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2012年9月15日

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これからのマーケティングを考える。

個人的な印象に過ぎないが、数年前と比較して電車のなかで携帯電話の画面をみているひとが少なくなったのではないだろうか。

数年前には、誰もが電車のなかで携帯電話の画面をみながら、メールやSNSやサイトなどを閲覧していたり、指を動かして何かを書き込んでいた。もちろんいまでもそういうひとは見かけるが、圧倒的に少なくなった。では何をしているかというと、本を――電子書籍ではない――読んでいる。だからといって、モバイルの時代が終わったとはおもわない。スマートフォンなどの一時的なブームは過ぎ去って、その利用は浸透段階を迎えているのだろう。

一部のジャーナリストは、マスコミなどで騒がれていたブームが沈静化すると、すぐに「時代は終わった」といいたがる。「TVが崩壊」したり、「新聞が消滅」したり、メディアの終焉を告げたがる。もちろん広告の売上が減少し、一部のメディアは撤退を余儀なくされ規模も縮小したかもしれないが、まだTVも残っている。新聞もある。


4798111147テレビCM崩壊 マス広告の終焉と動き始めたマーケティング2.0
Joseph Jaffe 織田 浩一
翔泳社 2006-07-22

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41666070812011年新聞・テレビ消滅 (文春新書)
佐々木 俊尚
文藝春秋 2009-07

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2004年は「ブログ元年」、2010年には「ソーシャルメディア(マーケティング)元年」といわれていた。ツイッターは爆発的に知られるようになり、フェイスブックもつづいた。しかし、最近では沈静化しているようにみえる。これも同様にソーシャルメディアの時代が終わったわけではない。ソーシャルメディアが浸透化し、メディアの淘汰も含めて使われるようになったからであると考える。

ソーシャルに対する動きは3.11の大震災そして脱原発のデモ以降、止められないものになったのではないだろうか。それは香山リカ氏が『〈不安な時代〉の精神病理』で言うところの「うつ病にかかっている国」を抜け出し、内向的な認知の歪みや視野狭窄をあらためて、外部へ、社会実現のために向かおうとしている傾向にあるからだと考える。

4062881012〈不安な時代〉の精神病理 (講談社現代新書)
香山 リカ
講談社 2011-04-15

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ところで、ソーシャルメディアの時代という表現はともかく、ソーシャルメディアにマーケティングが付加されて、ソーシャルメディアマーケティングといわれるとき、ぼくは何か違和感を抱かずにはいられない。バズマーケティングやコンテンツマーケティングや、いろいろなマーケティングが流行り言葉のように使われてきた。しかし、ソーシャルメディアを使いこなそう試みる「個」人として、ぼくは企業のマーケティングに利用されてしまうのは納得がいかない。抵抗がある。

どういうことなのか考察してみたい。


■ マーケティングとは何か。

基本的な知識から確認していきたい。マーケティングとは何か、ということだ。アメリカ・マーケティング協会(AMA;American Marketing Association)の2007年の定義をまず引用する。「活動」「制度」「プロセス」と表現されている。

マーケティングとは、顧客、依頼人、パートナー、社会全体にとって価値のある提供物を創造・伝達・配達・交換するための活動であり、一連の制度、そしてプロセスである。

Marketing is the activity, set of institutions, and processes for creating, communicating, delivering, and exchanging offerings that have value for customers, clients, partners, and society at large.

1990年の日本マーケティング協会の定義は次のようになっている。

マーケティングとは、企業および他の組織がグローバルな視野に立ち、顧客との相互理解を得ながら、公正な競争を通じて行う市場創造のための総合的活動である。

「総合的活動」という言葉が使われている。また、「市場創造」とあるがこれは「"market(市場)"+"ing (創ること、継続的な商品サービスの提供)"」を日本語として置き換えたものだとおもわれる。経営機能のなかでマーケティング活動の本質を「顧客と市場の創造」であると喝破したのは、ピーター・ドラッカーといわれ、その言葉も背景にあると考えられる(参考:小川孔輔著『マーケティング入門』。)。


4532133696マネジメント・テキスト マーケティング入門
小川 孔輔
日本経済新聞出版社 2009-07-10

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「活動」と呼ばれると幅広い。しかしながら、誤解されやすいのは「広告宣伝活動」(advertising)、「販売促進活動」(sales promotion)のようないわるマーケティング・コミュニケーション、あるいは「市場調査」(market research)がマーケティングと考えられていることである。

商品やサービスが売れる仕組みを作るという「営業活動」(selling)に着目すると、マーケティングは「売れる仕組みづくり」と呼ばれる。中小企業の経営者などにはわかりやすく、好まれる表現だろう。しかしながら、売れること、つまり利益を生む活動だけがマーケティングではない。非営利組織にもマーケティング活動はある。

売り手側からの視点からマーケティングの4Pといえば、Product(製品)、Price(価格)、Place(流通)、Promotion(プロモーション)のことをいう。このうち、「広告宣伝活動」や「販売促進活動」は4つ目のプロモーションのことに焦点を絞り込んでいて、広告代理店などではこの部分を扱う。しかしながら、どのように顧客に届けるかというPlace(流通)、要するに「ロジスティックス」(business logistics)もマーケティングの一部である。

One to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングの登場により、「顧客との関係性(リレーションシップ)構築」と「顧客維持(リテンション)」の側面が強調されたことがマーケティングの考え方の転換になったようだ。市場を拡大するのではなく、ひとりの顧客が生涯ある製品を買い続けるような関係性の深さに注目した。

広報活動(PR:Public Relations)と違って、マーケティング・コミュニケーションは費用対効果が重要になる。つまり「売れる仕組みづくり」という言葉が端的にあらわすように、「儲ける」ための活動と捉えられがちだ。売上が増加してこそ、マーケティングの意義があると一般的に考えられている。

ソーシャルメディアのマーケティングを考えるときに納得がいかないのはこの部分で、個人的には、ソーシャルメディア上で流通するのは非貨幣経済的な価値だと考えている。タラ・ハントの『ツイッターノミクス』などを読んで、自分なりに考えてきたソーシャルメディアの在り方である。


4163724001ツイッターノミクス TwitterNomics
タラ・ハント 津田 大介(解説) 村井 章子
文藝春秋 2010-03-11

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利益を追求するマーケティング活動はソーシャルメディア的ではないと感じる。もちろん企業や製品のみえないブランド価値などを付加するものでもあるかもしれないのだが。


