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2010年6月14日

「20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義」ティナ・シーリグ

▼book10-09:次世代のビジネスを担うひとの実践的な教育書として。

448410101720歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義
Tina Seelig
阪急コミュニケーションズ 2010-03-10

by G-Tools


ぼくの父は教師でした。後継としてぼくも教師にしたかったようです。しかし、父の望みに反して教育とは遠い場所で働くようになって現在に至ります。はたしてそれがよかったことなのかどうか、いまでもわかりません。

子供の目から観察した親父の仕事は魅力的でした。実際に教壇に立つ父をみたことは一度もないのですが、夜遅くまで鉄筆でガリ版の試験問題を作る姿とか(当時の先生は業者のテストをそのまま使うなんてことはなかったのでは)、国語の教師だったので書斎に置かれた文学全集から調べものをする姿とか、裏方としての教師である父親の存在が幼い自分にとっては誇りでした。

一方で教師は閉鎖的でもあると感じました。子供ごころの思い上がった視点かもしれません。あるいはただ頑固な父を教師全体の象徴として偏見でみていたのかもしれません。そうして父の思惑通りにはならないという子供っぽい反抗心と、もっと別の職業を体験してみたいという好奇心が、自分を教師ではない道に進ませました。

教師の子供だから、というわけでもないとおもうのですが、教育に関する議論には、いまでも関心があります。教育の現場にいるわけでもなく部外者なのだけれど、ひとこと言いたくなる。

教師の遺伝子あるいは血が疼くのでしょうか。しかし、教師という職業ではなかったとしても、ぼくらの周りには教育的な課題がいくつも転がっています。学生や社会人は後輩の指導、親であれば自分の子供の教育、そして自分自身の生涯教育。それらの課題のいくつかは「おれは教師じゃないから」と避けて通ることができません。

ティナ・シーリグの「20歳のときに知っておきたかったこと」は、起業家精神に焦点を当てた実践的なビジネス書です。しかし、ぼくは教育書としてこの本を読みました。教育はどうあるべきかについて考えさせてくれた本でした。

著者のティナ・シーリグは、スタンフォード大学で工学部に属するSTVP(スタンフォード・テクノロジーズ・ベンチャーズ・プログラム)の責任者を10年間務め、科学者や技術者に起業家精神を教え、起業家精神を発揮するためのツールを授けることに尽力されています。スタンフォード大学のSTVPで標榜する人材像については、次のように解説されています(P.19)。

目指しているのは「T字型の人材」の育成です。T字型の人材とは、少なくとも一つの専門分野で深い知識をもつと同時に、イノベーションと起業家精神に関する幅広い知識をもっていて、異分野の人たちとも積極的に連携して、アイディアを実現できる人たちです。

人材教育関連の本で「T字型人間」の解説は読んだことがありました。専門性を軸足に幅広い総合力を持った人材と認識しています。専門に偏りすぎるか、広く浅い知識にとどまるか、どちらかになりがちで、「T字型人間」は理想としては美しいのですが、なかなか実現できないと感じています。

ところで、ぼくは大学で文学を学びました。出席日数はぎりぎりで成績は最悪。ひどい不真面目な学生だったに関わらず、刺激的な先生や先輩、仲間たちに恵まれ、大学に行ってよかったとおもっています。

しかし、もっときちんと学んでおけばよかったと後悔していることは、ティナ・シーリグの述べているような、社会に出て組織のなかで創造性を発揮できる能力を鍛錬すればよかった、ということです。文学を軸足としたT字型のスキルというのは、いまひとつ即戦力に欠ける気もするのですが。

大学時代には、ミニコミ制作やテニス、音楽などのサークル活動や(節操がありませんでした)、書店におけるアルバイト(週に7日)などを通じて、学ぶことはたくさんありましたが、「異分野の人たちとも積極的に連携して、アイディアを実現できる」ような講義があれば、ぜったいに受けておきたかった。といっても考え方次第で、学ぶ側の意識を変えたなら、どんな講義も実践的な講義に変えることができたのかもしれません。

文学や哲学などアカデミックな研究に没頭できることは、大学に行くもっとも有意義な動機でしょう。デザインや音楽などのゲイジュツも同様です。

とはいえ、社会に出てからクリエイターやデザイナーなど直接には創造的な仕事に携わらなかったとしても、大学時代に柔軟な創造力を育成し、その創造力を基盤として、卒業後の生活をゆたかに変えていく力を得られる講義があれば、学生たちのスキルアップ向上はもちろん、なにより大学を開かれた魅力的な場に変えるのではないでしょうか。

