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2014年4月 6日

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サクラサク。

春ですなあ。

既に東京ではサクラは満開の時期を通り越して、やや葉桜になってしまったものもありますが、それでも街のいたるところでサクラの花が咲き誇っています。雪景色とは別の意味で、白さを増した街の色彩に新鮮な印象を感じています。

ツイッターやフェイスブックでもサクラの花盛りですね。ネットを通じて各地のお花見ができるのは、素敵な時代になったものです。みなさんの写真はそれぞれこだわりがあっていい。花見の宴会写真も楽しい。

ぼくのブログはムダに長文なのですが(苦笑)、文字ばかりでは「花」がないので、近所で撮影したサクラの花をところどころに挿入していくことにしましょう。弟から借りたNikonのD60 で写真を撮っています。


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お花見で賑わう公園の風景もいいけれど、学校の校庭に咲くサクラが好きです。幼稚園や小学校、中学、高等学校、大学。いずれにしても春は卒業と入学のシーズンであり、古い思い出が終わるとともに新しい生活がはじまる。そんな時期、ほんのりピンクでありながら遠目には真っ白なサクラは、新しい門出を祝福してくれているようです。日本人でよかったなあと感慨に耽ることしきりです。

サクラの曲を作ってみたことがありました。「サクラサク。」というタイトルです。北乃きいさんにも同名の曲があり、さだまさしさんが小説を書いているようですね。映画も公開されているとか。同名の曲も小説も映画も、ぼくは詳しくないのですが、この「サクラサク」という言葉には、日本人には特別の感情があるのかもしれません。特に昭和の時代に生きた人間にとっては。

「サクラサク」は受験のとき、合格の電報として使われていた言葉でした。届くと嬉しい言葉なのです。でも、最近では電報なんて打たないのではないでしょうか。スマートフォンがある。メールで済ませてしまうかもしれません。


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ぼくが「サクラサク。」という曲をを作ったのは2006年の2月25日。大学時代の同窓生と共同でブログを書いていたとき、そのうちのひとりの方の娘さんが受験に見事に合格。お祝いをしたくて曲を作りました。受験はもちろん就職など、新しい世界に旅立っていくひとたちにエールを送りたいと考えました。

現在、ブログのトップページにもSoundcloudにアップした「サクラサク。」を聴けるようにブログパーツを貼り付けていますが、こちらの記事にも貼り付けておきます。Vocaloid MEIKO という初音ミクの前身になった歌うソフトウェアを使っています。すべてパソコン上の打ち込みで作りました。



この曲を紹介したところ、フェイスブックで「Vocaloidじゃなくて歌ってほしい」というようなご要望をいただきましたので、弾き語りしてみました。

そもそも打ち込みで作っているとき、ぼくはコードを認識して作っていないんですよね。なので、どんなコードなのかわからない(苦笑)弾き語りをするにあたって、メロディからコードを付け直してみました。

さらに自分流の弦の押さえ方をしています。たぶん、カポ7で、Fなんとか、Cなんとか、Amなんとかのシンプルな3コードなのですが、「あ、この音気持ちいいかも」とおもった音を押さえているので、なんというコードかわからん。ついでに、イントロとサビを作っているとサクラが散ってしまうので(笑)、歌のみの部分で作りました。YouTubeでお聴きください。



歌詞を載せておきます。

+++++++++++
サクラサク。 
+++++++++++

サクラ咲く未来に 続いてるこの道
遙か遠く青い空 かすんでみえる山並み

きみはどこへ行くの
明日旅立ちのとき

夢を忘れないでいて
そっと鞄に詰めて

サクラ咲く春の日 少しだけ切ない
踏み切りの向こう側 手を振るきみがみえない

きみはきみでいればいい
いつも どんなときにも

雨がきみを濡らしても
傘はここにあるから
+++++++++++


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春は新しいことをはじめるのに最適な季節です。何かしたいなーとおもっていたところ、100円ショップで観葉植物をみつけて、テーブルヤシを育ててみることにしました。

こちらもフェイスブックにアップしたところ「素焼きの鉢に植え替えて、霧吹きが必要」というアドバイスをいただいたので、早速100円ショップで購入。毎朝、テーブルヤシくんに水をあげて、しゅっしゅっと霧を吹きかけてあげることが日課になっています。


