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2008年6月26日

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髄膜炎の子供をもつ親の初心者メモ。

このエントリーに関しては、慎重に読んでいただけるようにお願いいたします。また、もし同じような境遇にある方がいらっしゃったなら、安易に判断せずに専門医と相談していただくことをおすすめします。というのも、ぼくは医療関連に関してはまったくのドシロウトであり、息子(次男くん)の入院をきっかけに調べ始めただけの一般人なので。

子供が月曜日に細菌性髄膜炎で入院しました。その経緯については、昨日のエントリー「75%の未来。」になるべく詳しく書きました。その後、重病であるということもわからずに、のんびりと構えていたのですが、どういうことなのか理解したかった。そこで、さまざまな方法で情報を入手しているうちに、次第にことの重大さに気付きはじめています。

さらに最先端の医療問題に関連しているらしい、ということをなんとなく察知しました。まだきちんと調べていないのだけれど、そんな匂いがする。個人的に、というかブロガーとして嗅覚が働いただけのことです。ひょっとして調べてみると面白いかも、と上空から俯瞰した鳥的な視野にひっかかるものがありました。

興味深いというのは非常に不謹慎なのだけれど、自分の息子の話であり、ひとごとではありません。探偵みたいですが(苦笑)、調べていくうちに、重大さだけでなくて社会的な部分も含めて、この病気のコンテクストのようなものが、ぼんやりとわかりはじめた。たぶん現在、注目されているのではないでしょうか。というのも、読売新聞の記事を興味深く読んだからです。

読売新聞の2007年9月13日の記事「細菌性髄膜炎 防げるのに」では、生後5か月の時に細菌性髄膜炎にかかったケースをもとに、「一命をとりとめたが、てんかん、難聴などの後遺症が残った。発達も遅れ、今も座ることも、しゃべることもできない。」子供に対して、今後このような子供をひとりでも救えないかと切実な願いを抱く田中さんという母親が、ワクチンの存在に気付き、5万9000人分の署名を集めたことが記事として書かれています。

以下、引用します。

国内の細菌性髄膜炎の60%以上はHib(ヒブ=インフルエンザ菌b型)と呼ばれる菌が原因で、ワクチンは100か国以上で導入されている。原因の25%を占める肺炎球菌にも乳幼児用のワクチンがあり、84か国で使われている。
ワクチンが導入された国では、細菌性髄膜炎の患者が激減している――。「なぜ、日本でだけ使えないのか」。衝撃を受けた。

さすがに自分の子供のことしか考えていませんでしたが、世界では少なくなりつつある病気のようです。さらに長文になりますが引用します。

記事で紹介された耳原総合病院(堺市)小児科部長の武内一さんの支援を受け、昨年10月、他の患者の家族と「細菌性髄膜炎から子どもたちを守る会」を結成した。
会の活動もあって今年1月、Hibワクチンは国の承認を受けた。来年初めまでには輸入・販売体制が整い、接種が受けられる見通し。一方の肺炎球菌ワクチンは、近く厚労省に承認申請が提出される予定だ。

明るいきざしはあります。しかしながら、まだたくさんの課題を残している。世界の状況に比べると日本は遅れをとっているらしい。

だが、公費負担でまかなう定期接種に組み入れられる見通しはない。Hibワクチンは、生後3か月から1歳半までに計4回接種する。1回の費用は約7000円と見込まれ、約3万円の自己負担になる。
一方、世界保健機関(WHO)は、乳幼児への定期接種を推奨しており、Hibワクチンを導入した9割以上の国が定期接種としている。「日本も早急に定期接種で受けられるようにしてほしい」と田中さん。
日本の予防接種体制は、海外に大きく後れをとっている。他の先進国では、ポリオ、おたふく風邪に、日本の製剤に比べ副作用が少ないワクチンが使われ、乳幼児に下痢や嘔吐(おうと)を起こすロタウイルス胃腸炎への新しいワクチンの定期接種化が進んでいる。
「日本の常識は世界の非常識」と武内さんは嘆く。

ぼくの息子、次男君もインフルエンザ型の細菌性髄膜炎として診断されていました。病院からいただいた検体情報の結果には、莢膜抗原:b型と記されています。たぶんHib(ヒブ=インフルエンザ菌b型)だろうと思います。ちなみにWikipediaのインフルエンザ菌のページには、病原性として次のような記述があります。

膜株の感染症ではほとんどの場合b型が起炎菌で、敗血症、髄膜炎、結膜炎、急性喉頭蓋炎、関節炎などを起こす。b型以外の莢膜株が人に感染症を起こすことは稀である。

髄膜炎もきちんとありますね。なので間違いはないか、と。さらに手もとの「一般細菌検査」の資料によると、BLNARという菌名が記されています。これは、βラクタマーゼ非産生アンピシリン耐性(BLNAR)インフルエンザ菌のようです。以下もその解説です。

