どこか抽象的な音をめざしています。こんな曲になりました。

■mezame(3分17秒 4.52MB 192kbps)

作曲・プログラミング:BirdWing


ちなみにぼくはたまにオンガクを作りながら、曲にあった短い小説のようなものを書くことがあるのですが、今回も曲を聴きながらイメージが浮かんだのでまとめてみます。DTMの曲をBGMとして聴いていただけるとうれしいです。


自作DTM×ブログ掌編小説シリーズ04
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目覚め
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作:BirdWing

心はどこにあるのだろう。目蓋をひらいて瞳孔に光をあつめる。かすんだ意識が雲を払うように明るくなる。グラデーションをかけたように内側の世界が遠のき、外側の世界に焦点が合っていく。朝だ。薄暗がりのなかで耳を澄まして時計の音を聞いた。鳥の声が聞こえる。隣の部屋からは戦争のニュースがやかましい。一日がはじまる。

目覚めると、僕は砂漠の町にいた。恋人を胸に抱いて眠っていた。やわらかい裸の乳房が僕の胸に押し付けられ、やさしい吐息が首のあたりをくすぐる。恋人の長い睫毛が美しい。昨日の夜のことを思い出した。清潔なシーツの上で、ふたりで愛を交わした。何度も何時間も溶け合うように抱き合った。長い歴史のなかで多くの恋人たちが過ごしたように僕等はつながり、そして眠った。そんなに眠ったのは何ヶ月ぶりだっただろうか。眠れない夜がつづいていた。戦争とか、あるいは将来のことなどを考えて。

いっしょに暮らしたい。こうやって何度も眠り、目覚めて、ともに生きていきたい。いっそのこと夢のなかで、まどろみながら暮らせたら、どんなにいいことか。目覚めはいつも鈍い苦痛とともにやってくる。ベッドから起き上がれば、戦争のこと、あるいは将来のことなどを考えなければならない。逃げることはできない。かといって立ち向かう勇気もない。ゆるゆると享受しながら、生きながらえていく現在。それでも、こうして恋人を抱いていると、それだけでしあわせだ。刹那が永遠にさえ感じられる。

慌しくドアが蹴破られ、光が部屋に溢れた。まばゆさに振り向くと、逆光のなかで銃を構えるひとの姿がみえた。なにやら英語で語るひとの言葉に半身を起こすと、閃光が胸を貫いた。あふれていく。押さえた右手からあふれていく自分のなかにあるものを止めようとするのだけれど、止まらない。せつなかった。心から、失われていく何か。もう、どこへも行けない。恋人のほうを向いた。やすらかに眠る顔がいとおしかった。この光景を、僕は忘れない、と思った。

目覚めると、僕は鳥のかたちをして空をめざしていた。騒々しいドアの音と、ばあんという弾けるような音に驚いて、枝から飛び立ったのだ。砂漠のなかにあるいくつかの家。ひとびとの生活には欠かせない井戸。鉄鋼で武装された、いかついクルマ。陽射しを遮る建物の影。あらゆるものを置き去りにして、僕は太陽をめざす。雲ひとつない晴れた青空。羽を動かして飛ぶ。もっと高く。イカロスの神話を僕は覚えていた。望んではいけないものを望んで飛行する想い。太陽に焼かれてもいい。焼かれたまま眠ることができればいい。いつか目覚めるときまで。

目覚めると、僕はここにいた。

21世紀のトウキョウで。戦争も砂漠もない、平和な現実の生活のなかで。僕は目を覚まして、昨日と同じような今日を消費し、今日と同じような明日を手繰り寄せる。けれども胸のどこかに銃であけられた穴がある。あふれていく鈍い痛みを感じている。裁くのは誰なのか。報われるのはいつなのか。

着替えよう。清潔なワイシャツとネクタイで武装して、心の在り処を笑顔で隠して。ベッドから抜け出し、洗面所で自分と向き合った。半透明な卵の膜のような現実の内側で、僕はまどろみながら生きている。目覚めることを夢みながら、今日を生き抜いている。

<了>

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なんとなく輪廻転生のようなイメージもありますね。転生の小説として有名なのは、三島由紀夫の「豊穣の海」ですが、もうひとつ思い出せないのですが、転生を描いた小説を読んだ記憶があります。

サウンドとしては、最初のほうではきれいなピアノの音を入れていますが、ドラムが入ってからのピアノは、行間があいて(笑)空気感のある、どこか重厚でおごそかな音にしたいと思いました。リバーブを聞かせた響きにしたかった。例えば、ジョン・レノンの「MOTHER」のような。

■JOHN LENNON / MOTHER

あと、ノイジーなギターは弾いていなくて音の素材を使っているのですが、やはりこれもリバーブのなかに溶け込むようなディストーションの音がいい。シューゲイザー風のギターかもしれないですね。こちらは、モグワイといったところ。ピアノの音や複雑なリズムもそんな感じです。こちらもYouTubeから。

■Mogwai - "I Know You Are But What Am I ?"

