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2008年1月 4日

[日記] キャッチボールする少年。

あと数時間でトウキョウに帰る正月休みのおしまいの日。背中の痛みを堪えながら、かつては自分の部屋だった田舎の二階から、ぼくはからりと晴れた正月の空を眺めていました。そういえば10代の終わりの頃にも、こうして自分の部屋から柿と蜜柑の木々の向こうに広がる空を眺めたものだっけ。

10代のある時期、ぼくは谷川俊太郎のような詩人になりたいと真剣に考えていたような気がします。数時間も電車に揺られて、自分の住んでいる田舎よりも大きな町の書店に行って、思潮社の谷川俊太郎の分厚い詩集を購入。これです。

谷川俊太郎詩集谷川俊太郎詩集
谷川 俊太郎


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この分厚い本は10代から20代前半にかけて、ぼくのバイブルであり、何度も読んで気になった部分には紙を千切った付箋を挟んでいました。といっても熱病のようなもので、しばらくすると詩に対する想いは消えてしまったのですが。

父親になって、はたして自分は10代の頃と変わったのだろうか。精神年齢的には当時とあまり変わらないかもしれません。いや、ちょっとだけ丸くなったというか、磨耗した(疲れた?)気もする。大きく変わったとすれば、やはりいまのぼくには家族があり、ふたりの息子がいるということでしょう。これは大きい。

その日。久し振りにぼくは息子、長男くんを叱ったのでした。大声を出して。成長したとはいえ、10代になったばかりのまだまだちいさな身体を投げ飛ばして。

ぼくは長男くんと、おもちゃのボールでキャッチボールをしたり、ビニールのバットで三角ベースの真似事のようなことをして遊んでいました。

というのも前日、DSの恐竜キングばかりに夢中だった長男くんに、「バットとボールがあるから、これで遊ぼう」と声をかけてみました。だいたいそういうときには、「ええ?いいよう・・・」と言うか、最近ではこういうときだけはっきりと「やだ!」と断るのですが、なぜかこのときは彼の顔がぱっと明るくなって、「やろう!」ということになった。

スポンジ製で、硬式野球のボールを真似た縫い目があって、拳ぐらいの大きさもあるへなちょこな球ですが、そいつを投げる。ボールがボールだけにうまく投げられなくてぼてっと落ちたりして笑うのですが、しばらくするといい具合に投げ合えるようになりました。

投げながら訊いてみると、学校でソフトボールをやっているらしい。家にあったグローブは学校に持っていったとか。意外なことにソフトボールが好きで、3学期には終わってしまうのが残念とのこと。・・・知らなかった。息子と話していないもんなあ、最近。

これもまたビニール製のへなちょこバットを長男くんが構えて、ぼくが投げた球を打つ。結構打てる。というか、球が大きいから当たりやすいわけです。ぼくの田舎の家は周囲を山に囲まれていて、狭い庭のぼくの背後には山があるわけですが、ぱこーんと長男くんが力を込めて打つと山の上にボールが飛んでいってしまう。そのたびに取りにいくぼくは結構へとへとでした。

面白かったせいか、長男くんは一日中ボールを手にしていて、寝るときにも布団のところへ持っていて投げ方の練習をしていました。そして、「明日は何時からやる?はやくやりたいなあ」と、うきうきしている。

そんな長男くんが新鮮でもあったのですが、裏返すと、ぼくがいかに子供と遊んでいないかということの裏返しでもあり、ちょっと困惑でもあり。

というわけで、次の日もボールとバットで遊び始めて、前日から実家に戻ってきた妹の娘やうちの次男くん(ふたりは、なんだかいい感じ)も交えて野球もどきのことをやって遊んでいたところ。

080104

ベースがないので適当なのですが、妹の娘が打った球を取って、1累らしき場所にいておろおろしていた長男くんにタッチしてアウト!としたところ、長男くんは「アウトじゃないもん!」と言い張る。2累のベース(らしき場所)に行く前にタッチされたらアウトだよ、と言っても聞き分けがない。しゃがみ込んで不服そうにふくれている。

大人げないといえば大人げないのですが(苦笑)、ぼくも久し振りに短気が出て、「ルールを守れないなら終りだ(ぷんぷん)」と言って、マウンド(ってあるのか?)から勝手に降りて、部屋に戻って荷物の片付けなどしていました。

ところが下に降りてみると、玄関にしゃがみ込んだ長男くんが、しなだれて、しおしおと泣いている。

これもまた久し振りの長男くんの泣き姿でした。明日が待ちきれないほど楽しかった遊びなのに、辛い結果で終わってしまって、悲しかったのでしょう。気持ちはわかる。ぼくもそういうことが子供の頃には随分あった。でも、こんなことでしおしお泣いてどうするんだ、という気持ちもある。男の子でしょうが。しかも、きみは長男でもあるわけだし。

またキャッチボールやろう、と誘ってみるのですが、どうしても頑なに拒んで、二階に行ってしまいました。そんなわけでしばらく放っておいたのですが、二階に上がってみると畳んで積み上げた布団の陰に隠れて、まだしおしお泣いている。さすがに呆れて、もうこっちへ来いよ、と引き剥がそうとするのだけれど、頑なに隠れようとする。

