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2006年3月14日

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言葉の力。

こんなロングテールの先っぽの辺鄙な場所でこつこつとブログを書いていても誰もみないだろう、と思っていたところ、そうでもなかったようです。きちんと言葉は届いていたようでした。ちいさな石であっても、池に落とせば波紋は大きく広がるものです。あらためて言葉の力というものを感じました。

たとえば一般論ですが、権威的なもの(企業や団体)に対して批判的な何かを提示したとき、「そんなこと言うなら解雇するぞ」とか「もし業界で仕事をしたいなら名前を変えた方がいい。おまえが仕事できないようにしてやる」とか「閑職に追いやる」などのように脅しをかけられることはよくあることです。それはそれでネタとしては面白いので、そういう状況に陥ったときの推移をブログで中継するのもなかなか興味深いかもしれません。

ペンという武器を持っていて、ブログという盾を使って身を守ろうとしても、現実には、ひとというのは権威的なものに対してものすごく弱いものです。きっと権威的なものに対しては言いたいことも言えずに屈してしまうか、そのプレッシャーに負けてしまうでしょう。ただ、ハードボイルド的ではあるのですが、どんなにめちゃめちゃで間違っていたとしても、言いたいことは言っていたいと思います。もちろん言葉として発するまでには熟考に熟考を重ね、ほんとうに言うべきかを慎重に判断した上で言葉にしたい。ついでに、ブログに書くかどうかはともかく、です。

ちょっと批判的な文章を使っておこがましい提言をしたのですが、ぼくの場合には、提言した方と、きちんと話をすることができました。内容を理解していただいたようなので、ひとまずは安心です。というよりも、ぼくは批判するつもりはまったくなくて、肝心なところは、ぼくらの方向性をきちんとしましょう、ということを切実な願いを込めて言いたかったわけです。何度も言ってきたことだと思うのですが、どうも何にもなりませんでした。そして念のために断っておくのですが、なんとかしてください、という他力本願ではなくて、考えなければならない部分は、もちろんぼくもいっしょに考えたり行動する、という前提があります。ある意味、崖っぷちのぎりぎりのところで、変革すべきであるということを訴えたつもりでした。

書かなければいけないこと、書いてはいけないこと、などというのは、自分でも分かっているつもりです。しかしながら、書かなければ(あるいは言葉を発しなければ)何も変わらない現実と言うのもある。発しても発しても何も変わらないこともあるのですが、それはまあ仕方がないので諦めるしかない。モラルやリテラシーは重要ですが、ときにはショック療法的に発しなければならない声もあると思います。

とりあえず、体外的な体裁はともかく、今回ぼくが提言したことに対しては本心であるところを聞いていただけたのではないか、と思っています。そう信じていたい。であれば、捨て身の気持ちで書いたぼくの決意も報われるものです。それでも何も変わっていない場合には、ふたたび失望もしますが、そのときはぼくがどうするかを考えればいいだけです。変わらないものを変えようとしても、無駄な努力を重ねるだけです。

組織が腐っているね、というとき、それは自分のなかの腐っている部分を対比していることがあるかもしれません。腐っているのは組織ではなく、自分のなかにある仮想的な組織かもしれない。早い話が、おまえおかしいよ、と言ったときに、おかしいのは実は自分だったりもする。放っておくと癌細胞のように自分のこころ全体を腐ってしまう意識というものがあります。腐ってしまう種が生まれると、その周囲まで腐らせてしまうものです。

ぼくの意識のなかに、そんな種を生まないようにまずは気をつけなくては。

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2006年3月11日

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そして、ふたたびブログの海へ。

春らしいぽかぽかした日になりました。とても眠い。ぐうぐう眠ることができる。怠惰かもしれないけれど、人間も含めて眠ることができる生き物たちはしあわせです。お昼寝している犬もしあわせそうです。睡眠時間を削りに削って趣味に没頭したり、仕事に追いまくられて徹夜する日もありますが、寝るときゃ寝る。誰がなんといおうとも寝る。春はいいなあ。しあわせに眠ることができて。

さて、この一週間。批判すること、引用することに疑問を感じて、自分は創造する側でいたい、湖から飛び立つ最初の一羽でありたいと考え、でもそんな偉そうなことを言ってもほんとうにできるのかよ?何をやるんだ、と突っ込みつつ、自分に何ができるか、ということをうーんと唸りながら考えた後、掌編小説を3編だけ書いてみました。稚拙でしようもない物語ですが、小説を書くのも面白いなとあたらめて実感しました。一方で、創造することとは何か、どうして現前にないみえないものをひとは見ようとするのか、総表現社会はどこへ向うのか、ということを考えてきました。

