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「個」がメディアになるとき。

ツイッターやフェイスブックが登場し、ソーシャルメディアという言葉が使われはじめ、ブログや掲示板やSNSなどのアクセス向上を狙ったSM0(Social Media Optimization)という言葉が使われるようになったとき、「企業はメディアになる」ということが一般的に言われていました。

それ以前にも、BMWがブランデッドエンターテイメントとして、広告とも映画ともいえる動画を製作し、YouTubeで配信するようになった後に企業が盛んに動画活用をするようになり、TVメディアが崩壊して企業のネット配信に変わると言われていたように記憶しています。

インフォバーン小林弘人さんの『メディア化する企業はなぜ強いのか?』は企業のメディア化の方向性を示唆するものとして非常に興味深く読みました。さすがにクリス・アンダーソンの『フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略』を監修・解説し、レイチェル・ボッツマンとルー・ロジャースの『シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略』(これはぼくは未読)を監修されただけのことはあります。

「押し付けから惹きつけへ」、ゲーミフィケーションについて、ソーシャルメディアではソーシャル・スター社員の発掘・育成が重要など、『メディア化する企業はなぜ強いのか?』という本には頷くことができるご指摘が満載でした。しかしながら、電通の提唱するAISASに対してARLASというソーシャルグラフによる新しい消費行動の方式を提示されていますが、これは若干どうかな、と。一般的にもあまり浸透しなかったような気がします。

ちなみに、小林弘人さんの提唱されているARLASは、Awareness(気付き)、Recommendation(推薦)、 Like it!(いいね!(共感))、Action(購買)、Share(共有)によるBtoCもしくはBtoBのコミュニケーションです。『メディア化する企業はなぜ強いのか?』のP.217に書かれています。


4774149357メディア化する企業はなぜ強いのか? ~フリー、シェア、ソーシャルで利益をあげる新常識 (生きる技術!叢書)
小林 弘人
技術評論社 2011-11-29

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4140814047フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略
クリス・アンダーソン 小林弘人
日本放送出版協会 2009-11-21

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4140814543シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略
レイチェル・ボッツマン ルー・ロジャース 小林 弘人
日本放送出版協会 2010-12-16

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いまソーシャルメディアを見渡すと、津田大介さんは非常に密度の高い個人による通称「津田マガ」を積極的に配信されている。また、O円生活という態度経済のあり方をツイートして、それを『独立国家のつくりかた』という本にした坂口恭平さんなどユニークな方も登場している。津田大介さんは自らをメディア・アクティビストと肩書きに付けられていますが、きっかけとアイディア、そして行動力(アクティビティ)さえあれば、ソーシャルメディアの時代では、多様な活動を通してぐんと注目されるものです。


4062881551独立国家のつくりかた (講談社現代新書)
坂口 恭平
講談社 2012-05-18

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稚拙ではありながら、前回のエントリでぼくは自分の「負」の体験を含めて「ソーシャルメディアで学んだこと」として、久し振りにエントリを書きました。あまりにも個人生活を露にしたため、低俗だとおもわれたり、知性に欠ける印象を受ける方もいらっしゃったようですが、逆に、情熱的であるという評価もいただきました。また、「大丈夫?」というご心配もいただき申し訳なくおもっています。

企業がメディアになる時代の浸透は、やがて「個」がメディアになる時代をつくるのではないか、とぼくは考えています。

「個」がメディアになる時代は、風評リスク対策などの企業の法務部に求められていたようなスキルが必要になります。企業では、リリースなどの配信する情報は広報部や法務部などで客観的かつ徹底した校閲が入り、炎上したときの対策などが練られます。風評(レピュテーション)を侮ってはいけない。一度失った信用を取り戻すには、なみたいていの努力ではできない。コストもかかります。そうした「業務」が、メディアである「個」に求められるわけです。

とはいえ、いい「個」にしていなさい、とはぼくは言いたくない。

「いいことばかり言わない」で、批判や批評もできるのがソーシャルメディアの醍醐味であり、広告という「コミュニケーション」とは違う点だとおもうからです。広告業界のなかには、従来の広告(AD)の延長として、コミュニケーションプランニングを考えている方もいらっしゃるようですが、ぼくはそれでいいのかなあ、とおもう。ソーシャルメディアの時代には、いったんいままでのコミュニケーションをリセットして、もう一度、ソーシャルメディアに適した施策を考えなければいけないのではないか。

ところで、「個」がメディアになるとき、匿名か実名か、ということは大きな問題になります。

韓国の方からツイートでお話を聞いたのですが、韓国では実名が主体であり、匿名は信用されないとのこと。ただ、彼の発言を遡って読んで、彼には「実名至上主義」または「韓国優位主義」のような偏見があるようで、思考に偏向がみられる。もちろんアメリカなどでも(あるいは全世界で)、実名が主体となりつつあるのですが、残念なことに、日本では実名にすると陰湿ないやがらせを受けることもあります。日本の文化は特異なのです。そこで、ぼくは実名と匿名を使い分けることをおススメします。

実名と匿名の使い分けについては、ぼくも留意していて、「ソーシャルメディアで学んだこと」というエントリでは、ツイッター+フェイスブック+ブログを連動させて使う、というコンセプトを立ててみました。しかしながらツイッター+ブログとフェイスブックの投稿を連動させたところに脆弱性があり、ある方にフェイスブックでぼくの実名を晒されてしまいました。そこから急速にぼくが誰であるかが拡散し、誹謗中傷のようなものも受けています。いまメディアの運営主体に削除を要求するとともに、個別に訴えることも視野に入れています。

「個」がメディアになる時代には、自己防衛力も必要になります。先手で​攻める、防衛する、逃げるなど、多様な戦術を使い分けることが必​要。もちろん戦術(テクニック)だけでなく戦略も重要ですね。思考力、知力の戦闘になる。とはいえ、闘わずして逃げる、ということもありです。無駄なものに力を注いでも無駄であり、不毛ですから。

一方、ぼくは特定の少ないひとたちとブログでコミュニケーションすればいい、と考えていたのですが、ある方をツイッターで批評したため、またぼくが赤裸々なレンアイ体験を綴ったせいもありますが、ブログのアクセスが急増しています。以下にGoogle Analyticsからのキャプチャーを貼ります(数値はページビュー:2012年7月16日~8月16日)。


GAPV.jpg


瞬間PVですが、8月16日に1,903PV/日がありました。上限で計算するのはどうかとおもうのですが、このレベルのPVを維持するようにブログを書くとすると、1日約2,000PV、1ヶ月を約30日として、2,000×30=6万。6万PVがあれば、たとえ炎上記事や好奇心まじりのひとたちを含んだとしていても、「個」のメディアとして影響を持つレベルになるのではないでしょうか。

ただ、ぼくは上記の数値を冷めた目でみています。

ぼくはアフィリエイトで稼いで生活しているわけではないし、SEOでたくさんの訪問者を集めて喜んでいるような企業、ブロガーとは違う。ほんとうにわかるひとが読んでいただいて、そのひとたちと密なコミュニケーションをしたい。ブログのアクセス数なんて信用できません。あらためて自省すると、炎上させて得た結果は「信用」できない。と同様に、数万のフォロワーがいるツイッター利用者も、信用できない気がします。

