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2006年1月 8日

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博物館的な時間。

快晴ということもあり、息子(長男)の冬休みも月曜日までなので、上野にある国立科学博物館に行ってきました。うちの長男といえば3歳ぐらいの頃からインドア派で、ディズニーランドに連れて行くと、到着した途端に「もう、おうちに帰りましょうよ」と言い出すような子供です。そんなわけで今日も行く前には、えーいいよお、と言っていたのですが無理やり連れ出した。でも、行ってみたところ、いろいろと楽しめたようです。

国立科学博物館の入場料は、大人は500円ですが子供は無料。冬休み最後の日曜日ということで、なかなかの混み具合でした。だいたい子供のいる家族連れなのですが、なかにはカップルもいる。パール展というものもやっていて、恐竜を目当てにやってきたため、どうしても頭のなかには恐竜という先入観があり、パールと言う古代生物がいたっけ?、と思ったのですが、単純に真珠の展示でした。しかし思い返してみると、結石もちの自分としては、石をつくる生物はある意味同士、ともいえる。見ておけばよかったかもしれません。

入り口のところでICカードを無料に貸し出すとともに、音声の解説を聞くことができるPDAの貸し出し(こちらは300円で有料)もしていました。IT関連業界にいるという仕事上、まず注目したのがこの仕組みです。なんとなくPDAも使ってみたかったのですが、とりあえずICカードだけを借りることにしました。

館内の至るところには、ICカードリーダーの設置されたタッチパネル式の端末が置かれていて、この端末上にカードをかざすと、ぴぴっとか、しゃらりーんという音がして、経路の情報が記録される(この音の違いは何だろう、と思ってしまいました)。ICカードは、ICのものとプリペイドカード型のものがセットになっていて、ICカードは返却しなければならないのだけど、プリペイドカードは持ち帰ることができる。で、このプリペイドカードにはIDとパスワードが印刷されていて、家に帰ってからインターネットで国立科学博物館のページを開いて、カードに記載されているIDとパスワードを入力すると、観覧した経路とさらに情報を詳しく知ることができるわけです。

なるほどなあ、と思いました。最近、博物館なんてあまり行ったことがなかったのだけど、外出してみるものです。学校の調べ学習などに利用すると、オフラインによる博物館+オンラインによるインターネットでさらに情報の収集という立体的な学習ができるわけです。美術館などもそういう仕組みになっているのでしょうか。パンフレットを購入して帰るのもいいのですが、このように鑑賞したものを再度、家で深く掘り下げるような仕組みはITならではのものという気がします。

さらに考えると、ぼくはFOMAのおサイフケータイを使っているのですが(いわゆるJRのSUICAと同じFeliCa技術によるICカードのチップが、携帯電話に内蔵されている)、カードをわざわざ貸し出さなくても、おサイフケータイを持っている人は、それを端末上にかざすことができれば、その場で携帯を連動させて情報が蓄積されるようになったらいいなあと思いました。もう少し先の未来には、そんな便利な世界も待っているのかもしれません。

というのも、国立科学博物館の展示はかなり盛りだくさんで、きちんと説明を読んだりしていたら、2時間ぐらいでは足りない。博物館のなかでしか体験できないことに集中して、付随的な情報は帰ってからじっくり、というスタイルの方がいい。展示にも温度差があるような気がします。息子としても昆虫や恐竜の展示では、おおっという声が出ていたのですが、地下の宇宙などに関する展示はいまひとつでした。エネルギーや物理学的な単位に関することなど面白そうなテーマもあるのですが、やはり昆虫や恐竜ほどのインパクトに欠ける。見せ方が難しい。

微生物から恐竜へ、恐竜から人類へ、人類からコンピュータの世界へ。というように、館内を一巡すると地球の歴史を一巡できる。技術の発展という展示で、パソコン以前の計算機といわれた頃のコンピュータも展示されていたのですが、こりゃあまるで恐竜だな、という感じがしました。人間の文化においても、恐竜の時代とホモサピエンスの時代がある。一方で、亜熱帯からシベリアまで、地球全体の生態系についても空間的に把握することができる。もちろんそれは仮想でしかないのですが、天気のいい日曜日、そんな博物館的な時間を過ごすのもいいもんだな、と思いました。

