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2006年10月 3日

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文章のフォーカス。

息子の作文について頭を悩ませる秋の日、親子で交換日記をはじめることにしました。男同士の交換日記ってどうだ?気持ち悪くないか?と思うのですが、確かダイヤモンドか何かの雑誌にもそんなことをやるとよいという記事があった気がする。

というよりも、ぼくはすっかり忘れていたのですが、昨日の夜、剣幕にまかせて「これからは一日ひとつ作文を書きなさいっ!」と言ったらしい。らしい、というのはまことに無責任なのですが、覚えていないので(うーん、ちょっと覚えてる・・・まさかほんとうにやるとは)仕方ありません。彼は今日、「へんないきもの」という本についての感想文をきちんと書いたので、このブログを書き終えたら、その添削&お返事をしようと思っています。ついでに明日書くことのお題を出そうと思う。大変だけど面白くなってきたぞ。


4901784501へんないきもの
バジリコ 2004-07

by G-Tools

4901784773またまたへんないきもの
バジリコ 2005-12-10

by G-Tools


生き物が好きな彼は、特に変わった生き物が好きです。だから上記の本は、バイブルのようにして読んでいる。実は「へんないきもの」の著者はそれほど親しくないけれど知人だったりするのですが、彼はこの本が大好きです。タモリか何かの番組で取り上げられたときには、くいいるようにテレビをみていました。しかしながら、さすがに東京っ子だけあって、生き物を触ったりするのは苦手らしい。ほんとうは生き物に触ったり、育てることが大事だと思うのですが、なかなかアパート暮らしではそんなわけにもいきません。

さて、昨日は文章を書くときに、取り上げたこと、取り上げなかったことによって、まったく全体を覆う「空気」が変わってしまうことを書いた(というか書きたかった)のですが、そのことをさらに発展させて、文章のフォーカスということについて考えてみようと思います。

息子の作文を読んで気に入らなかったのは、「よかった」「面白かった」というステレオタイプの言葉が繰り返されていたことでした。これはいわば「フォーカスが甘い」言葉なのだと思います。物事を引いてみている。引いてみているからすべてが抽象的で、何が「よかった」のか、どこが「面白かった」のか、まったくわからない。ピントがぼけている。

けれどもここで解像度を上げるというか、ぼんやりとした像にフォーカスを絞っていくことで、くっきりと具体的に像を結ばせることができる。すると文章が生きてくるし、「個」に根付いた表現になるわけです。というわけで私見ですが、

よいことについてはフォーカスが甘くなる。だから、よいことこそ解像度を上げて、具体的な部分を表現すべきである

ということが言えるかもしれません。「あなたの全体が好きだ」というのはレンアイに盲目になったひとの言葉かもしれないのですが、好きなこととは「紅茶のカップを持つときに添えた左手」であったり、「ぎゅっと握ったこぶしに浮き出た血管」だったりするかもしれない。あまり細部にこだわりすぎるとフェチな世界に入り込んでしまいますが、その具体的な何かをつかむことが表現としては重要かもしれない。運動会の息子の演技を褒めるときにも、「おお、よかったよ」ではなくて「2番の足をあげてくるっと回転するときの切れがよかった、あれはすばらしい」という感じに褒めるべきかもしれません。

一方で、ネガティブなことはどうでしょう。誹謗中傷というのは、ほぼ揚げ足取りともいえる細部にこだわっているような気がします。そして細部にこだわることによって、見失うことが大きい。

たとえば愚痴や悪口的なことを書いたとします。けれども、それが具体的であればあるほど、たちがわるくなる。そこでぼくはこういうネガティブなことを書くときにどうすればいいか、ということを考えたのですが、

1.まず思いっきり具体的なことを書く。
2.次に普遍化・一般化する。あるいは比喩にする。もっと迂回して物語にする。
3.普遍化・一般化を経由して、ふたたびフォーカスを合わせて具体化する。

