05.blogstyleカテゴリーに投稿されたすべての記事です。

2008年8月26日

a000987

知識というクール。

MT4.2の管理画面を四苦八苦して理解しつつ(しようと努めつつ)、ブログって何だっけ、ぼくは何をしたかったのだろうということを考えています。そして、ブログのデザインに関しても、あらためて見直しているところです。

デザインを考えるのは楽しいですね。どこか引越しの楽しさに似ています。本棚をここに置いて、ベッドはこちらに移動して・・・というような。残念ながら自分でまっさらな状態からデザインすることはできませんが、ネットには無料でテンプレートを配布しているサイトがいくつもあります。そのなかで、これは!と思ったのは、以下のサイトでした。

■mt.VICUNA
http://mt.vicuna.jp/

シンプルだけれど美しい。シンプルだからこそ美しいのかもしれません。いま考えているのは、3カラムで左側にメニューをふたつ並べるレイアウトに変更したいと思っています。そして、トップページはポータルブログ風にしたい。

mt.VICUNAで提供されているテンプレートでいうと、Ninjaのマルチカラムのスキンです。こんな感じ。

080830_vicuna_ninja.jpg

DTMやbookなどいくつかのカテゴリーでブログを書いているのですが、それぞれの最新記事のさわりを少しだけ読むことができて、引用した本やCDのジャケット写真が並ぶようなトップページにしたいというのが理想です。ニュースサイト風のイメージです。

それぞれのブログは独立させて、本は本ブログ、音楽は音楽ブログというスタイルもいいですね。というのは本の感想を書いているブロガーである自分と、音楽について語っているぼくは、どこか同じようで違うからです。多重人格的になるのかもしれませんが、本ブログと音楽ブログを分けて、デザインを変えるばかりでなく文体まで変えてしまいたいという思いもあります。いろんな文体で書けるようになると楽しそうです。

ところで、デザインについていろいろと考えていたところ、ぼくのアンテナがキャッチしたニュースがあります。話題としては古いのですが、7月の終わりごろ元グーグルで働いていたキーマンたちが作った新しい検索エンジン「Cuil」です。

■Cuil
http://www.cuil.com/

元グーグルの社員が作ったということ、グーグルを超えるサイトを網羅しているということで話題になったのですが、登場後は不具合が多くて一気に評価を下げたようです。辣腕のトップによって大きくプロモーションされたのだけれど、逆にアラが目立ってしまったという感じでしょうか。確かに元グーグルの主要人物が作った・・・といえば、それだけで注目は集まります。

トップページは検索窓だけというインターフェースで、グーグルに似てシンプルです。しかし黒という配色だけで全然違う。検索語を入力すると関連語が表示されますが、こちらはグーグルでも実装されているGoogleサジェストと同様です。

080830_cuil_1.jpg

ところが検索結果の表示は、かなり違います。3カラムで関連記事と画像が表示される。Japanese Cultureで検索してみました。こんな感じに表示されます。

080830_cuil_2.jpg

右下のメニューで、カラム数は2つにも切り替えられるようです。右側上部には、Ajaxのプルダウンメニューが配置されていて、上部のタブには関連語も表示されています。

印象としては、グーグルが理系の機能重視の検索エンジンであるのに対して、Cuilはどこか文系的だな、ということでした。文脈(コンテキスト)を重視しているせいかもしれませんが、検索結果を読み物として楽しめる特長があります。しかしながら、検索にそういう用途が必要かどうか、というところは疑問です。もちろん、グーグルとは違うのだ、という意図であれば、検索ではない新しいサービスとして認識はできると思うのですが。

なかなかクールな画面ですが、Cuilの意味は「知識」だそうです。これもまたグーグルの意味と比べてしまうと若干、弱いような気もしてどうかなとは思うのだけれど、INTERNETWatchの7月29日の記事「Google出身者らが"世界最大"のサーチエンジン「Cuil」公開」から引用します。

社名である「Cuil」は、古いアイルランド語で「知識」を意味するという。これはCostello氏がアイルランド出身者であることから採られた名前だとしている。

学術的というか真面目なところがクールなのかどうなのか判断に迷うところですが、グーグルを超える検索のブレイクスルーは出現するのでしょうか。

個人的には、直感的な検索エンジンなどがもっと出てくると面白いと思っています。"しりとり"のような検索エンジンとか(笑)。うま(馬)、と入力すると、マリンスタジアム、が出てくるような感じです。どういう用途があるんだ?・・・と言われたら困りますが、ずーっと検索と戯れて暇が潰せるような気がするんですよね。特に雨降りの午後などに。