■ ランディングページの拡張。

続いて「顧客と市場の創造」というマーケティングの意義から「集客」について考える。特にWebマーケティングの分野を取り上げる。

Webサイトに「集客」するためにSEO(Search Engine Optimization:検索エンジン最適化)やSEM(Search Engine Marketing)という手法が取られてきた。特定の検索エンジンでより上位に表示されるようにキーワードを書き換えたり、メタタグと呼ばれるHTMLの記述を充実させたり、Webサイトの構造自体を見直したりする。

このとき訪問者が最初に訪れるページを「訪問者が着地するページ」という意味でランディングページ(landing pages)と呼び、このページを工夫し、会員登録や商品購入など取引の割合(コンバーション・レート)を高める施策のことをLPO(Landing Page Optimization:ランディングページ最適化)と呼んだ。

しかしながら、サイトの内部コンテンツだけでは集客できない場合がある。そこで、例えばニュースサイトなどで自社サイトの記事を掲載し、そのニュースサイトの会員を自社サイトへ呼び込む手法も取られる。これはランディングページを外部サイトに用いた例といえる。つまり、アクセス数が多いサイト、あらかじめ会員を多数有しているサイトを利用することで自社サイトへの導線とするわけである。

さらにソーシャルメディアの登場により、ブログやSNS、掲示板などで自社の製品などが取り上げられるようになると、そのページをランディングページのように扱い、ソーシャルメディアから自社サイトへの導線を作るようになった。これをSMO(Social Media Optimization:ソーシャルメディア最適化)と呼ぶ。


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このように訪問者が検索などによって最初に訪れるランディングページは、自社サイト内のコンテンツから、外部のニュースサイト、ソーシャルメディアを活用するように、その領域を広めてきた。今後はOtoO(オンライン・トゥ・オフライン)の考え方を重視する傾向もあり、ソーシャルメディアなどの集客を店舗などのオフラインの場にどのような導線を作るかが重視されるのではないだろうか。

とはいえ、これらのランディングページによる集客のネックは、いずれもが「待ちの姿勢」であることが考えられる。広告のように企業から配信するものではない。押し付けがましい広告の信頼度が低下し、ソーシャルメディアによって賢い消費者が生まれたせいではあるが、企業にとっては消費者を製品に導く施策を「管理」しにくい時代なのである。


■ LTV(顧客生涯価値)の考え方。

マーケティングの目的として「集客」を確認したが、ドン・ペパーズとマーサ・ロジャーズにより提唱されたOne to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングで重要とされていたLTV(顧客生涯価値)の考え方を振り返ってみたい。ソーシャルメディアは、集客よりむしろ顧客を維持し、継続的に価値を醸成していくことに意義があると考える。


447850119XONE to ONEマーケティング―顧客リレーションシップ戦略
ドン ペパーズ マーサ ロジャーズ Don Peppers
ダイヤモンド社 1995-03

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この考え方が登場する以前は、市場の顧客をどれだけ獲得するか、ということが重視されていた。しかし、One to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングの登場により、ひとりの顧客にどれだけ自社製品を買わせるか、ファンにさせるかということが重視されるようになった。要するに、顧客の維持(リテンション)である。

市場の拡大を縦、時間の推移による顧客の購入頻度を横に軸を取ると、従来のマーケティングでは縦の拡がりを重視したことに対して、One to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングでは横の継続(維持)を重視する。顧客指向であるともいえる。

ところがこのマーケティングがうまくいかなかった理由は、池田紀行氏の『キズナのマーケティング ソーシャルメディアが切り拓くマーケティング新時代』の言葉を借りれば、「キズナ」を形成できなかった点にあるだろう。


4048685619キズナのマーケティング ソーシャルメディアが切り拓くマーケティング新時代 (アスキー新書)
池田 紀行
アスキー・メディアワークス 2010-04-09

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どういうことかというと、システムに任せて、定期的に個別にカスタマイズされたメールを配信すれば、関係づくり(リレーションシップ)が構築できるかというとそうではない。かえって冷淡で、煩わしく感じさせるだけである。システムではなく、ほんとうに企業と顧客の信頼を構築するような人間的なつながりがないと上手くいかない。

多くのシステム会社がOne to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングを謳いながら、実は定期的なメール配信システム、問い合わせの自動化システムを押し売りしていた。システムにはほんとうの意味での「リレーションシップ」はない。人間的なつながりとはどういうことかを無視して、システムに依存しても関係づくりは実現できない。

よく言われることだが、近所の八百屋さんのほうが理論は知らなくてもOne to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングを実践している。ひとりひとりのお客さんの名前を覚え、何を買いたがっているかを熟知し、今日の取れたての野菜をおすすめをする。Amazonのようなレコメンデーション(推薦)機能は便利だが、どうしても機械的な印象を受ける。

その弱点を突破できなかったところがOne to Oneマーケティングやリレーションシップマーケティングの限界であり、企業のマーケティングがソーシャルメディアに推移した理由であると考えられる。


■ インバウンドとアウトバウンド。

企業と顧客の関係づくりという意味で、「インバウンド(inbound)」と「アウトバウンド(outbound)」と呼ばれる関係性のベクトルを整理したい。最近では「インバウンドマーケティング」という言葉も使われるが、早急にマーケティングを論じるのではなく、古くからあるコールセンター(またはメール機能に特化したコンタクトセンター)で使われた用語を振り返ってみる。

一般的に、コールセンターで「インバウンド」といえば問い合わせ対応だ。顧客からの製品に対する問い合わせ、質問、クレーム対応を含めて窓口として電話・FAX・メールアドレスなどを設置する。そしてデータベースに格納した顧客情報と照会して、最適な回答を迅速に提示する。一方でアウトバウンドといえば営業活動といってよい。自宅にインターネット回線の開設や保険などの売り込みの電話がかかってくることがあるが、そうしたものはアウトバウンドコールと呼ばれる。


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インバウンドの問い合わせ窓口が飽和したからとも考えられるが、一時期、アウトバウンドコールをマーケティング活動として請け負う会社が多くあった。要するに営業のアウトソーシングである。成功報酬型の仕組みもあった。つまり、アポイントを取った数によって依頼先から費用をいただき、アポイントを取った顧客リストは依頼先の企業に伝える。

アウトバウンドコールは当初、数を重視していたが、その後は内容を重視するようになった。つまり短い時間の電話で切ってしまうのではなく、なるべく長い時間通話して、競合の状況、快諾がいただけないのであればその理由など情報収集と既存顧客のアフターフォローなどを行うスタイルに変わった。ヒアリングを充実させたという意味ではリサーチ業務に近づいたといえる。

とはいえ、インバウンドは企業の外部から内部に向けた受身型、アウトバウンドは企業から外部に対する能動型という印象は否めない。そしてアウトバウンドは押し売り営業という印象がある。そのことを確認しておく。


