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2010年5月15日
「格差の壁をぶっ壊す!」堀江貴文
▼book10-09:破壊すべきなのは社会的な幻想。
格差の壁をぶっ壊す! (宝島社新書 311) 宝島社 2010-04-10 by G-Tools |
人間は不完全だから、うまくいかないときや不条理な現実に直面したとき、悪態をついたり、愚痴がこぼれてしまう。これは仕方がありません。しかし、ネガティブな状況を変えようとせずに、社会が悪いとか政治家の責任だと声高に叫ぶばかりでは進展がないでしょう。過剰な批判はもちろん、無気力に口を噤んで諦めてしまうことにも納得できません。格差についても同様です。
堀江貴文さんは「格差の壁をぶっ壊す!」の冒頭において、格差の根本にあるのは「ねたみ」や「ひがみ」の感情であるとして、「比べることは新しい自分への第一歩である」と語ります。ぼくはこの考え方に共感しました(P.19)。
突き詰めていけば、およそほとんどの格差問題というものは、格差の上に行けるよう努力するか、格差を気にしないで「俺ルール」の中で生きていくかという、2つの方法で解決できるものと言えるんじゃないだろうか。
そのきっかけとして、まずは自分と他人とを比べてみるということは、大いに有効である。なぜなら、自分と人とは違うと認識することで、自分を変えようとするきっかけになるからだ。繰り返しになるが、他人と自分を比べるということ、そしてそこに差が存在することをはっきりと認識するということは、ごく自然なことであるし、何ら悪いことではない。
格差を肯定するのであれば、ぐちゃぐちゃ言わないでそのルールのなかで覚悟を決めて生きていく。そうでなければ、たとえ大多数から孤立したとしても、自分自身のモノサシで生きる。究極としてはその2つの選択肢しかありません。愚痴や批判を述べる状態は選択を放棄しています。潔い生き方ではない。むしろ堀江さんのような考え方に潔さを感じます。
堀江さんは他人との差異によって自分を再確認することを述べています。この考え方にも同意しました。
しかしながら、冷静に他者と自己の差異を客観視するためには、こころの余裕が必要になります。堀江さんは、自分の生き方を確立できているひとだからこそ、メディアに持ち上げられてもバッシングされても動じずに、自分の信念を貫いてきて現在に至るのでしょう。けれども、堀江さんのように強く生きられないひともいます。周囲に迎合し、あるいは過剰に周囲と自分を比較して「ねたみ」や「ひがみ」の感情を生んでしまうわけで、だからこそ格差社会が大きく浮上する。日本のように和を重視する社会であれば特に。
ぼくは堀江さんの考え方が昔から好きでした。社会的に問題視されていたこともあり、行動は型破りだけれど、彼のことばに耳を傾けていると元気が出ます。同様の印象を感じられるひとに、小室哲哉さんがいます。小室さんは犯した罪を償わなければならないとおもうけれど、ぼくはふたりの人間性に惹かれます。というのは、一種の純粋さを感じるからです。
「格差の壁をぶっ壊す!」では「あとがき」として次のようなことばが記されています(P.190)。
だから私はこの本で、格差を気にする「心」を、執拗なぐらい批判した。そこから抜け出さない限り、いくらカネを稼いでも、いくら勉強ができるようになっても、いくらモテても、虚しいだけだからだ。そういう心が少しでも払拭できたのだとしたら、本書の試みはとりあえず成功だったと言えるだろう。
モテることに関しては次のような記述もありました(P.156)。
往々にして非モテの男性は、いわゆるイケメンのルックスや、自分よりカネを持っている人間に対して嫉妬してしまいがちだ。しかし本当は、その自信のなさが、自分の魅力を格下げしてしまっているということに早く気付くべきだ。
社会の問題に転嫁するのは容易いのですが、自分のこころの問題として省みると、格差への過剰な拘りはコンプレックスとおもえなくもない。格差を叫べば叫ぶほど、「自信のなさ」を露呈し「自分の魅力を格下げ」しているわけです。
こころの問題をクリアした上で、格差社会を実際にどう変えていくのか、というのは難題です。一筋縄ではいきません。ただ衝動的に「ぶっ壊す!」のであれば、戦争でも革命でも勃発させて破壊すればいい。しかし、(消極的といえなくもないのですが)固定観念を破壊することによって、わずかであっても新しい視点を獲得することが可能です。ぼくらは、みずからの"幻想"によって自分を縛り付けていることもあるのです。この自己呪縛からの解放が破壊の糸口になる(P.37)。
