05.blogstyleカテゴリーに投稿されたすべての記事です。

2006年7月 4日

a000434

螺旋状の上達。

文章が上手くなりたいと思っています。以前から文章読本のたぐいを読み漁ったりしているのですが、なかなかこれはという文章を書くことができません。やはりノウハウをどれだけ勉強しても身につかないところがある。文章を上達させるためには、ひとつにはたくさんの名文を読み、気に入った作家をみつけて、その作家の文体を徹底的に模倣することがいちばんかもしれません。あるいは、とにかく文章を書く。下手であろうが恥ずかしかろうが、書いて書いて書きまくる。まず書くことが好きという前提が必要ですが、上達したいと思っていても努力も実践もなければ、進歩というものはあり得ないのかもしれません。

かといって書き殴っていれば上達するかというとそんなこともなく、短い文章であっても、何かを真剣に考えたり感じ取ったりする文章は光るものがある。結局のところ仕事にしても文章にしても、あるいは音楽にしても、最終的には人間性なのかな、と思ったりもするのですが、そうするともはやテクニックの問題ではなく、余計に途方に暮れてしまいます。

文章で飯を食う、あるいはデザインで飯を食っているひと、金儲けのためだけではないけれども自分の好きなことに価値を付加できて結果として収入を得られるようなひとのことを、あらためて尊敬します。企業に属してくだらない同質化のために無駄な力を使ったり、ポジションを一日でも延命するために居座るような努力をしているよりも、自分の力で道を切り拓いているひとの方がどれだけ素晴らしいことか。孤高であっても、自分を磨くことに力を費やしているひとでありたい。それは陳腐かもしれないけれど、たとえばイチローのように。

「安全な場所にいてモノを言うひとがいちばん腹が立つ」という言葉を今日ちらりと耳にしたのですが、なるほどなと思った。結局のところ周囲を見渡してみると批評家か自分では何もしないひとばかりで、ほんとうに覚悟を決めて取り組んでいるのだろうかと思う。傍観者的に批判をしたり自分や他人を解説するのではなく、まっすぐやりたいことに取り組んでいたい。

ほぼ毎日に近い頻度でブログを継続して更新しているのですが、この積み重ねはぼくには無駄ではなく、途方もない助走の試みであるように感じています。ネガティブな思考に陥ることもあったけれど、そのことも決して無駄になっていない。稚拙であっても、そんな道草をすることによって、どこへ向おうとしているのかをはっきりと見定めたような気がします。転んでもまた立ち上がればいいだけであって、走るのを辞めてしまわなければ、どこかへゴールできるものです。

ちょっと今日はお酒を飲んでしまい、頭が働かないのでこの辺にしておきますが(というか、いつもお酒を飲んでいるような気もするのですが)、このブログは3時間も考え込まなければ書けない時期もあったのですが、いまぼくはほとんど30分から1時間の間で書き上げています。もちろん内容がないから早いということもあるのだけど、思考の速度でブログを書けるようにしていきたい。そして、ブログはブログで内容的にも向上させていきたいと考えています。「内容的に向上」というのは、あまりにも曖昧すぎるのですが、一日のなかで何か光るような発想をみつけたい。当たり前の何気ない生活のなかで、ちょっとしたきらめきのようなものをみつけられたらいいと思う。

それは自分のための何かでかまわないと思っています。誰かに評価されるために書いているのでもないし、無理やり気の利いたことを探さなくてもいい。書けないときはお休みにするし、書きたいときはそれこそものすごい長文を書くかもしれない。気持ちのバランスを崩したときはとんでもない暴言をするかもしれないし、ものすごくプライベートな誰にも理解できないことを突如としてカミングアウトするかもしれない。ぐるぐる同じ話題をめぐっていることもあるだろうし、突拍子もないことに首を突っ込むかもしれない。まあ、仕事もそんな風に自由にすることができればいいんだけど。

そうやって書きながら、螺旋状に上昇していけばいいんじゃないかと思っています。だだっ広い野原で、ぶんと投げたペーパークラフトの飛行機が、青空に吸い込まれていくように。そんな感じで書きつづけていたいものです。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年7月 3日

a000433

書くことの喜び。

昨日、集中してパソコンに向って文章を書きました。たかが8,349文字、400字詰め原稿用紙に換算して20枚ぐらいの文章を書いたのだけれど、なんだか久し振りに「もの」を書いたという気がした。充実した気持ちになりました。ただ書けばよいというものではなくて、文章には品質が問われます。品質についてはいまは触れないでおくのですが、書けたっ!という爽快感は書いてみないことには味わえません。それはもう、書けたっ!以外の何ものでもない。