他人のブログに感化されやすいぼくは、この試みの間、極力他人のブログはみないようにしていたのですが、その体験を通じて、自分が何を求めていたのか、どこへ向おうとしていたのかを再確認できたような気がします。加えて、自分を制御する仮想的なココロのシステムを構築する、ということも考えることができた。この仮想的な自分がこれからやろうとすることを客観的に把握して、さらに創造的で豊かな何かをもたらしてくれるように祈りたい。

というわけで、ブログをみることを解禁にします(自分へのご褒美。よくやった)。といっても、ちょっとだけ禁を破ってみちゃったんですけどね。

たとえば山にこもって、久し振りに下界におりてくる。そうすると、あらためていろいろなことに気づく。といっても山伏ではないので、山にこもる人はいないでしょうが、体育会系では合宿で山にこもることがあるので、そんな状況を想像してください。都会の喧騒から離れて山のなかで生活して再び都会に出てみると、いろんなことが新鮮です。ああ、人間ってこんなにたくさんいたものなんだ、とか。女の子はやっぱりきれいだな、とか。その感覚を大事にしたい。わけもなく意地になってただ一日を埋めるためにブログを書きつづけるなら、しばらくは休んでみるのもいいかもしれません。

ところで、一方でブログ以外のものも、いろいろと吸収しようと思っています。久し振りに、雑誌をたくさん購入しているのですが、プレジデント3.20号はまさに「「考え方」革命」という特集で、大前研一さんが構想力や右脳と左脳の話などを書かれていて面白い。実は気になりつつ読んでいなかった雑誌で、答え合わせみたいな感じなのですが、ぼくが考えていたことと重なる部分もありました。どうやら間違っていないようだ、ということがわかりうれしかった。また、「devil's advocate(悪魔の使徒)」という反対意見を言うことによって議論をするやり方や、「ソクラテスの会話」という架空の役回りで議論する方法などは参考になります。最後の部分は心に留めておきたい文章です。プレジデント3.20号「9割の人は「頭の使い方」が間違っている」という大前研一さんの文章から引用します。

相手の立場に立ってモノを考えるのは、イマジネーションが巧みでなければできない。想像力、空想力から一段昇華した「構想力」というのは、そういう訓練をしなければ開発できないものだ。
思考方法、思考能力で進歩しなければ、先進国では二一世紀を生きていけない。だからすべての時間、頭をフルに使うべきである。

ついでに、かなり前のものなのですが、茂木健一郎さんのブログ「茂木健一郎 クオリア日記」で、mediaCLUBKINGのTALK dictionaryを知り、坂本龍一さんと茂木健一郎さんの対談をポッドキャスティングしてiPodで通勤途中に聴いていたのですが、こちらもなるほどなあ、という感じでした。坂本龍一さんの言葉ですが、ピアノには88鍵しかなく、結局のところ88鍵でできることしかできない、じゃあ新しいことって何だ、ということを考えられていたそうです。茂木健一郎さんも、若いうちは前衛的なことをやりたがるのだけど、どんなに前衛的と思ってやっていたことだとしても何かの影響を受けている、まったく新しいことなんてできないんだ、とお話されていました。つまりすべてが何かの引用的である、引用であることからは逃れられないのかもしれません。

ぼくは自分の掌編小説をクリエイティブ・コモンズのライセンス下においてみましたが、ぼくの書いた作品も何かの影響を受けているはずです。完全にオレのオリジナルなものだ、とはぜったいに言えない。自分で別の作品を意識している部分もあるし、無意識のうちに時代の意識を織り込んでしまったものもある。息子の言葉をそのまま拾っている部分もある。そもそも作品を創るということは、すべてマッシュアップ的であります。一方で、著作権については、そこから利益をあげるビジネスモデルで成立している企業があり、そのお金で生活しているひとがいる以上、一概にフリーにすべきだとは言えないと思うのですが、もう少しゆるやかな制度があってもいいかもしれません。

自分のなかでブログおよび引用の解禁。ふたたびいろいろなひとの意見を参考にしつつ、考えつづけていきます。

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■茂木健一郎さんのブログ。放送スケジュールや書かれた記事などの情報の合間に、著書では読めないリアルな茂木さんの言葉があり、そのクオリアに思わず、にやりとするブログです。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/