先日、小山田圭吾さんが過去のいじめ経験を雑誌のインタビューで答えたことがあった、というエントリを読みました。ぼくはコーネリアスの大ファンで、「POINT」というアルバムなんて、もうやられた感いっぱいで何度も夢中になって聴き直しました。しかし人間としての彼は、そういうやつだったか。すーっと引いた。しかし、そのあとでまた考え直しました。アーティストには最低のやつもいますが、作品はまた別のものではないか、と。


B00005Q7O5point
CORNELIUS
プライエイド 2001-10-24

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ぼくは「個」メディアに人徳が必要であると考えています。

それは「発言」自体がそのひとの「作品」だからです。そして別途、リアルな発言者本人がいる。気をつけなければいけないのは、「バカ」とか「死ね」とか暴言、もしくは「うんこ」など稚拙な言葉を繰り返す「個」は、発言=リアルな人物の人格とおもわれてしまうことです。これはとても残念なことであり、もし実名でSNSをやっていらっしゃるようであれば、暴言を吐いた相手に侮辱罪で訴えられる恐れもあります。憲法21条の表現の自由についてもよく調べること、とツイートを通じて、法律に詳しい方からご教示いただきました。

また、氏名、性別、生年月日、職業はもちろん、個人の写真も個人情報です。「公開されているから流用した」では済まないかもしれません。ご本人の承諾は得ていますか。もし勝手に公開するなどのモラルを欠けば、問題になるかもしれません。

ぼくは聖人君子でも、ネットのエライひとでもありません。ただの匿名を使った無名のブロガーです。しかし、自分の経験を通じて、いま書いたようなことを学びました。自分を実験台にして学んだことですから、虚偽はありません。誠実なブロガーを標榜するので。

正論に嫌気がさすひともいるかもしれませんが、このようなエントリがソーシャルメディアの「品格」を保つ、ささやかな布石になればいいな、とおもっています。賢い「個」になりましょうね、SNSをお使いのみなさま。

実は別途、個人メディアを活用した、わくわくするような企画をおもいついちゃったのですが、あまりに長文なので(苦笑)ここまでにしておきます。その企画については「行動」して結果をお見せするつもりですので、乞うご期待!

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ご連絡

本日、ツイッターアカウントを鍵つきにしました。その後、フォロワー申請をされている方がたくさんいらっしゃるのですが、申し訳ありません。ぼくは当分フォロワーを増やさないつもりです。ぼくのブログやツイッターを読んで共感を得たかたもいらっしゃるかとおもいますが、ぼくが考えたことについては随時、ブログでまとめていくつもりです。ぼくに関心があるようでしたら、こちらに訪問していただくようにお願いいたします。

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追記 (8月20日):togetterをご覧になったみなさまへ

「いま話題の」ブロガーBirdWingです(笑)。ブログに訪問いただきありがとうございます。健康を心配されている方もいらっしゃるようですが、ぼくは元気です。今日も暑い一日でしたね。

あちらの記事では、取材に行こうとして104で取材先の電話番号を探したツイートを削除したことが取り上げられていましたが、取材先に関心がなくなってしまったので、その後は何もしていません。いろいろと勘違いされているようですが、勘違いもネットの「多様性」かとおもいます。

それから、togetterの記事は、あまりにも長すぎて(苦笑)、クライマックスに至るまでの経緯にテンポがない冗長なものなので、編集(いくつかのぼくのツイートを削除)させていただきました。ご了承ください。

夏休みも残り少なくなってきました。充実した日々を過ごされますように。

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追記(8月23日):いただいたコメントに関して

昨日は家族といっしょに昼食・映画・夕食をともにして充実した時間を過ごしました。楽しかった!子供たちの夏休みもそろそろ終盤が近づいています。

さて、数名の方から「感想」をいただきました。しかしながら、このエントリおよびtogetterやNAVERのまとめを読んでいただければわかるように、ぼくは炎上に対する感想は重要ではなく、「そこから何を学んだのか」ということに注目しています。いただいた感想は、そこまでのレベルに達したものではなく、非常に残念ですがブログでは不採用といたしました。また、個人情報に触れるコメントは保存し、ストーカー規正法に照らし合わせて今後を検討しています。ここはぼくの表現の場であることをご理解ください。

したがって、小林弘人さんの本を読んだ、この本はこういう部分も重要ではないか、とか、大学でもSNSの使い方に気をつけるように学生向けにわかりやすく資料を作っている例がある、とか、法律の観点からみてネットに潜む危険性はこんなところにある、とか、そんなご意見や情報を募集しております。ただの炎上の感想はご遠慮ください。

また、ぼくのうつ病をご心配いただいている方もいらっしゃるようですが、おかげさまですっかり寛解の上、完治いたしました。お医者さまからのお墨付きもいただいております。長かったトンネルをやっと潜り抜けた、というような爽快感でいっぱいです。お気遣いいただいてありがとうございます。

セミの声が聞こえます。まだまだ暑い日がつづきそうです。みなさま、体調を崩されないよう十分にご自愛ください。

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追加情報(8月24日)

あまりにも長くなりすぎたため、エントリを分割いたしました。ご関心のある方は、以下「ツイッターのトラブル対処法」でお読みください。

http://birdwing.sakura.ne.jp/blog/2012/08/post-250-e.html

投稿者: birdwing 日時: 12:22 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年8月11日

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ソーシャルメディアで学んだこと。

窓の外にはさわやかな8月の青空がひろがっています。昨年10月にエントリを書いたまま放置していましたが、ふたたびブログを書いてみようとおもいました。海に行きたいという声がツイッターの波間から聞こえてくる今日このごろ、みなさんお元気ですか?

ブログを中断していた理由は、体調がすぐれなかったこと、仕事に変化があったことなどいろいろあります。しかし、ツイッターやフェイスブックなどのSNSが楽しくて、そちらに没頭してしまったことも最大の理由のひとつでした。

ぼくの場合、ブログに投稿するエントリはかなり長文で、書くためにある程度まとまった時間が必要になります。しかし、ツイッターであれば、おもいついた思考の断片を次々にリアルタイムで投げ込むことができる。フェイスブックは実名になりますが、かなり長文のものを書くことができるし、場合によっては公開範囲を限定して、友達だけに本音を吐いたりすることも可能です。フェイスブックデビューは今年の1月で流行には乗り遅れた感じですが、すっかり嵌ってしまいました。

ぼくは、ソーシャルメディアとして、主としてツイッター+フェイスブック+ブログを利用しています。

この3つを使ってみて、単独でそれぞれを楽しんでいるひとはたくさんいますが、連動して活用しているひとは少ないと感じました。ツイッターには投稿したツイートをフェイスブックにも投稿させて連動する機能があります。そうではなくツイッターなりの世界を構築し、それと連動させながら実名のフェイスブックも運用する。そんなスタイルで使いこなしているひとはあまりみられません。