ちなみに書いたのはブログではありません。考えてみるとブログでものすごい量の文章を書いているのですが、どうしても、ブログでは何かを書いているという気分にはならない。これはどうしてでしょう。話し言葉の延長線上にあるからでしょうか。

6月のぼくのブログの文字量を調べてみました。記号や日付やいただいたコメントも含むのですが、87,163文字というところです。先月は2日書かなかったので28日間であり、日で割ってみると1日3,112文字。およそ400字詰め原稿用紙に換算して8枚弱。なんということだ。こんなに書いていたとは。

もしかするとこれは月に218枚ってことでしょうか。リセットして書き始めたのは去年の11月なので8ヶ月をかけると・・・頭がクラクラしました。半年あまりの時間が経過していて、その情熱を別の何かに傾ければ、もっと立派な人物になれたかもしれないのに。人物形成にも不安を感じつつ、さらに突如として別の不安に襲われたのですが、はてなって容量制限なかったんでしたっけ。まあいいや。

あらためて書くまでもなく(けれども書いてしまうのですが)、ぼくは書くことが好きなんだと思います。いまに始まったことではなく、現存する古いカラー写真のなかの一枚に、たぶん2歳ぐらいのぼくが子供用の椅子の上に紙を置いて、なにやらしかめ面をしながら書いているシーンがありました。午後の日差しが差し込んでいて、椅子の横にはブリキのロボットの玩具がある。写真が趣味だった父が写したものらしく、構図が決まっている(きっと何度か位置を修正したに違いない)。絵なのか、文字なのか、その写真からぼくが書いているものを読み取ることはできないけれど、要するに三つ子のタマシイ百までも、です。

ところで、1日にブログで原稿用紙8枚ぐらい書けるのであれば、20枚ぐらいどうってことないだろうと思うのですが、そうはいかないもので、1/3はぜったいに書けないと思っていました。もう目の前に白い画面が広がるばかりで、ギブアップしようかと思った。ところが、書けるところから書き始めると、まるでぼろぼろと壁が崩れていくように目の前に文章が広がっていくもので、夢中になって気が付くとそれなりに埋まっていました。

そのあと夜中に書いたものをじーこじーこプリントアウトしたのですが、印刷された原稿に赤を入れる推敲の作業もまたよいものです。ブログでは校正などしたこともないので(だから誤字脱字が多いのですが)、楽しくて仕方なかった。一度真っ赤になってしまったので、テキストを打ち直して、また出力して赤を入れたら朝になっていました。

さすがに頭が痛んだのですが、そんなに根を詰めなくてもいいから、気ままにゆるゆると文章を書きつづけていたいものです。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年6月20日

a000672

分解しない物語。

ブログの面白さのひとつは、他の記事を引用しつつ新しい見解を加えていくことだと思っていた時期がありました。というのは引用という記述方法がブログの編集画面にあったからかもしれないのですが、自分で何かコラム的なことを書くよりも、引用して書いた方がなんとなくブログらしくみえる。評論っぽい。賢そうにもみえる(実際のところ賢くなくても)。

いまでも上手に引用することは大事だと思うし、トラックバックやリンクは楽しいものです。けれども同時になんとなく内側で閉じてしまうような感覚があり、インターネットの外にリンクできたらいいのに、と思う。外というのはどういうことかというと、現実の街なかにある壁とか、道を歩いている犬とか、電車の吊り広告のようなものです。ちょっとSFっぽいのですが、携帯電話とRFIDのタグなんかが使われるようになると、そんなこともできるようになるかもしれません。

ぼくの書くブログは自分の思考という閉じた世界を扱っているので、ものすごく閉ざされた世界です。抽象的なことをあれこれ考えるのが至福でもあるのですが、あまりに形而上的なことばかり考えていると、この閉鎖的な世界というものに、さすがに疲れる。もちろん、そういうときはネットを切断してリアルに生きるのがいちばんだけれど、淡々と生活を綴った日記を読んでも癒されるものです。