■mediaCLUBKINGのTALK dictionary。なんとなくポッドキャスティングを聴く身体になっていないので落ち着かないんですが。
http://www.clubking.com/news/

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2006年3月 3日

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引用から離れて。

目がまわりそうな数日間でした。何かに追い立てられるようにして、とにかく目の前の仕事を片付ける。片付けると次がある。といっても、時間的にはそれほど長い時間を拘束されているわけではありません。ただ、とにかく慌しい。忙しすぎるのも問題だな、と思いました。何よりも気持ちが殺伐とします。といっても、以前に比べるとそんなにハードというわけではありません。要するに、2月の中旬あたりにはあまりにも平穏な日々がつづいていたので、身体がなまっていたのかもしれません。平穏な日々が懐かしい。

ところで、「経営の構想力」という本を半分まで読みました。最初のうちはなんとなく惹かれるキーワードもあって面白そうだ、と思っていたのですが、読み進めるうちに、うーん、どうだろう?という気持ちになってきました。何かを言っているようで何も言っていない。そんな印象です。なぜかというと、引用があまりにも多すぎる。以前、「EQマネージャー」という本を読んでいてやはり同じような気持ちになったのですが、引用ばかりの本というのは、著者は何が言いたいのか、みえなくなってしまいます。さらに、この「経営の構想力」には著者の個人的な経験まで引用されている。もちろんその引用が効いていればいいのですが、コーヒーブレーク的な挿話だったりするので、読んでいて拍子抜けする。ちょっと物足りない本でした。

同様にブログもそうかもしれないなあ、と思いました。引用すること、リンクをはることが、ブログの大きな特長でもあると思うのですが、あまりにも引用に頼りすぎると、できの悪い大学生の論文のようになってしまう。

全文引用はできないので、どうしても部分を切り抜くわけですが、まったく違う文脈になってしまうこともあります。それが面白い効果を生んでくれるといいのですが、自分の意見を正当化するための強引な引用になることもある。批判することは簡単でつまらない、ということを先日書いたのですが、引用することも簡単かもしれません。ぼくも書くことに困るとブログなので引用するネタを探す。ブログやインターネットをうろうろしていると、何かしら引っかかってくるネタはあるもので、そうすると一日を埋めることができるわけです。埋めればいいってものなのか、とも思うのですが。

そこで、ぼくは考えました。しばらく他人のブログを読まない。そして引用することをやめてみよう、と。

期間限定。試験的に、です。読んじゃダメといっても、そんなに意思が強い方ではないので、読んでしまうかもしれない。禁煙みたいなものです。禁断症状が出たら1本だけ読んでみる。でも、1本で我慢しておく。そして何も引用しないで、ブログを書いてみる*1。

なんとなく不安です。いや、ものすごく不安かもしれない。いま息子が自転車の補助輪を外して、うまく乗れるように練習しているのですが、そんなぐらぐらとした感じがする。今日はこんなことがありました、というプレーンな日記になってしまいそうです。それもいいか。いや、だめか?

立体的な思考のために、という目標を掲げているので、一日ごとにテーマを設定して、そのテーマについて自分が考えることと深く向いあってみようと思います。そんなわけで、ものすごくつまらない日記が来週いっぱいぐらいまでつづくかもしれません。どこか他の楽しい日記をおすすめします。たぶん来週ぐらいまで、抽象的なものすごくどよーんとした話題がつづく予定。

ぼくがこのブログを再スタートしたとき、谷川俊太郎さんの詩をベースにしていたものの、限りなく自分の内面的な何かを拠り所にして動き出していた気がしました。試行錯誤しているうちに見失ってしまったものもあります。方向がずいぶんそれてきちゃった感じもする。原点に戻ってみようと思います。

パソコンの画面が深い底なしの穴のようにも思えてきた。この試みがぼくをどこに運ぶのか、まったくわかりませんが、いい機会かもしれません。ネットの引きこもりみたいなものかもしれませんが、暗闇から光が見出せることを祈りつつ。

明日から1週間ばかり、いままでと違ったスタイルで書きます。コメントいただいてもレスはないかもしれません。ご了承ください。

あ、そういえば今日は桃の節句です。うちの子は男ばかりで関係ないんです。

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*1:本100冊+映画100本プロジェクトは継続しますので、この期間に読んだ本や映画については引用する部分もあるかもしれません。

