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2008年1月24日

バベル

▼Cinema08-003:子供たちを守らなければ。

バベル スタンダードエディションバベル スタンダードエディション
ブラッド・ピッド.ケイト・ブランシェット.ガエル・ガルシア・ベルナル.役所広司.菊地凛子.二階堂智.アドリアナ・バラッサ アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ


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水面に一滴水のしずくを垂らすと、その波紋が大きく広がっていきます。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督(言いにくい)の「バベル」は、弾丸という水滴によって国境を越えて広がった大きな波紋を描いた映画かもしれない・・・とそんな風に思いました。

放牧民の子供たちが手にした銃。何気なく撃った弾丸が、時空を超えてさまざまな因果を引き起こしていきます。大きな事件の発端となったのは、あどけない好奇心でしかありませんでした。そうしてモロッコ、アメリカ、メキシコ、日本と国境を越えて紡がれた物語は、運命に翻弄される人間の愚かさや、切なさや、孤独だけれども寄り添うあったかさなどに収束されていきます。

映画館で観ようと思いつつ見逃していた作品ですが、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督(やっぱり言いにくい。苦笑)の映画は、伏線の絡み合いが見どころですね。この監督の作品は「21グラム」から観て、その後、闘犬をめぐって生きざまが交差する「アモーレスペロス」を観たのですが、いずれも複数の平行する物語が複雑に絡まりあっています。その多層的な構造が魅力です。

物語のスケールも大きいのですが、映像的な広がりもありました。赤茶けた砂ばかりのモロッコの砂漠、平和なアメリカの家庭、結婚式で盛りあがるメキシコのパーティー、そして原色のけばけばしいイルミネーションのなかで展開される都会的でありながらどこかノスタルジックな日本の夜。ばらばらにしたパーツを再構成するようにして組み合わされた映像は、さまざまな文化のコラージュともいえます。

さらに、音楽的な広がりもある。メキシコのラテン系のリズムと、一方で日本のクラブで騒がしく奏でられる電子音。そして耳の聞こえないひとたちが感じる、音のない世界の音。

物語のなかでは、複数の親子関係も複雑に絡み合っています。

モンゴルでは、知人から買い取った銃をふたりの息子たちに渡す男。最初から非常に危なっかしいなあという感じがしたのですが、狙って引き金を引け、ということしか教えずに彼は銃を子供に与えます。兄弟の関係もうまく描かれていて、長男は銃を撃つのがヘタな一方で、弟は銃を撃つのも上手ければ色気づいて姉の着替えを覗いていたりする。ありがちですが、弟の方が優秀だったりする。

アメリカでは、冷え切った関係の夫婦(ブラッド・ピット 、ケイト・ブランシェット)と女の子、男の子ふたりのちいさな子供たち。けれども親たちの関係がギクシャクしているのは、三人目の赤ん坊が死んでしまったことにあります。そして、残された二人の子供たちを世話するベビーシッター。

そのベビーシッターの母親は、メキシコに住む息子の結婚式のパーティーに出席する。ところが世話をしている二人の子供を連れて行ったところ、これがとんでもないことに巻き込まれる。とんでもない、といってもこれもまた魔が差す、というかちょっとした運命の悪戯から引き起こされた事件なのですが、このときクルマを運転するのがガエル・ガルシア・ベルナルで、激走するシーンは「アモーレスペロス」を思い出させました。ガエル・ガルシア・ベルナルは「恋愛睡眠のすすめ」のような、ほわわわわんな映画より、緊張感のあるバベルのような映画のほうが合っている気がする。

そして、日本。大企業に勤める父(役所広司)と聾者の娘・智恵子 (菊地凛子)の関係が描かれています。行き場のない苛立ちを、クラブで踊ったり、下着を脱ぎ捨てたり、ドラッグをしたり過激な行動に身を染める智恵子ですが、その強がりの向こう側にさびしさとか、愛情を求める切々とした想いがある。

ぼくはこの4つの親子関係に考えるところが多くありました。

子供たちは決して未熟なわけではなく、大人たちの縮図のようなものとして存在しています。ちいさな子供たちの世界にも争いがあり、喜びがある。一方で、大人たちのなかにも子供じみた考え方があり、決して成熟しているとはいえないのではないか。モロッコのシーンでは、事件にあったバスがちいさな村で救援を待つのですが、うろたえる大人たちの行動には大人とは思えないものがありました。極限時においては、人間の根本的な姿があらわになるもので、だからこそ子供じみた感情も発露する。

物語の伏線といっても、明確なラインが引かれているわけではないですよね。断片的な物語をつないでいくのは、ぼくらの思考です。そして、国境といっても明確な線は存在しなくて(もちろん警備や検閲などはあるだろうけど)、強行突破しようと思えば突破できる。あるいは血縁という絆。伏線をつなぐのがぼくらの意識であるように、血縁による絆といっても目にみえる赤い糸が存在するわけでなく、そこに絆を感じたときに線ができる。それらをつなごうとする、線を作ろうとするのが人間の意識です。

しかしながら明確な絆はみえないとしても、血縁というのは大きなつながりです。そしてベビーシッターのように、明確なつながりがなくても数年間いっしょに育ててきたのであれば、その関係は血縁に近いものがある。では、親として大切なことは、なんだろう?

ほんとうに子供たちが助けを求めているとき、危機的な状況に直面したときに、手を差し伸べることができるかどうか。

それが親として大切なことではないだろうか、とぼくはこの映画を観ていて思いました。子供たちには親が必要であり、弱者を守るのは大人たちである。守るといっても、大声を出したり拳銃で威嚇する必要はなく、高い場所から飛び降りようといている背中をぎゅーっと抱きしめてあげるだけでいい。

罪に問われたり、やるせない思いを抱えていたり、ほんとうにそばに居てほしいときに居てあげることができるかどうか。いちばん過酷なヤバイ状況のときに、逃げないでそんな自分の子供たちの側に立っていられるかどうか、それが親として求められることではないか。

まったく「バベル」から脇道にそれてしまったかもしれませんが(苦笑)、子供たちを守らなければ、というのがぼくがこの映画から受け取ったメッセージでした。1月23日鑑賞。

■Babel trailer

公式サイト
http://babel.gyao.jp/

投稿者 birdwing : 2008年1月24日 23:58

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