+++++

かっこいいサイトを探すときには、以下のようなページも参考になります。個人で運用されているとか。こういうサイトをぼくも作ってみたいなあ。まずはカテゴリーとして、クールなサイト集というタグを作ってみてもよいのですが。

■いけてるサイト ドットコム
http://www.ikesai.com/

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2008年8月24日

a000986

しなやかに変わりつづけたい。

世のなかのブロガーと呼ばれるひとには、一般的に、開発者や技術者の方が多いのではないでしょうか。もちろん最近ではブログも一般化して、それこそ小学生でも書くようになりましたが、Webなどの仕事に携わっているひとは先端のサービスに対する感度が高いので、個人的にブログを書かれたりシステムを構築されている方の比率が高いのではないかと思います。

ブログを書くことと、ブログを構築することではまったく違う労力が必要になります。技術に明るければブログ構築も簡単にできるのかもしれませんが、文系であるところのぼくには取っ付きにくいものがあります。フリーのブログサービスを利用したときにはなんとかできた気もするのだけれど、自分でサーバーを借りて、システムから組み立てようとすると学ばなければならないことが非常に多い。さらにデザインも凝ってみたい、できればオリジナルがいいなど欲を出してしまうと、デザイナー的なセンスも必要になります。

ずーっと保留にしていたのですが、先日、ブログのシステムであるMovable Typeを3.35から3.6を経由して4.2にアップデートしてみました。

たぶん技術に明るいひとからみると、とんでもないやり方だったかもしれないので経緯は語りませんが、一応、アップデートできたようです。しかし、いまさらながらですがインターフェースの画面、つまりブログの設定やエントリーを書くための画面が大きく変わっていて、びっくりしました。ど、どうすればいいんだこれ・・・という感じで、やたらゴージャスになった画面の前で立ち往生して、一瞬もうブログ書くのはやめようかと思ってしまった(苦笑)。すぐに弱音を吐いちゃうわたくし(困惑)。

技術の進歩はすごいものがありますね。がらりと変わったMT4の画面に、おう、これはすごい!とわくわくしたことは確かです。けれども一方で戸惑いも大きかった。ここまでやらなくても十分じゃないの、と素直な感想もあります。テンプレートの編集画面で、ご丁寧にタグなどを色づけしてくれる画面があるのですが、ぼくの非力なパソコンでは重すぎて、パソコンの負荷が大きく、ファンがうーうー唸ってばかりで処理できずに困惑しました。便利なんだけど・・・ブログ書くためだけであれば軽いほうがいいかもな、とちょっと思ってしまった。

そんな風に、久しぶりにシステム方面で戯れてみたところ、いろんなことをやりたくなってしまい、机の上に鎮座しているデスクトップのVAIOに電源を入れて立ち上げてみたのですが、Fedora Coreの画面が出てきて焦りました。そうだ、Windowsに飽きたのでLinux入れてみたんだっけ(苦笑)。

よくわからないのでもう一度OS入れなおそうとしたら、インストールするOSがWindows98で困惑。そんな古い時代のWindowsを入れて無線LANにつないでみたのだけれど(あっけなくつながった)、なーんにも入れていないのでさくさく動いてさらに困惑。とはいえ、Flashはみることができないし、何に使うんでしょうね、これ。なので、電源オフ。

ついでに子供にあげたVAIO‐SRもメンテナンスしようと思ったら電源がいかれて完全に起動できなくなりました。・・・新しいパソコンが欲しい。Ubuntuも試してみたいんですけど。

もちろん技術がすべてではないと思いますが、ブロガーとして一歩その道を究めようとすると、ライター×デザイナー×プログラマーのような複合的な能力が必要になるような気がします。

考えてみるとパソコンが登場して、DTP(デスクトップパブリッシング)というデジタル印刷の流れが生まれて以降、ライターは書いていればよいだけの仕事ではなくなったし、デザイナーにも技術理解が必要になった、プログラマーにもコミュニケーションのセンスが求められるようになった。複合的なスキルが求められる時代になったのではないでしょうか。