BLNARの存在が報告されたのは1980年であり、それほどBLNARの発生はそれほど古い話ではない[2]。しかし、2004年の北里大学の報告によると、検出されたインフルエンザ菌のうち21.3%(2002年)がBLNARであり[3]、また2007年の長崎大学による報告では、19.5%(1995-1997年)がBLNARであり[4]、近年の高い出現率が問題になっている。

つまりうちの息子の発症したものは、細菌性髄膜炎のなかでは比較的ポピュラーなパターンではないでしょうか。

というわけでいろいろとネットの海から情報を探しまくっていたのですが、ちょっと待て自分、とも思った。もちろん医療に対する理解は必要だけれど、何かとんでもない方角へ突き進んでいないか、と。

いま大切なのは、ベッドでぼんやりと眠る息子が元気になってくれることを祈ることであり、病気に対する情報収集にやっきになることではない。また、たくさんの情報が集まったところで、それは息子の病気を取り巻く現状を確認するだけのことであり、息子自体が置かれている状況は、また特別なものだったりするかもしれません。

そんなわけで、細菌性髄膜炎の息子をはじめてもった父であるところのわたくし(困惑)は、とりあえず病院にお見舞いに行こう、と思ったのでした。夜通しネットを検索して、安心するためのネタを探しまくるのではなくて。

不安はあっていいと思います。けれども不安を解消する場所はネットではなく、病院のベッドで元気になった息子の顔つきにあるのではないでしょうか。そのためにお医者さんは尽力していただいているし、親も親戚も応援している。それでいいじゃないか、と。

「知識だけあるバカになるな!」という本も読んだばかりでした。子育ての情報にいくら詳しくなっても、子供に接していなければ親として失格ではないか。病気に詳しくなったとしても、自分の子供が置かれている状況や苦しみをわからなければ、机上の情報を収集しただけに過ぎないのではないか。

ネットから離れて、病院へ行こう。

細菌性髄膜炎に対して若葉マークの父は、そんな風に考えをあらためています。元気に笑う息子の顔をイメージしながら。

+++++

以下、細菌性髄膜炎に関する参考リンクです。

■Wikipedia 細菌性髄膜炎

症状

発熱、頭痛、嘔吐、不機嫌(乳幼児の場合)などがみられ、症状が進行すると痙攣や意識障害も現れる。

発熱は細菌感染の一般的な症状であるが、髄膜炎では脳脊髄液の圧力(脳圧)が高まり、脳自体に浮腫を伴うこともあるため、その刺激や血流の不足によって嘔吐、意識障害などの症状が現れると考えられている。

治療

患者が小児である場合、難聴の合併を予防するため、デキサメサゾン(合成ステロイド)を2日間併用することが多い。しかしデキサメサゾンの有効性についてエビデンス(科学的根拠)があるのは、インフルエンザ桿菌b型による細菌性髄膜炎の場合のみである。


■細菌性髄膜炎から子供たちを守りたい・・・
http://www.k4.dion.ne.jp/~zuimaku/

■髄膜炎って?
http://www.k4.dion.ne.jp/~zuimaku/g77.html

■細菌性髄膜炎
http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k03/k03_38.html

■むっち母の体験記 「救われた命」
http://homepage2.nifty.com/~sakura2001/taiken/mutti/mutti.htm

以下を引用。まったく同感です。変化を察知するのが大事だという気がしました。しかも早く。

でも、いつも手のかかる子が、あまりにおとなしい、そして笑わないというとき「おかしい」と感じることができるのは、親だけだと思います。この病気のことが周知され、早め早めに診断がつき、後遺症なく治癒する子どもが増えるようにと願い、メールしました。

投稿者: birdwing 日時: 01:31 | | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年6月20日

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待てるひとは変われる。

1142008061901_im_01.jpg大変失礼なことを書いてしまうのですが(といってもブログだから、本音で書こうと思うのだけど)、石田衣良さんは小説よりエッセイを書いていたほうがよいのではないだろうか。今週のR25に連載されている「空は、今日も、青いか?」を読んでそう思いました。ちょっと、じーんとした。涙が出た。

タイトルは「今25歳でいること」です。昨日ぼくが書いたエントリーと同じ秋葉原の無差別殺傷事件について書かれています。なんとなく不遜にも答え合わせのつもりで読んでしまったのだけれど、こりゃかなわんと打ちのめされました。やはりプロの作家の筆力は違いますね。石田衣良さんらしい怜悧な視線で事件を腑分けしつつ、何か心を揺さぶるものが文章に込められています。

勝ち組に対する呪詛、孤独であることのやりきれない想い、仕事の不安定さ、彼女がいないことなど、無差別殺人を起こした25歳が掲示板に書き込んだ言葉に触れながら、フリーターとして転々とされていた石田衣良さんご自身の25歳の頃を語られています。けれども殺人鬼となったKと絶対的に違うことは、石田衣良さんは「変化を粘り強く信じていた」とのこと。そして次の部分では、事件を起こしたKを批判します。