つまり、どういうことかというと、

わるいことについては、具体化すると対象と書き手との距離が近すぎる。あまりにクローズアップされた不快感は、書き手はもちろん読み手にも伝播する。わるいことを書くためには、対象化して表現の「迂回」を試みるとともに、フォーカスを甘くする(言っていることをぼやけさせる)ことが重要。ただそれだけではエッジ(輪郭)が甘くなるので、迂回しつつ表現のシャープ化をはかる

ということでしょうか。

「王様の耳はロバの耳」と言ってもいいのだけど、別に公言する必要はありません。オフラインで下書きとして書きとめておけばいいだけで、わざわざブログにアップロードする必要もない。クイズ番組でカンニングしたことを面白おかしくmixiで書いた大学生が問題になっていますが、何もひねりもレトリックも考えもなく書くから問題になるのであって、もう少し知的なお遊びがあればいいのに、と思います。

レトリックは不謹慎だ、言葉のあやで人を愚弄するのか、という真面目な方もいるかと思いますが、ぼくは言葉で遊ぶことは、途方もなく知的かつ創造的な行為だと思います。現実のぼくはといえば寡黙なほうですが、それでもお客さんとディスカッションしているうちに新しいアイディアがぽんぽん生まれてくる場に立ち会えると、ものすごくうれしい。

文章はもちろん、思考にフォーカスを当てること。その光の当て方によって、いろんな輝きがみえてくるものです。ときにはピンボケであることが大事なこともあれば、きちっとピントが合っていることが求められることがある。文章や思考は、どこか写真にも似ているのかもしれません。

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ところで、運動会についてのエントリーがつづいているのですが、今日いろいろとネットをさまよっていたら、とある知人(名刺交換レベルの方)のページで「紙の郵便局」というサイトがあることを知りました。

このサイトに掲載されている「今月のペーパークラフト」は、「秋の大運動会」とのこと。さっそくPDFをダウンロードしてみました。3月までの限定サイトのようです。メールの普及によって、手紙やハガキは廃れつつあるのかもしれないのですが、ぼくはペンで書く手紙もいいものだと思っています。

■紙の郵便局
http://www.kami.yuubinkyoku.com/

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2006年10月 2日

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誠実に書く、ということ。

秋たけなわ、運動会シーズンのようです。ぼくも昨日、雨のなかの運動会のことを書いたのですが、コメントをいただいたgadochanさんの日記を拝見して、ああいいなあ、こういうことを書きたかったなあ、と思いました。人間というものは刺激がつづくと刺激に対する反応が弱くなるもので、幼稚園時代を含めて10年以上も運動会に出席していると、次第に新鮮さがなくなってくる。けれども、最初にちいさな息子の運動会の演技をみたとき、思わず泣けてきた。gadochanさんの日記から引用です。

そして組体操。音楽に合わせてかけ声かけたり、踊りながらピラミッドやひこうきとか。なんというか、、感動して泣きそうでしたよ。ここまでできるのか、っていうのはもちろん、にこにこしながら楽しそうにやっているのに心わしづかみです。先生もここまでもってくるのは本当に大変だったと思うけど、子供たちもすごい!

本人たちは、ひょっとすると緊張して心臓ばくばくかもしれないんですけどね。でも笑顔なんです。いいなあ。そう、忘れてはいけないのは運動会の主役は子供たちである、ということです。

ちなみにぼくは昨日、運動会に対する批判めいたことを書いてしまったのですが、文章の怖いところは、批判を書いてしまうとそのすべてがよくなかったのではないかという偏見を作り上げてしまうことだと思います。実際にはですね、雨に降られたものの、よい運動会でした。そしてぼくは感動して、ちょっと涙が出たりもした。

どういう部分が感動的かというと2つあって、ひとつは80メートル走で、クラスのみんなに混じって車椅子の生徒が走るわけです。ぼくはこの場面で毎年のように泣けてしまうのですが、ふつうの生徒といっしょに彼は走る。当然遅れるわけです。かれども走っている彼の近くに応援団が集結してエールを送るとともに、ゴールのテープを切るまで父兄もみんなが待って応援している。こういうシーンにぼくは弱い。

