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2006年1月 4日

思いつきを超えて。

いつごろからか気付きはじめて、自戒していたことなのだけれど、思いつきとアイディア、そして思いつきと企画には大きな隔たりがあります。つまり、思いつくことは誰にでもできる。こんなのあったらいいよね、とか、こうしたらいいんじゃないの、という思いつきを話すことは簡単にできるわけです。そんな風に考えたことを話すだけで、ああオレってすごいかも、みたいな気持ちになる。しかしながら、そのレベルではまだプロもしくは仕事で通用するものとはいえなくて、そこからアイディアや企画として完成させるまでには大きな道のりがある。茂木さんの「脳と創造性」、眞木準さんの編により19人のクリエイターがアイディアを生む秘訣について書かれている「ひとつ上のアイディア。」という本を読んで、あらためて仕事として通用する思いつきの発展方法を考えました。

では、どういうことが必要かというと、特許法の話ではないのですが、まず第一に新規性が重要になる。誰かが既にその思いつきを実現していないか、ということです。電話の発明の話なども連想しますが、先に申請なり実現したひとがいたとしたら、その思いつきは二番煎じになります。既存の文脈に絡みとられてしまう。もちろん二番煎じがダメだということはないのですが、誰かがやっていることをいかにもオリジナリティのあふれるもののように話すのは、ちょっと恥ずかしい。柳の下にドジョウがいる場合もありますが、そんなにうまくいく話ばかりではない。ただ、可能性としては、そこに何らかの新しい視点が加えられたなら、まったく新しいアイディアや企画になる可能性もあります。

そのために必要なことは、ひとつのアイディアをさまざまな角度から検証することでしょうか。これはマーケティング的な視点が必要になるかもしれない。コピーライター的な感性も必要なのだけど、一方で世のなかの動きにあっているかどうか、ほんとうにそういうものを求める気持ちがみんなのなかにあるか、ということを探る必要があります。アカウントプランニングという言葉も使われたことがありますが、インサイト(洞察)を見出して、クリエイティブに結びつける。消費者も賢くなってきているので、プロダクトアウト的な思考だけでは難しいな、と思います。もちろんほんとうに凄いアイディアは個人の直感から生まれるという気もしていますが、であっても検証は必要です。

さらに量産することも重要です。この一案でいける、という思いつきには不安を感じる。オレの感性を信じろ、なんて言われても、どうかな?と思う。世のなかを考慮して、上下前後左右から思いつきを検討した上で、まずはオプション案を作ってみる。その上でまったく新しい視点から別のアイディアも出してみる。コピーライターさんは、ひとつの案件に対して50以上もコピーを書きますが、企画も完成形に至るまでにあらゆるシナリオを検討する必要があります。この量産というのは結構きつい。これは趣味のDTMでも言えることですが、曲を創り続けることはかなりしんどい。代表作を完成させてあとはおしまい、って感じにした方が楽なのですが、駄作も含めて創り続けることは大事だと思っています。チャップリンだったかと思うのですが、あなたの代表作は?と聞かれて、Next Oneと答えたように。その気持ちがないと、クリエイターとしては終わってしまうものです。

だから大事なのは、情報感度を高めてアンテナを張り巡らせておくこと、たくさん本を読むこと、さまざまな映画や芸術に触れることなのかもしれません。素晴らしいひとに出会って話を聞くことも重要になる。水鳥は静かに浮かんでいるようで、水面下で一生懸命に足を動かしている、ということも言われますが(うーむ、これこそステレオタイプな表現だな)、クリエイティブであるためには、勉強に終わりというということはなくて、常に「完成をめざすベクトル」「完成までの発展途上段階」として勉強をしていたい。この文章の末尾は、ねばならない、ではなくて、していたい、です。自分の意思で勉強することを選び取ること、それがオトナ(社会人)の勉強です。この気持ちをちいさな息子たちにも伝えたいんですけど。

大きく本題からは外れるのですが、ぼくの個人的な思いとして、優等生である必要はないし、むしろ優等生であることを拒むこと、が重要だと考えています。他人からの評価を期待する優等生でいると、自らを他人の尺度の枠のなかに閉じ込めてしまうので、逆に成長ができなくなる。それこそ多様性のある社会というつながりのなかで、独自なノード(接点)として機能していたい。あるいは評価という文脈を拒みたい。ぼくの人生なのだから、ぼくが幸せであれば、おまえらから評価なんかされたくないし批評されたくないよ、という感じです。業績などは数値化された情報で読み取ることが重要なことは確かだけれど、一方で疑問も感じています。デジタル化されたことで削ぎ落とされてしまうことも多い。なんでも数値化すればいいってもんじゃないだろう、と思う。だからぼくは読んだ本や映画などに関して、感想を述べたとしてもランク付けや評点をつけるのはやめようと思っています。

辛辣な視点、ドクのある言葉が、ときには必要になることもある。世のなかの清い部分だけではなく濁りも許容できることが、人間としての深みをもたらすような気がしています。だからときには、やんちゃな発言もしてみたい。その発言は自分にも返ってくるものだから注意も必要なのだけれど、発言によって潰れたら潰れたまでのことだし、潰れたらまた立ち上がればいい。ぶっ倒れるまで終わりがないのが人生です。あ、でもぶっ倒れないようにしなくては。いや、これは切実なのですが健康は大事です。

ちょっと長くなりましたが、自分の考えをまとめてみました。最初はアイディア論になるはずだったのが、人生論になってしまった。とにかく、この方向で今年は行こうと思っています(ただし、軌道修正もきっとある)。

投稿者 birdwing : 2006年1月 4日 00:00

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