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2008年8月15日

楽しかったね。

日曜日にポケモンの映画を観に行ってきたのですが、翌日から長男くんは38度の熱を出して寝込んでしまいました。ところが熱が下がった14日になっても、なんだかテンションが低い。元気がなく、ぼんやりと寝転んでばかりいます。

「どうしたんだ?」と訊いてみたところ、「なんでもない・・・」とのこと。

その元気のなさは、なんでもないことはないだろうと追及すると、しぶしぶ話し出したのは、DSのゲームカセット一式を入れたケースが見つからないらしい。8本のソフトが入っていて、デュエルモンスターやマリオなど、いままで購入したものは全部そこに入れていたそうです。「映画から帰ってきて、デュエルのダウンロードしたのになあ・・・」と呟いている。

「そういうときはさあ、考えていても仕方ないんだよ、身体を動かして探せーっ」ということで部屋を片っ端から探したのだけれど、みつからない。どこにもない。「ほんとに映画から帰ってきて家でダウンロードしたの?」と訊いてみると、「ぜったいにダウンロードしたんだよ」とのこと。けれども探しても探しても出てこない。もう一度訊いてみると「うーん、どうだっけかなあ・・・」と自信がなくなっている。

こういうとき、ひとは得てして希望のある方へ現実を捻じ曲げてしまうものです。見つかってほしい、という気持ちが曖昧な記憶から確かな虚像を作り上げてしまう。帰ってきてダウンロードした(はずだ)から、ぜったいにケースは家にある(はずだ)という現実を作り上げる。想像ですが、きっと映画館に置き忘れてきてしまったのだと思います。というわけで、映画館に電話をしてあげようとするのだけれど、つながらない。

ところが、ぼくに発破をかけられて部屋中を探していると、にいちゃん(長男くん)の背筋もぴしっとしてきて、声が出るようになってきました。結局みつからないので、昼ご飯を食べることにしたのですが、実はおとーさんであるぼくも月曜日にPasmo定期券(10月まで)を紛失したばかりで、さらに体調も悪く、ついてない親子だなあ(苦笑)、家族は運勢的にも似るものかなあ、と思わず痛感。

「なくなっちゃったときはさ、考えていても仕方ないんだよ。早いうちに動くこと。誰かが取っていてくれるかもしれないし、やるべきことをやると気も紛れる。あとは気持ちの切り替えが大事だね。いつまでもくよくよしていないこと」などと、冷やしたぬきそばを啜りながらにいちゃんに話していたのですが、叱りそうになってしまう気持ちをぐっと堪えました。こういうときにぼくは感情的になりがちで、すぐに怒ってしまう。それがいけない。ただでさえ落ち込んでいるのに、さらに追い討ちかけちゃだめですね。なんて声をかけようといろいろと考えたあと、ぽつりと言ってみました。

「でもさ・・・なくなっちゃったけど、楽しかったんだろ?」

うん、と頷く。しかしですね、なぜかここで、とーさんであるぼくのほうが思わず涙ぐみそうになった(困惑)。なんだか感傷的になってしまった。

絶対的だ永遠だと信じていても、いつの間にか紛失してしまったり、失われてしまうものがあります。失われてしまっても、心のなかにある楽しさやイメージは残っているのだけれど、モノがなければ褪せていくばかりです。記憶の中に残ったデータは新しく書き換えられることもなければ、もう一度リセットして最初からやり直すこともできません。テキストや映像にして過去を残すことはできるけれど、現在の残滓であるところの過去は、どこか現実とは切り離された別の世界です。

などという理屈っぽいことはともかく、「でもさ、楽しかったんだろ?」という自分の言葉でまいってしまったのですが、きっと長男くんの人生には、これからそういうことが何度もあるのではないかな。また、おとーさんの人生も、実はそういうことの繰り返しなのだ。大きな何かを得れば得るほど、失うときの喪失感も大きくなるものです。人生に安定などあり得ない。人生は何かを損なっていくことの連続のようなものです。