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2006年3月 1日

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書かないという選択。

同時発生的に議論されていて面白いと思うのですが、ブログ文章術について、さまざまなブログで盛り上がっているようです。ぼくもブログで表現する方法ついて書いているのですが、梅田さんの提唱された総表現社会をはじめとしてブログ社会の在り方について模索が始まったような印象があります。いい傾向だと思います。

そうしたブログ文章術のなかでも、批判的な発言についての考察に、なかなか面白いものがあります。はあちゅうさんのブログに書かれている「小娘が何か言ってます。」という記事は、かなり話題になっていました。渦中に書くのはどうかと思ったので、いまその話題について書いてみます。はあちゅうさんといえば、さきっちょさんといっしょに女子大生ブロガーとして有名になったひとでした。引用します。

この間テレビで
「なんで人を殺しちゃいけないのか説明してください」
って言ってる高校生を見て、
「は?」って思った。
もしあれが私の子供だったら、末代までの恥。
世の中には説明の要ることと要らないことがあって、
その質問は後者のカテゴりーに属するでしょ。
生きるのに苦労してないからそんな質問出てくんだろうね。<
あたしも大して苦労してないけどさ。
生きることがどれだけ大変なことか知ってたら、
そんな質問できなくない?
そういう低レベルなことをぼやいてる奴らをまとめて、カルカッタのマザーハウスとかルワンダとかに全員ボランティアに行かせるべきだと思った。
向こうも迷惑だろうけど、頭下げて勉強させてもらいに行くべき。
必死に生きることにすがりつく人間を目の当たりにしたら、
「なんで殺しちゃいけないか」なんて言えなくなるはず。
こういう感覚を持った若者がいること自体間違ってるよ。
日本、なんか最近情けなくない?

ぼくはこの発言自体は、いいなあと思っていたのですが、それがどうやら批判もされているらしい。そもそも、まだ20代ですよ。ぼくが問題だと思うのは、はあちゅうさんの批判的な発言よりも、その発言を怒涛のように批判する(ことに、よろこびを見出す)ブロガーの姿勢です。

というぼくも、試しに批判的なことを書いてみようか、書いたらどうだろう、と思ったことがありました。今年の1月〜3月には、感情にまかせて書いたらどうなるかなど、自分を人体実験にしてやってみようと思っていたからです。けれども、その批判に対する批判(というかお叱り)もいただいたりしたので、やめました。もうひとつ、批判をやめた大きな理由があります。それはやってみてわかったことですが、こういうことです。

「批判的な文章を書くのは、簡単すぎるのでつまらない」

感情的になって逆のことを言えばいいだけですからね、簡単すぎます。簡単すぎるものに一生懸命になって取り組んだとしても、自分のためにはなりません。もちろん高度な批判も可能かと思うのですが、それは批判ではなく論争的なレベルではないでしょうか。何か言ってる小娘に逆上してコメントして、どうだ!というのは大人げない。しかも大勢で吊るし上げるのは、人間がちいさすぎる。

彼女のことを思って批判するんだ、という意見もあるかもしれません。しかしながら、ほんとうに?とぼくは突っ込みたい。ナルシスト的に、かっこつけてるんじゃないの?という感じです。自分のストレスを解消するために彼女をおかずにつかっているんじゃないのか。

山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室。」にも、批判に対する言及があります。ズーニーさんのところに寄せられるメールには、鉛のようにどす黒い批判も少なくはない。そんな批判も真摯に受け止めていたのですが、結局わかったそうです。批判が自分を成長させてくれることはない、と。

何かコメントしたからといって、偉いわけではないですよね。ほんとうに偉いのは、誰かが書いたものにコメントをつける安易なことではなくて、自分で新しいアイディアを創出して発言をすること、もしくは発言した考え方を基盤に「行動すること」だと思います。ブックマークに付けられた批判から盛り上がって、自分の発言で盛り上がった!のように興奮するひともいるようですが、ぼくの正直な感想は、寂しいひとだなあ、という感じでした。

たとえば子供の教育がなっていない、と発言する。その発言自体は大事です。まず問題意識を持ち、自分の考えを表明することは重要だと思います。だから、はあちゅうさんの発言もぼくは全面的にいいと思っています。ただ大切なのは、次に何をするか、ですね。急に政治家になれるわけでもない。松下村塾のような教育を始めることもできない。世界を救え!なんてことはできません。じゃあ、自分に何ができるのか。

