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2006年1月23日

生成する思考。

一度のめり込むと、どこまでものめり込んでしまうというか、惚れ込むと一途というか、ぼくにはそんな性格があるようです。熱しやすく冷めやすい、ともいえます。映画や音楽や小説についても、その傾向があります。ひとりの監督や俳優が気に入ると、その監督や俳優つながりで次々と観てしまう。たとえば、エドワード・ノートンが渋い、と思ったときには彼の映画ばかりビデオレンタル屋で借りてきてしまうし、今月はジョニー・デップ月間だということもありました。音楽ではなぜかスティングを聴きたくなってスティングのCDを最初から揃え始めたり、かと思うとSTEREOLABにはまった時期もありました。小説では、重松清ばっかり読み進んで、あまりに読みすぎて食傷気味になったり。

今年からは、あらためて書くこともないのですが、茂木健一郎さんにはまっています。知人から、NHK総合でキャスターもやっているよ、という情報を聞いていたのですが、本日、書店で「The21」という雑誌を立ち読みしていたところ、茂木さんのインタビューが載っていて、NHKの番組のことも出ていました。「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組らしい。これは見なくては。第1回を見過ごしてしまったのですが、起承転結という構成をつくるのではなく、あくまでも現場の雰囲気(クオリア)を大切にして番組を作っていくとのこと。面白そうです。

昨日ブログを書いたときには、「クオリア降臨」の「「スカ」の現代を通り過ぎて」のP.142 あたりを読み進めていたのですが、現在はP,201の「愛することで、弱さが顕れるとしても」を読書中です。ぼくの好きな作家(とはいえまだ作品全部を読んだわけではないのですが)坂口安吾も登場して、ますます面白くなってきました。坂口安吾は、はちゃめちゃで実験的な小説や退廃的な物語もあるけれど「ふるさとに寄する讃歌」「私は海をだきしめていたい」のように、きらきらした詩とも散文とも思えない文章も書いている。このハレーションを起こしたような文章を読んで、ぼくはくらくらしてしまったのですが、彼の評論を引用する茂木さんの文章も「愛することで、弱さが顕れるとしても」のように、タイトルからものすごく詩的です。美しい。が、ちょっと恥ずかしかったりもして

茂木さんは文学を引用しながら、文体も思考も、その引用にあわせた形に変容させているような気がします。それから読んでいて気づいたのですが、この「クオリア降臨」では、かなり挑発的な文章も書いている。「現代の文化はスカばっかりだ」をはじめとして、かなり過激な表現も多い。つまり「見られること」を意識して、挑発的な言葉をあえて使っているような気がします。一方で、ぼくは逆に読み進めてしまったのだけど、「脳と仮想」「脳と創造性」には、そんな過激な言葉は影をひそめて、どちらかと言えばやわらかくなっていて、洗練された言葉にかわっている。きっと書きつづけていくうちに、挑発から洗練へ、変わっていったのではないでしょうか。

実は、ぼくもですね、このブログで3月まではものすごく挑発的な文章を書いてやろうと思っていました。おまえはいったい何様だ、という文章です。文章で喧嘩をうってみよう、と、ちょっとかっこつけて考えていました。しかしながら弱いものいじめをしても仕方ないので、権力的なもの、強いものに対して喧嘩をうるのがルールです。そこでブログの世界ではアルファブロガー、仕事の世界ではあらゆる企業の管理者層などを仮想敵として書こうと思っていたのですが、あまりにも感情論になってしまい、お叱りを受けたのでやめました。ぜんぜんかっこつきません。意気地、ないんです。しかしながら、批判ではなく主張として、ぼくの考えていたことは再度まとめたいと思っています。

リアルなひとだけでなく既に完成した作品のようなものを含めて、ひととの関わりのなかで、人間の考え方というのは変わっていくものです。「ライブ!」というコメントを、先日せしみさんからいただきましたが、まさにぼくはインターネットの世界で(も)生きているわけで、生成する思考のベクトルみたいなものをここに残すことができれば、と考えています。

投稿者 birdwing : 2006年1月23日 00:00

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