障害のある生徒たちは別の競技で競わせるという選択もあると思います。ただ、そちらの方が差別のような気がしていて、男性や女性の性差もそうだと思うのですが、平等に互いの尊敬をもって対応するということは、どちらかを優遇するのではなく、同じスタートラインに立つことではないでしょうか。

もうひとつは上級生の組み体操なのですが、これも学習障害のある生徒なのか、何か理由があって練習を十分にできなかった生徒なのか、みんなと違った演技をしている生徒がぼくの前にいました。彼らの前にはふたりの先生が付きっきりで、手書きのテロップのようなものに図解した演技を示しながら、「次はこれだ!これ!」のように、自分たちでもジェスチャーを加えながら一生懸命教えていました。もちろんみんなのような高度な演技はできなくて、肩に手を置いたり、腹ばいになったり、そんな感じです。雨がざんざん降って、みんな建物の影に移動しているなか、びしょぬれになりながら生徒も先生も演技をしている。それをみていたら、じーんとした。

ところが、先日のエントリーのように批判に焦点を当てると、そんな感動は切り落とされてしまう。では、すべてを記述しようとすると膨大な文章を書かなければならないわけです。文章を書くためにはテーマを選択する必要があり、選択するということは何かを排除することでもある(くどいですね、最近このフレーズが頻出していますが)。

さてさて。今日、帰宅してみると、長男は作文の宿題で運動会のことを書いたようです。どれどれ、とまたおせっかいな父が見ようとすると、「やだよー」と隠す。それをどうにか入手した父は、読むなりキレました。

というのも、彼の演じた3つの競技順にその感想が書かれているのですが、すべてが「どきどきした」「うれしかった」「よかった」の繰り返しで書かれている。似たような言葉ではなくて、ほんとうにその3語しか書いていないわけです。そこで僕が、

「あのなー、ポケモンのダイアモンド(DSのゲーム)をやりたかったからかもしれないけど、こんないい加減な作文はパパは許せない。なんだこりゃ。マスを埋めればいいってもんじゃないだろう。適当にごまかすんじゃない。演技したのはおまえだけか。見にきてくれたひとはいなかったのか。ひとりで運動会やってたのか。いいか、演技の前に、はちまきを結んでくれたのは誰だ。他の学年の演技で面白かったのは何だ。思い出せ」

というと、彼は久し振りのぼくの剣幕に圧倒されてしゃくりあげながら、15分ぐらいフリーズしていました。運動会には、田舎から出てきたぼくの母を含め、奥さんの父母、そしておばさん、ひいおばあさん(88歳)まで来ていただいていた。さらに転校してしまった先生(息子が低学年のときの担任)もふたり、わざわざ運動会に来ていたのでした。

もちろんそれも重要なのですが、他にも重要なことはあって、「どきどきした」のであればそれはどうしてか、「うれしかった」のは何をやったときなのか、という具体性がぜんぜんなくて、ステレオタイプな言葉で逃げようとしている。そのなんとなく賑やかにして原稿用紙を埋めて逃げる書き方がぼくは許せなくて、「よかったのは?」「2番の難しいところが踊れたとき」「それはどういう動き?」「ばちを左右に振る」など細かに追求していきました。

けれどもそうやって対話しているうちに彼も落ち着いてきて、いろんなことを話せるようになった。タイトルを付けさせたときには、ぼくの予想外の発想があって、それを無条件に採用しました。そして書き上げたものを2度音読させて、よし、すばらしい!と頭を撫でてあげると、にこにこしながらやっと眠りについたようです。いじめるつもりはないのですが、ぼくの剣幕を察知して、奥さんも居間でテレビを消して正座していました。