ぼくはKは時の流れというものをなめていたと思う。いつまでも自分が同じままでとどまる、もう変わることはない。愚かにも、そう単純に信じてしまった。けれど、時の力からは誰も逃げられないのだ。四面楚歌だと思われる状況だって、いつか絶対に変わっていくのである。どれほど厳しくつらい状況も永遠に続くことはありえないからだ。

時間が解決することもあります。自分は変わらなかったとしても、周囲が変わることによって、いままでとはまったく違う状況に置かれることだってある。さらに石田衣良さんが書いているように、自分自身も変化あるいは生成していくものです。永遠に25歳のままでいることはできない。

しかし、若いうちはそんな風に悠長には考えられないものです。ぼくもそうだったのですが、答えを早急に急いでしまう。結果が出ないことに苛立ち、きちんと見える形で結果になったものを求めたがる。だから、もし答えや結果が出なければ、簡単に自分の未来を投げてしまうこともある。

あの日借りだしたトラックで秋葉原にいかなければ、Kはいつか正社員として希望する仕事に就けたかもしれない。Kのことを愛してくれる恋人を見つけられたかもしれない。家族をつくり、自分の子を抱きあげ、笑いかける日がきたかもしれない。

かなしみや辛さは視野を奪い、盲目的に現在しか見られなくなります。もう少し遠くを眺めることができれば、少しは考え方も変わったのかもしれません。

彼が携帯電話から掲示板に書き込んだ内容を、ぼくも読んでみました。モテない理由として容姿に異様に拘っている気がしました。それは若者らしい感覚で、わからないこともない。金こそすべてだ、容姿がすべてだ、と極言するのが若い思考の特長かもしれません(ま、ある意味、アタマの固くなったおじさんやおばさんもそうなのですが)。けれども彼が異性にもてなかった理由に関していえば、その心の持ちようにあった気がしてならない。

多くのひとが完璧な心を持っているわけがなく、どこか歪んでいたり、欠陥を隠しながら生きているものです。欠陥があるからモテないということは言えなくて、欠陥があるからこそモテることだってある。根気強く待てば状況も自分も変わり、自分の欠けている部分を補ってくれるひとが現われることだって考えられます。楽観的かもしれないけれど、待てば時代が変わることもあります。

えーと、ちょと脇道にそれると、いまOver40と呼ばれる40代以上の男性が20代の女性に慕われているらしい。読売ウィークリーや最近のSPA!などの雑誌にも特集されていましたが、カレセンと呼ばれる枯れた男性に熱い視線を送る女性もいるとのこと。ブームに便乗するのはどうかとも思うし、20代女性と知りあう機会もないわたくしには縁のないことですが(苦笑)、納得できることもありました。

誌面でも分析されていましたが、Over40の男性は最初の恋愛マニュアル世代といえます。つまり、お姫様であるところの彼女をよろこばせるために、情報収集したり、知識を習得したり、自分を磨いたり、お金をかけたり、お金がなければ愛だ!とばかりに、うんうん知恵を絞ったりしたのだ。

その涙ぐましい努力が若い頃には暴走してやりすぎだったのだけれど(苦笑)、年を取るとさりげなくできたりする。たぶんですね、若い20~30代の男性が面倒くさかったり恥ずかしくてできないことや、あっさり諦めてしまうことを、Over40の男性は臆面もなくやってしまう。しかも惚れたコイビトには全力を投入する。その若い世代にはない傾向が、20代女性にウケているのではないでしょうか。

しかしながら、40代になってモテはじめた男性の多くが、20代の頃は「努力しすぎで気持ち悪い、ストーカーっぽい」とか「熱くてウザい」とか言われて、ぜんぜんもてなかったんじゃないかな(苦笑)。ところが時代が変わって、世代という距離を飛び越えて若い女性のハートをつかんだりするのだから不思議なものです。そんなわけで、若い頃にはぜんぜんモテなくても、人生の後半、落ち着いたオトナになった頃に急にブレイクすることだってあるかもしれない。人生何があるかわからない。

脇道が逸れすぎました(苦笑)。

ほんのちいさな衝動が、人生を、そして社会を大きく変えてしまうことがあります。映画であれば過去に遡って軌道を修正することも可能かもしれませんが、リアルであるこの世界は不可逆なものであり、やり直すことはできない。こぼれてしまった血をもとの身体に戻すことはできません。しまった!と後悔する前に、ちょっとだけ呼吸を整えて、眼前の問題を保留にしてみること。現状維持にしておくこと。それは優柔不断ではなく、勇気がないことでもないと思います。