ぼくの運用ルールとしては、匿名による140字以下のつぶやきとフォロワーさんあるいは各種ソーシャルメディア著名人とのコミュニケーションと情報収集に「ツイッター」。匿名と実名の両方で140字以下で友達とも共有したい、実名で主張したいコメントはHootSweetクライアントを通じて「ツイッター」と「フェイスブック」に同時投稿。140字を越える長文による考えたこと、タイムラインで得た情報についてのコメント、王様の耳はロバの耳的におおっぴらに発言できないけれど誰かに聞いてほしいことは「フェイスブック」と使いわけています。

また、ブログにはブログパーツとしてツイッターを表示し、ツイッターへのリンク、つぶやきのアーカイブ(保存)としてツイログへのリンクを置きました。ツイートはTLに埋もれて流れていってしまうけれど、振り返って読み直すと結構面白い。特にツイログは昨年の今日につぶやいていたことを表示できるので便利です。

ぼくのソーシャルメディア利用体系を図にあらわすと以下のようになります。

P1000183.JPG

友達100人でっきるかな?という歌がありましたが、ぼくは友達100人要りません。というか、友達100人と誠実に付き合える自信がありません。なぜなら、100人の友達がいれば、友達ひとりあたりに注ぐコミュニケーションは100分の1になってしまうとおもうからです。であれば限定された友達と深いコミュニケーションをしたい。

そんなわけで、フェイスブックのぼくの友達は現在23人です。一方でツイッターはもう少し間口を広げて、フォロー435人、フォロワー443人になっています。Google Analyticsによると、7月中のブログの月間アクセス数は、訪問数1,052、ページビュー数1,213、新規訪問者88.59%、リピーター11.41%、最もアクセスされた人気コンテンツは「女は男の指を見る」という竹内久美子さんの本の感想で、ページビュー数全体の12.86%でした。まったくブログを更新しなかったにもかかわらず、これだけアクセスをいただいて感謝しております(2012年8月11日現在)。

ぼくは自分に「誠実」な発言をしたいと考えています。

おべんちゃらを使って何でも持ち上げる御用広告とは違って、ダメなものはダメ、ヤバイものはヤバイと発言できることがソーシャルメディアの醍醐味だとおもう。しかしながら、批判的な発言はときとしてネガティブな印象を生み、他人を吊るし上げることで自分の満足を得るような姑息なネットの魑魅魍魎を呼び込むことがあります。スパムで攻撃されることもある。したがって、ぼくのブログのコメント欄は承認制にして、ぼくがチェックしないと公開されないようにしました。

さらに、ツイッター(匿名)とフェイスブック(実名)の経路が閉ざされていることが「自分を守る」ためのささやかな工夫といえます。この経路をつないでしまうと、どんな無神経なやからを実名の世界に呼び込むかわからない。といっても、ホンネとしては匿名なんかやめて、ツイッターやブログも実名で書きたい気持ちがあります。

2009年2月4日に、ぼくは現在のツイッターアカウントであるBirdWing09を取得したのですが、実は2度目のツイッターでした。まだ日本語化されていない頃、ぼくはBirdWingとしてツイッターを利用していました。いつからはじめたのか忘れてしまいましたが、ブログを読むと、2007年にはブログで、ツイッター掌編小説なるものを公開しています([掌編小説] 青い鳥のおはなし。)。

最初のツイッターのフォロー/フォロワーは3人(笑)。しかし、3人だけに密度の濃いコミュニケーションができました。いま食事をした、風呂に入る、会社から帰った、出掛けるという行動が、まるでリアルの世界でいっしょにいるように飛び込んでくる。こんなメディアがあったのか!と夢中になりました。一種の依存症のような状態で。

そして、ぼくはそのフォロワーさんのひとりと、ぼくの人生史上最大のレンアイに落ちました。

彼女はまだ学生で、ぼくより20歳年下でした。飛行機を使わなければ会えない遠くに住んでいて、ぼくのブログのファンでした。ぼくのブログに書かれたあるエントリを読んで、思考のなかをなぞられたような眩暈を感じたそうです。

ぼくらは最初は戸惑いがちにメールを交換し、それからグーグルのチャットで話をするようになった。学校や仕事があるのに、明け方まで話し込んだこともあります。そうして電話番号を交換した。はじめて彼女に電話したときのことをぼくは明確に覚えています。誰もいない公園で携帯電話を耳にあて、ノイズの向こうに彼女の声をはじめて聞いたときのことを。

彼女には彼氏がいましたが(ぼくにも妻がいるわけですが)、惹かれあうチカラを止めることができませんでした。万有引力とは引き合う孤独の力、と谷川俊太郎さんは「二十億光年の孤独」という詩で書いています。ぼくらは遠く離れた場所で、それぞれ相方の存在がありながら、お互いに孤独だったのでしょう。その孤独と孤独がネットを介してつながった。

会わずにはいられませんでした。彼女が東京に訪れたとき、ぼくらは会ってしまった。会ってしまうと歯止めが効きませんでした。ぼくは激しく彼女を求めた。愚かだとはおもいますが、こつこつと小遣いを貯めて飛行機代に換えて、遠い場所にいる彼女に会いに行ったこともあります。

しかし、過剰に求め合う関係は過剰な憎しみも生むわけで、壊れやすい。いくら頻繁にコミュニケーションできるとしても、ネットはリアルの代替にはなりません。実際に会ったほうがぜったいにいい。会って身体を重ねれば分かり合えることもある。テキストだけでは不十分な感情のすれ違いに苛立ち、ぼくは彼女を傷つけるようになりました。酷いことを要求し、酷い言葉を吐きました。そうして激しいレンアイだけに、激しい憎悪のぶつけあいになりました。

結果、彼女は離れていったのですが、ぼくはたくさんのことを彼女から学びました。感謝しています。彼女から引き裂かれたぼくの反動はとても大きなもので、ぼくはその圧力に耐えられず、精神を病んでしまいました。うつ病になって起きられなくなってしまったのです。横になったままのアタマのなかで、自責と他責の言葉がぐるぐると渦巻いている。猛獣のような酷い言葉がぼくを襲ってくる。

ものすごく長い時間、ぼくは暗闇のなかで考えました。彼女の言葉を反芻し自省し、自分とは何か、ということを生まれた頃にまで遡って考え、なぜこんな風になってしまったのか理由を探る。理由なんてないのです。けれども理由を探さなければいられない。部屋にひきこもって哲学書を読み耽り、動かない自分の身体を呪いながら、これからどう生きればいいのかを模索する。いっそのこと死んでしまえ、と何度も考えました。皮のベルトを階段の手摺にかけて...とシミュレーションしたことも。

この暗闇に意味があるのか、あればどういうことなのかということを知りたかった。しかし、暗闇の底にはまた暗闇があり、すとんと落ちたところで止まってくれない。さらに底なし沼のように落ちていく。まだそれほどうつ病の症状が重くなかった頃でさえ、知人と飲みにいったときに、
「おまえ彼女に会いたいだろ?」
と問われて、
「会いたい」
と言ったきり、ぼろぼろ涙がこぼれてきて止まらなくなったほどです。