という情報化に対する意識は、置かれている環境によっても大きく違うかもしれません。PCとまったく縁のないところで生活しているひともいるわけで、デジタルデバイドと呼ばれるような情報化に対する意識の違いはきっとある。結果としては格差なのかもしれませんが、ぼくはデジタルに詳しいひとが詳しくないひとより偉いとは思わない。ひょっとすると、情報化なんて知らないほうがしあわせかもしれない。情報化の波に飲まれずに、海岸で波に乗っているほうがよほどしあわせかもしれない。

DTM(デスクトップミュージック)もそうです。ぼくは面白いから趣味としているのだけれど、だからといって生楽器の面白さもわかるし、ひとりで完結しない楽しさもわかる。しかし、パソコンでぴこぴこやっている趣味も本気でやろうとすると大変です。それこそ音楽的な知識だけでなく、技術的な能力の習得などが必要になるのですが、なにしろまずキホン的な言語を理解していないとコミュニケーションできません。本を読んでもWebを検索しても、何言っているのかわからないと話にならない。

どんな仕事もそうかもしれませんが、共通言語の習得なしに応用や実践もあり得ないので、一歩踏み込もうとすると、絶対的にキホン的な知識や能力を学ぶことは必要になる。しかも、ここまであれば大丈夫というリミットはないので、成長しようと思えばどこまでも成長できる。

いろいろなことをあらためて見直しているのですが、新しいことも古いことも、しなやかにやわらかく吸収していきたい、成長したい、と思っています。年齢とともにアタマも固くなりつつありますが、しなやかにありたい。そんな意味で、いまとても癒されるのは、黒川伊保子さんのこの本です。

448042458X恋するコンピュータ (ちくま文庫 く 23-1)
黒川 伊保子
筑摩書房 2008-08-06

by G-Tools

和田秀樹さんの「感情暴走社会」を読み終えたのですが、なんだか疲れてしまった(苦笑)。だからかもしれないけれど、黒川さんの文章に和んでいます。

長い間使いつづけてきたので書き慣れた安心感があり、このブログの形態が気に入っています。しかし、この枠組みで何かを書こうとすると制限されてしまうところもあり、もう少しきちんと書いてみたい、表現したい欲求も感じるようになりました。いっそのこと新しいブログを立ち上げようか、このブログを根本的に変えてしまおうか考え中です。

投稿者: birdwing 日時: 21:30 | | トラックバック (0)

2008年4月27日

a000935

ブログのスタイル。

個人的には勝手に何度か自分のブログを閉じた経験があるのですが、お気に入りのブログが閉じられる立場にたってみると、さびしいものだな・・・と思いました(涙)。なんだか切ない。いきなりのっけから感傷に浸っておりますが、そういう気分なのだ。公言しなくてもいいだろう、というもうひとりの自分の囁きが聞こえるのだけれど、であれば公言したっていいだろう。感傷的なのだよ、いま、わたくしは。そのブログに何度元気をもらったことか。だから辛い。

現在、ほとんど限られたブログしかぼくは読んでいません。しかし限られたブログを深く何度も繰り返し読むことによって、たくさんのブログを読むよりも考えさせられることが多いと思いました。

というのは、人間のなかに宇宙がある、細胞のひとつが完璧な世界を構成している、のような考え方かもしれないですね。勢いで書いてしまったのですが、科学的な裏づけは一切ありません(苦笑)。言いたかったのは、さまざまな人間の多様な言葉に耳を傾けることも必要かもしれませんが、ひとりの人間のなかにある自分とは異なった思考の本質を理解しようと努めることも大切である、ということです。多読乱読だけが読書ではなく、一冊を丁寧に読むことも読書のスタイルであるのと同様に。

ブログという言葉は数年前には、なんだそりゃ?な感じだったのですが、いまほとんど当たり前のように使われるようになりました。とはいえ、パワフルに書いているひとはまだまだ少数ではないかと思っています。基本的には、ぼくはブログを書ける人間が凄いとは思わないし、書かない人間がダメだとも思わない。書きたいひとは書けばいいし、書かないひとは書かなくてもかまいません。