R25のコラムでは、最後の石田衣良さんの言葉が泣けた(涙)。引用します。

Kと同じような境遇で暮らしている25歳は全国に数十万人単位で存在することだろう。若かったころのぼくに似た、その多くの25歳にいっておきたい。今、きみがおかれている状況は、必ず変わるだろう。変化の芽はなかなか見えず、ときに心が絶望にかたむくことがあるかもしれない。

そして次のように強い言葉で締め括られます。

けれど、ぼくはあなたがKのように自分(かけがえのないひとりの人間)の未来と可能性を投げ捨てることを禁じます。その場で耐え、自分の力をすこしずつ磨き、いつかやってくる変化の時を待ってください。待てる人は変われる。嵐の空もいつかは晴れる。時は誰にでも平等に流れるのだ。あなたが今日を耐える力をもてますように。

ううう(泣)。なんとなく強行な言葉が気になるけれど、こんな風に叱ることができる大人が少ないのではないのだろうか。そして「待てる人は変われる。」という言葉がいいですね。

待ちましょう、いつか風向きが変わるときを。待つ時間を楽しめるひとは、しあわせなひとではないでしょうか。待つ辛さもありますが、待つことは期待や可能性にあふれた時間でもあります。決断を下すことだけが勇気ではない。問題を保留にすることもまた勇気が必要です。

待つことで蓄積された力は、安易に行動する力よりも強いはず。待つことが、ぼくらを強く変えてくれる。秋葉原の事件以降、衝動的に同じことをやろうとするひとも増えているようで、プチ秋葉原事件的なニュースもちらほらと読むのだけれど、一瞬の衝動が人生を台無しにする。

その行動は、その言葉は、あなたの人生を台無しにするものではないのか。ちょっと待って、考えてみましょう。窓を開けて、外の空気を部屋のなかに取り込んでみたりしながら。

投稿者: birdwing 日時: 23:59 | | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年6月19日

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新しい世界に挨拶を。

職場の斜め前方に派遣社員の方がいるのですが、いつも無言で出社して、無言で退社されます。とてもシャイなのか奥ゆかしいのか、挨拶をしたことがない。では、まったくしゃべらないかと言うとそんなことはなくて、実はとても大きな声が出る。どういうときに大きな声が出るかというと、文句を言うとき。ぼくは時折、集中して仕事をしなければならないような状態にあるのですが、その集中力に支障をきたすほど、でっかい声で仕事の不条理さを滔々とお話されます。

確かに仕事の任せ方など問題はあるかもしれないですね。ほんと、申し訳ないです。ぼくはその方の担当ではないので、よくわからないのですが、何もないところから新しいものを生み出すような仕事が多いぼくの職場では、きちんと役割分担が決まっていなかったり、ルール化されていないことも多い。そして、きっと仕事のできる方なのでしょう(これもやはり実際にどんな仕事をしているのかわからないので、なんともいえないのだけれど)。だから、ふがいない正社員にイラつくのもわかるし、不満をバクハツさせるのもわかる。

しかしだなあ、挨拶ぐらいしろよ、と正直なところ思う。基本だろ、社会人の。

たぶんぼくは、ばりばり仕事ができて職場の改善提案もする、でも挨拶しない無愛想なスキルの高い派遣社員よりも、ドジをしたり失敗したり失言も多いのだけれど、きちんと毎朝「おはようございますっ!」と出社して、「お先に失礼しますっ!」と退社する派遣社員の方が、いっしょに働きたいと思うし、会社にいてほしいと思う。ついでに、にこっとスマイルがあれば言うことありません。

派遣社員のうちスペシャリストはある意味傭兵であり、特化したスキルをもって雇われるもので、だからこそアウトソーシングの需要も生まれるものです。とはいえ企業内においては流動的であることは否めず、傍観者ともいえます。他者である。しかしながら、きちんと正社員の仕事をリスペクトし、その大変さをわかりつつ、自分がご奉仕、いや貢献できる何かを把握し、さらにムードメーカーであろうとするような人材であれば、企業からは引く手あまただと思うし、勤め先の企業が決して離そうとしないと思うんですよね。

正社員、派遣社員問わずいえることだと思うのだけれど、こんなもんでいいか、と成長を自ら限定するような人材は「こんなもん」でしか扱われない。しかし、プラスαの付加価値を与えられるような人材であれば存在価値はぐんと伸びます。黙っていても、みるひとはきちんとみている。そして、付加価値というのは別に仕事ができることばかりではないと思います。気持ちのいい挨拶ができる、という当たり前のことが大きな付加価値になることもある。

と、そんなことを書きながらあらためて省みたのですが、自分の職場についていえば、正社員であっても、いつの間にか現われて、いつの間にか去っていくひとが多いですね(苦笑)。なんとなくその状態を当たり前に感じてしまうところもある。しかし、実はこの感覚自体がヤバイ気がする。常識的なこと、当たり前のことができなくなりはじめた社会は、どこかネジが緩みはじめているものです。その変化は、気付かないうちに進展して、気付いたときには取り返しのできない状態のことも多い。