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■国立科学博物館のページ。右側にメンバーページへのログインがあります。

http://www.kahaku.go.jp/

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2006年1月 6日

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架空というリアル。

正月、田舎に帰ったときに、掃除をしていたらこんなものが出てきた、と、母から巻物のようなものを見せてもらいました。巻物は小学生の夏休みの日記らしく、障子紙でできていて、表側には絵が、裏側には文章が書いてある。絵を書くスペースは鉛筆で描かれていて、この部分は親が書いてあげたらしい。漢字の習得具合からみると、3年生から4年生ぐらいです。そして「弟が」と書かれているので、どうやらぼくが書いたものらしい。しかし、ぜんぜん記憶にありません。こんなもの作ったっけ?という感じです。

この記憶にはない夏休みというのが、あらためて読み直してみるとあまりにも充実した夏休みで、映画に行く、演劇を観にいく、海へ行く、プールへ行く、田舎で虫取りをするなどなど、非常に密度の高い夏休みを過ごしているようでした。父と母はほんとうに頑張ったなあ、という感じです。それに比べると、いま父としてのぼくは、手を抜いているかもしれない。とはいえ、教師だった父は夏休みが長かった、ということもあるかと思いますが。

この日記のなかで、演劇は「たつのこたろう」を観たらしいのですが、この龍の部分だけが、非常にリアルに描き込まれている。きっと子供ながらに印象に残ったのでしょう。で、この絵をみたときに、ああ、これはどうやらぼくが書いたらしい、ということに気づきました。というのも、最近はやめてしまったのですが、辰年には年賀状に手書きで龍を描いていた時期があります。その龍が、この日記の龍そのままでした。つまりあのとき見た龍のイメージが、そのまま何年後にも残っていたのだと思います。

ところで、昨日は疲れ果てているものの深夜にスティーブン・スピルバーグ監督の「宇宙戦争」を観てしまいました。実は古い映画のほうの宇宙戦争を少年の頃にテレビで観た記憶があり、あまりにも怖くてトラウマになっています。半月型の宇宙船に焼かれていく人間たちのシーンは、世界はぜったいになくならないし安全なものである、と思っていた自分の観念をがらがらと崩すものであり、世界の破滅におののいたものです。もうひとつ、グリフィンのようなものが出てくる映画(なんだったか覚えていません)も、かなり怖かった記憶があります。どうやら映画好きなうちの長男は、この宇宙戦争を観たがったのですが、ちょっとトラウマになるかなあ、と思ってみせなかった。ハリー・ポッターならみせてもいいよ、と言ったら、えーなんでハリー・ポッターなのさ、と気に入らないようでした。

この「宇宙戦争」は、映像の処理も含めて、ものすごくよかった。リアルでした。カミナリに乗って宇宙人がやってきたときに、なんだろうと人々が集まる。ふつうは怪獣や異星人があらわれると、きゃーとか逃げるシーンになりますよね。でも、ほんとうにそんなものが出現したら、まずは好奇心で見に行くと思う。群集のなかにクルマで突っ込んでしまい、オレもクルマに乗せろとパニックになるシーンもリアル。ビルに突っ込んだトライポッド(宇宙人のマシーン)も、うわーリアルだと思った。軍隊VS宇宙人の戦闘で、「見届けたいんだ」と父であるトム・クルーズの手を振り切るシーンにはなんだか泣けました。彼と息子がキャッチボールするんだけど、どうやら奥さんとは離婚しているようで、息子と娘とも離れて暮らしているらしく、息子から何か言われて苛立って強くボールを投げてガラスを割ってしまうシーンもよかったな。