タイトルが哲学的ですね。まあ、上記の2つの曲のように深遠な感じは表現できませんけれども(苦笑)。

というわけで、どちらかというとエレクトロニカというよりもポストロックの傾向の曲になりましたが、なかなかきれいな音と抽象的で難解なイメージを共存させるのは難しい。でも、そんなサウンドを作りたいと思っています。

投稿者 birdwing : 2008年6月 8日 13:56

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2 Comments

かおるん 2008-06-10T11:01

短編小説と音楽というスタイル、よいですね。小説は小説というよりは、言葉を削る前の詩のように感じました。わたしは最近また小説にはまっていて、読むテーマを決めて読んだり、二度目のときは違う人間に感情移入して読んだりしています。たとえばこの小説では“熱”に注目しました。この中で一番熱の高い部分は、鳥の空へ向かうエネルギーというか、意志なんですよね。このブロック全体が非常に熱を帯びています。ひょっとして“太陽”という言葉を使わなくても、太陽を十分に感じられるぐらい。そんな気もしました。

BirdWing 2008-06-11T00:38

かおるんさん、コメントありがとうございました。

実はこのブログを書き上げたあとで、テレビを観て秋葉原の悲惨な事件を知りました。拳銃とナイフという違いはあるのですが、時代の波動の符号というか、シンクロナイズした得体の知れない力のようなものを感じて、ぞっとしました。ちょうど多くの人々が休日の歩行者天国で狂った刃に倒れていくとき、ぼくはこのシーンを描いていたわけです。創作をしながら、主人公である「僕」を殺してしまうか生かすか、かなり悩んだんですよね。ただ、邪悪な力に押されるような感覚に包まれて、この作品はできあがりました。

閑話休題。確かに、この作品は小説というよりも散文詩に近いかもしれません。谷川俊太郎さんの「コカコーラ・レッスン」のような一種の哲学的な散文詩をめざしていたところもあります。小説であれば、通常は物語のシークエンスの強さによって、時間の推移として時系列の統合力が強くなるものですが、逆に時系列な統合の力を弱めて、空間的な広がりを強調すると詩的な世界に近くなります。情景描写の力が強いこの掌編小説は、そんなわけで詩的なのではないかと考えました。

ところで、“熱”に注目したというかおるんさんの感想は新鮮でした。目覚めるときの体温を獲得していく過程というか、夢のなかの無機質な身体から、きちんとあたたかい血の通った「火照り」があるリアルな身体に推移していく過程というか、そんな視点から論じることもできそうです。さらに、焼かれていく鳥はちっとも熱さを感じさせない(苦笑)。自分が鳥という主体なのに、主体とは別のところで物語が進展しているような非・現実感があります。映画「マトリックス」的であるともいえます。

ついでに、オンガクには変奏やカノンのような手法があります。ぼくの作る音楽も、同じコード進行で、メロディやアレンジがどんどん変わっていく曲が多いのですが、これは「目覚め」という小説の重層的な構造にも似ています。つまり、砂漠の町の僕/飛び立つ鳥/21世紀に暮らす僕、という3層の構造は、実は異なるレイヤーで展開されながら、それぞれが重なっていくカノンのようなものなのです。ということを突き詰めると、いわゆる「輪廻転生」なのですが、魂の変奏ともいえるでしょうか。かっこつけすぎか。島田雅彦さんの「彗星の住人」「美しい魂」「エトロフの恋」の無限カノン三部作も思い起こしました。読んでないけど。

と、なんだか無駄に理屈っぽくなりましたが、オンガクと小説を横断するような創造の手法にも、なんとなく関心があります。ええと、エントリーできちんと書けばいいのですが、最近どうもエントリーがうまくまとめられないので、長文コメントでまとめてみました。

究極の文章力は、たとえば「さびしい」という言葉をひとことも使わずに、どれだけ寂寥とした情景を描けるか、という技術にあるような気がします。あるいは直接的な口説き文句を使わずに、どれだけ惚れた相手をめろめろにすることかもしれません(笑)。そんな力はぼくにはありませんが、言葉を操るブロガーとして、言葉の可能性を追求していきたいと思います。

かおるんさんはどんな小説にはまっているのでしょう。最近、小説よりもエッセイのようなものばかりを読んでいるのですが、姜尚中さんの新書を先週の水曜日に読了して、漱石をむしょうに読みたくなりました。たぶん(というか、きっと)読むと暗くなりそうなんですけど。。。(苦笑)

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