■インバウンドマーケティング批判。

最近よく聞くようになったのが「インバウンドマーケティング」である。米国では一部で盛り上がっているようだ。コールセンターのインバウンド/アウトバウンドの対比から考えると、押し付けがましくなく謙虚であるような印象も受けるが、マーケティング活動としてはいくつもの落とし穴があるのではないか。列記して考察してみたい。

1)「get found(見つけられる)」では遅すぎる。

インバウンドマーケティングで核となるコンセプトは「get found(見つけられる)」といえるだろう。SEOなど検索で真っ先に見つけられることと同様、法人や消費者から見つけられることを重視している。しかし、見つけられるまで待っていていいのだろうか? もちろん、そのための施策は行うとしても。

見つけられるためには、まず企業からの「アウトバウンド」による情報提供が必要である。さらに言及するならば、マーケティングにおいて4Pのうちのプロモーションが優れていても、製品やサービス(Product)が優れていなければ情報は「見つけられない」。広告代理店などにとっては手の打ちようのない問題かもしれないが、重要なのはプロダクトである。

ゲーミフィケーション(gamification)というゲームのメカニズムをマーケティングに使う試みも注目されている。楽しい体験をさせることによって顧客に製品やサービスを印象付ける。だが、楽しければ顧客は満足して製品やサービスを購入するほど愚かではないだろう。楽しい体験は楽しかったと認識するとして、やはり製品やサービスを購入するためには賢く吟味するはずだ。

したがって、認知手段のマーケティングとして考えるならば「get found(見つけられる)」という消極的な姿勢自体は弱すぎる。著名な企業であればブランドが確立しているので、押し付けなくても見つけてもらうことができるだろう。しかしながら、まだブランドが確立していない、これから新商品やサービスを展開していく企業としてはこの「待ち」の施策は効果的ではない。

有効な企業もあるかもしれないが、まず「インバウンド」による待ちの姿勢自体が注目されない恐れがあることを指摘したい。

2)ソーシャルメディアは「媒体」ではない。

「get found(見つけられる)」のためにインバウンドマーケティングが活用するのがソーシャルメディアのようだが、従来のメディアのターゲット層が合わなかったり、適切なサイズがないからインバウンドマーケティングを使うという代替的な発想には疑問を感じる。どういうことかというと、すべてが「広告(advertising)」の発想を基盤にしているが、ソーシャルメディアは広告媒体、マス4媒体という意味での「媒体」ではないからだ。

繰り返すが、ソーシャルメディアは貨幣経済的な価値ではなく、非貨幣経済的な価値があるものだと考えている。したがって購入することもできなければ、予算をかけるというものではない。

メディアという用語が使われているため、新聞・ラジオ・テレビ・雑誌というマス4媒体とインターネットは同じ尺度で語られがちであり、電通などの媒体調査などでも比較対象になっている。しかし、インターネットのうちペイドメディア(広告)やオウンドメディア(自社メディア)は別として、ソーシャルメディアはまったく別の性質を持つのではないだろうか。

古きよき広告時代にしがみついているようなアドマンに進言したいのだが、もう広告が権威を保っている時代ではない。キャッチコピーやイメージばかりの広告は信頼されていない。一度、古い広告的な発想をリセットしたほうがよい。ソーシャルメディアの価値は、オールドメディアの枠組みではとらえられないものに変わっている。その現実を直視できなければソーシャルメディアを存分に活用できない。

ソーシャルメディアはメディアバイイング、「媒体」を買う発想ではどうにもならないものであり、だからこそ価値があるのだ。

3)「個」客は管理できない。

広告は管理できた。インターネット広告は費用対効果を数値で把握することができた。しかし、ソーシャルメディアを形成する「個」は基本的に管理できないものである。企業に飼いならされるようであれば、ソーシャルメディアを担う「個」とはいえない。企業や製品の広報的検閲から逃れて、自由に発言できるからこそソーシャルメディアなのである。

アドボカシー・マーケティング(Advocacy Marketing)という考え方がある。目先の利益を考えずに顧客にとって有益であることを優先させる手法である。ときには競合先の企業の製品やサービスやおススメすることもあるという。しかしながら、それが結局は企業の利益に貢献するという点で、どこか計画的なものさえ感じさせる。

炎上させれば「集客」はできるが、その手法で集めたひとびとはネガティブな意見に反応する野次馬ばかりで、法人としては行うべき施策ではない。一方で、面白いものは話題を集めやすいが、だからといって購入に結びつくとも限らない。広告はもちろん、バズやバイラルなどの口コミですら簡単に信用しないほど顧客は賢くなっている。

いっきに良い製品やサービスの認知度を上げることは、ソーシャルメディアといえども不可能だ。良い製品やサービスはじわじわと浸透し、継続的に支持されていくものである。時間のかかるファンの熟成に耐えられない企業はインバウンドマーケティングを維持できない。早急に結果を求める企業には向いていない。

従来のインターネット広告のように即効性のある効果を期待し、顧客を管理できると考えている企業にはインバウンドマーケティングは向かないだろう。また、それだけの資金や体力のない企業にも向かない。したがって、インバウンドマーケティングはエンタープライズ(大手企業)向けかもしれないが、従来のマーケティング手法との違いを見出すことは難しい。


■それぞれのミッション。

考察してきたことをもとに、これからソーシャルメディアを利用する個人、企業、そして広告代理店が何をミッションとしてマーケティング活動を行えばよいのか、自分なりにまとめてみた。

まず、ソーシャルメディアを利用する個人。企業に飼いならされてはいけない。企業のマーケティングの道具となって、わずかな報酬や利益のために自由に発言できる権利を放棄してはいけない。ソーシャルメディアの時代には、個人が自律してそれぞれが考えたことを発言できるものだ。企業の思惑にとらわれずに、良い製品やサービスは良いと、悪い製品やサービスは悪いと、確かな視点で評価するチカラを持っていたい。

次に、ソーシャルメディアを利用しようとする企業。ソーシャルメディアは「管理」できないこと、また導入すれば大きな効果が得られる「魔法の杖」ではないことを認識すべきだ。さらに、ほんとうにマーケティングを考えるのであれば「プロモーション」の手法にこだわるのではなく、注目に値する自社の「製品・サービス」を生み出すことが重要。「価格」や「流通」を刷新するものであってもいい。プロモーションの斬新さで消費者や顧客を誤魔化すことはできない時代である。

マーケティングは経営活動の一環であるという認識を持つ必要がある。ソーシャルメディアは、市場拡大より顧客の維持(リテンション)に向いていて、その活動を通してじわじわと顧客は広がっていく。中長期的な視点が必要だ。