ときどき思考の迷路に嵌まり込んで見失ってしまうのだけど、ブログは日記でもあり、何気ない生活のシーンを記録した言葉がどんな形而上的な言葉よりも美しいこともあります。どこかへ旅行に行ってきたときのこと、子供たちと遊んだ一日の風景、風邪をひいて寝込んだときのことなど、ウィンドウというパソコンのなかにそのひとの世界が広がる。

ビデオのように明瞭な映像でみるわけではないけれど、言葉は仮想の世界を結晶化させたものでもあり、だからこそ生活の一部を抽象化して切り抜き、イメージを削ぎ落とした洗練さがある。YouTubeが盛り上がっているとはいえ、これからは映像だ、テキストなんて古臭い、という過剰な動きには賛同できなくて、ぼくはビデオ映像がすべての面で優れているとは思いません。優れている面もあるけれど、想像力で補いながら「ここではないどこか」の物語に思いを馳せるのもよいものです。

インターネットで探すものは、情報だけではないのかもしれません。テキストやイメージ、動画のすべてが情報やコンテンツといえばいえるのだけど、たとえば訪問する会社のホームページをみたり、地図で位置を確認したり、電車の経路と運賃を計算するのとはどこかが違う。どう違うかというと「体験」を探すようなものでしょうか。という意味では「物語」をみつける行為ともいえる。ビジネスの分野で似ているものを挙げるとすると「成功事例」でしょうか。つまり「単語」と「文章」の違いにも類似しているような気がするのですが、これはわかりにくい。

もう少し説明をします。いま「数式を使わないデータマイニング入門」という本も読んでいます(P.51あたり)。

4334033555数式を使わないデータマイニング入門 隠れた法則を発見する (光文社新書)
光文社 2006-05-17

by G-Tools

「1歳から100歳の夢」も「デザインする技術」も読み終えていないのに読み散らかしてどうだろうと思うのですが、いろいろと並行して読んでいるうちに重なってくるものもあります。

データマイニングというのは、たくさんの情報のなかから法則をみつけるような試みですが、かつてはものすごく興味のあった分野でした。ところがこのところ、どうもしっくりこないものがあります。うまくいえないのですが、要素に分解する分析というものに疑問を感じています。テキストマイニングなどでは言葉を分かち書きにして要素に分解したあとで、連関する語による意味を見出そうとするわけなのですが、分解してしまった時点でものすごく大きなものが失われる気がする。別に学術的な裏づけも知識もないのですが、最近「全体思考」などについて考えつづけていると、物語を単語に分解して論じても意味がない、というごく当たり前のことが大事かもしれないと思うようになりました。

体験もしくは経験は、そのカタマリとして読むものであって、たとえばそのなかに同一の「かなしい」という単語があったとしても、Aという物語のなかの「かなしい」とBという物語のなかの「かなしい」はまったく別のものではないか。違うのだけど、その「かなしい」気持ちに「共感」できるのはどういうことだろう。統計学的な分析はどうなんだろうということになるのですが、正直なところ、頭のなかに広がるもやもやはすっきり晴れてくれません。

同じ夢という言葉が使われていても、「1歳から100歳の夢」で語られている100の夢はそれぞれが違う。ただ、それぞれが違うけれども、そこから立ち昇ってくるものはやっぱり夢です。

今日は一日暑くて、さらに歩き回ったので頭が働きません。そんな疲れた頭の片隅に、ふと「夢の総量は空気であった」という坂口安吾の「ふるさとに寄する讃歌」という小説のタイトルの横に書かれていたフレーズが頭に浮かびました。この小説は次のようにはじまります。

私は蒼空を見た。蒼空は私に沁みた。私は瑠璃の色の波に噎ぶ。私は蒼空の中を泳いだ。そして私は、もはや透明な波でしかなかった。私は磯の音を私の脊髄にきいた。単調なリズムは、其処から、鈍い蠕動を空へ撒いた。