そんなやりとりをしばらくしているうちに、かぁっとアタマに血が上って

「いつまでも、うじうじしてんじゃないっ!」

と、彼を引き摺って頭を押さえて、次には足払いをかけて畳に投げ飛ばした。

どたんばたんという音に気付いて下から奥さんが上がってきたのですが、ぼくの実家であるにも関わらず、ものすごい剣幕で怒られた。どーして暴力を奮うの!血が出てるでしょうがっ!と。そして、息子をぼくから引き離すと、ものすごい勢いで下に降りていきました。

ぽつんと取り残されたわたくし。

なんとなく結石らしき持病があり、時々背中が痛むのですが、キャッチボールをしている頃から鈍い痛みがあったものの、激情にかられて怒ったせいか、さらに痛くなってきた。いてて。そんなわけで、冒頭に書いているように、ひとりで二階の部屋で横になってしまったのでした。

080104_sora.JPG

叱ることで伸びる子供もいると思うんですよ。ただ、うちの長男くんは叱ることで萎縮してしまうタイプです。だからなるべく叱らずに、へなちょこなボールを投げても、うん、いいねえ、いまのはいい球だ、などと言って、やる気を出させるようにしていました。

とはいっても、やはりときには心配になるんだな。よく言えばやさしい子だとは思うけれど、気が弱すぎていろんなことが主張できない。ぼくの遺伝子を受け継いだせいでしょうが、もう少し強くなってほしい。

母親としては父親の暴力ばかり(暴力じゃないと思うんだけど。喝みたいなもの?)に目がいって、息子をかばう。それがぼくには愛情というよりも甘やかしているようにみえて、とても歯がゆい。ぼくだっていつも息子を投げ飛ばしているわけではないんですよ。手加減だってしているわけです。それに憎しみとか、自分の仕事の苛立ちを子供に向けているわけじゃない。苛立ちを子供に向けて解消するのだけはいけないという最低限度の意識もある。

父親は孤独だなあ。というか、男はみんな孤独なものか。

とはいえ、いずれは彼を投げ飛ばせなくなる時期も迫ってくるような気がしています。というか、ぼくが投げ飛ばされるかも。それでもぼくはまだ息子に立ち向かえるか、ということが勝負の要かもしれません。父親としての威厳でもあるな。そして、肉体的に投げ飛ばされるだけでなく、精神的に投げ飛ばされないようにしたいものだ、などと考えたのでした。

親は大変ですね。どこの家でも同じだと思うけれど。そんな辛さも、きみが父親になったときにわかるであろう。いずれ、ぼくがもういなくなった頃あたりに。

投稿者 birdwing : 2008年1月 4日 00:00

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4 Comments

かおるん 2008-01-07T01:07

この詩集の中の「くりかえす」という詩を、ときどき無性に読みたくなってページをめくることがあります。「くりかえしてこんなにもくりかえしくりかえして…」くりかえしという言葉を半分ぐらいリピートし続けるふざけた詩なのに、つぶやいているうちに心が不思議と落ち着くのです。どんな人生であるかにかかわらず、淡々と日々をくりかえすことこそが人の営みなのだと確かめられるからかもしれません。そのくりかえしの真っ只中で一喜一憂しているのが普段の自分なわけですが、谷川俊太郎はそんな私達を突き放しつつも大きな視点を教えてくれます。父性的なんですよね。

さて、長男くんのエピソード。まったく時代に逆行した意見かもしれないけれど、私は父親と母親ってかなりはっきり役割があると思っているんです。父親にはデイリーのチマチマしたことじゃなくて、子供の価値観の大枠というか、骨組みを作ってやるという役割がある。殴るとか怒鳴るっていうのはあくまで手段だし、しかもそんなにうまいやり方じゃないにせよ、それが子供の大枠に本当に関わる場面であるなら父親としては遂行するべきなのではないでしょうか。こんなこと言うと、最近ではえ~って、言われたりするけれど。

BirdWing 2008-01-08T16:16

かおるんさま、コメントありがとうございました。

ゆっくり返事を書こうと思ったら、
仕事の慌しさに押し流されてしまいました。
遅れてすみません。

「くりかえす」って詩はいいですね。
毎日の生活も繰り返しだし、長期的な視点からは
親と子の関係も繰り返しではないかと思います。

ちいさな子供は、ほんとうに繰り返しが好きです。
ボール投げが面白いと思ったら何度でも繰り返す。
飽きちゃうのは、大人のほうです。
ただ、子供には繰り返しているって気持ちはないんだろうな。
一球一球が新しいというか。

そういえば谷川俊太郎さんが
創造力の原点は、飽きることだというようなことを
言っていたのを以前にどこかで
読んだ記憶があります。

さて、かおるんさんが主張している
父と母の役割の違いは、ぼくにもわかるなあと思いました。

ちょっと違うかもしれませんが
なんとなくぼんやりと考えたのは
平等という意味は、同じことをするのではなく
差異を差異としてきちんと認識した上で
役割分担を考える、ということではないか、と。