そうしてぼくは学びました。相手を大切にして長い関係をつづけたいのであれば、過剰に想いを抱いてはならない。相手を求めてはいけない。ほどほどの距離が大切で、親しいなかにも礼儀あり。決して相手の未来を壊してはいけないし、自分も壊れない。自分をコントロールするのは自分であり、自分大事。けれども誰かのためにぼくは存在していよう。彼女が教えてくれたこと、彼女に対するぼくの罪をこれから贖っていこう。

ソーシャルメディアというと何か別の世界におもえるけれど、これもぼくらの人生の一部です。ネットだからリアルだから、と二元論で考えたくないし、彼女との関係を単なるネット恋愛、不倫、浮気、遠距離恋愛という陳腐なフレームに落とし込みたくない。あれはネット×リアルによって偶然に生まれたものすごく貴重な体験、タカラモノだったとおもうのです。

人間関係とコミュニケーションを学ぶ上で最も効果的なものは、レンアイではないかとぼくは考えています。たとえば、ビジネスに感情は不要という考え方もあるけれど、クライアントへのプレゼンテーションに愛がなければ、単なる形式的な提案になってしまうでしょう。国民に対する愛がないから政治家は派閥闘争に夢中になるし、アートは金儲けの手段になってしまう。未来の日本に対する愛がないから原発を放置する。

感情は個人的なものであり普遍化されないという考え方を、ぼくはとてもさびしいとおもいました。そんなことを言う人間は、おまえはアスペルガー症候群か、とおもってしまう。感情は普遍化できないにしても、ぼくらは共感力をもっている。ソーシャルメディアを支えているのも、この共感のチカラです。

これからは感性の時代である、というようなことがダニエル・ピンクの「ハイ・コンセプト」などの本で宣言されてから随分たちます。共感力、あるいは社会全体や他者に対する想像力があれば、社会はもっと寛容になれるとおもうし、犯罪も減るのではないでしょうか。それはぼくの甘い期待なのかな。

学校では、ほとんどの先生が「恋愛学」などは教えてくれません。

「人間交際学」も教えてくれないし、「仕事論」なんてないし、「親学」もありえない。しかしながら、未熟な若者たちはインターンがあったとしてもいきなり就職に追い詰められる。子供ができたら親にさせられてしまう。追い詰められたその皺寄せが、自傷であったり育児放棄などの現象にあらわれるのでは。

でも、それらを阻止する知恵は、ソーシャルメディアで学ぶことができるのです。橋本徹大阪市長は「大阪都構想」によって、大阪市の区を自立させ、区民と区長、区長と市長をツイッターで結ぶ試みをされています。同様に教育の世界でも、教師と学生(生徒)、子供の親たちをダイレクトにつなぐことができるのではないでしょうか。

そもそもソーシャルメディアを漁れば、いくらでも「恋愛学」「人間交際学」「仕事論」「親学」を教えてくれる「教師」がたくさんいます。教員免許を持っていなかったとしても、人生の知恵に豊富なひとたちは人生の先生です。つぶやきに耳を傾けていれば、いくらでも学ぶことができる。一時期ツイッターで英語を学ぶという本が人気で、ぼくも買い漁ったのですが、ツイッターで学ぶことができるのは語学だけではありません。

ソーシャルメディアをデフォルトとしてこれから育っていく子供たちにぼくは期待しています。小学6年生で子役の「はるかぜちゃん」こと春名風花ちゃんは、ツイッターを利用する上で気をつけることを10か条にまとめました。「ライフハックブログKo's Style」から転用させていただきます。

ついり(ω)10ヶ条
①学校の友達の名前を出さない(ω)
②守秘義務を守る(ω)
③きもちをこめてついる(ω)
④なるべくいろんな話をする(ω)
⑤人の悪口はゆわない(ω)
⑥絶対ネットでおこったりイライラしない(ω)
⑦たくさんの人が読んでくれてることを忘れない(ω)
⑧なるべく自分にひはんてきないけんはりついとする(ω)
⑨いつもたのしくルンルンルン(ω)
⑩早くねる(ω)

えらいなあ。むしろ年齢に関わらず彼女のほうが先生だ。ネットでくだらないことを執拗にdisっているオトナたちが恥ずかしくなりました。いまだに誹謗中傷したり殺人予告したり万引きを自慢してつかまる中高生もいますが、メディアリテラシーをきちんと身につけた子供たちも出てきています。「守秘義務を守る」というのは、声優や子役としてお仕事をされているので、そのことを念頭に置いたのでしょうね。ほんとにえらい。

gov2.0などということもいわれますが、ソーシャルメディアは政治的なインフラとしても今後整備されていくでしょう。それだけでなく、教育の場としても活用されるべきではないかと考えています。就職に悩んだとき、人間関係で落ち込んだとき。その答えの手がかりとなる言葉は、きっとソーシャルメディアのなかに転がっているはず。

人生を諦める前にソーシャルメディアを覗いてみてはいかがですか。


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追記(8/14)
はるかぜちゃんのツイートをまとめた本。ぼくはまだ読んでいないのですが欲しい。近所の書店で探しているのですが、みつからないのです。とはいえ、ツイートをする上で参考になるばかりか、はるかぜちゃんの生き方に共感しそうです。

4778312694はるかぜちゃんのしっぽ(ω)
春名 風花 山本 敏晴
太田出版 2011-08-25

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投稿者: birdwing 日時: 09:10 | | トラックバック (0)

2011年6月29日

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ブロガーはどこへ行くのか。

ブログを書くひと、いわゆるブロガーという言葉は最近あまり使われなくなったようですが、いかがでしょうか。

TwitterやFacebookなどを使って、個人がリアルタイムで情報を発するようになった結果、「日記」は 「分記」や「秒記」 のように変わり、「いま」何を考えているかを共有することに重きが置かれるようになりました。ひとつのことをじっくり考える時間よりも、短文で秒刻みのリアルをつぶやくこと、変わっていく現実世界の刹那に面白さが見出されているようにもみられます。

かつて2004年はブログ元年と呼ばれていました。社会的な現象が隆盛する時代を総じて、なんとか元年とよく言われますが、ブログもまた元年と呼ばれて注目を浴びた時期がありました。このブログ黎明期には、ブログがよくわからないひとも多くいました。日記じゃないの?ネットで日記を公開して何が面白いの?という基本的な疑問を抱くひとが大半でした。

とはいえその後、生活の断片を日記として紹介するブログだけでなく、主として米国で社会や政治的な視点でブログを書くブロガーがジャーナリストとして地位を獲得しはじめたりアルファブロガー というネットに発言力のある人物が台頭してきたり。確かに社会の転換期だったのかもしれません。ブログ元年から7年。いまではブログが何かなどと基本的な問いを抱くひとはほとんどいないばかりか、忘れ去られつつあるようにさえみえます。

