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2007年10月 3日
言葉の力。
電車の中吊り広告でみかけて、ついつい購入してしまったBRUTUS 10/15号。表紙は9日が命日のジョン・レノンとオノ・ヨーコです。そして特集は「言葉の力」。これは買うしかないでしょう。
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言葉を操るブロガーとして、言葉には敏感でありたいと思っています。また、力のある言葉を使えるようになりたい。言葉はやさしく力づけてくれるものにもなるし、言葉の暴力といわれるように武器にもなる。できればやさしい使い方をしていたいけれど、自衛の意味も含めて、鋭い刃となるような言葉も使えるようになりたい。もちろん使い方を間違えないようにしたいですけどね。
涼しさを増した9月。読書欲が高まりつつあり、ツンドク本もまだまだたくさんあるのに、次から次へと本を購入中。そもそも本屋でバイトしていたぐらい本が好きなので、困ったものです。
BRUTUSの特集を喫茶店でぺらぺらとめくりつつ、読んでいて思わず感動して涙出そうになった言葉がありました。それはやはりといえばやはりなのですが、谷川俊太郎さんが、糸井重里さんのウェブサイト「ほぼ日刊糸井新聞」に掲載した「質問箱」のなかの言葉でした。
実は「ほぼ日」の存在は知っていたのですが、あまり読んだことありませんでした。お恥ずかしい。雑誌に載っていた質問箱の6は下記のサイトになります。キャプチャーをクリックすると、そのページに飛べます。
縦書きですね。画像による縦書きですが、ネットで縦書きに遭遇するとなんとなく和みます。イラストもかわいい。ちなみに谷川俊太郎さんの質問箱のページはこちら。
http://www.1101.com/books/shitsumonbako/index.html
引用してみます。この「質問箱」は、一般からの質問に詩人である谷川俊太郎さんが答える形式になっています。まず質問から。
質問 六 どうして、にんげんは死ぬの? さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。 (こやまさえ 六歳) (追伸:これは、娘が実際に 母親である私に向かってした質問です。 目をうるませながらの質問でした。 正直、答えに困りました~)
それに対する谷川さんの答えは以下です。
谷川俊太郎さんの答え ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、 「お母さんだって死ぬのいやだよー」 と言いながらさえちゃんをぎゅーっと抱きしめて 一緒に泣きます。 そのあとで一緒にお茶します。 あのね、お母さん、 ことばで問われた質問に、 いつもことばで答える必要はないの。 こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、 ココロもカラダも使って答えなくちゃね。
・・・あああ(号泣)。いいなあ。
やっぱり谷川俊太郎さん素敵だ。言葉の使い手でありながら、「いつもことばで答える必要はないの」と諭しているあたり、まいりました。ぼくも、ぎゅーっとしてあげてください、ぐらいの発想ならできる。しかし、そのあとの言葉で答える必要はない、という視点は思いつきそうで思いつかない。
言葉で問われたものに対しては、どうしても言葉で返答するじゃないですか。でも、音楽で答えてもいいんですよね。写真や絵画でもいい。そして五感で答えることもできる。ぬくもりという触感、あるいはおいしい食事の味覚や嗅覚で答えてあげることもできる。落ち込んでいたとしても、あったかいスープとか出されると、ちょっと気を取り直したりするものです。それもまたコミュニケーションである、という。
じっくりと読んでいるのですが、BRUTUSの特別付録には、WORDS OF MY HEART「心の詩」として安藤忠雄さん、浅野忠信さんなど30人がセレクトした詩のアンソロジーとなっています。英詩、日本の詩など織り交ぜて掲載されていて、縦書きあり、横書きあり、なかなか賑やかです。
そのなかでも泣けたのが、宮沢賢治さんの「眼にて言ふ」という詩。引用します。
だめでせう とまりませんな がぶがぶ湧いているのですからな ゆふべからねむらず 血も出つづけなもんですから そこらは青くしんしんとして どうも間もなく死にさうです けれどもなんといい風でせう もう清明が近いので もみじの若芽と毛のような花に 秋草のような波を立て あんなに青空から もりあがつて湧くように きれいな風がくるですな おなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが 黒いフロツクコートを召して こんなに本気にいろいろ手あてもしていただけば これで死んでもまづ文句もありません 血がでているにもかかはらず こんなにのんきで苦しくないのは 魂魄なかばからだをはなれたのですかな ただどうも血のために それを言へないのがひどいです あなたの方から見たら ずいぶんさんたんたるけしきでせうが わたくしから見えるのは やつぱりきれいな青ぞらと すきとほつた風ばかりです
・・・あああ(号泣)。この透明感。
いまわの際に青空を眺め、風を感じているこの感覚。坂口安吾が小林秀雄論のなかでこの詩をすすめているのを、大橋仁さんという写真家が雑誌のなかですすめているのですが、途方もなくいい。そして、坂口安吾がこの詩をすすめるのもわかる気がする。彼の小説のなかには、まさにこの詩の(死の)風景が息吹いている気がします。
偶然にも、谷川俊太郎さん、宮沢賢治さんいずれも「死」という極限をテーマとした言葉になってしまったのですが、ぼくはまだなんとなく吹っ切れないものがあって、こういうすぱーんと研ぎ澄まされた言葉が使えない。
なんとなく甘酸っぱいものを感じさせるような、透明な切なさを表現しようと思っているのですが、技巧ではないですね、これは。どう生きるか、という身体的な思考(うまくいえないけれども、未分化の思考)がないと、こういう言葉は出てきません。それこそアタマで考えていちゃダメだ。
言葉の修行はまだ続きます。
投稿者 birdwing : 2007年10月 3日 23:20
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