ここで打破すべきキーワードは「無難さ」。自らの周りにある無難さをぶち壊していくことが、格差幻想打開への第一歩だ。
いつの間にか思考が保守的になっている。行動が守りに入っている。だから不幸せな「共同幻想」に巻き込まれ、イノベーションが生まれなくなります。この本を読んで、格差という呪縛から抜け出さなくてはと感じたぼくにとっては、堀江さんがこの本で成し遂げようとした思惑は成功したといえるのかもしれません。
本書では、以下の格差について述べられています。
- 所得格差
- 世代間格差
- 職業格差
- 教育格差
- 情報格差
- 地域間格差
- 福祉格差
- 男女格差
- 恋愛格差
- 結婚格差
- 見た目格差
- 印象格差
統計資料を引用している部分もあり、社会の状況を把握した上で堀江さんなりの考察をされています。元気が出るのだけれど、やや楽観的な印象も否めません。たとえば、雨宮処凛さんの本を読むと(ぼくのエントリはこちら)、次のような箇所はどう考えるべきかな?と困惑もありました(P.29)。
少なくとも、現在の日本において、「お金がないから飢え死にした」という状況は非常に考えにくいものになっている。また、リストラなどで収入のない状況に陥ったとしても、生活保護や親族に頼れば、何とか食べていくことはできる。食うに困らない社会システムが既にできあがっているのだ。戦後の混乱期ならいざ知らず、現代の日本で「収入が少ないから食っていけない」というのは明らかな言いすぎである。
ぼくの読んだ限りでは、雨宮処凛さんは「排除の空気に唾を吐け」で、2007年7月に北九州市で起きた52歳の男性の餓死事件やシングルマザーの餓死問題を取り上げ、福祉制度や日本の社会に警鐘を鳴らしています。しかし、それは社会全体から眺めればレアケースで"そうはいっても"日本は豊かなのかもしれません。次のような指摘も、もっともであると感じました(P.42)。
半面、今、人に「助けてくれ」とうまく伝えられない人が多いように感じる。特に「能力的にたいしたことないなぁ」と思うような人に限って、「何かを守らなければならない」というプライドが強く働いているように見えるのだ。
おまえが助けてくれって言わないから自業自得だろ、のような個人の責任追及は避けたいのですが、HELP!という信号を出しにくい空気があることは確かです。社会的な問題はもちろん、個人が勝手に思考の枠組みを固めて、プライドをかなぐり捨てれば何とかなるはずなのに、みょうに自分を守ってしまう場合も考えられます。頑なに幻想にしがみついている印象です。次のようにも書かれています(P.63)。
そして、「ずっと正社員でいられる」という考え方自体も、もはや幻想だ。利益を生み出すためのスキルというものを身につけない限り、会社にとっては必要のない存在とされるからだ。ただ単純労働ができるようになったり資格を取ったりしても、それをスキルアップとは言わない。あくまでも「稼げるスキル」じゃないと意味がないのだ。
本質を突いているとおもいます。自分探しや資格取得も一種の幻想であり、現実的に考えると稼げるかどうかがポイントになります。幻想にかかずらわっている場合ではありません(P.72)。
置かれた立場や待遇に不満を持ち、「職場による格差だ」と腐ってしまっている人はとても多いように感じる。だが、そんなことに悩んでいるのは、完全に時間のムダ。「手に職をつける」努力はいつ、どんな立場からだって始められるし、また、稼げる仕事を見抜ければ効率的に稼ぐことだってできる。自分の頭で考え、自力で這い上がっていかなければ、いつまで経っても腐ったままなのだ。
自らが努力することも重要ですが、未来の人材のためには教育も重要になります(P.69)。
私としては、簿記なんかと一緒にさまざまな「商売の仕組み」を、学校教育の段階で教えておくべきだと思う。こうしたリテラシーがないから、仕事に就いても稼ぐことができない。つまり、騙されてしまうのだ。
ふと気付いて本棚を漁ったのですが、ぼくが以前購入した堀江さんの本は「100億稼ぐ仕事術」というタイトルでした(笑)。
100億稼ぐ仕事術 (ビジスタBOOK) ソフトバンククリエイティブ 2003-11-15 by G-Tools |
稼ぐことに執着するのは、はしたないように感じるひとも多いかもしれませんが、そんなことはないとおもいます。稼ぐ能力=生きる力であって、その力を強化することが生活を「豊か」にする近道のひとつでもある。もちろん個人がそういう生き方を選択した場合です。
具体的な解としては、最近読了したティナ・シーリグの「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学 集中講義」のなかに見出しました。