透明な描写が美しい。そんな蒼空をみたいものです。ビデオはないけれども、この文章を読むときに、ぼくの頭のなかには美しい蒼空が広がります。言葉の力を感じます*1。

+++++

■ぼくが持っているのは、ちくま文庫の坂口安吾全集です。ここに「ふるさとに寄する讃歌」は収録されています。

4480024611坂口安吾全集 (1) (ちくま文庫)
筑摩書房 1989-12

by G-Tools

*1:しかしながら、今週は体力的にバテ気味で、何度も見直して修正をかけています。言葉がうまく決まりません。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年6月13日

a000665

身体の水のために、よい言葉を。

ブログがまだ現在ほど知られていなかった頃、海外で使われていた言葉を流用して、アルファブロガーというキーワードが使われたことがありました。1日2万ページビューぐらいのアクセスがあり、世のなかに影響を与えるブロガーという意味だったようです。日本のアルファブロガーを選出する試みなどもあったようですが、そのうちのひとりのブロガーにぼくは疑問を感じたことがありました。

今日、別件で調べものをしているうちにそのブログに辿り着き、そういえばどうなっているのかなと読んでみたところ、なんだか荒れ放題という感じになっていました。以前には、それでもまだ読むことができるブログだったような気がするのですが、いまは正直なところ読めるエントリーではない。文章も破綻していて、コメントも厳しい。コメントに対する返信もない。コンビニで配布されている無料情報誌のような名前のそのブロガーさんの記事を読んで、残念でした。残念だけれど、なんとなくこうなるだろうと分かっていたかもしれない、という気がしました。

かつてぼくは、そのブロガーさんには「個」がないと思っていました。流行っているキーワードや大きな時代の流れをキャッチしてはいるのですが、絶賛したかと思うと、その流れが下降気味になった途端に「終わった」と言ってみる。「終わった」と言うことが、かっこいいと思っているのかもしれませんが、その内容にきらりと光る視点は感じられず、トレンドに流されている印象があります。「個」を通して「全体」を考えることが「志」であると考えると、「個」もなければ「全体」としての志もない。もちろん、それでもいいじゃないか、という見解もあります。書きたいことを書けばいいじゃないか、と。けれども、ぼくはアルファブロガーを名乗るのであれば、その発言に責任を負うべきではないかと思う。責任が負えないならば降りればよいだけだし、個人ブロガーとしてやっていけばいい。しかしながら選出されたのであれば、そのポジションに合った文章を書きつづけてほしい。

何でも書けばいい、喋ればいいってわけじゃないだろう、と最近ぼくは思い始めています。書くべき言葉、喋るべき言葉は慎重に選ぶ必要がある。個人的に言葉の重み、潜在的な効果というものも大事にしたいと思っているのですが、ちょうど今日読み終わった「出現する未来」の最後には、日本の江本勝さんの研究が引用されていて、この話に感動しました。

江本さんは水の研究をされていて、本には写真も掲載されているのですが、これがとても面白い。水が凍ったときの結晶を写真に撮っているのだけど、山梨の三分一湧水では美しい結晶なのに、汚水では結晶になっていない。

ここまではわかるのですが、次の写真に驚いたのが、バッハのG線上のアリアを聴かせた水は、ものすごくきれいな「幾何学模様」になっている。モーツアルトの交響曲40番を聴かせた水は「秩序と流麗さのバランス」がとれている。さらに「美しい」という文字を書いた紙を貼っておいたシャーレの水は「完璧なレース状の結晶」ができたのに対して、「汚い」と書かれた文字の方はぐちゃぐちゃな「醜い」結晶しかできなかったそうです。

人間の身体の70%は水です。水自体の反応が、われわれの身体に影響を及ぼすことも考えられます。「きれい」と思い、思うだけでなく言葉にしていると、身体の70%の水の力が、そのひとをきれいに変えていくかもしれない。

つまり、細胞レベルというよりも原子レベルで、ひょっとすると言葉の力が作用しているのかもしれない。言葉というのは人間の道具だけれど、世界全体の成り立ちに深く関与している何かが言葉というカタチを取ってあらわれているものかもしれないわけで、だからこそ水という心がないようなものにさえ影響を与える。世界の真理という大きな氷山の突出したちいさな部分が言葉であって、その背後にはぼくらが予想もつかない秩序があるかもしれない。

と、あまり考えすぎると危険な気もしていて、まあそんなこともあるだろうな、ぐらいにしておきましょう。しかしながら、書き言葉であっても喋り言葉であっても、言葉が身体(あるいは身体の水)に与える影響はきっと大きい。