地震や台風などの天災でも電車事故でもいいのですが、政府の対応の遅さや企業の腐敗などを批判することは簡単です。でも、被害者のために募金をする、という行動がさっとできるかどうか。批判よりも、すべきことはたくさんある。

さらにクリエイティブな世界に考え方を拡大すると、アマチュアの音楽作品についてどうこう言うのは簡単です。でも、じゃあおまえはすごい作品が創れるのか?ということになると、何も言えない。ソフトのここが変だというのも簡単。じゃあプログラム組んでみろ、と言われたら組めません。デザインについても同じです。デザインしてください、と言われてもできない。だから、何かを作り出そうとするひとは(特に自分にできないことを考えたり作り出しているひとは)すべて、ぼくは尊敬しています。

ついつい批判を書きたくなる気持ちはわかります。でも、ぼくはこう思います。

「書かない、という選択もある」

ココロのなかで思っていればいいじゃないですか。こいつの考え方は違うね、と。まったくばっかじゃなかろうか、ぷんぷん、と。あえて書かなくてもいい。

有名な方ですが「きっこのブログ」に「「きっこの日記」は無料です」というエントリーがありました。これもまたどうでもいいことですが、ブログのクオリティの高さやスクープ的な情報感度から、ほんとうはプロのライターが複数で書いているんじゃないのか、などの都市伝説的な憶測も飛んでいるブログです。引用します。

今までに何度も何度も何度も何度も何度も何度も言ってるけど、この「きっこの日記」は、あくまでもあたしのプライベートな日記であって、あたしが書きたいことを書くための日記だ。だから、読者のために書いてるんじゃなくて、あたしの自己満足のために書いてる。

そりゃそうです。先日、ぼくは読者を意識した方が自分の成長のためになる、ということを書いたのですが、基本的には、きっこさんと同じかもしれない。第一は自分のために書いています。きっこさんは次のようにつづけます。

だけど、ものすごくたくさんの応援や感想のメールが届くから、一応は、「皆さん、いかがお過ごしですか?」とか言ってみたりして、読者のことも意識して書いてるけど、基本的には、あたしのプライベートな日記だ。だから、読みたい人は勝手に読めばいいけど、こっちから「読んでください」なんて頼んだことは一度もないし、あたしと考え方や趣味の違う人は、わざわざ読んで不愉快になる必要もないし、読まなきゃいいと思う。世の中には、星の数ほどWEB日記やブログがあって、色んな考え方や趣味の人がいるんだから、他人の日記を読むことが好きな人は、たくさんある中から、自分の好きな日記を探して、それを読めばいいってことで、何もわざわざ自分と違う考え方の日記を読んで、不愉快になることはないと思う。

これも同感。

むかーっときたやつはリンクを外せばいいだけです。余計なおせっかいのコメントには反応しなきゃいい。なんか感情にさわるものがある、というブログはRSSリーダーから外して二度と見ない。たかがブログです(されどブログですけどね)。とはいっても、人間だから、批判はつまらんと思っていても批判的な気持ちがむくむくあがってくることもある。そういうときは、ひとさまのブログではなくて、自分のブログで書けばいい。名ざしやトラックバックすると、批判されたひとにはプレッシャーになると思うので、あくまでも一般論として書く。きついことを書く(もしくは言う)ひとは、逆に言われることに弱いものです。やさしくしてあげましょう。


ぼくは一日にブログを1〜2時間で書き上げるようにしています。もちろんそれは目安であって、3時間近くあれこれ考えていることもある。けれども2時間というのは、一日の24時間のうちで10%にも満たない。その他に、仕事したり趣味に没頭したり食べたり寝たり、リアルに生きている時間がたくさんある。だからブログ=自分ではまったくない。ブログに書かれている自分は、ぼくのほんの一部に過ぎないと思っています。

ブログにも人格はあるけれど、それはリアルな人格のごく一部分です。

日本人は議論が下手だといわれるのは、発言をそのひとのすべてだと思い込んでしまうところにあるような気がします。

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2006年2月23日

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書かずにはいられない。

ちょっと本屋行ってきます、と思わず言いたくなりました。

というのは、橋本大也さんの「情報考学 Passion For The Future」で「書きたがる脳 言語と創造性の科学」という本の紹介を読んだからです。ちなみにfinalventさんの「極東ブログ」でも取り上げられていて、実はそちらを経由して情報考学のブログを参照して、おっこれは面白そうだ、と思いました。というよりも、さらに正確に状況を説明すると「ドコモを育てた社長の本音」という橋本大也さんの今日の日記を読みながら極東ブログに進んだところで、またリンクを経由して戻っちゃったんですが。