父親なんてものは所詮、嫌われ役で、ときには厳しくした方がいい。しかしながら、自分は果たしてきちんと文章を書いているかというと自信がなくなります。文章に限らず、手抜きをしないで仕事をしているかどうか。大前研一さんは、とにかく考え抜くひとだったようなのですが、ぼくはといえば、考えているといっても日付変更線が変わるあたりの深夜、ブログを書きながら2時間ぐらい考えているぐらいでしかない。まだまだ甘いのかもしれません。

息子に厳しくした日、息子に言った言葉はそのまま父親である自分に対してはねかえってくるものであり、みんなが寝静まってからひとり反省しているパパなのでした。

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2006年10月 1日

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規律(ルール)について考える。

小学校四年生になる息子の運動会に参加しました。昨年は思いっきりピーカンで日に焼けまくったのですが、今年はといえば雨に降られまくりです。それでもすべての種目を終えることができ、雨のなか、練習を重ねた息子の演技をみて、身長はあまり伸びないけど確実に成長している息子に拍手を送りました。かっこよかったぞ、と。

ところで、彼の参加する種目ではなかったのですが、参観していてとても深く考えてしまうことがあり、そのことについて書いてみようと思います。それは一年生の種目で、「おまつりたまいれ」というような競技でした。

これは何かというと、わーっと玉入れをするのですが、じゃんかじゃんかと阿波踊りのような音楽が流れたときにはカゴから離れて踊らなければならない。玉入れ+ダンスという複合的な競技です。別に踊らなくても玉入れはシンプルに玉入れでいいでしょう、と思うのですが、どうしてもダンス競技を入れなければ先生方の気持ちがおさまらないらしい。この競技に限らず、全体的に待ち時間に音楽に合わせてYMCAの振り付けをするとか、踊る競技が多いようでした。流行なんでしょうか。よくわかりません。わからないけれど、なんとなくみていても華やかな感じがすることは確かなので、これも新鮮でいいなと思っていました。

ところが今年は、この「おまつりたまいれ」で、ちょっとした事件がありました。

紅白で競うのですが赤のチームが音楽が鳴っても無視して、わーいという感じで玉を入れまくっている、という状況がおきたのです。白のチームは、きちんと規律を守ってカゴから離れて踊っている。ところが赤の一年生は、音楽の鳴っている最中にも玉を入れつづけている。どこか暴動的な印象さえありました。踊っていられるかー玉入れちゃえー勝つのだーという。当然、規律を無視したほうが玉は入る。玉入れは二度ほど行うのですが、どちらも赤組の圧勝でした。

白組の全校生徒がこれにはブーイングのようでした。そりゃそうでしょう。大人であるぼくですら、理不尽なものを感じたのですから。どうやら今年から若手の先生が担任のようでしたが、うちの息子が一年生のとき、ベテランの先生が担当していたときにはこんなことはありませんでした。音楽が鳴るとさーっと輪になって律儀に踊りはじめるちいさな子供たちをみて、思わず吹き出して笑ったものです。とはいえ今年のこの規律を無視した行動には、なんとなく首を傾げるものがありました。

このときぼくは2つの問題を感じていて、ひとつめは当日に至るまでの先生方の指導の徹底に対する疑問です。勝敗やダンスを教えることは大事ですが、この競技でいちばん教えなければならなかったのは「規律(ルールを守ること)」ではないでしょうか。

何度かブログで書いていることですが、ひとつのことに集中すると、集中していること以外のことは意識から欠落するものです。しかしながら、この「考えていないこと」を「考える」ことが重要であって、玉を入れて勝つことが目的だけれど、いま音楽が鳴っている、音楽が聴こえるよね、音楽が鳴っているから戦闘態勢を解除して戻らなきゃ、ということを意識すると同時に、きちんと行動に起こせることが重要です。という意味では、「おまつりたまいれ」はなかなか意義のある競技だと思うのですが、それが徹底されていなかったことが残念です。