ブロガーのなかには、梅田望夫さんのように「全体思考」に大きく志を発展させた素晴らしい方もいらっしゃいます。しかし、一方で、自分の仕事を取るための売名であったり、ただブログランキングの上位をねらったり、アクセスを増加させることだけに満足したり、批評家にとどまっているだけのブロガーさんもいたかもしれません。ブログの読者は書き手の背後にある意図には敏感なものです。だから、付け焼刃的な志では、すぐにわかる。

ブログ社会もずいぶん大きくなりました。ブログといえば誰にでも通用するようになった。素晴らしいブロガーさんたちが増えて、ブログを読むリテラシーも向上してきました。どんなブログがあってもいいのだけど、もし現状の不満や批判を吐き出すだけであれば、読み手のネガティブな感情を煽るだけです。社会批判のようにみえて、実際のところ不満を言ってすっきりするだけの自己満足に過ぎないかもしれない(しかし実際のところは身体の70%の水にも悪影響を及ぼすわけで、悪玉コレステロールよりも悪いかもしれない)。もちろん、そんなネガティブな言論に群がりたがるような揚げ足取りや批評家もいるもので、趣向が合うマイナス思考のひとたちにとっては格好のターゲットになります。そうして、やがてネガティブな世界のなかに埋もれていく。あらためてぼくも背筋を伸ばし、気をつけようと思います。

ちなみに、ソフトウェアで「アルファ」というと「アルファ版」という言葉があります。IT用語辞典からの引用です。

アルファ版は一般的に動作確認を行なう環境が不十分であるなどの理由から未知のバグが存在していることが多く、しかもシステムに影響を与える致命的なエラーが発生する場合もあるため取り扱いには注意が必要である。

アルファブロガーのアルファというのは、こっちのアルファなのかな、とちょっと思ったりして。

ぼくはまったくアクセスを増やそうとも著名になろうとも考えていなくて(昔はちょっと思っていた)、いま日に150ぐらいのアクセスをいただいているのですが、もっと少なくて充分、と考えています。もちろん読んでいただいている方にはありがたいのですが、もともとぼくの個人的な思索をとめどなく綴っているだけなので、長いだけでそんなに面白いもんじゃないだろう、と思っています。正直なところ、なんだか読んでいただいて申し訳ないです。

それでもときどき、メッセージなどをいただいてうれしかったりします。とある素敵なインディーズのアーティストさんから、先日ぼくが書いたブログを読んで「1歳から100歳までの夢を買いました」などという話を聞いたりすると、おすすめしてよかったと思う。

そんな風に誰かにささやかなよい影響を与えることができればいいのですが、まずは自分の身体に流れる水のために、よい言葉を使っていようと思います。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)

2006年3月24日

a000592

姿勢を正す。

梅田望夫さんのブログを読んでいたところ、トラックバックから引用されていた住太陽(スミモトハル)さんのブログを読み、ちょっと感銘を受けました。ということをストレートに書いていいのかどうかとも思うのですが、ぼくは自分がよいと思ったものに対しては率直な感想を書きたいと思っています。かっこつけて気取ってみてもしょうがない。年上であろうと年下であろうと、権威的であろうとなかろうと、よいものをキャッチしたときには、これっていいよ、と素直に言えるひとでありたい。そして、感性に引っかかるものをキャッチするアンテナを常に磨いておきたいものです。そんなわけで、住さんのブログから引用です。

まずブログの冒頭に書かれている言葉に、うーんと唸りました。引用します。

小手先のテクニックが有効な期間は、周囲の者たちが、それを真似るか見破るかするまでのごく短い期間だけです。このブログに綴られているのは、僕がテクニックではない「本質的な何か」を探す旅の行程です。それは真理かもしれませんし、知恵かもしれませんし、自分自身の心と体かもしれませんし、他人や社会や世界とのつながりかもしれません。いずれにせよ、僕はそれを追い求める旅を、今後もずっと続けていくでしょう。

非常に端的に書かれていますが、これは深い。そして言葉は違いますが、ぼくの求めているものも同じだと思いました。ぼくは特に考え方に注目してテツガクと言っているのですが、住さんは「他人や社会や世界とのつながり」と言っているところに広がりを感じました。

さらにプロフィールに書かれている次の文章も、これは!と思いました。「情報を集めること」と「表現すること」が「生きること」と同じ意義を持っているとして、さらに次のように続けます。引用します。