ブロガーというカタチには固執せずに、ただ書きたいからブログを書いているひとの書く文章の瑞々しさ、考えのストレートな感覚に打ちのめされるばかりです。一方で、わたしはブロガーですと宣言しているひとの文章は、その割にたいしたことがなかったりしますよね。あ、ぼくもそうか(苦笑)。

書き手の立場から経験を語ると、ブログを書くことによって享受することはとても多いと思います。それは、よいことばかりではなくて悪いことだってあるのだけれど、ときには深い(まるで小説のような)人生をもたらす可能性がある。

一方で、メタ的な思考、つまり「考えることについて考える」とか、「書くことについて書く」ようなことに対して、そんなことを熟考しているのであれば、きちんと考えろ、まず書け、のように醒めてとらえていたこともあるのですが、あらためて考えると、そうしたメタ的な思考は非常に豊かなものをぼくらに与えてくれるような気がしました。ぼくの好きな言葉で語ると、メタ思考こそが上空から俯瞰する思考であって、その考え方をとことん追求できるのもブログだからこそできる文化のような気がしています。

そこでメタ思考のひとつとして、個人的にぼくがどのようにブログを書いていたいか、またどんなブログを読んでみたいか、というスタイルを3つにまとめてみることにしました。

①一般論より個人のあれこれ

感情は情報である、ということも書いたことがあるのですが、一般論をあたかも自分の理論のように引用しておしまい、というブログはつまらない。そこに、憤りであるとか感動であるとか、そのひと個人の感情の動きがあるような、そんなブログを読みたいと思います。というのは、一般論や事実であれば、マスメディアを通じていくらでも入手できますよね。騒がれている動向に対しての個人的な見解を知りたい。

と、同時にですね、考えじゃなくてもかまわない。いま喫茶店でカフェラテを飲んでしあわせ、とか、寝不足で電車のなかで爆睡、とか、ほんとうに瑣末な日常の断片でかまわないと思います。Twitterのミニブログにはまるのはそんな日常の断片性であって、これはわからないひとには、まったく理解できないことかもしれません。

②完成度より生成感、というか勢い

印刷文化であれば、一度刷ってしまったものは取り返しがつかないし(正誤表のようなものを付けたり、シールで上から修正したり大変でした)、完全なものを提供する必要があったかと思います。しかしながら、ブログは何度でも書き直せる。ただ、考えておきたいのは、この修正可能なことが問題にもなり得るということです。書いちゃえーという勢いでアップして、それが波紋を呼んで青くなって消してしまっても、キャッシュに残ったりトラックバックなどで残ったりするわけで、完全に過去を抹消することはできない。

ただ、その勢い、完成度よりも生成する感じがブログのよさではないか。無知であってもいいと思います。書き続けることによって、知らなかったことを知ることもできます。コメントしていただいた方から学ぶこともできる。リアルタイムに限りなく近い勢いが、ブログの醍醐味という気もしました。

③身の程にあったサイズと匿名性

一般的にアクセスは多ければ多いほどよいとされるのですが、どうでしょうか。ぼくは身の程に余るアクセスは不要だと思うし、そういう意味での逆SEO(適正化)が必要ではないかと考えます。実は簡単なことで検索されたくなければ、PINGを飛ばさないこと、検索エンジンのロボットを回避するファイルをディレクトリに追加すればいい。いろいろなことがあり、そんな知識もつけたのですが、不特定多数を読者とするブログは、なかなか苦労も多いものです。そして、実は不特定多数の知らないひとよりも、面識のある知人のコメントがいちばん危険性が高いことがあったりする。もちろん知人だからこそのあったかい言葉をかけていただけることもシアワセなのですが。

韓国などでは実名によるブログがほとんどということも聞いたことがありますが、日本では匿名性のほうが高い。ただ、これは悪い面だけではなく、匿名だからこそ新しい自分の一面をプロデュースできるというメリットもあります。なので、自分のブランディングといってしまうと大袈裟だけれど、ハンドルのネーミングから何を書くかということまで設計して、意図的に違った自分を演出することだってできそうです。それがあまりリアルとかけ離れていると苦しくなりますが、自分の引き出しを増やすというか、魅力を増やす意味ではよいのでは。また、実はオトコだと思っていた書き手の方が、非常に美しい女性の方だったりすると、そのギャップが魅力的だったりもします。