映画は架空の世界ではあるけれど、ほんとうにのめりこんで観ることのできる映画は、もうひとつの人生を生かせてくれるような気がしています。今日は睡眠不足で辛いけど、なんだかすがすがしいものもある。願わくば、劇場で観たかった。今年はなるべく劇場にも足を運びたいものです。

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2006年1月 3日

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あたたかく、ありたい。

いま息子たちがはまっているアニメがあります。NHKの「おでんくん」です。これはもうずいぶん前にテレビで観た記憶があるのですが、再放送しているらしい。といっても、年末にはどういうわけか深夜の時間帯に放送していたようです(いまは朝の10時半に放映)。子供たちの番組なのに、なぜこんな時間にやるのかしらねえ、と奥さんは言うのだけれど、わからないこともない。このアニメは大人が見ても面白い。というか、大人だって面白い。いや、大人が見るべきです。実は留守番で次男をだっこしながら観ていて、ついつい涙ぐんでしまいました。そんな風に心のあったかい部分に触れられるアニメです。

いまでこそ、このタッチはこのひとでしかない、というのがわかるのだけれど、おでんくんの原作はリリー・フランキーさんです。おでんくんというロゴに、LILIY FRANKY PRESENTSとあって、ああっリリー・フランキーだったんだ、とあらためて気付きました。気付くのが遅すぎなのですが、風景の背後に東京タワーも出てくるし、ほわほわとした夕飯の湯気に包まれたような雰囲気は彼にしか描けない世界観だなあと思います。

東京タワーの下でおでんの屋台を開いているおじさんとペロというイヌがいて、そのおでんの鍋のなかにはおでんくんたちの世界が広がっている。このリアルとおでんワールドの2つの世界をつなぐ物語です。リアルの世界で展開されているちょっとさびしい物語が、おでんくんの世界とも連動していて、ときにはおでんくんたちの働きのおかげで現実世界の人々は前向きに頑張ろうと思ったり病気が治ったりもする。

主人公のおでんくんは、おでんの種類としては、もちきんちゃくです。頭のハチマキを外すとなかからもちが出てくるのだけど、そのもちがシューズになったり、おにぎりになったり、なわとびになったりする。つまりドラエもんのポケット的です。どうやら自分のためにはそのもちを使えないらしい(この設定がまたいい)。キャラクターには、たまごちゃんという優等生のアイドル的な女の子と、ガングロたまごちゃんという金髪でちょっと性格のきつい女の子も登場する。一方でウィンナーくんというのは男の優等生タイプです。テニスもうまい。こんぶくん、ちくわぶーなどさまざまなキャラクターがいて、この辺りはアンパンマン風でもある。ちなみにぼくはキャラクターのなかでは、いろいろと訓戒を言う「だいこん先生」が好きですね。ちょっと煮つまりすぎな色が気になりますが。

構造としてはヒットしたアニメのいいとこどりな感じもしますが、展開する人情的なテーマがリリー・フランキーならではのもので、他のアニメとはちょっと違っている。もう少し考察してみると、アンパンマンはアンパンマンワールドのなかでしか存在しない、ドラえもんは現実の生活のなかにのびた君と同居している、それに対しておでんくんはリアルと仮想がきちんと別れていて連動しているところが特長的なのかもしれません。アニメのなかではナレーションが入るのですが、おじさんが箸でおでんくんたちを現実の世界にひっぱり出してしまうと、現実の世界ではおでんくんたちはおでんにしか見えなくなる。ミヒャエル・エンデの「果てしない物語」をちょっと思い出したのですが、童話の世界を完全に隔離して安全地帯として作ってしまうよりも、現実と連動した仮想世界を作ったほうが童話としての広がりがあるような気がしました。鏡の国のアリスなどもそうかもしれません。