ふたつめは競技のときの先生の采配です。ブーイングがあったし、参観しているぼくらもおかしいと感じていたのですが、時間通りに進行する必要もあったかと思うけれど、マイクを持った先生はこのちいさな「不正」にひとこともふれず「はい、赤の勝ち」と淡々と進めていた。

そうじゃないと思うんですよね。「音楽が鳴ったら戻る」という規律を乱したわけだから、「ちょっと赤のみなさん聞いてください。音楽がなったらどうするんでしたっけ?踊るんですよね。みんな守りましょうね。守れますか?はい、じゃあもう一度やってみましょう」ぐらいのことは言うべきだと思う。無視しているわけではないでしょうが、ぼくらからみると無視しているようにみえて、その無関心さ、対話のなさが、問題であるように感じました。これを単純に学校荒廃のきざしだ、のように大きな問題にすりかえるのはどうかと思うのですが、ちいさな一年生だからこそ、こういうところにも配慮すべきじゃないか、と。

あるいは「ドロー(引き分け)」にする配慮もありかと思います。このとき赤の生徒からは、「なんでー?」というブーイングがあると思う。この「なぜ?」が問われたときがチャンスだと思っていて、そのことについて後日、道徳の時間などを通じて話せばいい。ものすごく意義のある授業ができるような気がします(ああ、先生でないのが残念だなあ。ぼくの親父は教師だったのですが、親父に言われた通り教師になっていればよかった)。

ただ、別の観点からの考察もあって、そういう采配をすると子供よりも文句を言うのは親ではないか、ということです。ぼくもこんな風に学校の批判を書いてしまっているわけですが「ドロー(引き分け)」という判定をしたときに、何か言い出す親もきっといるに違いない。なぜかというと、ビデオを構えて林立する親たちの殺気だった光景をみるとわかるのですが、なにしろ子供の晴れの舞台なわけです。その「空気」は現場にいないとわからないかもしれないのですが、かけがえのない思い出になるはずの映像を汚された、なんてことを言い出す親もいそうです。やれやれ。

何をやっても勝てばいいだろう、結果の数字(得点)を出せばいいだろう、という結果主義もありかと思うのですが、スポーツにしても仕事にしても、ルールを守ることを前提としています。ルールを無視して下克上を企てたり稼ごうとすれば、某ベンチャー企業の社長の暴走のようなことも起こりうる。それは大人の社会だけでなく、子供の社会にも必要なことだと思います。大人が優位、子供が劣位ということはなくて、同じ社会である以上、ぼくは同等のものであると考えます。同等なものだからこそきちんと品位や規律が必要だと思うし、まずそのことを率先するのは、経営者(教師)ではないかと思うのです(そして親たちも)。

結局のところ最終結果として赤組が勝ったのですが、勝ち組だった赤の息子に帰りの道すがら「おまつりたまいれ」について聞いてみると、やはりクラスのなかでもいろいろと意見があったとのこと。「あんなことして勝っても、うれしくない」などなど。いいぞ少年。とはいえぼそっと言ったことは、「といっても一年生だからねえ、仕方ないかも」とのこと。がーん。小学校四年生のほうがぼくよりオトナだ。

雨に降られたことはどちらかというと爽快だったのですが、そんな気持ちのためにすっきりしないものが残る運動会でした。

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■補足

さて、ぼくはこのブログで、趣味×仕事×家庭をクロスオーバーさせて(というとかっこよく聞こえますが、ある意味ぐちゃぐちゃにミックスして未整理のまま)、いろいろなことを横断的かつ俯瞰的に、そして立体的に考えていこうと思っています。というのは、「考える生き物」である人間は、形而上的な高みをめざすことも重要だけれど、日常の泥沼のなかを這いずって知恵を獲得することも重要であると考えたからです。この思考のベースにあるのは茂木健一郎さんの文章なのですが、整理されないものを整理されないまま掲載できるのもブログのよさではないかと思っています。

