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2010年3月 2日
工藤重典/武満徹:フルート作品集~巡り
▼music10-03:みえない風の音を視る、不思議な邂逅。
武満徹:フルート作品集~巡り
工藤重典
曲名リスト
1. そして,それが風であることを知った
2. 巡り
3. マスク
4. 海へ3
5. エア
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武満徹さんの音楽には、相反するものが混沌のなかに投げ込まれている印象があります。妖しさと硬質さと、力強さと儚さと、ぬくもりと尖った刃のような冷たさと。異質な要素のカオスのなかで音が渦巻く感じ。
オーケストラと尺八や琵琶で構成された「秋」などにはまた違った趣きがあるのですが、フルートを中心にハープ、ヴィオラで構成された「武満徹:フルート作品集~巡り」は、研ぎ澄まされた音でありながら癒されるアルバムでした。
かつてぼくは武満徹さんの音楽が苦手でした。これは自分には合わないな、と諦めてしまっていました。しかし、ふたたび彼の音楽にめぐりあって不思議なあたたかさを感じています。自分自身の何が変わってしまったのか。ぼくにも理解できません。戸惑っています。
遠い昔に読んだ本を読み直すと新しい発見があるように、あるいは読まず嫌いで放置していた作家の作品にあらためて嵌まるように、趣向は変化します。時期によっても、年齢によっても。
小説にしても音楽にしても、作品はその作品内で完結しているようにみえますが、実は受け手(読み手・聴き手など)に向かって開かれています。受け手の感受性や身体がどのような状態にあるかによって、読まれ方、聴こえ方も変わってくるのではないでしょうか。
ヴァイオリニストは、コンサート会場のコンディションに合わせて、調弦のヘルツ数を細かく変えるということをきいたことがあります。本来であれば、そのようにして「場」ごとに作品も微妙に調整され、作り変えられるべきなのかもしれません。また、真剣に読む/聴くのであれば、作品は人生と同じように一回性のものであり、読むたび聴くたびに受け手のなかで生成され消えていくものが理想であるとも考えられます。
そもそもぼくはクラシックの初心者であり(昨年あたりから集中して聴くようになったばかり)、現代音楽に関しては知識ばかりで、きちんと触れたことがありませんでした。
しかし、この武満徹さんのフルート作品集は、そんな自分にしっくり馴染むものでした。ありがたいことにTwitterで教えてくれた方のおすすめだったので、良い作品であることは間違いないのだけれど、耳が求めていたというか、ぴったりと嵌まった感覚に自分でも驚きました。
同時に、フルートという楽器の可能性を知る契機にもなりました。
クラシック初心者だけに、フルートといえば高音で可愛らしい音色を奏でる笛だとばかりおもっていたのですが、武満徹さんの作品のなかでは、ぶおーっという迫力のある音も聴くことができます。きれいな旋律だけでなく、幽玄の響きもあります。まるで尺八のようです。楽器に対する認識をあらたにしました。
それは武満徹さんが、フルートという楽器に特別な思い入れがあったからかもしれません。以下、ライナーノーツから引用します。
フルートは武満徹にとってピアノと同じように身近な楽器である。武満は作曲を始めた初期からフルートのための曲を書き、半世紀に及ぶ創作活動の最後の作品となったのは、フルート・ソロのための<エア>(1995)だった。声高になることなく、また威圧的になることもなく、つねに柔らかさを保ちつつ微妙な音の移ろいを託しうるフルートは、おそらく武満にとって等身大の楽器だったのだろう。
アルバムのなかには7つのトラックが収録されているのですが、ぼくが最も好きなのは、1番目「そして、それが風であることを知った」です。
このタイトルについては非常に詩的だなと感じたのですが、実際にエミリー・ディキンソン(Wikipediaの解説はこちら)の詩の一節から取ったそうです。この詩人のことをぼくはまったく知らなかったのですが、Wikipediaの解説を読んで興味を持ちました。神秘主義的な傾向があり、それが武満徹さんの趣向とも合致したのでしょう。
ネットで検索したところ、「そして、それが風であることを知った」という一節を含むエミリー・ディキンソンの詩をYuuki Ohtaさんが翻訳されていました(ページはこちら)。以下、引用させていただきます。