おでんくんの物語に人情やあたたかさを感じるのは、優等生も出てくるのですが、弱いひとたちや意地悪なひとたちがそのまま出てくる。弱さゆえに悩んだり落ち込んだりするのだけど、最後にはそれでも元気を出していこうと前向きになる。そんな全体を貫くテーマの設定にあります。しかしながら、頑張るぞ的なこぶしを振り上げるような力み具合はあまりなくて、そんなこともあるよね、いいこともあれば悪いこともあるのが人生さ、もうちょっとだけ頑張ってみようか、うん、というさりげない力の入り加減なのです。それがイラストのイメージともマッチしていて、なんだかほろりともするしかえって元気になる。癒されます。

仕事を頑張りすぎてへとへとになっているお父さんやお母さんは、きっと元気をもらうことができるはず。ちなみに、おでんくんの声は本上まなみさんで、ジャガーはピエール瀧さんだったりする。そんなキャストも楽しめます。

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■おでんくんは絵本にもなっているようですね。小学館のサイトです。キャラクターの紹介もあります。おでんくんの唇が厚い感じ、ぷよっとしたお腹はうちの次男そっくり。
http://www.shogakukan.co.jp/odenkun/

リリー・フランキーさんのHP。おおっ、1月26日に、おでんくんのDVD出るんだ。
http://www.lilyfranky.com/top/

■おでんくんの絵本。

4093860866おでんくん―あなたの夢はなんですかの巻
小学館 2001-12

by G-Tools
4093860874おでんくん―The adventure of Oden‐kun (2)
小学館 2002-12

by G-Tools

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2006年1月 2日

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環境が育てるということ。

弟が運転するクルマで年始の挨拶にまわったあと、温泉の近くの蕎麦屋で昼食をとりました。窓の外には、でっかい蘇鉄が生えていて、観光的には有名らしい。年老いた母は、この近辺の親戚など血縁関係についていろいろと説明してくれたのですが、田舎の血縁関係については、さんざん聞かされてきたせいか(かなり複雑に入り組んでいるせいか)、もうぜんぜん頭のなかに入ってきません。ただ、何気なく挿入された「あのキンモクセイもでっかいねえ」という言葉だけが飛び込んできて、ふとそちらの方を向くとでっかいキンモクセイがあった。芳香剤っぽいなどと言うひともいるのですが、ぼくはキンモクセイの匂いがどういうわけか大好きです。まだ独身の頃に住んでいたアパートは秋も深まると毎朝その香りのなかで目覚める感じで、ものすごく幸せでした。そんなわけで、あんなにでっかい木なら花が咲いたときにはどれほど幸せなことか、とぼーっと考えていたら、それだけでなんだか幸せになりました。

どうしてあんなにでっかいんだろうね、と言ってみると、弟が、温泉など地熱があるからじゃないかな、とのこと。なるほど、温泉といえば人間的には気持ちのいい癒されるものですが、温泉によって癒されるのは人間ばかりでなく、植物的にも(蘇鉄的にもキンモクセイ的にも)同じわけです。温暖な地域で、しかもいつもぽかぽか地熱によって暖められていれば、植物もでっかく育つ。環境というのは大事なものだな、と思いました。

さて、突然仕事の話になりますが、一般論ですが、仕事において「リーダーじゃなくてもリーダーシップは発揮できるだろう」「これはきみはやりがいがある仕事だろう」とスタッフの意向はまったく無視の勝手な解釈をして、仕事を任せるようなマネージャーも多い。しかしながら、この言葉の裏側には、おまえに権限与えると危険だから飼い殺しにしちゃっておくからね、面倒な仕事だからオレは責任もたないけどあとはよろしくね、というだけのことも多い。そんな意図は、部下にはわからないと思っていても結構わかってしまうものです。マネージャーのみなさん、注意してくださいね。

仮にそんなネガティブな環境のなかに長期的におかれたとすると、くさらないで頑張ってください、と激励されたとしても、くさってしまうものです。人間というのは理想だけでは生きていけない。給料だけでも生きていけない。社員は機械ではなくて、心と個々の生活をもった人間である。そんな基本的なこともわからないマネージャーは、面談といえば言いたいことだけを一方的に告げておしまいにしする。お客様との打ち合わせに行けば、打ち合わせの文脈に合わないようなとんちんかんな発言をして、お客様も同行したスタッフも困惑しているのに、気づかない。もっとひどいのは、言ってやった、みたいな誇らしげな顔をしていることもあるようです。EQ(=情動的な能力)に欠けるわけです。