余談だけれど、最近、東京では朝の通勤電車が遅れることが多くなりました。車両故障であったり何かしらの原因によって、必ずといっていいほど電車が遅れる。ダイヤを守ることが仕事であるはずなのに、ダイヤを守れなくなってきていて、それが当然であるかのようにぼくらも出勤する。どうなんだろう?これ。

さて、秋葉原の通り魔の事件があってから、マスコミでは派遣社員という雇用形態の問題を指摘する記事がみられました。

ぼくは一概に派遣社員という雇用制度だけが問題とはいえないと思っていて、派遣社員にも挨拶がきちんとできて基本動作のすばらしい方もいる(って、それは当たり前か。苦笑)。以下の記事も読んで、そうだろうな、と思いました。同じ職場で頑張っている同僚の派遣社員にとっては、彼の行動は迷惑な話でしかない。ほんとうに頑張っているひとが迷惑を被る。

■「つまらないし、常に不安。でも…」同じ工場の派遣社員
http://www.asahi.com/national/update/0613/TKY200806130172.html

社会の問題、制度の問題にすりかえてしまうのは簡単だけれど、結局のところ個人の問題じゃないですかね。オトナなんだからさ、会社がなんとかしてくれない、格差社会のせいだ、と責任転嫁しないで、なんとかすりゃいいじゃないか、自分で。

というぼくも若い頃は、そして近年まで(苦笑)、というかひょっとするといまでも、そんな風に理想と現実のギャップに悩んだり、憤慨したり、凹んだり、いたたまれない気持ちになった(なっている)ものでした。しかし、最近少しだけ変わってきたように思います。年をとったせいもあるかもしれないけれど、

自分の人生を引き受けたい

という風に決めた、ということが大きいかもしれません。

自分の人生を引き受けられない人間は、他人を責めるし、社会や時代を恨んだりする。他者に対して微笑んだり挨拶するような余裕はなく、傷付けるような鋭い言葉や刃を投げかけるようになるだろうし、あるいはその攻撃性を自分に向けたりもする。でも、自分の人生を引き受けた人間は、ひとにやさしくなれるような気がします。肩の力も抜ける。

正しく生きろ、とは言えないな。というのは、いまぼくは何が正しいのか、何が間違っているのか、よくわからなくなっているからです(苦笑)。もちろん見知らぬ誰かの生命を奪うことは正しくない、それだけは間違っていないのだけれど、正しい生き方とは何かということを安易に上からの目線で語れないし、誰かに指南することもできない。あなたが正しいと思ったことが正しいんじゃないかな、などと無責任かつおどおどと考えたりしているわけです。

とはいえ自分に関していえば、辛いことも含めて、ぼくは自分の人生を引き受けようと思っています。正しくはないのかもしれないけれど、そして、揺れてばかりではいるのだけれど、なんとか覚悟を決めて、この、ぼくがぼくであることの人生を引き受けたい。

というわけで(どういうわけで?)、まずはきちんとぼくが誰かに挨拶をしようと思いました。落としどころはそこか・・・と書きながら自分でも脱力したのですが、できることから、身近なことからはじめます。うちの息子たちも、うまく挨拶ができないひとたちで、むにゅにゅ、とか口ごもるのだけれど、ぼくから声をかけるのだ。

人間の細胞は、常に新しくなる、新たな細胞に刷新されるのだと誰かの本で読みました。今日の自分は昨日の自分ではない。生まれ変わろうと思えばいくらでも生まれ変われるものだし、というよりも細胞自体は常に新しくなってきている。世界を認識する「私」が常に新しいのであれば、世界は常に新しい。

21世紀の新しい今日。おはよう。

投稿者: birdwing 日時: 06:22 | | トラックバック (0)

2008年5月16日

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闘うルール。

R25の巻末、高橋秀実さんのエッセイ「結論はまた来週」の連載第108回「悪口の作法」を読んで、なるほどなあと思いました。とても興味深い内容でした。

高橋秀実さんは、まず3万8260件(文部科学省の4月15日の調査らしい)存在するという「学校裏サイト」について嘆いています。とんでもない誹謗・中傷が書き込まれていて、なかには「死ね」「殺す」などの発言もあるらしい。

「学校裏サイト」というのは、2ちゃんねるの低年齢化みたいな傾向として存在している気がします。便所の落書きばかりがネットではないと思うのだけれど、感情と欲望のままに書き込むと、結局、際限のない闇をネットのなかに生んでしまう。キホン的なマナーやリテラシーの教育を放置したまま、子供たちをネットにアクセスさせると暴走も生まれるのではないか。有害コンテンツのフィルタリングの問題にも関わるのかもしれないけれど、大人たちがガイドラインを定める必要があるのかもしれません。

まずは高橋さんの次の提言には頷くものがありました。


君たち、逮捕されたいのか?