技術、つまりブログのシステムも変わりました。友人や知人とのつながりを重視したSNSに発展したり、ビデオや音楽や写真などリッチメディアを簡単にアップロードして共有できるものがあったり、多彩になりました。おもえば遠くへ来たものです。もしかすると、もはやブログはブログと呼べない別の何かになっちゃってるんじゃないかな。

最近、ぼく自身もTwitterへの投稿がメインになって、ブログのエントリがだいたい月1本程度に減少しているのですが、ブロガーとはどういう存在かについて、あらためて考えてみたいとおもいます。

振り返ってみると、はじめてブロガーということばを聞いたときの感想は、他のひとと同じようになんじゃそりゃ?でした。ただ、次第にいろいろな状況がみえてきて、自分なりに理解した瞬間、
「これだっ!!」
と背筋に電気が走ったような感覚があったことを覚えています。

趣味で小説を書いたこともあるけれど物語をつくるのが下手。長編は体力がつづかなくて、掌編ぐらいの作品しか書けません。難しくて堅苦しい論文は肌にあわず、そのときどきのニュースや瑣末な日常を描いたコラムは好きだけれど、書いて発表する場所がない。そんな自分がゆるーく文章を書いて発表する場といえば、ブログでしょ、というわけです。

漱石は小説に新しい文芸のスタイルを見出したといわれていますが、ぼくにとってもブログは新しいスタイルでした。これこれ、ぼくが待っていたのはこれなんだ、という感じ。そんなわけで、ブログにわざわざ「Blogger:BirdWing」などと記載して宣言しています。

ほとんどTwitterが中心になっていますが、これからもぼくはブログをやめないつもりです。そこで、2004年から書き続けてきた自分のブロガー観を確立してみようとおもいました。ぼくが考えているブロガー像、エントリの作法を「5つの私的ブログ作法」としてまとめてみます。


■■5つの私的ブログ作法


①アクセス数は月間1,000PVで十分。

アルファブロガー登場時には月に100万ページビュー(PV)などの凄いブロガーもいらっしゃいましたが、アクセス数は多くなくていいんじゃないかな。ブックマークなんてされなくて構いません。僻みじゃありません(笑)ほんとうにそうおもう。いや、ぜんぜん読まれないより、たくさんの方に読んでいただけるほうがいい。書籍でいうところの「20万部達成」のような書き手がいてもよいのですが、ぼくの目指しているものとちょっと違うのです。

アクセス数を上げるために努力したり、ブックマークに一喜一憂したり、それもまたブログの醍醐味かもしれないのですが、あるときぼくは気づきました。くだらない、と。というのは、ブログの場合はよい記事がアクセス数やブックマークが多いわけではありません。炎上目的の過激な批判などで煽れば、いくらでもアクセス数やブックマークの数は増やせるわけです。しかもアクセスを増やしたところで読者は、ブログの文章を全部読んでいるわけではありません。ただひとつのことばに脊髄反射しているだけのこともある。

本来、ブログはマスではないところがいい と考えています。だから100万PVもあるブログはブログじゃない。ロングテールの末端、恐竜のしっぽあたりに無数に存在して、おのおのが書きたいことを書いているのがブログらしさだとおもうのです。

等身大がいいじゃないですか。月間100万ものページビューを稼がなくても1,000ぐらいあればぼくは十分だとおもいます。ちなみに実際ぼくのブログは、更新しなくても月間700~1,000のページビューあたりアクセスされているようです。検索して、なあんだと離脱している方もいらっしゃるかもしれないけれど、ありがたいことです。それ以上を求めないし、十分だとおもっている。でもそれ以下でもちょっと寂しいかな、という感じです。


②エントリは感想・意見でOK。ただし感情に誠実に。

「何を書くか」ということはとても難しいですね。ブログでは何でも書けてしまうから難しい。ぼくがいちばんおススメするのは書評。そして音楽や映画についての感想や意見です。というのは、ブログでアウトプットしなきゃとおもって読む/聴く/観ることによって インプットの集中力が格段に高まる からです。

アウトプットとインプットのサイクルがうまく回っていくと、作品を楽しむ密度が変わります。ぼくはブログを書くようになってから、本を読んだり映画を観る機会が増えました。といっても、オレってこんなに読んでる(観てる)という量を誇示する自分語りが目的では、せっかくの鑑賞が形骸化していきます。量をこなすことによって質が変わることも確かですが、大事なことは量じゃありません。

書評などを書くときに気をつけること。「つまらない」本は「つまらなかった」と書いていいとおもいます。だって、つまんないんだもん。広告や宣伝ではないのですから、ブロガーは感じたことに誠実になったほうがよいでしょう。しかし、過剰に批判、誹謗中傷することもありません。というのは、訴えられるとか防衛的な意味ではなくて自身のためです。ブログの品位を落とすからです。

感想や意見に忠実であることは大事ですが、品性のない書き方はブログの品位を落とすばかりでなく、disることでしか快感を得られない魑魅魍魎をネットの闇から集めることになります。だから、一度クールダウンして、作品と自分の感情を客観的にみつめたあとで批判を書く。これが難しいのですが、能天気になんでもよいしょするブログ、企業の広報部が検閲したような優等生なブログより、感性に嘘をつかないブログのほうがぼくは好きです。

社会や政治・経済のことを書くのは難しい。が、そういうことを書いているブログやTwitterのつぶやきを読むと、実は意見になっていないことも多いものです。要するに、どこかのニュースでコメンテーターが発言したことの裏返しであったり、ただの所感にすぎない記事もあります。これはワイドショー好きな「おじさん・おばさん」的な記事だとおもいます。

みずからの見聞による一次情報や、独自の鋭利な視点が入れば意義がありますが、ワイドショー的なことをさも事情通のように繰り返していると感性が劣化するのではないでしょうか。要注意です。自分の感性のために。


③稼がない、儲けない、コメントを欲しがらない。

書評、映画や音楽の感想を書いていると、Amazonのアフィリエイトプログラムと連携させて、ちょっとお小遣いでも稼ぎたい・・・とヨコシマな考えが浮かぶことがありますが、そう世のなかは甘くありません。また、ブログで稼ぎたい、儲けたいとおもうと、記事のほうが商品に媚びるようになり、ブログらしさが失われます。儲ける手段としてのブログもありかとおもうけれど、そうしたブログはブログの体裁をした「広告」ではないでしょうか。広告に踊らされるのも、商品に踊らされるのも、あまり気持ちのよいものではありません。

とつぜん禅問答のようになりますが、
「欲しがるものは損なわれる」
とおもうのです。

どういうことかと申しますと、たとえばせっかく書いた記事だからコメントが欲しいな、と考えたとします。これだけ立派な文章を書いたのだから、誰かが読んでくれて「ブログ読みました。いいですね!」って書いてくれるだろうとおもう。ところがいつまでたってもコメントはゼロのまま。もともとコメントなんか付かないだろうとおもっていれば問題ないのですが、1つでも付くだろうと考えていると、期待値1にたいしてー1の損失感が生まれます。5つぐらいコメント付いちゃったりして、と考えた場合には、期待値5に対してー5の損失感が生まれるわけです。