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何かを育てるっていいですね。ささやかなぼくの愛情を受け取ってくれたのか、テーブルヤシくんはぐんぐん育ち、葉を増やし続けています。その生命力に元気づけられることが大きい。

彼に負けないように、ぼくも自分を成長させていきたいと考えています。今月、ぼくはなんと50歳になるのですが(やれやれ)、まだ自分は発展途上であると感じています。もちろん年齢に相応しい成熟した大人になりたい。けれども思考の硬直した頑固じじいにはなりたくない。しなやかに年齢を重ねていきたいですね。出窓の日溜まりのなかで、すくすく葉を拡げている(100円ショップの)テーブルヤシくんから、毎朝、元気と成長する力をいただいています。

元気といえば、ライターとして大塚製薬様の「キミハツ」というサイトで、ライフハックの記事を書かせていただきました。コンビニの活用方法についての記事です。


■新人ノマドワーカーに伝授した、コンビニ活用法5選
http://kimihatsu.com/life/0001.html
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オロナミンCの「元気ハツラツ」のキャッチコピーは子供の頃から馴染みの深いものでした。「キミハツ」というサイトでは、いきいきと働く若い世代の方々を紹介する記事が掲載されています。チャレンジ精神旺盛だったり、プロとしてのこだわりがあったり、読んでいると元気が出ます。あやかりたいですね、この元気。

あ、追記ですが、これは成城学園前の駅ビル、CORTYの三省堂書店で配られていたポストカードです。サクラのデザインが素敵だったので3枚もいただいてしまった。


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サクラの花を楽しめる時期は短いものです。でも、だからこそ堪能しておきたい。そしてサクラの時期が終わると、新緑の季節がやってきます。そうやって季節は巡って、またサクラの時期がくる。

ひとつひとつの季節をていねいに感じていたいとおもっています。

投稿者: birdwing 日時: 05:22 | | トラックバック (0)

2013年11月18日

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アイビーを刈る。

気が付けば季節はコート着用、街はクリスマスに向けてイルミネーションが賑やかな雰囲気になってきました。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。こちらではご無沙汰しております。久し振りにブログを書きます。

11月の真ん中あたりの土曜日、そして日曜日。「すかっ」と白墨で書き殴りたくなるほど最高の青空が広り、青空フリークのわたくしとしては空を眺めているだけでしあわせな時間を過ごすことができました。とはいえ、せっかくなので、いままでやらずに放置していたことをやってみようとおもいつき、玄関のアイビーを刈ることにしました。

東京の都内なので庭などという贅沢なものは存在しないわが家ですが、玄関にはちょっとした花壇があります。そこにアイビーが植えてありました。アイビー(ヘデラ)というのは要するにツタで、つる性植物の一種です。ブドウの葉に似ている深い緑の葉を付けます。写真はWikipediaから。


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このアイビーという植物は異常に生命力があるようで、あるいはわが家の周辺が植物にとってパワースポットなのかもしれないのだけれど、どんどん繁殖して花壇どころか玄関まで進出。家に入るには草をかきわけて入らなければならないという、都会の一軒家とはおもえない状況になってしまったのです。4年もの年月のあいだ手入れせずに放置していれば、草ぼーぼーにもなるのも当然かもしれませんが。

というわけで午後に一念発起し、アイビーを刈ることにしました。

4.5リットルのゴミ袋を用意して、剪定ばさみでちょっきんちょっきんアイビーを刈っていきます。つる性植物なので、ぐいっと引っ張るとずるずると幹が伸びてくる。適当なところでちょっきんと切る。しかし、1センチ幅ぐらいの幹になっているところもあり、この場合は、はさみで挟んでぐりぐり捻って切るなど苦労しました。気分は散髪屋という感じです。あんまり切りすぎても見栄えがよくないので、体裁よく葉を残しながら刈っていく。

アイビーを刈りながら感じたのは、これってなんだか落ち着く、ということでした。うーむ。庭いじりを好むひとたちの気持ちがわかる気がする。

そもそも周囲を鬱蒼とした緑で取り囲まれた伊豆の田舎で育ったぼくは、植物といえば草でしかなく、草といえば「うっとうしいもの」としか感じていませんでした。したがって、ガーデニングとか庭いじりを好むひとたちの気持ちがよくわからなかったんですね。なぜ、植物などの手入れをして楽しいのか、と。とはいえ、ぼくの父は亡くなる寸前まで庭の草を電動草刈り機で刈ったりしていました。母はいまでも裏山のみかんや柿の枝を剪定しています(ときどき山から落ちる)。放っておけばいいのに。