と私は心配になった。これは刑法の脅迫罪にあたる立派な犯罪である。いっそサイトを禁止したいくらいなのだが、私も子供時代は悪口を言ったり言われたりして育っているので、あまり偉そうなことは言えない。ただ私は子供たちにこう諌めたいのである。

まず、名を名乗りなさい。

言いたいことがあるなら、まず自らの名前を表明しなさい。匿名で他人の悪口を言うのは卑怯者のすることだと諭したいのである。

ネットの匿名性が、悪い意味で暴言を許す方向に働いているのでしょう。発話者が特定されなければ、責任がないから言いたい放題になる。

ぼくは悪口や愚痴と、批判、批評、評論はまた別物だと思っているのだけれど、ネガティブという意味ではそれらをごちゃまぜにしてひとくくりにしてしまうことがある。単なる悪口なのに批判であると胸を張ってみたり、愚痴を並べただけなのに建設的な意見を述べて俺は偉いのだ、のように高みから見下ろすひともいる。という自分もきちんとわきまえたいところではあります。反省。

と、ここまでは普通のモラルに関する話なのですが、高橋秀実さんのお話の面白いところは、戦国時代に遡って悪口の文化史を短い文章のなかで整理されていることでした。

教育的指導の観点から、私は悪口にも作法があることを知ってほしい。 
文献記録をさかのぼると、日本人が悪口をさかんに言い始めたのは戦国時代。 

どうやら戦国武将は、鎧や刀で激しく勇ましく戦う前に「おまえのかーちゃんでーべーそ」のような悪口合戦を本戦の前に行っていた、とのことです、これは「ことばたたかい」というものらしい。ひげもじゃないかつい武将たちが言葉でののしりあう様子は、なんだか平和です(ほのぼの)。ことばで闘えば、こころは傷付くかもしれないけれど、身体を傷付けることはないですからね。以下のように解説されています。

やりとりはルール化されていたようで、武器による戦い「所作(しわざ)」に対して、これを「言技(ことわざ)」と呼んでいたそうだ。畳みかけるような弁論術で敵方を文字通り閉口させる。そして「言われてみればそうかもしれん」と納得させて戦意を喪失させるのである。ゆえに戦場では、力の強い者より口の達者な者が重用されたという。

企業でも同じようなところがあります。大きな声を出せる人間が、力を持つことはある。積極的だということもあるかもしれないのですが、騒いで問題を大きくするような人間が場を占有することもあり、こちらは困ったものですが(苦笑)。ただ、戦国時代からの名残りがあるのかもしれないですね。というか、人間はそもそもそういう社会性のもとに生きているのかもしれない。だからどんなによい考えを持っていても、表現できなかったり、ちいさな声で発話していると損をすることが多い。これはグローバル化などにおいても言われることかもしれないですが。

さらに、ほのぼのとしたのは次の記述です。

最強の武器は言葉だった。そして時に雄弁な者同士が悪口の応酬をすると、「敵モ味方モ、道理ナレバ、一度ニドットゾ笑ケル」(同前)というように、戦場は爆笑の渦になり、結局、戦をやめることにもなったらしい。つまり悪口は、面と向かってお互いに吐き出すことで暴力を抑止するものだったのである。

いまの学校裏サイトが暗く行き場がないのは、それが暴力の抑止になっていないということもあります。そこで吐き出した暴言が、実際のいじめなどを加速する増幅器になってしまっている。

ここで、ぼくが思ったのは、武将たちの「ことばたたかい」は遊びに近いということでした。真剣勝負の武将たちに叱られそうですが、どこかスポーツであったり、ゲームに近い。そして、いまの子供は遊びを知らないから制限のない学校裏サイトのような暴走になるんじゃないかな、ということでした。

子供によって差はあるかと思うのですが、うちの息子たちは、ほんとうにゲームばかりやっている。もちろんゲームにもルールはあります。けれども、友達と遊ぶときのルールというのは、場に応じてゆるくも厳しくもなるものです。ルール自体が改変されてしまうこともある。遊びやすい方法に改良されるわけです。

ところが、デジタルなゲームの世界ではそういうことはあり得ないですよね。遊んでいるつもりが、ゲームに遊ばされている。したがって、見えないストレスが負荷になることもあるだろうし、逆にその制限を超えてしまいたいような衝動があるかもしれない。

一般には暴力的なゲーム=リアルな暴力性のようにとらえられています。一方で、CNET Japanの「暴力的ゲームは子どもに影響なし--ハーバード大心理学者が調査」のような報告もあります。

Lawrence Kutner氏とCheryl Olson氏の2人の心理学者は、暴力的なゲームをプレイすることはほとんどの子どもにとって、ストレス発散に過ぎないとの結論に達している。もちろん、暴力的なゲームを数時間プレイした後に遊び半分の攻撃性を見せた子どもも中にはいたが、武道アクション映画を観た後の子どもが見せる反応と同じレベルだった。