また人は、生命を維持するために表現します。自分の状態や欲求を他者に伝え、必要な援助を得るためです。さらに人は、生命の維持だけでなく、社会に参加したり、その中で認められたりするためにも表現します。集めた情報や、それによって変化した自分を表現し、社会生活を営むのです。「表現」を「コミュニケーション」と言いかえてもいいでしょう。この意味で、表現することは、生きることと同じように重要なことです。

この切実さ。表現するとは何か、ということをぼくも考えつづけていたのですが、明確な答えを得たような気がしました。

そこでいくつかのエントリーを読み漁ったのですが、共感できるものがたくさんありました。住さんは、非常に抑制の利いた文章を書かれていて、まずその文章が気持ちいい。さらに、権威的なものによりかかるのではなく、ご自身の体験から真理を導き出そうとされている。その姿勢がいい。

3月23日のエントリーでは「僕がフリーランスを志向する理由」として、組織に属さない生き方についての考察をされています。そのひとつの方法としては、アフェリエイトがあるのですが、実際にぼくもアフィリエイトに関しては、ちょっときちんと学んでみようと思っていました。しかしながら、住さんが冒頭に掲げているように、「金儲け」のノウハウという表層的なテクニックに終始すると、たぶん広がりがなくなってしまう。

ダイバーシティ(多様性)の容認ということから、仕事における新しいスタイルとは何か、ということをぼんやりと考えていたのですが、それはIT業界のCPUをあらわす言葉ではデュエルあるいはマルチのように複数の頭脳を共存させる生き方につながっていくのではないかとイメージしています。つまり、ある意味、スーパーマン的な社会かもしれない。表向きの姿は新聞記者だけど、ネットという電話ボックスを潜り抜けると、まったく違うキャラクターに変身する。そんな感じです。仕事の傍らにブログやコミュニティを運営するなど、内職的に携わるパーソナルプロジェクトがあってぜんぜんかまわないかもしれません。むしろ、それを容認する企業が今後は主流になるべきだと考えています。しかしながら、どっちが本業?のようになってしまうのでは問題があるので、本業は本業であくまでもレベルの高い仕事をする必要があります。複線的に広がるそれぞれの世界が互いに影響を及ぼして、相乗効果をあげるのが理想的です。ということを、以下のように住さんは書かれています。

少し話が脱線しましたが、僕は通常業務であるところのウェブ制作やウェブ・マーケティング、そしてそれら関連した講演や執筆を本業としていて、それらの活動から派生したサイトを複数運営しています。しかし、本業だけに拘るのではなく、それらで得た「ノウハウ」や「人的ネットワーク」や「リンクポピュラリティ」や「トラフィック」を総合的に活用することで、さらに新たな「ノウハウ」や「人的ネットワーク」や「リンクポピュラリティ」や「トラフィック」を得ることができる、という好循環も生み出すことができます。このブログなどはその好例で、本業には関わりのないこともたくさん書いていますが、それらは、どんな形でかはわかりませんが、再び僕に戻ってきます。そしてまわりまわって、本業でも役に立つ、という具合です。

いままで、ぼくは自分の考えにいまひとつ自信が持てずにいました。というのは、複数の仕事やネットワークを共存させる考え方は圧倒的にマイノリティな感じがして、どこか後ろめたくもあり、もしほんとうにそれをやろうとすると組織から出て独立したほうがいいんじゃないの、ということにもなりかねません。実際に、そうしてフリーの道を歩んでいるひとも多いのですが、自分としては組織のなかにいながら複数の能力を発揮すること、組織にいながら内部に執着するのではなくて外部にも開かれているのが理想的だと思っていたわけです。

住さんの書かれていることが、ひとつのヒントになりました。そしてブログの書き方についても、学んだような気がします。そろそろ3月が終わりますが、1月から3月まではぼくのなかではある意味、実験期間でした。かなりラジカルな試みも意図的に行って、なるほどなあと感じたことが多くあります。来週、1週間はその総括を行いつつ、 自己規範のようなものを決めて、4月から次のフェーズへスタートしたいと考えています。

住さんのブログには、思わず姿勢を正されました。住さんがインターネットの信奉者であるように、ぼくもブログの可能性を信じているひとりです。へこみそうなときもありますが、そんなマイナスな自分も自分として認めつつ、さらに何ができるか考えていこうと思います。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)