期待という未来はそもそも実体化していない ものです。ところが、期待感を思考で定着させることによって、その未来はこころのなかで実体化する。その実体が得られなければ喪失感となる。

不満 = 理想の期待値 - 現在の満足度
という方式が成り立つような気もしています。

タラ・ハントは「ツイッターノミクス」という著書でギフト経済における通貨をウッフィーと呼びました。しかし、お金をウッフィーにおきかえて、ウッフィー亡者になるとしたら貨幣経済における金の亡者と同じことです。お金はもちろん、好意の実体化であるコメント(ウッフィー)も求めない、期待しないことが健やかにブログを運営する上では賢明でしょう。幸福・不幸は、現実と理想との落差であり、その差異をいたずらに広げると自分が苦しくなるばかりです。どうしても麻薬のように誰かからのコメントが気になるならば、コメント欄を閉じてしまうとよいでしょう。


④インディーズに徹して、矜持を正す。

インディーズの音楽がぼくは好きです。TVやステージのような陽のあたる場所で演奏する商業音楽ではなく、地下のライブハウスや路上で小ぢんまりとした聴衆を前にこつこつと曲を演奏する。働いて稼いだお金を投入して自主制作でアルバムを作る。洗練されていないし、技術も低かったりするのだけれど、何か熱さや真剣さだけは伝わってくる。大量生産のヒット工場にはない手作り感覚のぬくもりがあるような気がするのです。

ジャック・アタリは「ノイズ 音楽/貨幣/雑音」のなかで音楽家の起源をジョングルール(大道芸人)であったと述べています。路上のインディーズ・ミュージシャンはそんな大道芸人的な要素を持っているのではないでしょうか。そして、ブロガーも インターネットの世界におけるジョングルール(大道芸人) だと思うんですよね、基本的には。

ネットの世界では、網の目のようになったウェブを通じて、見知らぬひとたちが自由にトラフィックを行き交っています。トラフィックが集まる場所は開かれていて、自分の音楽を発表するのも、詩を朗読して見せるのも、インラインスケートの特技を動画でみせるのも自由です。こうしたひとたちがネットの世界におけるジョングルール=ブロガーというわけです。楽しませる内容は、最先端の情報であったり、個人的な風景のこともあるわけで、ごちゃまぜです。ときには辛辣な風刺の表現もあるだろうし、狭い地域だけにしかウケない表現もあります。ここには貨幣経済は成立しません。作品を称える賞賛がその作品の価値となります。

たとえば。インラインスケートの技をYouTubeで紹介している少女がいたとします。彼女は文字を書いていません。それでもブロガーでしょうか?

ぼくは"イエス"だとおもうのです。テキストではなくても、音声、音楽、映像、演技など自己表現となるものはすべて「ブログ」のコンテンツになります。もちろん基本はテキスト(文字)ですが、テキストで表現するだけのクリエイターがブロガーであるという制限を外したいのです。いまはテキストが中心ですが、いずれは言葉を語るように音楽を奏でるとか、日記のようにダンスのステップを踏むとか、そんなブロガーが出てくると楽しい。そしてそれを実現するだけの技術的なインフラはもう出来上がっているのです。

しかし、ネットには発表者とともに鑑賞者の厳しい目があります。よい作品にはアクセスが集まり、悪い作品を駆逐していくという自然の作用が生まれます。だから、インディーズといえども矜持を正して作品に磨きをかける必要があります。聴衆はそれほど甘くない。観衆の目が作品を磨き、さらによい作品を育てていく。大手の商業音楽にはあり得なかったことですが、視聴者とアーティストがブログのコメントで繋がれるということもすばらしいとおもいます。


⑤ライターであり、デザイナーであり、エンジニアであり。

ウェブの制作をしているとよくわかるとおもうのですが、インターネットのデザインは通常のデザインの知識だけで制作できるわけではありません。CSSやJavaスクリプトやHTML5など、さまざまな技術的な要素の知識が必要になります。場合によってはプログラムを組まなければならないことがあるだろうし、データベースと連動させた動的なサイトの場合には、システムエンジニアのような作業もしなければなりません。

ASPのブログサービスを利用しているブロガーの場合には、ただ書いているだけで十分という方もいらっしゃるかもしれませんが、一歩踏み出して、自分でサーバーを借りてブログを作ろうと考えると大きな壁に阻まれます。それが、ひとつにはデザインという壁であり、もうひとつはシステムという壁です。

ばりばりのデザイナーやエンジニアになる必要はないとおもうのですが、ブロガーである以上、すくなくともデザインや最新技術に対する関心を持っていたほうがいいでしょう。もともとブログを書いているひとには技術者・開発者が多かったため、最新技術に飛びつくことが多かった。その新しい技術への関心が、ブログパーツを面白がったり、さまざまなガジェットの登場を楽しむ文化になっている気がします。その風潮が、ブログ自体を楽しくしているとおもいます。

システムの仕様変更にわくわくしたり、新しい技術的なギミックに注目したり。「書くひと=ブロガー」という狭い部屋に閉じこもるのではなく、ブログをめぐるデザインや技術の周辺にも開いているブロガーでありたいものです。


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と、自分でエントリに書いてみて、ああ自分はこういう風にブログを書きたいのだな、こんなブロガーになりたいんだな、という客観的な発見がありました。ほかのひとはどんなふうに考えているのだろう、という関心も生まれました。絶対的なブログ作法はないとおもいます。それぞれが考えて書いてきた作法が正しい。いや間違っているかもしれないけれど、生きざまのようなもので、そうでしか書けなかった(生きられなかった)ともいえるでしょう。

ネットにしてもブログにしても、時代によって変わりゆくものです。変わっていくなかで、ときおり軌道修正や、スタイルを見直してみるのもよいのではないでしょうか。方法論ばかりに陥ると内容(コンテンツ)がなくなりますが、方法論と実際のエントリを書き上げる実践を往復することで、ブロガーはどこへ行くのか、見定めていきたいと考えています。

投稿者: birdwing 日時: 21:01 | | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年6月27日

a001108

残念だったのは。

もうあまり使わなくなったかもしれないのですが、「リア充」というネットの隠語がぼくは嫌いです。ネットやゲーム以外の現実生活が充実していること、あるいはコイビトがいたり仕事にやりがいがあったり、リアルライフが充実しているひとのことを指すことばのようです。

はてなの匿名ダイアリーを使っているひとが特に好むことばかもしれません。最近多いモテ/非モテみたいな思考にも抵抗があります。いつの時代にもありがちですが、勝ち組/負け組みのような、二項式の枠組みで世界をラベル分けするような暴力的な姿勢を感じとります。さらに価値観の根底に他者の評価を気にする自己愛が感じられて気持ち悪い。

ぼくにしてみれば、ネットもリアルです。ネットはリアルの二次的な場所ではない。引き篭もるための逃げ場でもない。生活の一部に溶け込んでいて、それだけを抽出したり境界線を引くことができません。

だから、リアル/バーチャル(ネット)という対比の構図は存在しない。残念ながらぼくはゲームはやらないけれど、息子たちがゲームを楽しんでいるところを眺めていると、ゲームの世界も彼等にとってリアルの一部なんだと痛感します。