だからマーケティング理論についての考察を書いたあとで、息子やいまは亡き父についての思いを書いたりもする。それが一体何になるのか、というと正直なところ何にもならないかもしれません。ただ、何にもならないことがひとの一生であるとも考えていて、何にもならないからこそ丁寧に、誠実に、きちんと生きていたい。このブログは、丁寧に、誠実に、きちんと生きようとしたぼくの生きざまの記録なのかもしれません。といっても、なかなか丁寧に、誠実に、きちんと生きるのは難しいことなんですが。あ、ついでに、しなやかにも生きたいです。頑なではなくて。

丁寧に、誠実に、きちんと生きるためには、考えることが重要になります。そして、何かを深く考えるためにはインプットの重要性も感じています。バランスのよい食事をすることが身体を健全にするように、偏向のない知を獲得するためには、書籍も映画も音楽もマンガもインターネットも、あらゆることに自己を開いていくことが重要ではないかと考えています。殻に閉じこもって机上の理論を構築するだけではなくて、リアルな場に身体を置くことも重要です。

具体的には今年一年、本を年間100冊読み、映画を100本観ることを自分に課しているのですが、なかなか思うように進展しません。しかしながら、進展しないという結果を得たことが進歩なのかもしれない。

ときには暴言破壊的発言*1もあるかもしれません。ただ暴言破壊的発言を言おうとしている自分の状況に誠実でありたい。というと、おまえには責任がないのか、と言われそうですが、何かを選択しなければ(つまり何かを言葉化しなければ)その先には進めない、ということも感じています。その暴言破壊的発言がマイナスであればあるほど、逆にプラスに思考を跳躍させることができるかもしれない。弓で矢をぎゅっと引っ張って、的に向けて飛ばすようなものです。

10月になりました。あまりにも未整理な自分の考え方を、ちょっと整理してみました。この補足は自分のためのメモです。


*1:gadochanさんからコメントをいただき、いろいろと考えた結果、暴言はまずいだろうと思いました。誹謗中傷や愚痴、悪口のたぐいの印象があるからです。ぼくはそれらとは区別して、批評もしくは批判は必要ではないかと思うのですが、前向きに考えると、まあいっかという現状維持をぶち壊す「破壊的発言」ではないかと思いました。それは、自分の枠組みを壊す発言でもあります。10月2日追記

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2006年9月 3日

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切り取られなかった現実。

太古の昔からそうだったのかもしれないのですが、洞窟のなかに閉じこもって動かないでいれば安全だけれども、洞窟から外に出て動き出すとリスクもともなうものです。そして、自分の思惑通りに進展しないのが世のなかというもので、現実は予想外の偶然であふれている。

茂木健一郎さんの著作などでは、その偶有性を楽しむことが重要であると書かれていたのですが、設計図にない偶然という生成される現在が面白いものであり、自分の思い通りにはいかない現実を楽しめるようになると、自分の幅も広がるような気がしました。そして、一般的なWeb1.0的なコンテンツではなく、ブログやSNSが面白いのも、どうなるかわからない生成する現実にあるかもしれません。

夏休みの終わりに北海道を旅行して、その旅行記を書こうとしたのだけれども、自分には無理であるということに気付きました。書こうと思えば書けるのだけど、その旅行記を発表する自分に抵抗がある。ひねくれているのかもしれません(たぶんそうだ)。しかしながら、結局のところ今週はブログで何らかの形で北海道のことを取り上げていて、なんだ、書いてるじゃん、という気もします。たぶんそれがぼくのスタイルなのでしょう。

北海道では人気を集めている旭山動物園にも行ったのですが、長男(9歳)が動物園で面白かったのは、なんとトンボでした。夏の終わり、とにかく北海道は至るところトンボ天国で、層雲峡では木の柵の上に5匹ぐらい並んで止まっていたりする。うちの息子はそんなトンボたちを追いかけ回していて、追い掛け回しているうちに帽子の上に止まったりしているのですが、18匹目を捕まえたっ!とか自慢する。ダイビングする北極熊とか、チューブのなかを遊泳するアザラシとか、それが見所でしょう、と思うのですが、気がつくと彼はトンボを追い掛け回してました。写真はトンボを捕まえている息子です。