男性には男性の強みと弱みがあり
女性には女性の強みと弱みがある。

年功者には年功者の強みと弱みがあり
若者には若者の強みと弱みがある。

それぞれの多様性を認識した上で、
じゃあどうするのか、というのが平等ではないかと。

先日間違えて、女性専用車両に
乗り込んでしまって、非常にいたたまれなかったのですが
(次の駅に着いてすぐに降りて、後ろの車両に移った)
あれって、はたして平等なのか?と
疑問に思いました。

であれば、男性専用車両もあっていい気がしますが
それを突き詰めていくと、非常に
なんだかぎくしゃくする。

そもそも混みあった電車でいかがわしいことをする
男性がいるからいけないわけで、
倫理観の問題なのかもしれないのだけれど
隔離するのは根本的な解決にはなっていないような気もしていて、
電車が混まないようにすりゃいいじゃないか、と。

えーと、何の話でしたっけ(苦笑)

つまりですねー
世のなかの強者は弱者を思いやり
弱者は強者に気兼ねなく助けを求められるような
共存関係ができるのが理想ではないかと思うのだー。

家庭もそうかもしれません。
まずはコミュニケーションでしょうか。

支離滅裂ですが。。。

胡瓜 2008-01-10T00:46

あぁ。。。解るなぁ。
あたし、離婚して何が良かったかって言うと「子育て」が楽な事(笑)
違った環境で育った二人が親になる訳だから、教育のあらゆる場面で価値観の違いとかが、絶対表れてくると思うのです。
自分はこう育ったからこうあるべきだったり
自分がこうだったから、子供には同じじゃダメだったり。
父親は父親で理想の教育論持ってるだろうし母親もそれは同じ事。
けど、それが夫婦で一致するかと言うとそうでない家庭も(笑)
それって、一番被害を被るのは子供なんですよねー。
それと同時に、夫婦のどちらかも悪者になっちゃう(笑)
離婚してなかったら、うちの場合はきっと今のミニは居ないだろなぁ。
一人で二人分の役割を担うあたしは、傍から見てたら大変そうかもだけど
徹底的に教育方針一本化可能な家族形態なんで、あたし的には良かった(笑)
でも一番大事なのは、夫婦での方針一本化よりも、自分自身の方針一本化
なのかなぁとも思ってみたり。
いつか投げ飛ばされるかも・・・なんて弱気にならないで
「この親父だけは、投げ飛ばしちゃいけない」って思える威厳のある
親父を目指して下さいっ!どっちかと言うと母親よりも男親目線で子供と
接してしまうあたしは応援します!(笑)

BirdWing 2008-01-10T11:07

胡瓜さん、コメントありがとうございます。

そうですね。
確かに胡瓜さんはひとりでふたりという感じがするなあ(笑)
何よりも精神的に強い。

からっと乾いているところは男性的だと思うし、
けれども、繊細な思いやりがあるところは
やっぱり女性という感じ。
(こちらは女性的じゃ失礼ですね。胡瓜さんは女性なので。笑)

子供が楽観的に育つためには、
親が、どんなことがあってもその子を
受け止めてあげられるようにならないと
いけない気がします。戻ってくる場所が必要というか。

ただ、戻ってばかりだと成長もしないので
どこかで突き放さなければならない。

次に書いたエントリーとつながるような気もしますが、
突き放されて、永遠に突き放されたままだと
不安になるじゃないですか。
でも、どんなに怒ったり怒られたりしても
仲直りできたり、あるいは和解できるんだ、という前提があると
怒ることも、怒られることも平気になりますね。

ただ、それはゲームなどのリセットとは違っていて、
白紙に戻すことではない。
怒ったときの、あるいは怒られたときの嫌な感じは忘れられない。
忘れないでいてほしいし、忘れたくない。

失敗もそうですね。
やたらめったら失敗すればいいってわけじゃない。
でも、失敗してもなんとかなる、という環境があると
リスキーな高い目標に向けてチャレンジもできる。
しかし、失敗したことは白紙にはできない。
企業もそうでしょうか。

ミニ君がやさしく強く育っているのは
胡瓜さんが突き放しつつ、それでもやっぱり
私がいるよ、という場所を
きちんと作っているからじゃないかと思います。

ただ、思うのですが
胡瓜さん、実はかなりしんどいときも
あるんじゃないですか?どうですか?(笑)

なんとなく強がってしまうのではないでしょうか、どうでしょう。
ひとりで全部やってしまおうとするのではないか、と。
誕生日が近いせいか(でしたよね?確か)
胡瓜さんには、ぼくに近いものを感じます。
ときにはひとに甘えても
いいのでは、と思いました。

「自分自身の方針一本化」っていうのはですね
唸りました。うーむ、そうですね。
自分の軸がぶれると、いろんな判断が乱れてくる。

「この親父だけは、投げ飛ばしちゃいけない」って思える威厳のある親父に、
というのもいいなあ。そういう親父って、いま少なくなりましたが、
そんな親父になりたいものです。

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