同時発生的に議論されていて面白いと思うのですが、ブログ文章術について、さまざまなブログで盛り上がっているようです。ぼくもブログで表現する方法ついて書いているのですが、梅田さんの提唱された総表現社会をはじめとしてブログ社会の在り方について模索が始まったような印象があります。いい傾向だと思います。
そうしたブログ文章術のなかでも、批判的な発言についての考察に、なかなか面白いものがあります。はあちゅうさんのブログに書かれている「小娘が何か言ってます。」という記事は、かなり話題になっていました。渦中に書くのはどうかと思ったので、いまその話題について書いてみます。はあちゅうさんといえば、さきっちょさんといっしょに女子大生ブロガーとして有名になったひとでした。引用します。
この間テレビで
「なんで人を殺しちゃいけないのか説明してください」
って言ってる高校生を見て、
「は?」って思った。
もしあれが私の子供だったら、末代までの恥。
世の中には説明の要ることと要らないことがあって、
その質問は後者のカテゴりーに属するでしょ。
生きるのに苦労してないからそんな質問出てくんだろうね。<
あたしも大して苦労してないけどさ。
生きることがどれだけ大変なことか知ってたら、
そんな質問できなくない?
そういう低レベルなことをぼやいてる奴らをまとめて、カルカッタのマザーハウスとかルワンダとかに全員ボランティアに行かせるべきだと思った。
向こうも迷惑だろうけど、頭下げて勉強させてもらいに行くべき。
必死に生きることにすがりつく人間を目の当たりにしたら、
「なんで殺しちゃいけないか」なんて言えなくなるはず。
こういう感覚を持った若者がいること自体間違ってるよ。
日本、なんか最近情けなくない?
ぼくはこの発言自体は、いいなあと思っていたのですが、それがどうやら批判もされているらしい。そもそも、まだ20代ですよ。ぼくが問題だと思うのは、はあちゅうさんの批判的な発言よりも、その発言を怒涛のように批判する(ことに、よろこびを見出す)ブロガーの姿勢です。
というぼくも、試しに批判的なことを書いてみようか、書いたらどうだろう、と思ったことがありました。今年の1月〜3月には、感情にまかせて書いたらどうなるかなど、自分を人体実験にしてやってみようと思っていたからです。けれども、その批判に対する批判(というかお叱り)もいただいたりしたので、やめました。もうひとつ、批判をやめた大きな理由があります。それはやってみてわかったことですが、こういうことです。
「批判的な文章を書くのは、簡単すぎるのでつまらない」
感情的になって逆のことを言えばいいだけですからね、簡単すぎます。簡単すぎるものに一生懸命になって取り組んだとしても、自分のためにはなりません。もちろん高度な批判も可能かと思うのですが、それは批判ではなく論争的なレベルではないでしょうか。何か言ってる小娘に逆上してコメントして、どうだ!というのは大人げない。しかも大勢で吊るし上げるのは、人間がちいさすぎる。
彼女のことを思って批判するんだ、という意見もあるかもしれません。しかしながら、ほんとうに?とぼくは突っ込みたい。ナルシスト的に、かっこつけてるんじゃないの?という感じです。自分のストレスを解消するために彼女をおかずにつかっているんじゃないのか。
山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室。」にも、批判に対する言及があります。ズーニーさんのところに寄せられるメールには、鉛のようにどす黒い批判も少なくはない。そんな批判も真摯に受け止めていたのですが、結局わかったそうです。批判が自分を成長させてくれることはない、と。
何かコメントしたからといって、偉いわけではないですよね。ほんとうに偉いのは、誰かが書いたものにコメントをつける安易なことではなくて、自分で新しいアイディアを創出して発言をすること、もしくは発言した考え方を基盤に「行動すること」だと思います。ブックマークに付けられた批判から盛り上がって、自分の発言で盛り上がった!のように興奮するひともいるようですが、ぼくの正直な感想は、寂しいひとだなあ、という感じでした。
たとえば子供の教育がなっていない、と発言する。その発言自体は大事です。まず問題意識を持ち、自分の考えを表明することは重要だと思います。だから、はあちゅうさんの発言もぼくは全面的にいいと思っています。ただ大切なのは、次に何をするか、ですね。急に政治家になれるわけでもない。松下村塾のような教育を始めることもできない。世界を救え!なんてことはできません。じゃあ、自分に何ができるのか。