雨のように、曲がるまでそれは鳴っていた
そして、それが風であることを知った----
波のように濡れた歩みで
しかし乾いた砂のように掃いた----
それが自分自身を何処か遠くの
高原へ押し去ってしまったとき
大勢の足音が近づくのを聞いた
それはまさしく雨であった----
それは井戸を満たし、小池を喜ばせた
それは路上で震えて歌った----
それは丘の蛇口を引っぱりだして
洪水を未知の国へ旅立たせた----
それは土地をゆるめ、海を持ち上げ
そしてあらゆる中心をかき回した
つむじ風と雲の車輪に乗って
去っていったエリヤのように。
この詩のなかで、風は木の葉を揺らすざわめきの音、でしょうか。直喩で「雨のように、曲がるまでそれは鳴っていた」ことによって、詩のなかの<私>は、ざわめきが風であったことを知ります。次の行にも関連して、「波のように濡れた歩み」「乾いた砂のように掃いた」という「雨の音=波の音、砂の音」というざらついた音の連鎖を生むことによって、風というみえない音の動きを、詩人はことばで追いかけていきます。
間接的に海あるいは水(波)へのイメージを喚起していることが、「海へ」「ウォーター・ドリーミング」のように水をモチーフとすることが多かった武満徹さんの琴線に触れたのかもしれません。「風」自体も彼にとっては重要なモチーフのようです。ライナーノーツによると次のように述べているそうです。
「人間の意識の中に吹き続けている、眼に見えない、風のような、魂(無意識の心)の気配を主題としている」と作曲者は述べている。
風は眼にみえませんが、木の葉の揺れ、水面の波紋、巻き上がる砂埃のように、他の物質とかかわることで視覚化されます。そして魂のゆらぎも、叫びや声にならない唇のわななき、ぎゅっと握った拳の震えなどで表現されます。そして大切なのは「気配」です。はっきりと言葉化されたものではいけない。感じられるけれど、ことばにならないもの。吹き抜ける透明な風=魂を表現するには、やはりフルートという楽器でなければならなかったのでしょう。
ところで、文学的なイメージはともかく、音楽的な技巧としてはライナーノーツで次のように解説されています。
6音の上行形モチーフが、ハープのハーモニクス、ヴィオラのノン・ヴィブラート、指板の上を弾くスル・タスト等の特殊奏法により、肉の厚みを削がれた静かな音で奏される。フルートも通常の奏法のほか、ハーモニクス、フラクター・タンギング等をはさむ。
・・・専門的でわかりません(涙)。ハーモニクスぐらいの用語であれば、ギターにもあるのでわかるのですが。ただ通常の奏法ではない凝った音であることは、実際に楽曲を聴けばわかります。どの音がどの奏法かはわかりませんが。
「そして、それが風であることを知った」に焦点をあてましたが、彫刻家のイサム・ノグチを追悼して書かれた「巡り」、ふたつのフルートによって奏でられて能の女面に由来したタイトルの「マスク」、最後の作となった「エア」なども不思議と癒される曲です。
そして「海へ」。楽曲はもちろん、解説書を読んで注目したのは次の部分でした。
<海へⅠ>の前年の1980年に書いた<遠い呼び声の彼方へ!>(1980)では、河が流れて調性の海に入る光景を設定され、海の綴りのSeaからとったes(S)-e(e)-a(a)の3音に始まる6音の音階が使われている。
「海へ」にもes-e-aのモチーフが使われているそうです。おもわず、にやりでした。ブラームスの弦楽六重奏曲第2番の第1楽章にも「アガーテ音型」と呼ばれる音があることを知り、以前ブログに書きました(「音楽という、ことば。」)。アガーテというのはブラームスが失恋した相手の名前で、難しそうな顔をしているけれどブラームスってロマンティストなんだな、と微笑ましかった。あまり音楽と関係のないところで凝りすぎるのもどうかとおもいますが、こういう記号的な隠しワザが個人的には大好きです。
いまも「巡り」のアルバムを聴きながら文章を書いているのですが、とても落ち着きます。西洋の楽器を使った音楽でありながら、武満徹さんの作品は「和」のイメージがあります。できれば、障子や襖のある部屋で和服を着て、正座をして瞑想しながら聴きたい。
現代音楽には縁がない。ずっとそうおもい込んでいました。ところが意外な「巡り」あわせに自分でも首を傾げながら、何度も繰り返し武満徹さんの音楽を聴いています。
投稿者 birdwing : 2010年3月 2日 22:37
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