なぜ多くのひとびとが草刈りに熱意を燃やすのか、ぼくにはその理由や動機がよくわかりませんでした。しかし、はじめて玄関のアイビーを刈ってわかった。これって、とても気持ちが落ち着くではないですか。というか、いったいこの充実感は何でしょう。草刈り楽しい。ブラボー草刈り。草刈正雄(意味なし)。

シニアの年齢になったからかもしれません。盆栽をいじるご老人の気持ちもわかる。植物に触れること自体が、なんだかとても和むのですね。アイビーの葉を刈ると、新鮮な緑の匂いがして、ちょっとかわいそうだなとも考えるのですが、きっと彼等は(彼等なのかわかりませんが)刈っても見事に再生する予感がある。自然の生命力を感じます。

それから、驚いたことは、刈ってはじめて気付いたのですが、落ち葉が堆積して、なんとコンクリートの上に見事な土を作っているということでした。わかりにくいかもしれませんが、写真を載せてみます。


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これ、ほんとうに土なんですよ。びっくりした。

土ができるほど枯葉を放置していたわが家もいかがなものかとおもうのだけれど(苦笑)、上のほうは枯葉で、その下の層はやや細かくなった粗い土、さらにその下はさらさらとした豊穣な土になっていました。

自然って凄いなーとおもいましたね。みずからの生命を終えると、次の世代もしくは他の生命のための土壌を「作って」いく。地球というのは、なんというクリエイティブな世界でしょう。もちろんすぐに土ができたわけではありません。長い時間をかけて(とりあえず4年ばかり)土壌に変えていった。都会の土なんてひとつもなかったコンクリートの上に、アイビーは土を作り出した。すばらしい。

おもわず人生について想いを馳せてしまいました。

ぼくらの人生もそういうものかもしれない。こんなことやって何になるんだろうか、と悩むこともありますが、その積み重ねが次の世代の土壌を知らず知らずのうちに作っているのかもしれない。そして自分自身が生きているうちにはわからなかったとしても、その土壌で育つ何かがあるのかもしれない。ブログもそうかもしれないですね。無意味ともおもえるテキストの土壌から、もしかすると新しい何かが生まれるかもしれない(生まれないかもしれない)。

アイビーの凄いところは、そんな人間の思考とはおかまいなしに、ただただ葉を茂らせて、枯葉を落として、土を生成していることです。愚直なまでにひたすら日々「生きて」いる。

いま、堀江貴文さんの『ゼロ―なにもない自分に小さなイチを足していく 』を読んでいます。本屋の店頭では平積みにされて、人気になっている本です。


4478025800ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく
堀江 貴文
ダイヤモンド社 2013-11-01

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この本のなかで、堀江さんは目の前にあることにとにかく集中することによって、不安を消し去ることができると説かれています。また、人生は足し算であって、ちいさなイチを積み重ねることによって、その蓄積が大きなものになっていくという思想が据えられています。

一般的に(ビジネスについては特にそうですが)「相乗効果(シナジー)」というように、掛け算によって大きな効果を生み出すことが取り上げられます。響きのいい言葉なので、コンサルタントなどは使いたがる。しかし、堀江さんの考え方によると、最初がゼロのものにいくら何かを掛けたとしても、解はゼロにしかならない。掛け算的な効果というのは一種の幻想のようなものであって、ちいさなイチの積み重ねこそが人生なのだと。

とても共感を得ました。また、稲盛和夫さんの哲学に通じるものがあるとも感じました。稲盛さんも、目の前の仕事にとにかく集中することを重要視されています。眼前の仕事を片付けていくことが実績となり、実績が次の飛躍を生むための基盤となる。

堀江さんや稲盛さんの考え方にイメージが重なったのですが、時間をかけて葉を増やし、葉から土を生み出すアイビーの「生き方」に学ぶところが大きいとおもいました。

さて、2時間ばかりアイビーと付き合っていたでしょうか。ビフォーアフターではないのですが、見違えるようになったわが家の玄関の刈り取る前/刈り取った後の写真を掲載してみます。