ティナ・シーリグが演習で学生たちに出す課題は実践的です。クラスを14チームに分け、元手として5ドルの入った封筒を渡して、2時間以内にできるだけお金を増やすことが課題です。水曜日の午後から日曜日の夕方まで制限時間が与えられていますが、いったん封を開けたら、効率的に5ドルの「資産」を増やさなければなりません。

結果として最高で6000ドル以上を稼ぎ出したチームもあるとのこと。具体的に学生たちが企画したことは、レストランの行列待ちの代行、自転車のタイヤの空気圧を調べる、雨の日に傘を貸し出すなど、さまざまだったようです。その後は、封筒に入れる「資産」を5ドルではなく、クリップやポストイットなどに変えて(それらの文具を価値に変えることは難しそう)何度も思考力を鍛錬する演習を展開したそうです。面白いな、と感じつつ、もし自分が企画することを想像すると冷や汗が出ます。

すべての学部に同様の演習が必要であるとはおもいません。最近の大学の講義や演習がどうなっているのか知らないので、ひょっとしたら類似した演習を課している大学もあるかもしれません。けれども個人的な印象ですが、社会人を想定した大学の演習というと、どうしてもビジネス英語とかパソコンのプログラミングとか、ダブルスクールでも学べるような専門学校的な演習を想定してしまう。ティナ・シーリグのような実践的、創造的な演習は画期的にみえます。

ティナ・シーリグの演習は、さまざまな分野で応用が利くものであり、本書では、演習を通じて得たイノベーションのコツ、発想のノウハウが、惜しげもなく解説されていて、わくわくしました。創造性を養う、などと紋切型の教育目標はもっともらしく聞こえますが、「どのようにして」という実践事例にはあまり触れることができません。本書に書かれた具体例やエピソードは参考になります。

と、同時に、iPhoneやiPadによるアップルの快進撃などを眺めて、さらに若い世代に向けてこのような実践的なビジネス教育が徹底されているのであれば、次のアップルやグーグルが登場する可能性は多いにあります。日本ものんびりしていられないぞ、と痛感しました。

イノベーション、発想のノウハウのひとつとして、たとえばルールを破るということが解説されています。グーグルの共同創業者のラリー・ペイジは「できないことなどない、と呑んでかかることで、決まりきった枠からはみ出よう」と講演のなかで言っているそうです(P.47)。

また、開発途上国の起業家を支援するための「エンデバー」を立ち上げたリンダ・ロッテンバーグがアドバイザーから聞かされた教訓が引用されていて、なるほどとおもいました(P.64)。

戦闘機のパイロットの訓練生ふたりが、互いに教官から受けた指示を披露し合いました。ひとりが、「飛行の際のルールを一〇〇〇個習った」というのに対して、もうひとりは、「私が教えられたのは三つだけだ」と答えました。一〇〇〇個のパイロットは、自分の方が選択肢が多いのだと内心喜んだのですが、三個の方はこう言いました。「してはいけないことを三つ教えられたんだ。あとは自分次第だそうだ」。この逸話の要点は、すべきことをあれこれ挙げていくよりも、絶対にしてはいけないことを知っておく方がいい、ということです。そして、ルールと助言の大きな違いも教えてくれています。助言を吹き飛ばしてしまえば、ルールははるかに少なくなります。

詰め込み式の受験教育を連想しました。たくさんの知識を増やすことは、自分の引き出しを増やすという意味でも大事なことです。しかし、やってはいけないこと3つを完全に教え込んであとは自由・・・という教え方は、限りなく自由です。どちらが創造的かといえば、迷わず後者でしょう。

知識が増えると既存の知識に縛られることもあります。知っているからこそ動けなくなる。しかし、禁じられたこと、やっても無駄なこと以外は何をやってもよければ行動の範囲が広がります。失敗したら失敗から学べばいい。

ティナ・シーリグは、演習のなかで「失敗のレジュメ」を書くことを義務付けているそうです(P.88)。確かに失敗から学べることは多いし、失敗は挑戦した証ともいえます。リスクばかりを注視することによって行動を狭めてしまう。日本発の世界的ベンチャー企業が生まれにくい要因として、リスク(失敗)に対する評価が厳しいということもよく聞きます。

失敗を見極めることもポイントであると感じました。組織行動の専門家ロバート・サットンの文章の引用を引用します(P.96)。

何かを決める際には、過去にどれだけコストをかけたかを考えに入れるべきではない――たいていの人は、この原則を知っている。だが「投資しすぎて、引くに引けない症候群」はかなり強力だ。何年にもわたって努力や苦労を重ねてくると、つい正当化したくなり、自分自身にも周りにも「これはなにか価値や意味があるはずだ」とか「だからここまで賭けたのだ」と言ってしまう。