とはいえ、楽しかったね、だからいいよね、と呟くことにしよう。

かなり昔にもDSのカードを引っこ抜いてしまい、それまでこつこつと遊んでいたデータが全部消えて、長男くんがしおしおと一日泣いていたことがありました。いまの中学生は、ケータイに保存されたメッセージやアドレスが消えると悲しみに打ちひしがれて立ち直れない子供も多いようです。現在(いま)を残そうとする気持ちは大事だけれど、固執すると辛くなる。でも、固執するよなあ。固執するなというほうが無理だと思う。現在の世界を永遠に残したい欲求や衝動から、文学やカメラや映像の技術も発展したのではないでしょうか。

ゲームソフト8本といえば、金額にして4万円ぐらいになります。しかし、単純に価格だけで済むものではなく、遊びに費やした膨大な時間も付加される。だから、その損失は金額に換算できるものではないし、代替可能というわけでもない。

けれども、多くのものは最後には失われてしまうものです。苦しみ、悩み、せつなく思う現在の自分でさえ、最期には失われてしまう。あらゆるものは消えてしまう。

「もし、1本だけ戻ってきたとしたら何が戻ってきてほしい?」

そう訊いてみると、「デュエルかな」とのこと。やはり、最新のゲームがまだ心残りなのでしょう。いま、とーさんは自分の小遣いをちょっとはたいて、その1本だけ知らぬ顔で買ってあげようかどうしようか迷い中。とはいえ、自分でゲットしてやるぜ!ぐらいの勢いがあるとうれしいのですが。

日常のひとこまから、そんなことを考えています。

投稿者 birdwing : 2008年8月15日 22:57

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2 Comments

がど 2008-08-16T21:56

本人はしまった、落ち込んでいるってわかっても「だからいったじゃない」と怒ってしまう、、そんなことが結構あります。というよりは、うちの場合落ち込むというよりは、さっさとあきらめて執着しない=モノを大事にしないと解釈して頭にきてしまうのかもしれません。私自身モノはさっさと捨てて執着しないタイプなので自分をみてしまうから気になるのかなぁ、、とも。
もちろん大事なものは大事にしまう。でも大事にしまいすぎてわからなくなることもあります。冬篭りのリスのようです。

BirdWing 2008-08-17T06:58

がどさん、コメントありがとうございました。すみません、いただいたコメントの内容とは大きく外れてしまうかと思いますが、怒ることについて深く考えてしまいました。ちょっと書いてみます。

叱ること、怒ることは、時と場合によっては必要ですが、子供の価値を奪ったり認めないことにもなります。どんな子供も親に認めてほしいという気持ちがあると思います。最近、親を殺害する事件が多発していますが、ざっくり分析すると、親に認められたかった、親を辱めたかった、という動機が非常に多い。そして、いい子であることを守りきれなかった優等生が没落しているケースが危ない。

認めることは大事だけれど、過剰に認めた場合、失ったときにバランスを崩します。いい子は怒られる耐性が弱いのでしょう。子供がちいさいうちは、怒られる練習も必要なのかもしれません。いま学校で先生が少しでも怒ると、親に批判されたり問題になったり児童虐待などと騒がれたりしますが、過敏すぎる印象もあります。子供を守ろう、というと聞こえはいいのですが、いい子いい親の社会は、どんどん脆くなっていくような気がします。

怒ることが大事なときもあって、親もいつまでもうじうじと責めるのではなく、次の日にはけろっとした顔で「おはよー」と声をかけてあげて、ああ、怒られても大丈夫なんだ、と思うと子供も安心しますよね。怒られたときの解消方法というか、はけ口を自分でみつける練習も必要かもしれない。そして、こういうとき感情に執着しないのは、いちばん大事でしょう。

執着しない、がどさんがうらやましいです。子育ては難しいですね。

大事なものをしまう冬篭りのリス、面白いと思いました(笑)。ほっぺたをどんぐりなどで膨らませているリスのイメージも浮かびました。大事なものには名前や住所を書いておくことも必要だと思います。落としたときに、少しでも戻ってくるチャンスがあるように。

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