Before

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After

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Before

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After

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結果、4.5リットルのゴミ袋4つがぱんぱんになりました。

やれやれ。すっきりした。

投稿者: birdwing 日時: 05:15 | | トラックバック (0)

2011年8月28日

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仕事よりハードなものは(2011バージョン)。

それは息子たちの自由研究です・・・。

ぼくにはふたりの息子がいます。ちょうど6歳離れているため、長男くんが中学に入学したときに次男くんは小学校に入学しました。ということは、小学校のイベントを12年間繰り返すことになるということです。

12年間。眩暈がしました。やっと送り出したとおもったら、また1年生から繰り返すんですよ。特にプレッシャーなのが夏休みの自由研究です。自由研究なんて適当にやればいいじゃんというご両親の方もいらっしゃるかもしれませんが、そうはいかないのが悲しいところ。

以前、夏休み後に長男くんの学校開放日(授業参観)に参加したことがあるのですが、廊下に自由研究が展示されていて、みなさんのあまりの力の入りようにたじたじでした。沖縄の旅行日記が写真入りでものすごく丁寧に書かれていたり、なかにはパソコン自作という、どう考えてもおとーさんの趣味でしょ?という研究もあったり(ハードディスクの設置などデジカメで撮影した写真入りの解説が加えられていました)。

というわけで、毎年プレッシャーな夏休みの自由研究ですけれども、どうやらみなさん、全国のおとーさん、おかーさんも大変苦労されているようです。というのもアクセス解析を久し振りに確認したところ、4年前(2007年)にぼくが息子の自由研究について書いた次のエントリーが、堂々と7~8月のアクセス数4位に入っていたからでした。

■仕事よりハードなものは。http://birdwing.sakura.ne.jp/blog/2007/09/post-26.html

自分の息子のために手伝ってあげた自由研究を、これは自分だけの研究だ、真似するんじゃない、とおもってはいません。むしろ逆で、夏休みの終わりもあと数日なのにドリルは終わったけれど、どうしても自由研究だけが終わっていない、なんとかしたい、というご両親のために一例として提供したい。フリーで(当たり前ですが)提供したい。すこしでも役に立っていただきたいのです。

上記のエントリーで書いているのは、紙飛行機の研究ですが、もし同様の自由研究をお考えでしたら次のエントリーも参考になるかとおもいます。

■紙ヒコーキを折る。http://birdwing.sakura.ne.jp/blog/2007/06/post-154.html

■折り紙ヒコーキを作ろう(1)http://birdwing.sakura.ne.jp/blog/2007/09/post-37.html

自由研究の完成、幸運を祈りますね。

さて、今年も28日になり、やっと本日、小学校3年生(8歳)の次男くんの自由研究を終わらせました。ふーやれやれ。絵を描いたり工作が好きな次男くんのために、いっしょにロボットを作りました。その作品は後で掲載することにして、自由研究のネタとして、昨年何をやったかを振り返ってみます。

まず、中学2年の長男くんは、理科の宿題でミョウバンの結晶づくりをしました。昨年のことなので詳細は省きますが、まずコップの湯に粉末のミョウバンを入れ、湯煎(鍋の湯のなかにコップを入れて温める)して、限界までミョウバンを溶かしていきます。そして、半透明になってもうこれ以上溶けないところでコップを外に出してゆっくり冷やす。冷やすにしたがって、コップの底に結晶ができます。こんな感じ。

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このちいさな結晶が「種」になります。冷めたら取り出して、なるべく形のいいものを探してテグスの糸に結び付けます。

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そして限界まで溶けているミョウバンの液のなかに吊るして浸けておく。2日ほどしたら残った溶液のなかにまたミョウバンを追加して湯銭し、濃度を上げて、冷めたところで種をまた吊るして冷やす。アイスなどを買ってドライアイスがあったときは、クーラーボックスのなかにコップをおいて冷やしたりしました。そうして数日結晶を育てるとこんな感じになります。

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ほんとうはダイヤみたいなかっこいい結晶になるようでしたが、うちのはかっこ悪い怪獣の頭みたいな形になってしまいました(苦笑)。