オレがやる、といつまでもマネージャーが君臨していると、その下の人間は育ちません。君臨しているのがリーダーシップである、と勘違いしていると、長期的ならびに全体的には組織は弱体化するものです。トップの王様は気持ちがいいかもしれないけれど、ひとりっこ的なわがままで、積み木を作ったり壊したりするのと同じように組織体制を作ったり壊したりしていると、彼に使えるしもべたちはモチベーションを低下させる。それでもかなしいしもべたちは頑張ってなんとか与えられた使命をカタチにしようとするのですが、最後の最後に、こんなんじゃだめだ!と逆切れされたりした日には、あーあもう二度といっしょに仕事したくないなという気分にもなる。根っこのある植物とは違うので、人間は環境を選ぶことができる生きものです。

組織においてリーダーやマネージャーの役割は、プレイヤーではなくコーチ、脚本家や演出家のように表に立つのではなく裏側からスタッフを支援するのがベストのように思います。もちろん社風や積み上げてきた伝統などによって状況も変わるかもしれませんが、舞台に立つのはスタッフの方がぜったいに活気が生まれる。教師だって壇上から頭ごなしに教えるタイプより、教室の後ろから見守るタイプの方が信頼できるのではないでしょうか。そういう時代かもしれません。

今日読み終わった仕事関連の本のなかには、「育てるのではなく、育つ環境づくりを」という提言がありました。確かにスタッフひとりひとりがきちんと起業家意識を持ち、権限と責任を持って働くことができれば、それほどやりがいがあることはない。組織も活性化する。しかしそのための環境づくりとしては、地熱のようにそうした意識をあたためる土壌が必要になる。

子育ても同じです。まず、あたたかい愛情が大事。これは基盤です。茂木さんの本にも、10歳までは心の安全地帯としてママやパパがなんとかしてくれる、という安心感を持たせることが重要であるということが書かれていました。しかし、一方であまりにもやってやりすぎると、自分では何も考えない、できない子供になってしまう。この辺りの匙加減は、なかなか難しい。

しかしながら、今日は帰省先から東京に戻ってきたのですが、子供たちを見ていると、ああぼくがこいつらに育てられているなあ、と思う。ふたりの息子たちは、ぼくにぽかぽかな気持ちを与えてくれます。家族の地熱のような存在です。ありがとう。

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2005年12月25日

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団体戦の時代。

8歳の息子(長男)を連れて、映画を観に行ってきました。「劇場版ムシキング グレイテストチャンピオンへの道」で、同時上映は「劇場版超星艦隊セイザーX」です。最近はもっぱら劇場といえば子供を連れて行くことばかりなのですが、子供向け映画とはいえよくできているものが多く、CG映像に唸らされることはもちろん、物語としてもよくできていて不覚にも涙を流してしまうことがある。ドラえもんは狙っているかと思うのですが、クレヨンしんちゃんでじわーっときたときにはさすがにやばいなあと思いました。とはいえ、今回の2作品に関しては、どちからというと途中で睡魔に襲われてしまったのですが。

これは既にもう誰かが指摘されているかもしれないのですが、やはり最近の子供たちの戦隊ものやアニメは、非常に複雑化・多様化しているということを痛切に感じます。まずヒーローにしても、過去の履歴を背負っている。クリスマスプレゼントとして、ちょっと古いのですが欲しがったので「ウルトラマン FightingEvolution Rebirth」というPlaystation2のゲームを買ってあげたのですが、過去のウルトラマンだけでなくティガやアグルなど最近のウルトラマンまで網羅している。これは子供とともに30代~40代男性をターゲットとしているからかもしれませんが、実はウルトラマンに登場する怪獣はぼくよりも息子の方が詳しかったりする。つまり単一のヒーローだとしても垂直的にそのバージョン(というかファミリーというか)を網羅しているわけです。