気にいったブログはRSSリーダーに登録して(ぼくの場合、SleipnirというタグブラウザのRSSバーなのですが)、サマリーだけは目を通すように心がけているつもりです。タイトルで直感的にぴんときたものは、ブログにアクセスして全文を読むようにしているのですが、やっぱりきちんと読んだ方がいいな、と思いました。橋本大也さんには、すごいひとだと思います。読書量がハンパじゃありません。年間100冊も困難なぼくは足元にも及ばないのですが、刺激を受けます。

最初に、この本について実に簡潔にまとめられています。引用します。

ハイパーグラフィア(書かずにいられない病)とライターズ・ブロック(書きたくても書けない病)について、自ら両方の症状を経験した医師でもある著者が、脳科学と精神医学の視点で言語と創造性の科学に迫る。

ハイパーグラフィアについては次のような基準を引用されています。

著者によるハイパーグラフィアの基準:
1 同時代の人々に比べて圧倒的に大量の文章を書く
2 外部の影響よりも強い意識的、内的衝動に駆られて書く
3 書いたものが当人にとって哲学的、宗教的、自伝的意味を持っている
4 当人にとっての重要性はともかく、文章が優れている必要はない

うーむ、当てはまるかもしれない。というか、まさにその通りです。病気なのか。ただでさえ病気がちなのに、これ以上病気が増えては困ります。ただ、橋本大也さんの次のコメントに、なんとなくほっとしました。

私はブログを毎日更新するようになって約900日目だ。それ以前には3年ほどメールマガジンを定期発行していた時期もある。さらに遡ると大学時代はサークル広報誌の編集長兼ライターだった。日常的に物を書くという習慣は15年以上続いていることになる。思えば書くことや文字へのこだわりは子供の頃からだった。書かずにはいられない。軽いハイパーグラフィアであることは間違いなさそうだ。

900日!まずその日数に気が遠くなりました。

編集者というのは大変なお仕事です。以前に在籍していた会社で、ぼくも編集の経験がありました。いまでは企画というカタチのない仕事に就いていますが、取材(ときには写真撮影まで)をして、あるいはライターさんからの原稿を整理したりレイアウトを組んで、苦労して作った冊子が書店に並ぶときの嬉しさには格別のものがありました。それは、はじめてワープロを購入して自分の文章が活字になった、という感動をさらに拡大した印象だったかもしれません。その感動が次も何か創りたい、というモチベーションにつながっていく。

たぶんブログやSNSにはまっているひとたちは(そしてはまっているときは)、誰もが軽いハイパーグラフィアになりがちなような気がします。つまり、ブログ社会あるいはWebが進化した総表現社会は、ハイパーグラフィア増幅社会のようなものにもなりかねない。強烈な快楽をともなうものは、同時に強烈な毒にもなり得ます。一度、快楽を知ってしまうとさらに大きな快楽を求めたくなる。

そもそもこの無限ループが発生する理由としては、書くという作業がひとりで内的なものに向かい合う作業だからだ、と思います。ブログの投稿画面に向かうときも基本的にはひとりです。インターネットを突き抜けた向こう側には、現実のひとがいるわけなのですが、文字になってしまうとその肉体やリアルは失われてしまいます。だから、コメントも自分のなかで都合のよい他者として再構築してしまう。それは他者でありながら、自分の分身に他ならないかもしれません。

この無限ループを解除する方法が、まさに現実を認識すること、形而上的な結晶の世界だけでなく現実の泥沼を認めることだと思います。以下も情報考学からの引用です。

創造性を発揮するには、理性を失うほど病気に犯されていては難しい。ちょっと病的な傾向を持ちながら、社会性を失わない人たちが、文章の世界で活躍できるということになるだろう。豊富な臨床研究の調査と自身の深刻な体験から4年間考察にかけた本書は、プロ・アマを問わず物書きにとって極めて興味深い洞察と示唆に富んだ内容である。

ちなみに茂木健一郎さんも、この本のなかで何か書かれているようです。

ところで、梅田望夫さんのブログから、はてなの「はてラボ」という実験的なサービス開始に感動したのですが、最近、はてなはすごい、ばかりを繰り返しているので、きちんと使ってみた上でまた感想を書きたいと思います。

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