次男くん(当時、小学校2年)の自由研究はどうしよう、と考えたのですが、長男と違って芸術家気質な彼のために、羽の動く鳥(オリジナルのぼくによる設計)を作ろうと計画しました。しかし、これは息子の宿題にも関わらず、ぼくがやりすぎました(苦笑)。

まず、近所の100円ショップで工作用の木材を購入して、次のような骨組みを作りました。

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メカニズムがわかりにくいとおもいます。簡単に説明すると、羽と脚の部分がちょうつがいで接続されていて、身体を上下に動かすと、両方の羽が上がったり下がったりする仕組みです。ここまで作ったときは、自分が羽ばたき式の飛行機を設計したレオナルド・ダ・ヴィンチじゃないかとおもいました(自画自賛)。

この骨格にダンボールを貼り付け、さらにちぎった光沢系の色紙を貼り付けていきます。途中段階はこんな感じです。

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この状態からさらに胸の部分にも折り紙を貼って、棒だけの部分にダンボールで羽を作り、そこにも折り紙の羽を貼り付け、両足を木の土台に打ち付けました。次男くんは「トゥインクルバード」というかっこいい名前を付けたのですが、ぼくらは「サチコ(通称)」と呼んでいました。サチコは、小林幸子さんのサチコです。

この通称サチコ、完成の写真も撮ったつもりでいたのですが、あまりの疲労のため力尽きたのか残っていません。そして、秋になって戻ってきたサチコ(通称)は、なんだこれ、おもしろーいと7歳児にいじられまくって、見る影もなくぼろぼろになっていました。

サチコ(通称)の制作で反省したい点は、結局、父親(であるところのぼく)の自由研究(工作)になってしまい、次男くんは、折り紙の羽をちぎったこと、目を厚紙を切り抜いて作ったたこと、だけになってしまった顛末でした。

これではいかんっ。自主性を育てなくては。

という反省のもとに2011、着手したのがロボット制作です。まず、次男くんに今年はロボットを作ろう、だからまずは設計図を描いて、と依頼しました。いいよ、と快諾をいただいて、ちゃっちゃっと上がってきたのが次の絵です。

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う、うーむ。あまりにもアバウトすぎないっすか、博士。

しかしながら彼の設計図通りに(というか、あんまり複雑なものは作れないので)完成したのが次のようなロボットです。本日、できたてほやほやです。

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素材は生協のクロワッサンが入っていたダンボール。アルミホイルを貼りまくりました。両手は針金(100円ショップ)のコイルです。実は両目が光るんですよ。LEDライトで、クリスマスの電飾のように、赤、紫、緑、青のように点滅したり点灯したままになったりします。

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今回はぼくが全部作らずに「胸のドアを開けるとなかが見えるようにしたいから書いて」「両手は針金でバネを作りたいから巻いて」などとお願いしていたら面白くなってきたらしく、自分で頭の上に乗せる何かを作ってみたり、こんなのはどう?と提案するようになりました。

おとーさんとしては、工夫したのは目の部分です。配線とか面倒だなーとおもっていたのですが、100円ショップに行ったところ電球型のLEDライトがあったので、それをそのまま使うことにしました。この点灯スイッチは、豆電球のソケット部分の下にあります。そこで、ロボットの頭に真ん中がくりぬいてある丸い木(これも100円ショップで購入)でLEDライトを固定して、頭の後ろに穴をあけ、鉛筆を突っ込むとライトが点くようにしました。図解するとこんな感じ。

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この、鉛筆を突っ込むとライトが点くというカラクリが8歳児には不思議だったようで、「どういう風になってるの?なんで光るの?」としきりに訊いてきました。よし。科学的疑問を生じさせる掴みはOK。ただ、学校に持っていくとぐいぐい突っ込まれそうだなあ。穴があれば入れたい年頃だからなあ。

ロボットを作りながら、ぼくの小学生の頃の夢は発明家になることだった、とノスタルジックにおもい出しました。きっともっと立派なロボットを自由研究に作ってくる子供もいることでしょう。でも、いまのきみ(次男くん)には、このダンボールのロボットでいい。