ネット廃人、ゲーム廃人のようなことばもあります。しかし、それはネットというリアルに中毒的に関わっているひとのことだとおもう。アルコール中毒やセックス依存症とあまり変わりません。

身体をぼろぼろに壊すほどのめり込むのは問題があるとしても、それだけ嵌まったひとには足を突っ込んだひとにしかみられない世界をみることができるのではないか。決して推奨するわけではないのですけどね。苦しかったとしても、斜に構えて傍観者を気取るひとよりも豊かな(というより壮絶な)人生を生きているのではないだろうか、と。

さて。ほとぼりが冷めた頃に、ITmediaに掲載された梅田望夫さんの記事について考えてみました。既にさまざまな方が議論されている話題です。

■日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/02/news062.html

まず個人的に引っかかったのは、前編に出てきた次のような発言の瑣末な部分でした。揚げ足を取るようですが。

良いインターネットと悪いインターネットというと善悪の基準が1つあるみたいで良くないけれど。それは僕の好みだと言ってもらってもかまわないけど。

良いインターネット/悪いインターネットだけでなく、梅田望夫さんの思考全体には、ウェブ/リアル、シリコンバレー/日本のような二項による思考の傾向を感じてしまうのはぼくだけなのかな。だからこそ外国のWebに対して日本のWebは「残念」という評価も生まれるのだと考えます。常に相対的なものとして語られる価値観がある気がする。

しかし、そろそろ、ネットはリアルと対比される特別な場所ではないということを認識し、シリコンバレーのような諸外国を聖地として崇めることもやめたほうがいいんじゃないのでしょうか。過度に期待することもないし、過度に劣等感を抱くこともない。日本は「残念」かもしれないが、いまのままで十分。

国民性といえるかもしれませんが、社会的な傾向から日本を考えてみます。

湿度が高く、長い歴史のなかで鎖国のような閉鎖的な国策や、士農工商といった格差を制度化してきたこの国では、諸外国のようなからっとした平等なコミュニティや議論が発生することは難しい。

カラオケという文化を生んで、新橋で愚痴をサカナに酒を呑んで溜飲を下げる大人が多いこの国では、はてなブックマークのような陰湿な「ただの憂さ晴らし、揚げ足取り」の文化が生まれるのは当然であり、匿名で身を守って、卑怯な手段で陰口をたたくひとが後を絶たないのは仕方ない。

グローバル化を標榜しながら、意見を戦わせようとすると感情論になってしまったり、かというと出る杭を恐れて「和」が大事などと言い訳をして、にやにや薄ら笑いで誤魔化そうとする関係性がデフォルトでは、ネットであろうがリアルであろうが議論が発展しないのは当然だ。

日本はそういう国なのだ、とおもいます。

夢や理想も大切だけれど、安易に楽観主義をとなえるよりダメな現実を直視したい。傍観者として批判するのではありません。ぼく自身も日本人であり、ブログを書いているひとりなのだから。

ただ、ITmediaの記事を読んで直感的に感じたことは、梅田望夫さんにはそうした世界、あるいは社会全体を広く見渡す視点、高邁な志(こころざし)に欠けているのではないか、ということでした。

ブログ黎明期に、たしか茂木健一郎さんだったとおもうのだけれど、時代の変化を明治維新になぞらえて、梅田望夫さんを維新を担う人物のように高く評価したことがありました。しかし、ぼくは途中からちょっと違うんじゃないかな、という違和感をもつようになりました。梅田望夫さんの人間像が変わってきた。

ウェブにしても、はてなにしても、ちょっとした物議をかもし出した水村美苗にしても、将棋にしても、感じていることをストレートに書きます。

梅田望夫さんは、俯瞰的な視点や日本の文化を考える姿勢から、それらの話題を取り上げているのではない。そのとき「自分」にとって有用な何か、あるいは「趣味」に飛びつき、利用しているだけである。ネットに対して、日本語に対して、日本の文化の何かを担っているかのようにみえて、実は自分のことしか考えていない。自己防衛のための道具を次々と探しているだけではないか。

はてなブックマークの悪質な書き込みへの対応については、警告を発したり、削除すべきだという声もありました。ところが、はてなは対策をする、と公言しつつ何もしていない。そのことに対して彼は次のように語っています。

 強権的に何かを削除するとしても、ほかのブログなら何も考えずに消すけれども、うちはむしろ、もうちょっと違うところを目指したりするじゃない。そこが原点になって何か問題が起きたときに、直接的に利用者に対して「君たちがこういう使い方をしているのは良くない」と主観でものを言うのは、はてなの取締役を辞めるまでしないということを、あの事件の時に思ったんですよ。

 そしたらさ、新聞記者が、「辞めてくださいよ。辞めて、その発言を日本のためにしてください」と言ったんだよ。僕は「ふざけるな」と。「どうしてそんな失礼なことを君は言うの?」と僕は言ったわけですけどね。

これを読んで素直に抱いた印象は、ちっちゃいやつだなー梅田望夫さんは、ということでした(自分のことは棚にあげます)。

こうした無責任な姿勢を「開き直り」として痛烈な批判をされていたのが、池田信夫さんのエントリーでした。これは気持ちよかった。

■梅田望夫氏の開き直り
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/54f043773c73f9c44acde62c00573094

ぼくは国民性を諸外国のようにネットが発展しない原因として感じたのだけれど、池田信夫さんは雇用システムが原因である、とされています。

私は、この原因は「日本人の国民性」だとは思わない。それは戦後の日本企業システムの鏡像である。長期雇用のもとでは、絶えず他人の噂話による「360度評価」にさらされるので、ちょっとした失敗やトラブルがあると、そのreputationが数十年にわたって社内で積み重なり、出世に大きく影響する。このシステムはモラルハザードを抑制する上では強力な効果を発揮するが、上司を批判できず転職という逃げ場もないため、そのストレスが匿名による悪罵にはけ口を求めているのだ。

雇用に関する考察がされたあとで、梅田望夫さん(と、はてな)をばっさりと斬る。その鋭さは見事です。

日本をだめにしているのは、このような日本企業の家父長的な構造と、それにチャレンジしないでストレスを飲み屋やウェブで発散するサラリーマンだ。はてなは結果的には、こうした卑怯者に「ガス抜き」のプラットフォームを提供することによって、この救いのない(梅田氏も嫌悪する)システムを延命する役割を果たしている。このアーキテクチャを個人が変えることはできないが、はてなの取締役である梅田氏には現状を改善する意思決定は可能だ。それをしないで他人事のように「残念」というのは、加害者の開き直りにしか見えない。

共感ですね。広告塔のようにしかみえなかったのだけれど、梅田望夫さんは、はてなでどんな仕事をしたのだろう。

コンサルトと経営者の違いについても考えました。一概にコンサルトのすべてがそうだとはいえませんが、コンサルタントは助言をするだけであって、経営全般にきちんと責任をもつわけではない。ある意味、「無責任」です。