ブログのスタイルについて考えてみましたが、これは状況や環境が変わるにしたがって、変化していくものだと思います。ときどき考えてみたいテーマですね。

+++++

ついでに備忘録。昨日はこの映画を観ました。

B000F6YR4Yマイ・プライベート・アイダホ デジタルリマスター版2枚組【初回限定生産 メモリアル・フォト集付】
キアヌ・リーヴス リヴァー・フェニックス ジェームス・ルッソ
角川ヘラルド映画 2006-05-26

by G-Tools

ガス・ヴァン・サント監督の映画では、「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」「小説家を見つけたら」 がお気に入りなのですが、この映画は男娼であるリヴァー・フェニックスとキアヌ・リーヴスが主人公。石田衣良さんの「逝年―call boy2」なども読んでいるところであり、なんとなく。いや、ぼくにそういう趣味はございませんが(苦笑)。

それから、ツンドク本もこなしていないのですが、これを購入。

4620318698見えるアイデア ヴィジュアル・コミュニケーション・トレーニング塾
秋草 孝
毎日新聞社 2008-03-14

by G-Tools

発想を鍛えようと思っています。デザイン系の(しかも純粋にデザインではなく発想やビジネス関連の)本を読んでみたい。

投稿者: birdwing 日時: 13:23 | | トラックバック (0)

2008年3月31日

a000920

過去を編集することの是非について。

ブログをはじめてしばらくすると、いろんなことが分かってきて、複数のサービスを使ってみたくなります。隣りの芝生は青く見えるというか、無料のブログサービスであれば、テンプレートはこっちの方が洗練されているなとか、写真をアップロードする仕組みが簡単そうだとか、機能を比較しはじめる。もう少しステップアップすると、MovableTypeとかWordpressとかシステムを導入して自分でブログを組み立てたくなる。ぼくもそうでした。勉強不足でいろいろと中途半端なんですけど。

複数のブログを使ってみても、さすがにあっちこっちで書いているのは面倒なので、自然に使わなくなって淘汰されていきます。淘汰されるのはいいんだけど、IDやPASSWORDを忘れてしまって、消すことすらままならなくなることもある。忘れ去られた古代遺跡(?)のようにぽつねんと残されたブログは、どうしたらいいんでしょう。実はぼくもひとつあります。1日だけ書いて放置してあるやつが。

複数のブログへのアクセスを統合するOpen IDとか、ブログ間の関係を明らかにするソーシャルグラフなども注目されていますが、個人的にはどうかなーという印象です。というのは、公の場では書けないけれども、ぼそっと呟きたいことなどもあったりして、それは公の自分とは別のIDで展開したいんですよね。

そもそも、ぼそっと呟くことをメインにしていれば別のブログを作りたい気持ちにもならないのかもしれませんが、なかなか呟き系のブログは難しい。とんでもないことをぽろっとこぼして、個人が特定されてしまうと辛い。ぼくの場合は微妙に呟いているのだけれど、実はシャイです。写真をおおっぴらに出していたりして、どこがシャイなのだ、と思われるかもしれないがシャイなのだ。露出趣味があるのではないかと心配になることもありますが、このブログはパブリックであることを意識して気を使って書いているのですよ、これでも(苦笑)。

とはいえ、小説を書いたり音楽を作ったりするひと、つまり表現するひとは、多少なりとも露出癖があるような気がします。つまり表現したものには、意図したにせよしなかったにせよ、自分というものが露呈する。それを恥ずかしいと思っていては、表現できない。また、恥ずかしさの障壁を突き破ってしまうと、きゃっほーという感じで自分を露出しまくる傾向もなきにしもあらずでしょうか。路上で裸になったら捕まりますが、精神を露わにすることは、ある意味アートといえなくもない。芸術はタマシイの露出だ。

ただ、やはり瞬間風速的なテンションでアドレナリンのおもむくままに表現して、ああやっちまった(苦笑)ということはありますね。いつもクールに抑制ばかりしていられません。特に若い時期には(フィジカルな若さではなく、精神的な若さ、つまり未熟さを含みます)、書いちゃえーということで書いてしまって、どーんと落ち込んだりもする。また炎上まではいかなくても批判のやいばを受けて、いてててて、なことになったりもする。それもまたブログの醍醐味といえば醍醐味なんですけど。などと考えるわたくしはM?(困惑)。