しかし、ぼくはゲームにおけるルールによる拘束性、あるいは自由度のなさが、リアルにおいて特定の規範を超えてしまう力になっている印象を受けました。

高橋秀実さんの書かれていた内容に戻ります。「ことばたたかい」における「言技(ことわざ)」は、柳田国男さんによると「ことわざ」として残っているとのこと。とはいえ、相手を徹底的にやり込めるための武装ではなく、やはりちょっと手加減して、やわらかくしっぺするようなところがあります。次の言葉が印象的でした。

大切なのは切れ味とユーモア。悪口とは和平のために洗練を要する話術なのだ。

どこまで言葉で追い詰めるか、どこから一線を越えてしまうのか。そのルールをきちんとわかっていれば、他人を傷付けたり、自分を殺めるようなこともなくなるような気がします。そしてその規範を作るのは・・・やはり大人たちであるぼくらが、お手本を示すべきではないでしょうか。

投稿者: birdwing 日時: 23:55 | | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月14日

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デザインと発想。

デザイナーという職業の凄さは、描いたデザインの表現そのものというよりも、その発想にあるような気がしています。

もちろん美しい線を描けることや、色彩の組み合わせで感情を揺さぶることも重要だとは思います。けれども表現に至るまでの考え方であったり、発想がわかるとぼくは説得されてしまう。理屈でわかるのではなく、すーっと入ってくるものが望ましい。つまり作られた表現ではなく、そこにあるべくして成立したカタチというか。紆余曲折を経たとしても、最終的には削ぎ落とされてシンプルな佇まいのあるデザインがよい。

同じ方向性でバリエーションの違ったラフをいくつも作成できること、違いを明確にしつつヴィジュアルできちんと表現されていること。そんな力量も凄いと思う一面です。もやもやっと構想することはできるのですが、そのもやもやをカタチに落とし込むことは難しい。優秀なコピーライターさんとお仕事をしていても感じることでもあります。図案にすることと同様、曖昧な考えを言葉にするのはほんとうに難しい。ブログも同じなんですけどね。

ぼくは、ほそぼそと企業のコミュニケーションのお手伝いのような仕事をしています。しかしながらライターでもデザイナーでもなく、プランナーという仕事です。その立ち位置の曖昧さに、もどかしさを感じたりもします。概念的なことが多いからかもしれません(苦笑)。

ライターであれば考えたことを文章に、デザイナーであれば考えたことを図案に、それぞれ具体化できる。しかし、ぼくの場合は発想とロジックの組み立てや裏づけが中心になるからです。なんというか、タマシイだけがあって身体がないユウレイのようなお仕事なわけです。その曖昧さに開き直ると危険な気もしていて、表現の現場をわかっている必要がある。というのは、抽象論の宙に浮くような話ばかり展開していると、いつまでたっても地面に降りることができない。机上の空論に終始することになるからです。

考えるプロフェッショナルになることを標榜していて、その意味ではコンサルタントに近いかもしれません。もっと本質をわかりやすく語ってしまえば、悩んでいるひとがいて、その悩みを解決してあげる仕事というほうがわかりやすい。カウンセラーにも近い。企画屋とかプランナーのような、なんだかぺらぺらしている印象の職種には後ろめたいものも感じていて、カウンセラーのほうがひとに役立っている気がします。

発想法に関する技術や本はいくつも出ていますが、若い頃にはKJ法やブレストの技術について関連書籍を読み漁りました。といってもそれらの方法論をいくつも知っていても、実際に発想ができなければ、ハサミ(道具)はあるけど何も作れないことに等しい。では、どう発想するか、ということについては、影響力のある仕事をしているデザイナーであるとか、経営者であるとか、あるいは過去の偉人のようなひとたちの話を聞いたり、書物を紐解くのがいい。

というわけで、「見えるアイディア」を読み終わりました。

4620318698見えるアイデア ヴィジュアル・コミュニケーション・トレーニング塾
秋草 孝
毎日新聞社 2008-03-14

by G-Tools

この本は電通で勤められた後に日本大学藝術学部や金沢美術工芸大学で講師を勤められた秋草孝さんが、ビジュアルによる発想力を鍛えるためのトレーニングの実践について学生の作品などの事例もふんだんに引用しながら、わかりやすく解説された本です。

とにかく何か表現する前に、考えるトレーニングが必要である、という姿勢がよかった。確かに自分もそうだけれど、手っ取り早く短絡的に何かをカタチにしようとする。しかし、実はその前にきちんと考えておくと、表現も違ってくるものです。できれば若い頃、思考が柔軟な学生時代に、デザインの道具はとにかく置いて、まずは発想力を鍛えておいたほうが、その後の表現力や発想力にも格段の違いが出るような気がします。

