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2008年6月19日
新しい世界に挨拶を。
職場の斜め前方に派遣社員の方がいるのですが、いつも無言で出社して、無言で退社されます。とてもシャイなのか奥ゆかしいのか、挨拶をしたことがない。では、まったくしゃべらないかと言うとそんなことはなくて、実はとても大きな声が出る。どういうときに大きな声が出るかというと、文句を言うとき。ぼくは時折、集中して仕事をしなければならないような状態にあるのですが、その集中力に支障をきたすほど、でっかい声で仕事の不条理さを滔々とお話されます。
確かに仕事の任せ方など問題はあるかもしれないですね。ほんと、申し訳ないです。ぼくはその方の担当ではないので、よくわからないのですが、何もないところから新しいものを生み出すような仕事が多いぼくの職場では、きちんと役割分担が決まっていなかったり、ルール化されていないことも多い。そして、きっと仕事のできる方なのでしょう(これもやはり実際にどんな仕事をしているのかわからないので、なんともいえないのだけれど)。だから、ふがいない正社員にイラつくのもわかるし、不満をバクハツさせるのもわかる。
しかしだなあ、挨拶ぐらいしろよ、と正直なところ思う。基本だろ、社会人の。
たぶんぼくは、ばりばり仕事ができて職場の改善提案もする、でも挨拶しない無愛想なスキルの高い派遣社員よりも、ドジをしたり失敗したり失言も多いのだけれど、きちんと毎朝「おはようございますっ!」と出社して、「お先に失礼しますっ!」と退社する派遣社員の方が、いっしょに働きたいと思うし、会社にいてほしいと思う。ついでに、にこっとスマイルがあれば言うことありません。
派遣社員のうちスペシャリストはある意味傭兵であり、特化したスキルをもって雇われるもので、だからこそアウトソーシングの需要も生まれるものです。とはいえ企業内においては流動的であることは否めず、傍観者ともいえます。他者である。しかしながら、きちんと正社員の仕事をリスペクトし、その大変さをわかりつつ、自分がご奉仕、いや貢献できる何かを把握し、さらにムードメーカーであろうとするような人材であれば、企業からは引く手あまただと思うし、勤め先の企業が決して離そうとしないと思うんですよね。
正社員、派遣社員問わずいえることだと思うのだけれど、こんなもんでいいか、と成長を自ら限定するような人材は「こんなもん」でしか扱われない。しかし、プラスαの付加価値を与えられるような人材であれば存在価値はぐんと伸びます。黙っていても、みるひとはきちんとみている。そして、付加価値というのは別に仕事ができることばかりではないと思います。気持ちのいい挨拶ができる、という当たり前のことが大きな付加価値になることもある。
と、そんなことを書きながらあらためて省みたのですが、自分の職場についていえば、正社員であっても、いつの間にか現われて、いつの間にか去っていくひとが多いですね(苦笑)。なんとなくその状態を当たり前に感じてしまうところもある。しかし、実はこの感覚自体がヤバイ気がする。常識的なこと、当たり前のことができなくなりはじめた社会は、どこかネジが緩みはじめているものです。その変化は、気付かないうちに進展して、気付いたときには取り返しのできない状態のことも多い。
余談だけれど、最近、東京では朝の通勤電車が遅れることが多くなりました。車両故障であったり何かしらの原因によって、必ずといっていいほど電車が遅れる。ダイヤを守ることが仕事であるはずなのに、ダイヤを守れなくなってきていて、それが当然であるかのようにぼくらも出勤する。どうなんだろう?これ。
さて、秋葉原の通り魔の事件があってから、マスコミでは派遣社員という雇用形態の問題を指摘する記事がみられました。
ぼくは一概に派遣社員という雇用制度だけが問題とはいえないと思っていて、派遣社員にも挨拶がきちんとできて基本動作のすばらしい方もいる(って、それは当たり前か。苦笑)。以下の記事も読んで、そうだろうな、と思いました。同じ職場で頑張っている同僚の派遣社員にとっては、彼の行動は迷惑な話でしかない。ほんとうに頑張っているひとが迷惑を被る。
■「つまらないし、常に不安。でも…」同じ工場の派遣社員
http://www.asahi.com/national/update/0613/TKY200806130172.html
社会の問題、制度の問題にすりかえてしまうのは簡単だけれど、結局のところ個人の問題じゃないですかね。オトナなんだからさ、会社がなんとかしてくれない、格差社会のせいだ、と責任転嫁しないで、なんとかすりゃいいじゃないか、自分で。
というぼくも若い頃は、そして近年まで(苦笑)、というかひょっとするといまでも、そんな風に理想と現実のギャップに悩んだり、憤慨したり、凹んだり、いたたまれない気持ちになった(なっている)ものでした。しかし、最近少しだけ変わってきたように思います。年をとったせいもあるかもしれないけれど、
自分の人生を引き受けたい
という風に決めた、ということが大きいかもしれません。
自分の人生を引き受けられない人間は、他人を責めるし、社会や時代を恨んだりする。他者に対して微笑んだり挨拶するような余裕はなく、傷付けるような鋭い言葉や刃を投げかけるようになるだろうし、あるいはその攻撃性を自分に向けたりもする。でも、自分の人生を引き受けた人間は、ひとにやさしくなれるような気がします。肩の力も抜ける。
正しく生きろ、とは言えないな。というのは、いまぼくは何が正しいのか、何が間違っているのか、よくわからなくなっているからです(苦笑)。もちろん見知らぬ誰かの生命を奪うことは正しくない、それだけは間違っていないのだけれど、正しい生き方とは何かということを安易に上からの目線で語れないし、誰かに指南することもできない。あなたが正しいと思ったことが正しいんじゃないかな、などと無責任かつおどおどと考えたりしているわけです。
とはいえ自分に関していえば、辛いことも含めて、ぼくは自分の人生を引き受けようと思っています。正しくはないのかもしれないけれど、そして、揺れてばかりではいるのだけれど、なんとか覚悟を決めて、この、ぼくがぼくであることの人生を引き受けたい。
というわけで(どういうわけで?)、まずはきちんとぼくが誰かに挨拶をしようと思いました。落としどころはそこか・・・と書きながら自分でも脱力したのですが、できることから、身近なことからはじめます。うちの息子たちも、うまく挨拶ができないひとたちで、むにゅにゅ、とか口ごもるのだけれど、ぼくから声をかけるのだ。
人間の細胞は、常に新しくなる、新たな細胞に刷新されるのだと誰かの本で読みました。今日の自分は昨日の自分ではない。生まれ変わろうと思えばいくらでも生まれ変われるものだし、というよりも細胞自体は常に新しくなってきている。世界を認識する「私」が常に新しいのであれば、世界は常に新しい。
21世紀の新しい今日。おはよう。
投稿者 birdwing : 2008年6月19日 06:22
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