最後に、ソーシャルメディアを利用しようとする広告代理店。欧米から輸入したシステムや考え方が有効な時代はもう古い。借り物の施策だけでは効果的な提案ができない。使いまわしの企画書ではクライアントも納得しない。システムを導入させたいがための提案も見抜かれる。「ぼくらが新しい広告を作っていこう」という意気込みだけの精神論では何も変えることができない。広告的な発想を潔く捨てて、自律的な思考力が重要になる。

WebプランナーがWebサイトのことだけを考えていればいい時代も終わった。OtoO(オンライン・トゥ・オフライン)のコミュニケーションを考える企業も輩出している現在、オンラインからオフラインまでのプロモーション全般を見渡せるコミュニケーション・デザインが求められている。可能であれば、クライアントの経営計画やビジョンを理解し、経営者と同じ視点からプロモーションを俯瞰できる人材が求められているとおもう。


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こうしたそれぞれのミッションを踏まえたうえで、ソーシャルメディアを使う個人、企業、広告代理店が協業できれば、これからのマーケティングは活性化するのではないだろうか。概論にすぎないが、そんなことを考えている。

投稿者: birdwing 日時: 10:27 | | トラックバック (0)

2010年1月 5日

a001229

動画のゆくえ。

音楽や映画が好きなので、ブログにはYouTubeからの動画をいくつも埋め込んでいます。ところが最近ちょっとYouTubeに困惑気味です。

まずひとつめ。一部の動画の再生中に、再生画面の下部にポップアップで広告が出るようになったこと。

数秒放置するかクリックすれば消せるのですが、そういう問題ではないでしょう。たとえると、リビングのテレビでニュースをみているとき、最も大事な場面でテレビの前を子供が怪獣の玩具を持ってうろうろするようなものでしょうか。ああっ、みえないよう、気が散る、どけっ!と言いたくなります。

動画再生後に表示されるのであれば仕方がありません。邪魔にもなりません。しかし、ブログの狭い埋め込み動画の画面をさらに狭くしてどうする。広告収益が大事だとはいえ、このビジネスモデルはいかがなものだろうか。というのは、せっかくの広告が「邪魔もの」と認識されてしまい、広告の商品やサービスに反感を抱くことさえあり得るのではないか、と考えるからです。実際、短気なぼくは、お気に入りのPVを観ている最中に土足で踏みにじるように広告が表示されたとき、その広告主に敵意を抱きました。

そしてふたつめ。これはいまに限ったことではないのだけれど、著作権侵害の名のもとに急速にコンテンツが削除されていること。

覚え書き的にブログに動画を埋め込んでメモしていることもあるので、あのPV久し振りにみたくなったなーとおもって自分のエントリで動画をみようとすると、ほとんど再生できなくなっています。仕方がないとはいえ、その数が多すぎです。書いたエントリを修正しようにも、動画がないと何のことやらわからない記事になってしまうこともある。だから修正できません。

「このコンテンツは削除されましたが、タイトルに類似する動画はこちらです・・・」のように、動画再生後のレコメンデーションのようなリスト表示がされるといいのに。しかし、コンテンツを勝手にアップロードされた企業が、芋づる式に類似コンテンツを発見して削除するようになるかもしれませんね。だめかー。

著作権は大事です。著作権を守ることは正しい。正義です。

けれども素直な気持ちでは、何かが納得いかない。邪魔なポップアップ広告同様、「○○○○の著作権侵害の申し立てにより、削除されました」、とコンテンツを制作管理しているメーカーやプロダクションの名前が表示されると、あの会社が圧力かけて削除させたんだな、仕方ないけどさあ、せっかくの楽しみが奪われちゃったよ、もうちょっと広いこころで許可できないものかね、というネガティブな感情がわずかに芽生える。ぼくだけかもしれません。こういう社会の規律や常識に逆らった被害妄想的な偏屈な思考をする人間は。

インターネットの新しいサービスが加速度的に拡大するときには、かならず何かしら「ヤバイ」ものがあります。だからこそ先鋭的な刺激を求めるひとたちに喝采をもって受け入れられます。しかし、それがメジャーになれば、法的に放っておけなくなることも出はじめる。

しかし、残念でならないのは、せっかくの素晴らしいコンテンツを口づてに拡げる可能性のある場が、規制のもとに次々と潰されてしまうことです。

音楽や映画のコンテンツを提供する側は、個人がアップロードした動画を「商品」として侵害されたと考えるのではなく、「プロモーション」に貢献してくれたと考えられないのでしょうか。YouTubeにアップロードされた動画は、これっていいよ、おすすめだよと、プロモーション費ゼロ円で多くのひとに紹介しているわけです。

どうぞどうぞ、ご自由にお使いください、ウチの商品をみんなに知らせてくださいね、と前向きに考えて、寛容に振るまえないものかな。法務のがちがちなアタマでは柔軟な発想は無理かもしれませんが、音楽業界や映画業界が不振だとすれば、ファンの勝手なアップロードだとしても、宣伝費を削減し、購買のチャンスを増やす策のひとつになるとおもうのですが。

ちなみに個人的な体験を語ります。

先日のエントリにも書いたのですが、急速にヴァイオリニスト宮本笑里さんのファンになり、YouTubeで「東京et巴里」のPVを何度も繰り返しみました。

この曲、アレンジが秀逸だとおもいます。

フォークトロニカ風に逆回転のフレーズなどもあって電子音と生音であるヴァイオリンが融合し、さらにフランス語の歌詞、というところがいい。

しかも、サビに重なるヴァイオリンの旋律は、ラヴェルのボレロです。そうか、イントロではパッヘルベルのカノン的なアレンジがされていて、どこかで聴いたことがあったメロディだとおもったけれど、ボレロだったか、ということで図書館でラヴェルのCDを借りてきました。すると、まったくクラシックのど素人的発見で恥ずかしいのですが、ボレロが同一の旋律を15分間も繰り返す斬新な曲だということを知って、びっくりしました。

そんな脱線もしつつ視聴しているうちに、これはやっぱり買うしかないでしょう、DVDで大きな画面で観たい、ということで、宮本笑里さんの「break」を買ってしまいました(照)。

B001QL35JKbreak(DVD付)
宮本笑里
SMJ(SME)(M) 2009-03-18

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ダウンロード音源ではなくCD/DVDで所有していたい世代なので、アルバムが手元にあるのがうれしい。何度も繰り返し聴きながら、ヴァイオリンと電子音の相性はなかなか難しいな、とか、ピアノとヴァイオリンだけの「東京et巴里」もいいな、とか、いろいろなことを考えています。