きみが大人になったら、ホンモノのロボットを作れるぐらいになってほしい。そして、ロボットが日常的に稼動する時代が、きみたちにとってもしあわせでありますように。夏の終わりに、そんなことをしみじみと考えたのでした。

投稿者: birdwing 日時: 21:05 | | トラックバック (0)

2010年1月12日

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おとうさんというカタパルト。

成人の日を迎え、各地で晴れやかな新成人の門出が祝福されました。総務庁によると、2009年にあらたに成人を迎えたひとは127万人。そのうち125万人は初めての平成生まれだそうです。ついに平成の成人デビューですか。

少子化により、成人の人口は減少傾向にあるとのこと。相変わらず式をぶち壊すような暴動もあったようです。元気が有り余っているんだな、もったいないな、という気がしました。かたちだけの成人式なんてなくしちゃえば?という意見もあります。ただ、そんなことを言いはじめたら、多くの国民の祝日はどれも形骸的だとおもうんですけど。

自分自身を振り返ってみても、成人式に、成人=オトナになったという感慨はありませんでした。あえていえば大人になったと感じたのは、社会に出て初めての入社式か、結婚式か、あるいは子供が生まれたときか。それとも?

成人式不要論にぼくは反対で、ひとつの節目として成人式は必要ではないかと考えています。20年も生きちゃったんだな、という意識付けのために。成人式からさらに20年生きてしまった40歳に、第2成人式というものがあってもいいかもしれませんね。これからシニア(中高年)なんだぞ、という心構えのために。

自分にとって20歳という時期は、興味のあることや悩みごとが多すぎて、20年生きてきた、これからオトナの仲間入りだ、という感慨に浸る余裕がありませんでした。19歳も20歳もぜんぜん変わらないじゃん、と斜に構えていた。田舎から東京に出てきて、ひとり暮らしをはじめて、その自由に溺れていた時期です。活動範囲を急速に広げて、刺激を吸収するのに夢中でした。

いまでも精神的には子供な自分ではありますが、もっともっと子供でした。子供にかぎって、えへん、一人前なんだぜ、と胸を張りたがるものです。傍からみれば痛々しい自己主張です。とはいえ、ぼくもそうだったなあ。20歳の頃、無駄に背伸びをしていました。

ちなみに、何でもできるとおもっていた20歳の自分はこんな顔。

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遠目には、あまりいまと変わりないか(そんなことはありません。苦笑)。

何でもできることが大人ではない。むしろ無謀に何でもできるということは子供であって、分別をもって「しない」ことができるのが大人です。あるいは、したことに対して責任を負うことも。

しかし、「しない」のではなく、大人になると「できない」状態になってしまう。楽観論はやめにして正直に語れば、身体的にも精神的にも、可能性を狭めていくことが大人になるということです。成長するということは成熟に向かうと同時に、可能性を損ないつづける過程でもあります。だから成人式は、何でもできるんだと暴挙に出るのではなく、暴れることができなくなる節目だと考えたほうがいい。

可能性に満ちて何でもできた若者も、いずれは子供を産み、可能性の輪を狭めながら年老いていく。成人の時点ではまだわからないかもしれませんが、大人の「覚悟」が必要になります。

自分の子供もまた成人を迎えます。その子供に親として何ができるか。そんなことを考えなければならない時期が到来します。

子育ては知力より体力だと最近実感するのですが、10代をすぎて成長した子供たちは、かつて自分がぎゅうっと抱きしめていた子供たちとは「別物」になります。思考転換とともに、力の入れどころを変えていかなければならない。教育とは宿題をさせることではありません。と、偉そうなことを書きながら自分ができないのだけれど、親としての教育は算数や国語を教えることではない。

一方でどれだけ子供のことを考えたとしても、おとうさんは孤独です。うちの父もそうでした。退職後、夕方からキッチンのテーブルに座り、ゆっくりと酒を飲みながらひとりで映画を観ているのが常でした。そうして、みんなで夕食後にトランプなどのゲームで楽しんでいるとき「オレはいい」といって席を外します。団欒に加わればいいのに、とおもったものでしたが、気が付くと自分もそんなちょっと気難しい、孤独を好む親父になりそうです。

最近観た映画にも、親子関係を考えさせられるものがいくつかありました。

「4分間のピアニスト」という作品では、女囚である娘が出場するコンクールのホールで、父親は「シューマンを演奏するのか、いい選択だ」と声をかけます。ところが娘の返事は「死んでよ、パパ」。