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ただ、それがいいと思うんですよね。別に旅行の正解を強制する必要はないし、トンボをたくさん捕まえることができたので北海道は楽しかった、というのであれば、それは息子の思い出として価値があるわけです。別にガイドブック的な名所をまわらなくても、本人にとって価値がある経験をすれば、それが旅の醍醐味でもある。

写真を撮影するという行為もそういうところがあって、何を切り取るかということはカメラマンの意図が大きく反映することになります。同じ風景をみていたとしても何を被写体としてクローズアップするかによって、みているものの意味さえ変わってしまう。そこが単なる記録と違って面白いと思うのですが、逆に怖い部分もあって、たとえば報道などの映像や写真は、何を切り取るかによって観るひとたちの意識を操作することにもなり得るわけです。

ぼくはどちらかというと切り取ってしまった現実よりも、切り取られなかった現実のことを思うのが楽しい。たとえば写真のフレームの外で佇んでいる子供とか、収拾のつかない諍いに困惑しているカップルとか。

息子には、使い捨てカメラを2本持たせて自由に撮らせたのだけど、いちばんうまく写っていたのは、層雲峡の展望台に据え付けられた望遠鏡をのぞいているどこかのおじさんでした。こりゃ誰だ?あまりにもうまく写っていないか?ということで盛り上がったのですが、息子のコメントとしては「風景を撮ったら、おじさんが入っていたんだよう」とのこと。狙って撮影したのではないショットは、なかなか楽しいものがあります。

という意味ではあまり面白みはないのですが、以下は、ぼくが北海道旅行で撮影した写真です。北海道大学の風景と、旭山動物園の一部です。

上段左から、飛行機からみた雲(息子撮影)、クラークさんの銅像の台座にあるボーイズ・ビー・アンビシャスの碑を触っている息子(大志もってくれるといいのですが)、北大で公開されていたモンゴルの恐竜展の骨(パラサウロロフス?)、恐竜の子供の化石、ポプラ並木の前にあったベンチの地面、校舎(何学部の校舎だったか忘れた)、子供たちが水遊びしていた公園の水、次からは旭山動物園でペンギン、観覧車(乗ってみたかったけど乗らずに終了)です。

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写真は難しいですね。また日をあらためて掲載することにしましょう。

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2006年8月29日

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リブート、そして旅の途中。

北海道に行ってきました。でかかった。うまかった。そして楽しかった。ホテルに泊まった夜、そして昨日の夜にも息子は寝ぼけて「うひょひょひょひょ」と笑っていました。きっといい夢をみたのでしょう。最高の快晴に恵まれて、とにかく素敵な旅行でした。

家族全員というわけではなくて、東京から行ったのは、ばーちゃん(つまりぼくの母親)とぼくと長男(9歳)というメンバーでした。実は、ぼくの弟が今年の春から北海道の勤務になり、このツアーのスケジュールを立ててくれたのは全面的に弟なのでした。現地でクルマであちこち案内してくれたのも弟です。すべて弟のおかげといえる。持つべきものはできのいい弟かもしれません。ありがとう、弟。そして、しょうもない長男でごめん。それにしても乗り物に弱い息子を気遣いつつ、ばーちゃんの突拍子もない質問に混乱しながら、とにかく密度の濃い3泊4日を過ごすことができて大満足です。