20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義 Tina Seelig 阪急コミュニケーションズ 2010-03-10 by G-Tools |
スタンフォード大学では演習のひとつとして、5ドルを渡して2時間以内にできるだけ増やせ、という課題を出すとのこと。これはまさに「稼ぐ」能力開発といえます。クラスを14チームに分けて競わせ、最後にはプレゼンさせるわけです。もしかすると日本にも同様の演習を行うような大学があるかもしれませんが、米国でこんな教育を実践されているのだとしたら、甘ったるい日本の教育では国際間の競争には勝てないと感じました。言いすぎかもしれないけれど。
日本の教育は、格差に敏感になるあまりに、子供たちの牙を抜いて去勢した教育、競争を排除した教育になりつつあるように感じます。過保護で横並びのロボットを作るような教育です。それよりもっと個々の実践的な力を重視したほうがよいのではないでしょうか(P.86)。
高校生の中には受験をしない生徒もいる。先生はそういう生徒も一緒に教えなければならない。だから、一方で勉強したい生徒は予備校に行かなくてはならなくなるわけだ。色々な意味で硬直化している。こう考えると、全員一緒でなければならないという、一見平等のようにみえる教育が、実は才能をスポイルし、それぞれの能力に対して不利益を与えているのではないか。
次のようにも述べられています(P.89)。
すべての子どもたちが、同じ教室で同じ教育を受けなければならず、その上自分の能力を伸ばせというのは、大人たちの身勝手と言ってもいい。それが「理想的」であるとして、世の中が認めてしまっていることが大問題なのだ。あまりにも「理想的」という幻想に凝り固まっていると思われてならない。
この理想論に「凝り固まっている」教育の実情を壊す提言として、次のようなものがみられます(P.82)。
教師は、教師になることを自ら選択しているわけだから、学校のことしか知らなくても危機感を持つことはない。そういう教師で果たしていいのだろうか。
そう考えると、教師は専業である必要はないのかもしれない。月に1回授業をする会社経営者や弁護士や、サラリーマンがいても良いのではないか。
大学では、インターンシップや学外からの講師を招くことで、このような教育は実践されつつあるように感じます。しかし、もっと早い時期から「稼ぐ力」を教育のなかに取り込んでいってもよいのでは。もちろん、段階的な導入が必要でしょう。とはいえ、暗記中心の机上の押し込み教育より、思考力と実行力を具えた社会における実践的な人材=稼ぐことができる人材=強く生きられる人材の育成のほうがよいのではないか、と考えます。もちろんそれとは別に、アカデミックな知をのびのびと育む場所も確保しつつ。
個人的なことを語ると、ぼくの父親は教師でした。ぼくは教師である父を尊敬しています。しかし一方で、狭い社会のなかに閉じ篭もっている感じがどうしても払拭できずに、教師ではない一般的なサラリーマンの道を選びました。
率直なところ、教師の息子としてサラリーマンの自分を省みると、まったく別世界であると感じます。教師である父には教えてもらえなかった「社会的能力」の必要性を強く認識しています。そういう世界を子供の頃に知ることができれば。あるいはもうすこし悩まずに、苦労せずに生きられたかもしれません。父の庇護が大きく、ぼくはそれに甘えて、世間の厳しさを知らずに、成人になってからでさえ純粋培養されて成長してきました。
と、いろんな考えが錯綜したのですが、最後に、こころ強く感じたのは堀江さんの次のようなことばでした。
私はライブドアでの企業活動を通じて、民間が社会システムを変えることができるという確信を持つことができた。「ソーシャルハッキング」とも呼べる活動が、一民間企業でも可能だということだ。
ソーシャルハッキング。堀江さんも書かれているように、ハッキングとはコンピュータへの不正侵入(クラッキング)ではなく、「耕す」こと、つまり「専門知識を用いてシステムの改変を行うこと」だそうです。
一民間企業に可能なことの縮小版が一個人にも可能でしょうか。
ぼくにはまだわかりません。しかし、そのためには格差という「幻想」を逃げ道にしないこと、要するに、格差社会だからしょうがないという思考停止を乗り越えて、現実に生きていく(稼ぐ)力の獲得に鍵があると考えています。
投稿者 birdwing : 2010年5月15日 21:03
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