引き際は重要です。ティナ・シーリグの演習のなかでは、たとえば5ドルを2時間で増やすための演習で、自分たちの企画が想定通りにいかなかったり、失敗じゃないかと見通しができたとき、中止すべきか再挑戦を試みるべきか、チームのなかで学んでいくのでしょう。

ビジネスにおいては交渉が決裂するときもあります。このとき重要なことは、目前の問題だけでなく、いくつかの選択肢を考慮するということです。次のように書かれています(P.175)。

席を立つべきかどうかを決めるには、ほかの選択肢を知ることです。そうすれば目の前の取引とくらべることができます。交渉学ではこれを、BATNA(不調時対策案)といいます。交渉を始めるときには、BATNAを持っているべきです。

失敗を認めること、他の選択肢を考慮することは、簡単なようで簡単にはできません。本書で書かれている事柄は、社会のなかで実践できる「知恵」として提示されています。大学という狭い領域のなかだけで重宝され、実社会では利用されないアカデミックな「知識」ではありません。学生時代にこんな交渉論やコミュニケーション論を実践的に学びたかったなあ。

コミュニケーション論といえば、人間関係における著者の考え方にも、さりげないのですが、こころに染みるものがありました。「正しく行動することと、自分にとってベストの判断を正当化することには、大きな隔たりがあるということ」と前打って、彼女独自の人間関係の要諦を次のように書いています(P.182)。

あなたの行為は、あなたに対する周りの評価に影響します。そして、何度も言うように、いつかどこかでおなじ人に出会う可能性は高いのです。ほかのことはともかく、相手があなたの振舞いを覚えているのは確実です。

20代の頃、特に学生時代には刹那的になりがちです。都合が悪くなればリセットすればいいや、と安易に考えることもあり、一方的に交渉を決裂させたり、相手を破滅させるまで攻撃することもあるでしょう。いまの若い世代はどうかわかりませんが、ぼくはそうでした。

失敗をリセットしてやり直せることが若さの特権でもあります。柔軟性や再生能力があるので、破壊のなかから新しいものを作り出すことができます。しかし、「人生は続く」ということを、学生時代を遠く離れたいま、ぼくは痛感するようになりました。喧嘩した相手と決裂したとしても相手は消えてしまうわけではない。不快な思いをさせた相手と、またどこかでめぐり会う可能性はないとはいえない。社会は狭いのです。

さて、遠回りして再び教育についての考え方、そして教師であった父の印象に戻ると、ぼくは20歳の頃に、ビジネスの成功法則とともに、人生のよりよい生き方をオトナたちや父親から学びたかった、学んでおくべきでした。

20歳以前の年齢から、数学であれ文学であれ、教師は数式の解き方を教えたり文学の歴史を教えるだけではなく、学問の実践を通して生き方を習得させることが重要ではないでしょうか。子供は「未熟なオトナ」ではありません。オトナの可能性と未来を内包した存在です。その意味では、子供に内包された可能性や未来と向き合う必要があります。いや、個人的にぼくは、亡き父親にそんな自分と向き合ってほしかった。

子供の人生にまで(まして他人であればなおさら)関わっていられるか、そんなところまで責任取れないよ、という実感があるかもしれません。が、教師だけが担わされる役目ではなく、オトナたち全員が考えるべきでしょう。

英語のEducatoinには「引き出す」という意味の語源があることを、かつてどこかで読みました。親や教師などのオトナたちには、過去の知識を伝授するのではなく、若い世代における個人の生きる推進力を引き出し、社会に飛び出すための滑走路のような役目が求められるのではないか、とぼくは考えます。

もっとも不誠実なオトナは、若さや可能性に対する妬みや僻みによって若い世代の芽を潰してしまうひとびとです。もちろん老いたひとたちも生き残るために、次世代の新しい勢力との競争や衝突は避けられません。しかし、シニアだけが眼前のゆたかさを貪り、後継者たちを排除する社会は、いずれ活力を失って破綻することは目にみえています。

ティナ・シーリグは、彼女の授業で、パワーポイントの最後のスライドを次のように締めくくるようです(P.188)。

「光り輝くチャンスを逃すな」

20歳の頃には気付かなかったのですが、生きるということは、一瞬一瞬がチャンスの連続です。そして、チャンスは自分から掴みにいかなければ掴むことができません。同時に、オトナたちであるぼくらには、若い世代のチャンスをどれだけ作ることができるか、という役割が求められているのではないか、と考えます。

投稿者 birdwing : 2010年6月14日 21:02

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