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「ノウイング」では、地球滅亡の危機にどうすべきか悩む父(ニコラス・ケイジ)に、5歳ぐらいの息子が「なぜ何も教えてくれないの?子供扱いしないでよ」と問いただします。結局、あの作品は、見方によっては「姥捨て山」なのですが、選ばれた可能性のある人間だけが救われて、その他は破滅する。種を残すということは選択と排除であり、年老いたものには可能性がない。

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子供のために生涯を捧げる必要はないとおもいます。自分の人生をしっかり生きればいい。しかし、子供と衝突するときがあれば、全力で立ち向かう「おとうさん」でありたいですね。たぶん気力も体力も衰えていくと、逃げ腰になる。そのときが父親としての勝負どころ、踏ん張りどころです。

ぶつかったことが子供にとって踏み台になり、可能性のはるか彼方に子供をぶん投げられるようでありたい。つまり、子供の発射台(カタパルト)として、子供の潜在的な能力を飛躍させるための父親をめざしたいものです。可能性を押し潰す障害ではなくて。

成人式もひとつの機会だとおもいます。おまえらをここまで20年のあいだ育ててきた、あとは勝手にやれ、えいっ、と放り出す。成人式をもって親離れもするし子離れもする。あとは対等の人間として、たまに会っていっしょに酒を呑むぐらい。干渉もしないし、干渉もさせない。

おとうさんは乗り越えられるもの。カタパルト型おとうさんが理想です。

投稿者: birdwing 日時: 20:19 | | トラックバック (0)

2009年10月11日

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秋だというのに、青々と。

キンモクセイが香る季節になりました。しあわせだなぁ。何度もこのブログで書いているような気がしますが、ぼくはキンモクセイの匂いが大好きです。さわやかな秋晴れの朝にふんわりと漂う匂いもよいのですが、雨のなか静かに香りの粒子が紛れ込むのもいい。サクラと同じように短命だけれど、どこから漂ってくるのかわからない奥ゆかしい存在感もいい。

ところで、9月の30日に病院の帰りに時間をもてあまして、雑貨屋で奇妙なものを買いました。hair LABOというらしいのですが、人形のアタマから芝のような植物が生えてくる水栽培セットです。ちいさな金魚鉢風のガラスの器が下に付いていて、そこからアルコールランプの芯のようなもので水を吸い上げる。これです。

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さっそく水を入れて育ててみることにしました。どうなるんだろう。5日から12日ぐらいで芽が生えてくるようですが、4日目。つんつんと芽が出はじめました。

■10月4日

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前日までには変化なしだったのに、いきなりの発芽です。なんとなく向かって左側のほうが発育が早い。そうして翌日。

■10月5日

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どわー。日の光に当ててあげたせいか、緑になりました。ネコみたいにほっぺたからも髭が生えている。そんなわけで、翌日。

■10月6日

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全体的に生え揃ってきましたね。耳からも生えてる。で、翌日。

■10月7日

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うおう。緑が濃厚に。ちょっとパンクなツンツンヘアーという感じもあります。どこまで伸びるんだろう。一日おいて、9日にはこんなことに。

■10月9日

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どっひゃー。ふたつに分かれているのは、両側で結んでみようかとおもったからです。根っこも生えてきて水のほうへと伸びていきます。そろそろ刈りどきでしょうか。しかし、まだ伸びるのかな。

生命のチカラ、おそるべし。季節はだいぶ涼しくなって、これから秋へと向かう時期なのですが、季節と逆行して、部屋の一部だけは青々とした緑が生い茂っています。なんてことだ。

水栽培というと、子供の頃にクロッカスやヒヤシンスなどを育てた覚えがあります。また、最近では野菜などを水耕栽培で作っているところも増えたようです。家庭でも、ちょっとした菜園ができるとか。

植物の生命力には凄いものがありますね。その勢いに驚いています。見習わなければ。というか、いまはまだ大丈夫なのですが、ぼくのアタマ方面の髪の密度が寂しくなりつつある昨今、こっちのほうも頑張ってほしいものです。

投稿者: birdwing 日時: 07:26 | | コメント (2) | トラックバック (0)