弟の話によると、北海道では東京の影響がかなりデフォルメされた形で出てしまうらしく、スープカレーなども流行っているらしい。実は最初の日に北海道大学でクラークさんにご挨拶をした後、デジタルカメラを地面に落としてしまって壊してしまったのですが、札幌のヨドバシカメラで、新しいデジタルカメラを購入してしまいました。3万円弱のそれほど高いカメラではないのですが、東京と同じヨドバシカメラがここにもあるというコンビニエンスストア的な便利さを感じつつ、品揃えが充実していることに驚きました。やはり旅行者の需要があるからでしょうか。とにかく、中国人、韓国人のほか、アメリカやオーストラリアからの外国人の旅行者も多く、最終日にラーメン共和国でラーメンと食べていたら、ウィリアム・ギブソンを読んでいた(たぶんひとりで旅行をしている)外国人のおばあさんに、うちの息子は「かわいいね」などと声をかけられてしまったのですが、東京よりもある意味で国際化されているような印象も受けました。

ノートパソコンを持っていくこともできたのですが、さすがにモバイルでブログを書くのはどうかと思いました。なにしろ、ビデオカメラとデジタルカメラで記録するだけでもせいいっぱいです。記録などしないで、自分の目と身体で旅行を楽しんだ方がどんなにいいだろうか、とふと思った。しかしながら、旅行から帰ってデジカメの画像とビデオの鑑賞会をしたところ、みんな大喜びだったので、ああ記録しておいてよかったなあ、というのが正直な感想です。結構しんどかったので。

それから、うちの夫婦はあまり携帯電話を使ってメールのコミュニケーションをしないひとたちなのですが、今回の旅行では、とにかくメールで頻繁に連絡を取り、しかも写真添付でコミュニケーションをしていました。要するにぼくは長男の写真、奥さんは次男の写真を添付しながら交信するのですが、なるほど、便利な時代になったもんだなあと思いました。しかしながら、奥さんからのメールは「いまどうしてる?」「東京は寒いけど、そちらはどう?」などのように全部疑問符付きのメッセージで、はじめて飛行機に乗って遠くを旅行する長男に対する心配をひしひしと感じました。ぼくに対してではないんですけどね。

そんな顛末のあれこれを、はてなマップを駆使しながら柄にもなく旅行記を書こうと思ったのですが、さすがに疲れてしまったので、今日はイメージ画像だけ掲載しておきます。週末にでもまとめるつもりです。イメージ画像といっても、ぼくがデジタルカメラ(FinePix V10)で撮影した画像です。

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ところで、飛行機のなかで読んだ大前研一さんの「即戦力の磨き方」は非常に刺激的だったのですが、勉強法について書かれた章でリブートの必要性を述べられています。以下、引用します。

だから、もし自分が、学校型秀才だとわかっている人は、一度これまでの知識ややり方を「リブート」することをお勧めする。リブートというのはコンピュータが不調になったとき、電源を切って再び入れ直す(ブートアップ)というIT用語だが、もともとはカウボーイが、靴を脱いで靴底の石ころを取り除くという意味である。

聞いたことはあったのですが、アメリカでは、「リブートのための、ブートキャンプという研修プログラムが、たいへんな人気」だそうです。

そして、ぼくの北海道旅行も、まさにタイミングよくこのリブートのための旅行でした。電車やクルマに乗りながら、いろんなことを考えました。そのなかにはいままでの生活をまったく否定するような考え方もあったのですが、旅行という非日常的な時間と空間のなかで感じたことを、できれば維持していきたい。旅行を楽しみつつ、そのなかで仕事について、息子の教育について、生活について、あらためてゼロベースでいろいろなことを考えました。ぼくにとってのブートキャンプかもしれません。

今日、通勤電車に揺られて、会社の近くの定食屋で昼食を取りながら、なんだかまだ旅行がつづいているような気がしていました。マンネリのなかでつづく毎日だと思うと精彩も失われるのですが、永住する場所ではなく、旅行者として束の間の時間を過ごす場所と捉えるとすると、会社に対する考え方も変わる。切り捨てるべきことは切り捨てられるし、一瞬の付き合いだからこそ大切にしたい関係もある。

ぼくらは人生という、旅の途中なのかもしれません。

投稿者: birdwing 日時: 00:00 | | トラックバック (0)