当然のことながらアートディレクターやクリエイティブディレクターなどを志向するひとに向けて書かれた本、というよりもデザインをする学生のために書かれているため、ぼくとしては若干、ビジネス視点に欠けるような気もしました。しかし、発想のヒントとして面白い視点がたくさんありました。

ちょっと感動して涙出そうになったのは、アートディレクターでもあり絵本作家「マルタン」でもある後藤徹さん・静子さん夫妻による「くるりんぱ活動」について紹介されていた部分でした。

いわゆる騙し絵のようなものですが、動物の図案がひっくり返すと別の動物になる。この活動の動機としては、次のようなものがあったようです(P.49)。

「ものの見方はひとつじゃないよ!」
「一つの考え方にとらわれないで、見方を変えてみよう。そうしたら、まったく違う世界が広がり、新しい考え方が生まれるよ!」
でも、このメッセージは少し難しくて、言葉だけでは伝わりません。そこで「マルタン」は、子供たちを集めたワークショップを、日本および世界各地で開くことにしました。

ワークショップでは次のように展開されるようです(P.50 )。

「この絵は何に見える?僕はウマだね」と、徹さん。
「私はペンギン」と、静子さん。
「何言ってるんだよ、ウマに決まってるじゃないか、ウマ!」
「あなたこそ何言ってるのよ、ペンギン!!」
ついに、夫婦げんかがはじまります。
「じゃあ、どっちのマルタンが正しいか、みんなに聞いてみよう!」
と、周りを囲んでいる子供たちに質問すると、彼らは「マルタン」の夫婦げんかに笑いながらも確かな声で、「どっちも正しい!!」と叫ぶのだそうです。
「うれしいですよね。くるりんぱメッセージが伝わった瞬間です。」

実際にこのマルタンの逆さ絵はWEB絵本でみることができます。

■くるりんぱ
http://www.kururinpa.com/kururinpa/index.html

これがウマの顔。

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でも、ひっくり返すとペンギン。

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そして、次の解説が泣けました(涙)。

「世界では戦争が起こり、人びとがいがみ合ったり、殺し合ったりしていることは知ってるよね。戦争というのは国同士のけんかなんだよ。でも、さっきのウマだと思ったら、ペンギンだったことを思い出してみて。どっちが悪いとけんかすることじゃなく、相手の気持ちになって見方を変えてみれば、その国のいいところや文化が見えてくるかもしれない。そしたら、けんかなんかやめて、友達になれるかもしれないよね」

この発想は、相手を思いやることにも通じるだろうし、企業であれば顧客志向の考え方にもつながると思います。二項対立、善悪という判断ではなく、どちらも正しいという状態がぼくらの世界には存在します。

これしかないでしょ!とキメ打ちする潔いひとがぼくは信じられなくて(たいてい資産管理の営業マン的なひとには多い)、こういうのもある、しかしこうも考えられる、のようにあらゆる側面から多様な考え方を示すことができるひとに憧れます。ただし、多様な考え方の問題点というのは、じゃあどれがいいの?と詰め寄られたときに、う・・・と沈黙してしまうことかもしれない(苦笑)。したがって、これがベストです、しかし、こんな風にも、こうだって考えられます、のように、多様な視点からさまざまな検証をしつつ、どの考えを選ぶか、という思考が大事かもしれないですね。

と、多様な考え方の取得に関心があり、つづけて購入したのが以下の本。勢いで半分近く読んでしまったのですが、非常に面白い。

4479391703知識だけあるバカになるな!
仲正 昌樹
大和書房 2008-02-09

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ほんと、タイトルに説得された(笑)。まさにそうなりたい。

人文系の学問を学びはじめようと思ったひとのための、入門の入門書だそうですが、ネットにおける脊髄反射のコメントや、二項対立の枠組みで思考停止することの愚など、ぼくがいま読んでも十分に楽しめる。ちょっと、いてててて・・・という視点もあって、その辛辣さというか切れ味が気持ちいい。

そんな思考のストレッチをしつつ、先週買ったこんな本も読書中。

4822246396営業の赤本・一問一答 儲けにつながる99.5の教え
ジェフリー・ギトマー 月沢 李歌子
日経BP社 2007-12-13

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夢ばかりではなくてね、現実的に数字も上げなければならないわけで(苦笑)。おとーさんは大変なのだ。ビジネススキルをいちから構築し直しです。

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くるりんぱ活動は、ユネスコ世界寺子屋運動としても展開されているようです。生々しい手が出てくるのですが、子供たちにとってはわかりやすいページなのかな。ここまでリアルじゃなくてもいい気がするのだけれど。

■ユネスコ世界寺子屋運動
http://www.terakoya-kururinpa.jp/

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投稿者: birdwing 日時: 23:25 | | トラックバック (0)