地震や台風などの天災でも電車事故でもいいのですが、政府の対応の遅さや企業の腐敗などを批判することは簡単です。でも、被害者のために募金をする、という行動がさっとできるかどうか。批判よりも、すべきことはたくさんある。
さらにクリエイティブな世界に考え方を拡大すると、アマチュアの音楽作品についてどうこう言うのは簡単です。でも、じゃあおまえはすごい作品が創れるのか?ということになると、何も言えない。ソフトのここが変だというのも簡単。じゃあプログラム組んでみろ、と言われたら組めません。デザインについても同じです。デザインしてください、と言われてもできない。だから、何かを作り出そうとするひとは(特に自分にできないことを考えたり作り出しているひとは)すべて、ぼくは尊敬しています。
ついつい批判を書きたくなる気持ちはわかります。でも、ぼくはこう思います。
「書かない、という選択もある」
ココロのなかで思っていればいいじゃないですか。こいつの考え方は違うね、と。まったくばっかじゃなかろうか、ぷんぷん、と。あえて書かなくてもいい。
有名な方ですが「きっこのブログ」に「「きっこの日記」は無料です」というエントリーがありました。これもまたどうでもいいことですが、ブログのクオリティの高さやスクープ的な情報感度から、ほんとうはプロのライターが複数で書いているんじゃないのか、などの都市伝説的な憶測も飛んでいるブログです。引用します。
今までに何度も何度も何度も何度も何度も何度も言ってるけど、この「きっこの日記」は、あくまでもあたしのプライベートな日記であって、あたしが書きたいことを書くための日記だ。だから、読者のために書いてるんじゃなくて、あたしの自己満足のために書いてる。
そりゃそうです。先日、ぼくは読者を意識した方が自分の成長のためになる、ということを書いたのですが、基本的には、きっこさんと同じかもしれない。第一は自分のために書いています。きっこさんは次のようにつづけます。
だけど、ものすごくたくさんの応援や感想のメールが届くから、一応は、「皆さん、いかがお過ごしですか?」とか言ってみたりして、読者のことも意識して書いてるけど、基本的には、あたしのプライベートな日記だ。だから、読みたい人は勝手に読めばいいけど、こっちから「読んでください」なんて頼んだことは一度もないし、あたしと考え方や趣味の違う人は、わざわざ読んで不愉快になる必要もないし、読まなきゃいいと思う。世の中には、星の数ほどWEB日記やブログがあって、色んな考え方や趣味の人がいるんだから、他人の日記を読むことが好きな人は、たくさんある中から、自分の好きな日記を探して、それを読めばいいってことで、何もわざわざ自分と違う考え方の日記を読んで、不愉快になることはないと思う。
これも同感。
むかーっときたやつはリンクを外せばいいだけです。余計なおせっかいのコメントには反応しなきゃいい。なんか感情にさわるものがある、というブログはRSSリーダーから外して二度と見ない。たかがブログです(されどブログですけどね)。とはいっても、人間だから、批判はつまらんと思っていても批判的な気持ちがむくむくあがってくることもある。そういうときは、ひとさまのブログではなくて、自分のブログで書けばいい。名ざしやトラックバックすると、批判されたひとにはプレッシャーになると思うので、あくまでも一般論として書く。きついことを書く(もしくは言う)ひとは、逆に言われることに弱いものです。やさしくしてあげましょう。
ぼくは一日にブログを1〜2時間で書き上げるようにしています。もちろんそれは目安であって、3時間近くあれこれ考えていることもある。けれども2時間というのは、一日の24時間のうちで10%にも満たない。その他に、仕事したり趣味に没頭したり食べたり寝たり、リアルに生きている時間がたくさんある。だからブログ=自分ではまったくない。ブログに書かれている自分は、ぼくのほんの一部に過ぎないと思っています。
ブログにも人格はあるけれど、それはリアルな人格のごく一部分です。
日本人は議論が下手だといわれるのは、発言をそのひとのすべてだと思い込んでしまうところにあるような気がします。
投稿者: birdwing 日時: 00:00 | パーマリンク
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