まんまとYouTubeによるCGM的なマーケティングに嵌まったわけですが、ブログの黎明期から言われていたように、こういう購買に向けた導線はいまだにありだとおもいます。

ただし、メディアの観点からもうすこし考えてみます。

この子は誰だ?と気になったとき、AISASの法則などもあるように、まずインターネットを使ってGoogleで検索するでしょう。しかし、検索時にオフィシャルサイトにダイレクトに誘導できれば、YouTubeなどをCGMとして使う必要はありません。オフィシャルサイトが「メディア」になるからです。公式なページで動画を配信すればいい。

また、テレビやラジオの露出が増えれば、その導線からのファン獲得も可能になります。CGMによる効果は全体からみればわずかなので、駆逐してしまっても問題はないでしょう。あるいは、許可なく勝手にアップロードされたコンテンツを排除することによって、オフィシャルサイトの重要性を高め、宮本笑里さんのブランド価値を守る、という意図も考えられます。そんな戦略的な判断があったのかもしれません。

とはいえ、YouTubeにチャンネルを持つのは費用がかかるにしても、もうすこしゆるく著作権を考えてもいいんじゃないのかなあ、とおもいました。統制も必要だけれど、視聴者に親しみを抱かせるような目にみえない企業姿勢も資産となり、大切です。そのためには多様な視点を検証する必要があります。ぼくのように、コンテンツ削除をネガティブにとらえるひねくれものもいる。

ともかく宮本笑里さんはブログもかなり人気のようです。これからもヴァイオリンで素敵な曲を奏でていただいて、たくさんのひとに聴いていただけるといいですね。ファンのひとりとして応援しています。と、同時に彼女の動画をもっと気軽にみることができるといいのに、と切望しています。

投稿者: birdwing 日時: 07:58 | | トラックバック (0)

2009年4月 2日

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草を食む時代に。

いつの時代にも恋愛の傾向をあらわす言葉やモテる人物像を括る言葉があります。評論家によって作られ、マスコミを通して広く使われるようになる、というのが一般化するパターンでしょう。

最近では、"草食(系)男子"という言葉がありました。「協調性が高く、家庭的で優しいが、恋愛に積極的でないタイプ」だそうです(Wikipediaの解説はこちら)。どちらかというとひとりで静かに家で過ごすことを好む性格で、がつがつとコイビトを求めたりしない。そんな男性が増えていて、女性からも人気とか。

確かにそういう傾向もありそうです。ただ、若い頃には愛情に飢えてがつがつと恋愛をしていたような自分としては、すこしばかり違和感も感じていました。そもそも年齢を経ていけば自然と淡白になるのだから、若い時期から達観することもなかろうに、と思う。

草を食むようなおとなしさは行儀がいいし、やさしく聡明な印象も受けますが、反面、人間関係に臆病なだけではないか、という感じもします。正直なところ自分は洗練された人間ではないから、スマートな恋愛ができる若いひとたちに羨ましさもあるんだろうね、きっと。

しかし、恋愛傾向を越えて、ぼくが納得させられてしまったのは、フリーペーパーR25に連載されていた石田衣良さんの「空は、今日も、青いか」の「草食男子進化論(3.26号No.231)」で語られていた時代に対する考察でした。

090402_R25.jpg

石田衣良さんは、草食男子という増加しつつある新しい恋愛のパターンの出現を、100年に一度の金融危機と結びつけて考えています。つまり、この危機的な状況を生き延びるには、消費に積極的ではなく、ひとりで生きることを好む「突然変異で生まれた新たな種」が必要になるとのこと。まず次を引用します。

バブル世代の高エネルギー消費や恋愛・セックスの過剰は、いってみれば白亜紀の恐竜のようなものだったのだろう。草食男子は巨大な恐竜の足元で震えながら生き延びたぼくたち哺乳類の先祖のネズミのような存在なのかもしれない。

時代に合った生活様式が求められ、古い様式は淘汰されていきます。結婚して家を構えること、クルマを持って休日には子供を連れてアウトドアに出掛けること、仕事をバリバリこなして家庭でもよい父でありつづけること、恋愛に積極的であり男らしく生きることが正しいという価値観。そんな理想を求めていた時代もありました。しかし、その生き方を追求すると限りなく「高エネルギー消費」になります。家族はもちろん、彼女とのデートや家のローンやクルマの維持費などを支払う生活は、とにかく金がかかる。節約もできそうですが、究極の節約はひとりでいることです。

残念ながら、この不況はまだまだ続くことだろう。世界が同時に沈んだので、どこか一国だけが浮き上げるのは困難なのだ。サブプライムローンでは傷の浅かった日本も、世界全体がふたたび元の成長コースに復帰するまで景気回復は望めそうもない。そうなると、低成長所得、おまけに貧困率の高まるこの国で、草食男子が選択した閉じた生き方は、最良の生き残り策といっていいかもしれない。恋愛や結婚をすることで、他人の分まで経済的なマイナスを背負いこむのは危険なのだ。嵐の海を漂う救命ボートの定員は1名なのである。

納得してしまった。本音で言ってしまうと、いま働いているおとーさんの何割かは、家族という負担がなければどれだけ安堵するか、と思っているのではないでしょうか。ただ、独身のように、自分ひとりさえよければ、と割り切ることはできませんが。

回想すると、今年のはじめにぼくは自分を究める、深める、のような目標を立てたことがありました。この考え方の基盤にも、内面に向かう志向性があり、いわゆる草食的な守りの考え方といえるかもしれません。内田樹さんがブログで書かれていた内向きの志向に対する擁護というものも、急速に冷え込んだ景気を踏まえて戦略転換のひとつの視点の提言だったと認識しています(関連エントリは「内向きとか外向きとか」)。

つまり、本能的にぼくらは時代の冷たさを感じて、内部をかためることにより外界の激動から自己を守ろうとしている。ちょっと妄想が入るけれど、不況にしても恋愛の保守的な傾向にしても、増えすぎた人類を抑制するための地球規模の機能のひとつかもしれない、などとも考えました。その全体的な傾向が恋愛に波及すると、草食男子となる。

ところで、厳しい状況に対する考察のあとで、石田衣良さんの小説家ならではの次の言葉に和むものを感じました。

草食男子が低消費サステイナブルな世界の主流になる日は近いと、ぼくは思う。願わくば、その世界でも新しい形の恋愛や欲望が生き残っていますように。恋愛小説を書く作家としては、生存には不要かもしれない甘ったるいあれやこれやが絶対に必要なのだ。