実は、「過去を統合する。」というエントリーでも書きましたが、この場所でブログを書き始めたのは、2007年8月の「ここから、どこかへ。」からだったのですが、それ以前に2004年から書き散らかしたあれこれをすべてここに統合しようとしています。

しかしながら、現在エントリー数905に対して未公開エントリー608、公開エントリー297で、つまり32.8%しか公開できていない。昨日の日曜日にもちまちまとmusicカテゴリーのエントリーを復活させていたのですが、10個復活させるだけで疲れた。いつになったら全部公開できるのでしょう。

というか、全部公開するつもりはないのですね。なぜならば。さすがに公開できないエントリーがある。稚拙すぎて(苦笑)。また公開したエントリーに対してもリライト(編集)をかけているのですが、ここで生じる疑問は

ブログの過去のエントリーを編集してよいのか

という倫理というか、価値観のようなものです。

公開したエントリーをすぐに引っ込めたことがあるのですが、一度公開したものは引っ込めるべきではない、完全なものを書き上げてから公開すべきだ、と通りすがりのひとにコメントで叱られました。高いところから見下ろした気持ちのいい批判で、ブロゴスフィアには、ほんとうにおせっか・・・いや、親切なひとがいるものだと感心したものです。

確かにトラックバックやブックマークの観点からは、リンクした先の記事が消失するのはちと困る。過去の記事を検証していて、いまだに数年前のリンク先の記事が残っていると確かにぼくも嬉しい。一方で、リンクが切れていると残念です。といっても記事を引用していれば、とりあえず辻褄は合うので、問題ないともいえますね。そもそも自分の事情で、コンテンツを消しちゃって許せん、と憤るのもおかしい。あなたの事情で世界が回っているわけではない。

丁寧なブロガーは、きちんと間違いもそのままにしておいて、消し線などで誤ったところは訂正しています。そうすると履歴がよくわかる。あるいは追記というカタチで本文を補足する。思考の過程も明らかになるので、情報としては非常に豊かになります。なかなかぼくにはそんなきめ細かな対応はできません。だいたいブログそのものをどっかーんと消してしまうタイプなので、あらためて自分の暴挙を反省しました(苦笑)。

ただ一方でぼくは、書きたいように書き、変えたいように変えていいんじゃないか、とも思うわけです。というのは、ブログを書くセオリーやマニュアルがあってもいいのだけれど、そんなもの無視して書くのがブログ的といえないこともない。インディーズやオルタナティブな何かは、お行儀よくちんまりまとまっていては、つまらない。整然とした理論やお手本があるのは、なんとなく違う。もっと過激であってよいと思うし、めちゃめちゃでかまわない。技巧に凝るよりも小手先のテクニックなんか無視して、びんびん伝わるものがあってほしい。

日記としての意味が強ければ、編集すべきではないかもしれないですね。というのは、過去の特定の時期にあったこと、考えたことの“記録”が重要なので、現在の視点から解釈を加えて修正すると、それはまったく別の過去になってしまう。教科書問題というか、戦争をどう扱うか、のような危険性を孕む。ひょっとすると事実を新しい解釈で歪曲させてしまう可能性もある。

しかしながら創作的な視点を導入すると、完成のない作品もあると思う。永遠に推敲し、短編が長編になったり、長編が短編になったりするような小説もあり得るのではないか。常に発展途上であり、現在進行形であり、安定を拒むような創作。生々流転して、動的に変化して、立ち止まることのない作品。なんとなくその方がリアルだし、“生きている”という気がする。固くなったり、動かないものは死んでいる、という意味で。

あるいは音楽番組で中田ヤスタカさんが語っていたことだけれど、彼は作品ができあがっても完成したとは思わない、というようなことを言っていました。だからリミックスやアレンジを変えて、まったく別の作品に作り変えてしまうことがある。作品至上主義だと、そうしたスタイルは許されないでしょうね。結局それって、未完成のプロトタイプなんじゃないの、という発想になる。でも、完成した、と思ったときに創造力の翼は折れるものではないでしょうか。完成の宣言は、ここでおしまい、という宣言でもある。だからきっと、翼があったとしても、もう飛べない。

人生、いっしょう未完成でいたいですね。未完成なんだけど、想いは完成の方角へ伸びている。完成に憧れる未完成。満たされない矢印の気持ち。

過去エントリーを推敲して編集しつづけて、いまわの際に、「いや、まだこれ完成じゃないんですけどー(泣)」を遺言にしてみたい。未練たらたらなんだけれども、ゴーストになっても永遠に書きつづけていたい。というか、著名人の最期の言葉でそんな感じのものがありましたっけ。

過去だって書き換えられるものだと思います。そうじゃないと、国のレベルにしても、人のレベルにしても、一度関係性のおかしくなったものは二度と和解できないことになる。それって寂しくないですか?