コンサルタントの技術・手法として「こういう考え方がありますね、でもこうも考えられます」とオプション(選択肢)を多数提示して助言したり、あるいは「これがよくないですね、ここを変えましょう」と課題点など否定的な見解を述べることがあります。けれどもそれらは、コンサルタントの思考力の幅広さをみせるかのようで、実は「だから言ったのに」とあとで言い訳するための布石、保険のようにさえみえる。ダイレクトに業績に関わっている経営者のような視点からみると、「逃げ」に感じられるのではないでしょうか。

議論の内容ではなく個人に関していえば、期待していなかったひとに対しては失望もしません。だからあらためてインタビューから梅田望夫さんの「やっぱり自分が大事」という小市民的な姿勢を確認して、そんな無責任なコンサルタントっていそうだなあ、あれだけ立派なウェブの未来を描いておいてこれは責任がないよなあ(苦笑)と侘しくおもうだけでした。

ある意味、身近に感じたともいえます。梅田望夫さん日本のブログ界やハイブロウな世界を担う人物ではなく、いずれはロングテールのしっぽに埋もれてしまう隣人なのだと。

残念なのは日本のWebではなく、梅田望夫さん、そのひとだったのではないか。だとすると、この話はやっきになって議論するような話題ではなく、とても瑣末な個人の狭量に関する「残念」な話だったのかもしれません。

投稿者: birdwing 日時: 23:34 | | トラックバック (0)

2009年5月 9日

a001095

翼を休めて、飛ぶのをやめて。

鳥にちなんだハンドル(BirdWing)を使っていますが、鳥たちだって長いあいだ飛んでいると疲れることもあり、傷を負って翼が折れてしまうこともあります。グライダーや飛行機であってもメンテナンスが必要になる。

ブログもまた同じでしょう。システムだけでなくブロガー個人も定期的に休む必要があるだろうし、更新頻度をあげるよりじっくり書いたほうがよい場合もある。エントリの品質にこだわるのであれば、時間をかけて書いたほうがぜったいにいい。好きではじめたことだから、切迫したように書かなくても構わない。

長い人生、走りつづけると息切れします。燃え尽きたりもする。ちょっと待て、何のためにオレ走っていたっけ?とわからなくなることもある。そんなときはむやみに暴走せずに、立ち止まって行く末の地図を確認したほうが賢明です。

そんなわけでブログの更新を止めていました。

ほぼ1ヶ月ぶりの更新になります。
お久し振りです。みなさん、いかがお過ごしでしたか?

更新を止めていた期間、当然ですが何もしていなかったわけではありませんでした。仕事はあり、4月生まれのぼくは誕生日を迎えてひとつ歳をとり、新型インフルエンザのパンデミックに怯えながら大型連休もあった。

そうして別の場所で、むしろこのブログよりも大量の文章を毎日書きつづけていました。全然違う形態「だ、である」調の文章です。

書きつづけてみると、「だ、である」調のほうが自分に合っていました。自由に思いを語ることができます。なかなか出来のよい文章もあるのですが、そのときに書きつづけた膨大な文章は、公開するつもりはありません。ものすごくプライベートなことであり、自分の内面について考察した深い内容なので。さらにまた別の場所でも書いていました。膨大な自分に関する考察から得たことを箴言的に表現すると・・・という、まとめ的なものとして活用していました。

本も読みました。1ヶ月のあいだ11冊読んだかな。そのなかでもいちばん衝撃的に読み終えたのは次の本です。

4622039702夜と霧 新版
池田 香代子
みすず書房 2002-11-06

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アウシュビッツの支所に収容された心理学者の記録です。名著といわれていますが、ほんとうに戦慄するぐらいよかった。

これも、まあまあ参考になるところは多くありました。

4903908127文章は写経のように書くのがいい
香山 リカ
ミシマ社 2009-03-02

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この2冊については感想を書くことがあるかと思いますが、他の本についてはさすがにもういいかな、という気がしています。ああ、黒川伊保子さんのこの本は書くかもしれない。黒川ファンのわたくしとしては、外せません。

4087203743日本語はなぜ美しいのか (集英社新書)
黒川 伊保子
集英社 2007-01

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映画も観ました。こちらは5本。アクションが多かったのですが、一風変わったものとしては次の2本が印象的だったでしょうか。

B001P953IEその男は、静かな隣人 [DVD]
フランク・A・カペロ
アット エンタテインメント 2009-04-03

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どこか「ファイトクラブ」的でもあり、自宅で飼っている金魚が話をする演出は「アメり」のようでもあります。パワハラを受けている惨めな社員が、カイシャをぶっ壊そうと夢見ているのだけれど、その夢と現実が錯綜するようなストーリー。

B000R3AL5O毛皮のエロス~ダイアン・アーバス 幻想のポートレイト~ [DVD]
ニコール・キッドマン.ロバート・ダウニーJr, スティーヴン・シャインバーグ
ギャガ・コミュニケーションズ 2007-08-03

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こちらは男の脱毛が流行る時代ですが、ぼーぼーな多毛症の人間が隣りに引っ越してきて、その謎めいた人物に惹かれていく主人公(ニコール・キッドマン)のお話です。

ところで、あえて告白してしまいます。

実は、空白の期間、メンタルクリニックに通っていました。いまも薬は飲んでいます。精神を病んでしまったようです。

とにかく不眠がひどかった。たぶんそれほど重度ではないと診断されたかと思うのですが、うつ病だったのだと思います。デパス、ドクマチール、ジェイゾロフトという薬を処方していただき毎日飲んで、カウンセリングも受けていました。それだけ精神が追い込まれていたんじゃないかな。

最初に医師に診察を受けたときは、「辛かったね」ということばをひとこと聞いただけで涙が止まらなくなり、1時間のカウンセリングでもぼろぼろでした。仕事にはきちんと通っていたし、家族ともふつーに話していたのですが、内面はひどく壊れちゃっていたんだなあ・・・とおもいました。

ただ、連休には劇的にすばらしいことがありました。それで一気にうつも吹き飛んでしまった。というか、やっとブログが書けるようになった。

人生はドラマじゃないと思うのですが、実はドラマを超えているようなできごともある。つくりものの映画や小説なんかよりも、現実に起きたことのほうがスリリングであり、すばらしいことがあります。しかもそれは、自分がシナリオを起こすことができるし、さらにそのシナリオが運命によって、予測もつなかい方向に展開されることも考えられます。

ひょっとしたら現実の人生は、映画なんかよりずっとドラマチックかもしれない。そんなことを感じた連休でした。ここであったことを生涯忘れることはないでしょう。

という経験を経由して、ゆるゆるとブログを再開したいと考えています。

ほんとうは、まったく違うスタイルでブログを立ち上げようとも思ったのですが、長期的な意味からライフワークとしてこのブログは必要だと考えています。なので、更新頻度は低くなるかもしれませんが、ぼちぼちとつづけていきたい。

あんまりたいしたことは書けないのだけれど・・・よろしくお願いします。

投稿者: birdwing 日時: 07:16 | | コメント (2) | トラックバック (0)