和んだのだけれど考えているうちに、時代の傾向も大事だけれど、ちょっとそれは不安に思いすぎじゃないですか石田さん、時代にとらわれすぎ、という印象を受けました。こういう時代だからこそ、時代に迎合しない、草食ではないレトロな純愛、激しい恋愛の形を小説として書いてほしい気もしています。でも、時代に合った小説を書くのが、石田衣良さんのスタイルでしょう。

時代の圧力というものがあります。男子は草食でなければダメよ、草食って素敵よね、と女子から言われてしまうと、ああ大好きな彼女と激しくセックスしたいのだけれど肉食系のぼくの欲望って穢いんですね、嫉妬に狂う自分はいけないのですね、という風に自己否定の呪縛で自分を追い込んでしまう若い男性もいるかもしれません。

けれども肉食恐竜のような進化に乗り遅れた種も、そのまま生きていけばいいんじゃないかなと思う。うまくいかなかったとしても、遠いむかしからそうやって悩んで生きてきた種もまた存在していました。穢い欲望や目を瞑りたいような感情が、さまざまな原動力になる場合もあります。もし、こころの奥深いところに違和感があって、草食ではないのに草食と偽って生きるぐらいなら、貪欲に愛情を求めてアプローチで撃沈して挫折して、絶滅に追いやられたとしても草食ではない生き方をまっとうすればいい。時代に迎合する必要はない。

救命ボートに乗った自分ひとりを救うための閉鎖した考え方も大事だけれど、そうした生き方は、現状を乗り切るだけのものであり、変えることはできないような気がしました。むしろ、草食ではない考え方に、時代をぶち壊すブレイクスルーが生まれるのではないか、と期待もしています。

絶対多数としては、草食的な生き方や自分を大切にする生き方が主流になっていくのかもしれません。他者を尊重する草食男子の紳士的な、成熟した考え方には、学ぶべきところもたくさんあります。しかしながら、静かに草を食み、自分の世界を深めていった過程で培ってきたものが、いつか誰かを求める力になったり、現状を変えるための基盤となってほしい気もします。

愛情はぼくらの根源的な力です。保守的な自己愛として自分の生き残りのためだけに使うだけでなく、仕事に愛情を注げば、愛されるプロダクトやサービスを生み出すこともできる。時代から身を守るためにはコートの襟を閉じることも必要ですが、北風が吹き終わったあとには、太陽のぬくもりを感じたい。

冬を耐えてきたひとたちに、やがておだやかな春が訪れるといいなあと、そんな願いを込めて時代の動きをみつめています。まあ、理想論ですが。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)

2009年2月18日

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小説家の行動、姿勢から考える。

多くの場で取り上げられていますが、村上春樹さんのエルサレム賞の受賞スピーチには考えさせられました(朝日新聞の記事「村上春樹さん、エルサレム賞記念講演でガザ攻撃を批判」)。

村上春樹さんの小説に特有な洗練されたスタイルに惹かれたのは80年代の遠い昔であり、その作品すべてを支持しているわけではなく、問題を孕んだ作品も発表していると思います。しかし、今回の発言を知って、存在感のある小説家になったなあ、という印象を受けました。

何よりぼくが凄いと思ったのは、スピーチの「言葉」ではありませんでした。「行動力」でした。

紛争の現場に足を踏み込むことは、できれば避けたいし逃げたい。何が起こるのかわからない危険な場所には関わりたくない。金額で価値を判断するのもどうかとは思いますが、「賞金額は1万ドル(約90万円)」というAFPの報道も読みました。政治的な意図を考慮しても、マスコミや識者が受賞を拒否すべき忠告をするのも当然かもしれないですね。

仮に参加したとしても、ガザ侵攻を進めている首相の目前で、その政策を面と向かって批判することはできません。はっきりとした発言は避けているにしても、ぜったいに無理でしょう。ぼくはできないな。いや、そんな機会さえありませんが。

発言が投げかける波紋を考えると、小説家は空気を読めない、ということもいえるかもしれません。しかし、空気を読みすぎるあまりに何も決められない日本の政治家に比べると、少なくとも堂々と自分の考えを述べる発言力がありました。言葉尻をとらえてばかりの政治報道が多い昨今、どこかすかっとした抜けのよさを感じたことは事実です。

文学という夢のような世界から現実を批判する無鉄砲なイメージは否めないけれど、その姿勢には、はっとするものがありました。文学の言葉もまた、現実から離れた場所で生成するものではないということです。現実とのさまざまな影響下で生まれるものである、と。創造性は小説という閉ざされた世界のなかで発揮されるものだけではない。書かれたものではなかったとしても、現実世界で力を持つ言葉を生み出すことも紛れもなく創造的な活動のひとつです。

言葉が先にあって後から行動がついてくるのではない。行動あるいは信念があって、言葉という表現が生まれるものではないか。言葉は空虚なつくりものではなく現実に直結しているものだ、とあらためて感じつつ、では自分はどうなのか。反省するところが大きい。

池田信夫さんのブログに英文が掲載されていたので、エントリから英文を再利用で引用させていただくとともに、稚拙ですが自分の訳を付けてみました。

Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.

小説家は、自分の目で見て、手で触れたものしか信じることができません。だから授賞式に参加して、この場を見ることを選びました。何も言わないよりも、ここで話すことを選びました。

小説家は嘘つきである、という言葉からはじめて、事実に向い合う姿勢から式に参加した経緯を述べています。

身に染みる言葉です。きちんと向かい合って話すことができないことが多々あります。話し合うことよりも、何も言わないことを選ぶことも多い。見たくもないものから眼を背けることもある。

ネットにおいても知らない影の場所で酷いことを言われていたり、匿名という自衛のもとに他者を傷付けるようなこともあります。自分もまた第三者ではなく、当事者として傷付けたり、傷付けられたりしてきました。そうしてあらためて思うのは、責任をもって臨まなければならない、被害者意識に囚われていないで、困難も痛みも言葉の重みも、自分で「選ぶ」姿勢が大事である、ということです。

受賞しちゃった、スピーチを求められちゃった、マスコミが言ってるから受賞を拒否しよう、と他者に責任を転嫁しているうちは、自分の人生あるいは現実を生きられない。ぼくが選んでここに来た、そして話している、という村上春樹さんの言説に覚悟を感じました。

村上春樹さんとは別のふつうで凡庸な人生を生きているぼくもまた、紛れもない自分の人生のなかで、他者を批判したり傷付けることもあります。しかしながら、傷付けている他者は、現実に存在している他者であるばかりか、自分のなかにいる他者でもあります。

うまく言えないのですが、現実の他者を傷付ける前に、その発言は、まず自分の意識における仮想の他者に向けられる。その他者は、もはや現実とは切り離された無関係な他者ではない。自分の一部です。したがって他者を批判したり傷付ける行為は、返す刃(やいば)で自分も批判し傷付けている。村上春樹さんの批判も、発言することによって、いずれは自分に返ってくる言葉となります。