優等生のペシミストよりも、アタマの悪いオプティミストでいたい。過去は大事だけれど、絶対的なものではないと思うし、現在からの視点を変えて見れば、いくらでも違ったカタチを見出せるものではないでしょうか。というか、ぼくが見出したいのだな、そうやって過去を編集して。

投稿者: birdwing 日時: 23:57 | | トラックバック (0)

2008年2月 6日

a000868

過去を統合する。

リアルタイムで読んでいただいている方には、しばらくの間ブログをサボっていたようにみえたかもしれませんが、実はこのブログ、その期間にエントリーの数は急速に増加していました。

どういうことかというと、過去の記事を統合、再掲載していたからです。以前に閉じたブログの記事をインポートしたところ、記事数はいっきに844まで増加(その時点での記事は130ぐらい)。さらにブログ以外の場所で書き散らした短文も(かろうじて残っているものは)追加しているので、最終的にはエントリーは1000を超えそうな勢いです。

もともと過去に書いたものをひとつにまとめたいとは考えていたのですが、なぜ統合?というと、次のようなことがあったからでした。

●過去と同じ記事を何度も書いてしまう(老人のように・・・)
●あの作品なんだっけかな、と思い出せない(老人のように・・・)
●なんだかノスタルジックな気分になってきた(老人のように・・・)

うーむ、老人志向ですね。思考が若くないわたくし(困惑)。

しかしながら、一応、リライト(書き直し)などをして、ひとつずつ掲載しています。過去の遺産を全部は掲載しないつもりです。さすがにいまでは恥ずかしくて掲載できないような記事もありました。一方で、いまよりもじっくりと時間をかけて書いている記事もある。面白いですね。

さて、レンタルサーバーを借りてこの場所でブログを書き始めたのは去年の8月なのですが、正式にぼくがブログを書き始めたのは2004年に遡ります。

ぼくは最初のブログを、はてなダイアリーで書き始めました。いまにして思うと、どこで書き始めるかというのは結構重要ではないかと思います。はてなで日記を書き始めたというのは、よい意味でも(悪い意味でも)意義があったことではないだろうか。ライブドアで書き始めていたら、ぜんぜん違うものになったと思うので。

「はてな」は、かなり筆の力が求められますからね。もちろんふつうに日記を書かれているひともいるかと思いますが、キーワードでつながってしまうので、いろんな脅威に晒される可能性も高い。ずいぶん鍛えられたものです。

はてな村は、ぼくのブログの故郷のようなものかもしれません。逃亡しちゃいましたが(苦笑)。相互評価システム(はてなスター)とか、妙にお高い共同意識というか閉鎖性、ブックマークの酷いコメントに嫌気がさして退会したのですが、いつかまた故郷に戻るかもしれません。というか、ひそかに戻っていたりして(ふっふっふっ)。

2004年から書き始めたというのは、ブログの書き手としては遅いほうではないでしょうか。感度の高いひと(マーケティング用語的にはアーリーアダプターでしょうか)は、たぶんその2年ぐらい前、2002年ぐらいからウェブログを書き始めていたのではないかと思います。ウェブログの存在は知っていたのですが、ネットで日記を書いてどうする、定年退職したひとの自分史づくりじゃないんだから、のような勘違いをしていたので、気になりながらも着手はしていませんでした。いま思うとブログは日記に似ていますが、まったく違うものですね。

そういえば書き始めた頃には、毎日更新をめざしていたのでした。最初は400字ぐらいだったのが、次第に結構な長文に変わってきた(苦笑)。2004年の記事と現在の記事を比較してみると一目瞭然です。

過去を統合しながら、あらためて思ったことは、案外いまと変わらないなあ、ということでした。書きながら大きく成長していた気がしたのですが、フタを空けてみると案外変わらなかった(しょぼーん)。結構、同じことを繰り返して書いていて、あなたは認知症ですか、と自分で自分に突っ込みも入れたくなりました。

10年日記というようなものがありますが、ブログもあんな風にできるといいですね。つまり現在のエントリーの下に、過去の同じ日のサマリーが並ぶ感じです。システムのことがわかっていれば、簡単にできそうだ。というか、既にそんなエントリーができるブログサービスがあったりして?