それだけでなく、興味の幅も広い。うちだけかもしれませんが、ポケモンのカードを集めていたかと思うと、ムシキングに移行したり、デュエルモンスターズになったりする。それぞれ何十~何百種類のバリエーションがあるのですが、勉強はできなくても、その種類だけはものすごく詳しい上に暗記までしている。実はムシキングは、8歳の息子にとってはちょっと幼稚な感じもします。幼稚園の子供ぐらいに人気があるのではないでしょうか。

つまりこれは、データベース的な収集、ともいえるかもしれません。カード自体はデジタルではなくても攻撃力、防御力などの情報は系統化されている。したがって、データベース的な比較ができるため、知らず知らずのうちに思考もデータベース的になっている。

もはやモーニング娘。がどういう構成になっているのか、ぼくには詳細はよくわかりません。彼女たちは多様性というか、アイドルはひとりではないという現象として面白かったのですが、仮面ライダー龍騎の頃には、確かライダーも13人登場していて、ヒーローもひとりじゃなくなってきたな、と感じていました。ところが、今日「劇場版超星艦隊セイザーX」を観て、うーんとまいったのですが、これは全部で18人ぐらいの戦士が登場する。誰が誰だかもはやわからないし、どうでもいいやという感じです。しかもそれぞれが合体ロボットのようなものに乗り込み、最後の方では全員がロボット状態で登場して、ばかでかい2本の頭のキングギドラのような怪獣と戦う。めまいがしました。詰め込みすぎだし、お腹いっぱいな印象です。ただ、ファンの子供たちにとっては、あの後ろの方に隠れているヒーローは誰それで、こんな武器がある、ということを記憶のデータベースから引っ張り出して、言及できるんでしょうね。

ゴジラに登場した轟天号も出てきたりして、その辺はおとうさんのノスタルジーもそそったりするのですが、ヒーローはひとりで、怪獣も一体だった時代が逆に懐かしく感じました。特撮とCGもかなり多用している。もちろんぬいぐるみのなかに入って演じているような映像もありますが、お子さま向けとはいえ、かなり迫力のある映像にもなっている。ゲームにしても映画にしても、こういう映像をふつーに見て育った子供たちは、何をリアルと感じて、何を想像するのだろうか、とふと思いました。

ブログの世界でもLongtail(ロングテイル)ということがいわれます。パレートの法則的では2割の商品が売り上げの8割を占めるという公式がありますが、インターネットの世界ではそれが通用しないようになっている。突出してアクセスが多い20%の少数サイトよりも、ひとつひとつのアクセスは少ないが、残りの80%を占める一般の多数サイトが注目されているというわけです。Amazonの書籍の売り上げなどでも、突出したベストセラーよりも、そこそこの売り上げがあるその他多数の書籍が全体の売り上げに貢献しているらしい。つまりヒーローはいません。細分化された多数の方が重視されるようになってきているわけです。

企業としても、カリスマ的経営者というのはいますが、組織力で勝負するような時代になってきているのかもしれない。団体戦の時代なのかもしれません。しかしながら、うじゃうじゃ現われて戦うセイザーXはあんまりかっこよくないなあ、とぼくは思いました。3人もしくは5人までというのが、ヒーローの正しい姿のような気がするのですが、それはレガシーな古くさい考え方なのでしょうか。

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■劇場版ムシキング グレイテストチャンピオンへの道/劇場版超星艦隊セイザーX」。ちなみにポケモンは映画とテレビなどがうまく統合されているのですが、ムシキングはゲームの世界とテレビのアニメの世界が別物です。ぼくは絵本的なテレビのアニメの世界の方が、いいなあと思うんですけどね。息子は、最初の頃こそ熱中してテレビをみていたのですが、最近は「ポポ(主人公)なんてかっこわるい。あんなどんぐり頭」などと言っています。

http://www.mushi-x.com/

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