村上春樹さんのスピーチの内容に戻ると、最後には、卵と壁の比喩を使って体制に抗う個人を尊重し、壁でいるより卵でありたいというような発言があります。この部分にぐっときたひとたちも多い。村上春樹さんらしいメタファです。ファンとしては、待ってました、という感じでしょうか。とはいえ、個人的な感想では、これはどうだろう?と疑問に思いました。

というのは、文学においては比喩表現は重要なテクニックです。しかし、比喩は対象を別の対象に置き換えて婉曲に述べる表現であり、当事者意識から距離を置くことになる。適切な距離で客観性をもって語ることは大切ですが、小説家個人の言葉で語られた前半部分に比べると、この比喩は説得力がない。メタファで煙に巻いているようにさえ感じられます。ここはもっと直接に言ったほうがよかったのではないでしょうか。比喩などは使わずに。

ただ、この壁と卵という比喩は、さすがに村上春樹さん、わかりやすい。この比喩だけ一人歩きして使われそうな気がしています。キャッチコピーとしてすぐれています。ぼくはこの軽々しさに否定的な印象を感じますけれどね。

村上春樹さんの「小説のなかで使われたのではない」言葉から、言葉について考える契機をいただきました。

彼のような立場ではなくても、ぼくらにも言葉よりまず行動する力が求められる場面があります。言動一致と言うのは簡単だけれど、それほど簡単なことではない。そんな言葉の力について考えています。

投稿者: birdwing 日時: 23:47 | | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年1月22日

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就任演説、翻訳とレトリック。

アメリカ史上初の黒人大統領が就任しました。実はオバマ氏の就任前に、こっそり買った本があります。CNNで報道された生い立ちや過去のスピーチの原文+対訳を掲載、音声をCDに収録したこの本です。

425500451X生声CD付き [対訳] オバマ演説集
CNN English Express編
朝日出版社 2008-11-20

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黄色のバックに赤い文字の表紙は視認性は高いかもしれませんが、いまいちデザインのセンスが悪いなあ、と思うのですが。それはさておき。

インターネットで検索すれば、原文や対訳はもちろん、YouTubeなどで実際の演説の映像もみつかる時代です。わかっていたのですが、自宅のネットが引っ越しのために開通していなかったこと、値段が1000円だったこと、たまたま1000円札がポケットのなかにあったので、自宅近くの本屋で購入。

内容がまとまっているのがうれしいですね。英語は苦手なのですが、説得力のあるスピーチはどういうものかということを考えながら聴くと、耳を傾けることができます。確かにスピーチはうまい。

冒頭で、オバマ流スピーチのレトリックとして、津田塾大学准教授の鈴木健さんが次の3つの特徴を挙げています。

①「実演」(enactment)
②「再現」(repetition)
③「イデオグラフ」(ideograph)

「実演」(enactment)とは、「話している内容の証明として話し手自身が機能する技巧」だそうです。「ケニアからの黒人留学生とカンザス州出身の白人女性との間に生まれたオバマ」は、自分自身のことを「人種の融合の象徴」として引き合いに出すことによって、多様性を肯定しながら人々が力を合わせる重要性を説得したようです。要するに、わたしがアメリカだ、というような主張なのでしょう。たしかに自分のことを比喩として取り上げながらアメリカのことを話すと、親近感が沸くだけでなく同調できます。

「再現」(repetition)は、「同じ構造の文を繰り返すことで、リズムを整え、聴衆に内容を理解しやすくする効果」。「イデオグラフ」(ideograph)は「覚えやすくインパクトのある言葉やフレーズを、政治的スローガンとして用いる技巧」とのこと。「希望(hope)」「変化(change)」そして「アメリカの約束(American Promise)」というキーワードが多用されたようです。あとはお決まりの「Yes,we can.」でしょう。

このレトリックは、政治だけでなく、企画提案などのプレゼンにも使えるかもしれません。もちろん技巧だけうまくなっても、人間性がともなわなければ、ほんとうに相手を説得することは難しいと思いますけどね。

就任式の日、最近巡回しているブログでもスピーチが取り上げられていました。小飼弾さんがスピード重視で原文と翻訳をアップされていました。ブログならではのスピードです。朝日新聞のニュースサイトも早かった。翌日には内田樹さんが原文と訳を掲載しながら所感を述べられていました。

訳文を比較してみます。というのは、「翻訳夜話」という本だったかと思うのですが、柴田元幸さんと村上春樹さんが、レイモンド・カーヴァーとポール・オースターの短編をそれぞれ翻訳していて、同じ英文でもこんなに違う雰囲気になるのか、と面白かったからです。

4166601296翻訳夜話 (文春新書)
村上 春樹
文藝春秋 2000-10

by G-Tools

学者であり本を書くひとの翻訳(内田樹さんのブログ)、ギークでありブロガーの翻訳(小飼弾さんのブログ)、メディアの翻訳(朝日新聞のサイト)ということで比較してみます。英文は内田樹さんのブログから引用させていただきました。

For us, they packed up their few worldly possessions and traveled across oceans in search of a new life.

■内田樹さん訳

私たちのために、彼らはわずかばかりの身の回りのものを鞄につめて大洋を渡り、新しい生活を求めてきました。

■小飼弾さん訳

我々にとって、それはろくな荷物ももたず、新たな生活を求め海を渡ってきた人々です。

■朝日新聞訳

私たちのために、彼らはわずかな財産を荷物にまとめ、新しい生活を求めて海を越えた。

For us, they toiled in sweatshops and settled the West; endured the lash of the whip and plowed the hard earth.

■内田樹さん訳

私たちのために、彼らは過酷な労働に耐え、西部を拓き、鞭打ちに耐え、硬い大地を耕してきました。

■小飼弾さん訳

我々にとって、それは搾取に耐え、西部へと渡り、鞭に耐えつつ硬い大地を耕してきた人々です。

■朝日新聞訳

私たちのために、彼らは汗を流して懸命に働き、西部を開拓した。むち打ちに耐え、硬い土を耕した。

For us, they fought and died, in places like Concord and Gettysburg; Normandy and Khe Sahn.