と、過去のことを考えながら現在そして未来にも考えを広げてみたいと思うのですが、ブログ関連の動きでちょっと気になったことをメモしておくと、GoogleがソーシャルグラフのAPIを公開しました。以下、ITProの記事から引用です。

■ブログ同士で“SNS”が作れる,Googleが「Social Graph API」サービス公開

Googleは2008年2月1日,Web上のリンクから交友関係を抽出するWebサービスのAPI「Social Graph API」を公開した。ブログやプロフィール・ページのURLなどを入力すると,Googleが収集した,そのサイトを友人としてリンクしている友人のサイトを出力する。このサービスを使うことで,SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)サイトを利用しなくともブログ同士でSNSのような機能を実現することが可能になる。

これは、ブログ同士の交友関係、いわゆるつながりを「可視化」するツールではないでしょうか。興味深いのは、オープンでつながりを作る仕組みができることで、いわゆる現状の閉ざされたSNSが特殊な存在になっていく可能性もあるということです。以下もITProから。

Social Graph APIはパブリックなデータだけを利用するとしており,ログインが必要なSNS内のデータは収集しないと見られる。OpenIDやSocial Graphなど,オープンなインターネットでSNSを実現するための環境が整っていくことで,将来的には“クローズド”なSNSが,“オープンなインターネット上のSNS”から取り残された存在になる可能性さえある。

ただ、個人的にはクローズドなSNSが衰退したり、なくなるとは思っていません。“ひそかにつながりたい”ひとっているじゃないですか。などと書くとなんだかアヤシイ響きがあってどうかと思うのだけれど、ネットワークは、シンプルに一元管理できないものだからこそ面白い。リアルでも、ひとはさまざまなレイヤーによる関係性のもとに生きています。家庭であればお父さん、会社であれば課長、というように同じ人間であっても関係性によって役割などが変わる。ソーシャルグラフも多層的になったほうがリアリティがあるような気がしています。

しかしながら直感的に感想を述べると、つながりは大事だけれど、つながりにこだわりすぎる社会は気持ち悪い気がするなあ(苦笑)。

たとえば人種差別や国際間の戦争とか、そうした人間のさまざまな闇の部分はつながりを過剰に意識するところから生じているのではないでしょうか。仲間はずれとかいじめとか、そんな差別も屈折したつながり意識が生み出しているのではないかと思います。同族意識と排他的な感情。さまざまな嫉妬が原動力となって、世界の歪みが生まれている。

映画「バベル」の感想にも書いたのだけれど、血縁という濃い絆でさえ、そのつながりは目に見えないものです。見えないけれども存在している。見えないものを可視化したほうがいい場合もあれば、見えないほうがずっといい場合もある。あらゆるものを可視化すると、見なくてもいいものまで見てしまう。

見なくていいものは、見えないほうがしあわせではないか。そんなことをぼんやりと考えました。

+++++

ところで、最近は日記的な志向がなくなってきたので、遡って過去の日付けでエントリーをすることも多くなりました。RSSで受信していると最新の記事しか見られないかと思いますが、ひそかに更新していることもあります。そういうエントリーは実はあんまり見られたくないものが多いのかもしれませんが(苦笑)、アーカイブにひっそりと沈める記事もあるかもしれませんので、あしからず。

なお、2007年までのエントリーに関しては、MT形式でエクスポートしているためコメントも再現できるのですが、それ以前のものは「はてな」形式でエクスポートしていたため、せっかくいただいたコメントを再現できなくなってしまいました。古くから読んでいただいていた方には大変申し訳ありませんが、そんなわけで、2006年より前のエントリーにはコメントなしという形になります。

投稿者: birdwing 日時: 23:39 | | トラックバック (0)