■内田樹さん訳

私たちのために、彼らはコンコードやゲティスバーグやノルマンディーやケサンのような場所で戦い、死んでゆきました。

■小飼弾さん訳

我々にとって、それはコンコード[独立戦争]、ゲティスバーグ[南北戦争]、ノルマンディー[第二次世界大戦]、そしてケサン[ベトナム戦争]で戦い命を落とした人々です。

■朝日新聞訳

私たちのために、彼らは(独立戦争の)コンコードや(南北戦争の)ゲティズバーグ、(第2次世界大戦の)ノルマンディーや(ベトナム戦争の)ケサンで戦い、命を落とした。

Time and again these men and women struggled and sacrificed and worked till their hands were raw so that we might live a better life. They saw America as bigger than the sum of our individual ambitions ; greater than all the differences of birth or wealth or faction.

■内田樹さん訳

繰り返し、これらの男女は戦い、犠牲を捧げ、そして手の皮が擦り剥けるまで働いてきました。それは私たちがよりよき生活を送ることができるように彼らが願ったからです。彼らはアメリカを私たちひとりひとりの個人的野心の総和以上のものと考えていました。どのような出自の差、富の差、党派の差をも超えたものだと見なしていました。

■小飼弾さん訳

よりよき生活を求め、犠牲もとわず争いそして働いてきたこれら男女のことです。彼らにとってアメリカは単なる個人の集まりより大きく、生まれや富や思想の違いよりも大きかったのです。

■朝日新聞訳

彼らは、私たちがより良い生活を送れるように、何度も何度も奮闘し、犠牲を払い、手がひび割れるまで働いた。彼らは、米国を個人の野心の集まりより大きなもの、出自の違いや貧富の差、党派の違いよりも偉大なものだとみていたのだ。

部分を抜き出したのですが、冒頭が「For us」の構文が3回繰り返され、先程の技巧でいうと「再現」(repetition)というレトリックになります。たたみかけるように繰り返すことで、意識のなかにイメージが折り重なっていきます。さすがだ。

訳文に優劣をつけるのはいかがなものかと思いますが、個人的な好みでいうと、ぼくは内田樹さんの訳に軍配を上げます。文章がこなれていて、やわらかくて読みやすい。著作全般にも感じられる印象ですが、しなやかに考えられるひとだと思う。

ブロガーの翻訳はどうでしょう。小飼弾さんの訳文は早かったのだけれど、残念なことに雑です。意図がわかりにくい(じゃあ、おまえが訳してみろといわれたらできませんが。すみません)。

海外の技術翻訳に、この日本語ってどうだ?と首を傾げる文章があります。申し訳ないのですが、悪い意味で、とても技術者らしい翻訳だと思いました。たぶんこういう書きかたをしているから、情報機器などのマニュアルって伝わらないんですよね。英語はもちろん、技術のことばを初心者にわかりやすく"翻訳"できていない。どうしても技術者・開発者は俺様視点で書くから、読み手に対して冷たい印象があります。でも、まあギークということで(意味不明)。

同様に朝日新聞も報道的な文章で味気がない。要旨はその通りかもしれませんが、読んでいてこころは打たないなあ、これでは。ただ、メディアによる報道はそういうものだと思うので(主観や感情を排して伝えることが重要)、これもまた仕方ありません。

内田樹さんのブログでは、この演説がなぜ説得力があるのかを次のように解説されています。以下の考察に、やっぱり内田樹さんの視点は鋭いな、と舌を巻きました。引用します。

よいスピーチである。
政策的内容ではなく、アメリカの行く道を「過去」と「未来」をつなぐ「物語」によって導き出すロジックがすぐれている。
「それに引き換え」、本邦の政治家には「こういう言説」を語る人間がいない。
私はいま「日本辺境論」という本を書いているのだが、タイトルからわかるように、日本人というのは「それに引き換え」というかたちでしか自己を定義できない国民である。
水平的なのである。
「アメリカではこうだが、日本はこうである」「フィンランドはこうだが、日本はこうである」というようなワーディングでしか現状分析も戦略も語ることができないという「空間的表象形式の呪い」にかかっている。

うーむ。考えてみると、ぼくが試みた3人の翻訳を比較する試みも「それに引き換え」的な「空間的表象形式の呪い」にとらわれている思考かもしれない(苦笑)。

自立したアイデンティティより、関係性を大事にしますね、日本人は。自分はこう思う、ではなくて、あのひとがこう言っていたから私もこう思う、というように、誰かの主張を借りてくることによって自分の主張の根拠とします。基本的に引用がうまい。決して悪いことではないと思うのだけれど。

ついでにこれも。

「過去の日本」はどうであったのか、「未来の日本」はどうあるべきなのか、という「時間軸」の上にナショナル・アイデンティティを構想するという発想そのものが私たちには「ない」からである。

オバマ大統領の演説に説得力があるのは時間軸による統合があるからで、日本の場合は空間軸に配置した発想で考えるのでまとまりがなくなる。範列(Paradigms)と統辞(Syntagms)という言語学的な用語を思い浮かべたりしたのですが、ひょっとすると英語が音の配列からなるリニア(線的)なことばであるのに対して、書き言葉において日本語は意味の広がりを持つ範列的な言葉だからかもしれないな、などとぼんやり考えました。学問的にきちんと裏づけはありません。思い付きです。

ちょうど麻生首相の言葉が「ぶれる」ことについて批判がありましたが、時間軸による統合がないから「ぶれる」わけですね。

過去にAと考えた→現在はBと考える→したがって、未来にはCを選択するだろう、というロジックの強い流れがない。というよりも各施策を貫くコンセプトあるいはメタの思考がないから、言っていることに「ぶれ」が生じるのかもしれません。報道をウォッチしている限りですが、どうしても日本の政治家は目前の施策のことしか考えられないようにみえます。

ただ、さらに考えを進めると、時間的な統合による説得は、ロジックとしての強さはあるのですが、一方で盲目的になり、排他性をもつ危険性があると感じました。オバマ氏の演説はアメリカの国民にとってこそ有効だけれど、その結束力がゆえに他の考え方を排除する印象もなきにしもあらず。

内田樹さんの指摘通り、日本人には時間軸の統合による説得力のある言説は苦手かもしれません。一方で、多くの言説を見渡したきめ細かな配慮は得意です。それを強みにすれば、よいのではないでしょうか。ロジックの弱さがあるかもしれませんが、全体を配慮できる思考も悪くはないと思います。やさしさ、ともいえるかもしれない。ただ、これからの国際社会のなかでは時間軸によるロジック負けてしまいそうな気もする。やさしいだけでは、だめか・・・。

理想としては、時間の統合に空間的な範列の視点とを取り入れることで、多角的な考え方ができるようになるのでは? 個人的には、タテ(時間軸)とヨコ(空間軸)の糸を織ったような思考ができるといいと思っています。概念的ですが、そんな思考の獲得を求めて、いままでブログを書いてきました。これがまた、難しいことなんですけどね。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | トラックバック (0)